薫さんの知恵袋

2018/06/20

【黒い鳥との頭脳戦、始まる】

お店のベランダでのカラスの糞害に、困っております。ホースで水をまいて掃除しても、次の日には同じ場所が糞で汚されてる。連日、カラスの糞との奮闘続きでございます。

調べますと、どうもカラスがベランダに飛来するには三つの原因があるとのこと。まず、カラスがベランダに巣作りをしている可能性。ワタクシ、ベランダの隅から隅まで見回しましたが、その形跡は無し。

次に、雛の餌を取りに来ている可能性。ベランダにプランターが有ったり、あるいはゴミ袋を放置したりすると、餌を求めて飛来するそうでございます。初夏は雛を育てる時期。普段より多くの餌が必要なので、餌探しに貪欲になるそうでございます。

しかし、ベランダに餌となるような物は皆無。残った最後の可能性は、巣作りの材料調達のための飛来。特に、針金製のハンガーが狙われるそうでございます。そう、正に、コレ! ワタクシ、掃除の度に、落ちているプラスティック製のハンガーを拾い上げていたのでございます。

そういえば、糞が落ちている場所は、いつも同じ。物干し竿の下に集中しているのでございます。多分、物干し竿にとまり、くちばしでハンガーを落としていたのでしょう。で、持って行こうとすると、プラスティック製であることに気がつく。「使えねぇなぁ」とばかりに、ベランダに糞をして去って行く。

いや、ハンガーはいいけど、なにも糞で汚していかなくても。腹立ちまぐれに、わざと糞を落としていったとしたら、カラスの知性、相当なものでございます。とりあえず、物干し竿からハンガーを全て外し、ベランダの片隅に隠しました。さぁて、明日はどうなっているか、気になる、気になる。

カラスの知性は相当なもので、道具を使って餌を引き寄せるくらいのことは出来るそうでございます。しばらく、カラスとの頭脳戦が続くのかなぁ? 面倒くさいなぁ。ベランダにいろいろ置いていらっしゃる方は、お気をつけて。では、では。

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2009/05/06

ぶっつけ本番の、一幕ものの一人芝居

 まず今回は、お詫びと訂正から始まるのでございます。前回、4月29日に配信の際、ワタクシ、「みどりの日」と申し上げましたら、読者の一人から「おみゃーさん、何、とろくしゃーこと言っとりゃーす。みどりの日じゃにゃーて、『昭和の日』に決まっとるがね」というご指摘を頂いたのでございます。確かに、2007年から変更されておりまして、2年間も気がつかないとは、まったくお恥ずかしいしだいなのでございます。

 さて本題。先日配信しました「愛情飽和度100パーセントの人生」(4/27配信分)の内容に関しまして、数人の読者からご意見を頂きました。ありがとうございます。それで、ちょっと言葉足らずの面もございましたので、本日は、その続編というか、さらに突っ込んだお話を書いちゃうのでございます。ちょっと浮世離れしたお話に感じるかも知れませんけど、おつきあいのほどを。ででん、でん、でん、でん。

 ではまず、想像してみて下さいませ。自分の身内でいちばん大切な人が死んでしまったと。では次に、その大切な人の死因が通り魔による無差別殺人だったといたしましょう。どうですか? 悲しいですよね。腹が立ちますよね。犯人が憎らしいですよね。では今度は、その大切な人の死因が、通り魔ではなく空から降ってきた隕石が偶然当たってしまったのだと想像してみて下さい。悲しいけれど、何に向かって腹を立てますか。隕石を憎みますか。隕石に腹を立ててもしょうがないですよね。運命だと思ってあきらめますか。

 ここで、考えてみましょう。同じ「身内の死」という出来事なのに、その死因の違いで腹が立ったりあきらめたり。「その犯人さえいなければ」と思うかも知れませんね。では、もしその出来事の直前に、あなたがその身内に電話をしていたら、その身内の運命が変わって犯人と出会わなかったかも知れない。そう、あなたもその身内の運命に荷担しているのです。あるいは、その身内が出かけるときに玄関でつまづいていたら、やはり運命が変わっていたかも知れない。あるいは、あるいは・・・といった具合に、隕石で死んだのも、通り魔に殺されたのも、どちらも、単なる偶然の産物に過ぎないということになってしまうのでございます。

 では、どうして通り魔に殺されたときだけ腹が立つのでしょう。それはきっと、「本当なら、もっと長生きできたはずなのに、チクショー」という感情ではございませんか。ちょっとエゲツナイ言い方をすると、もっと長生きして有意義な人生を送れたのかも知れないのに「損をした」という感情でございます。これは、その身内が損をしたという「思いやり」の気持ちと同時に、「(大切な人を失って)自分が損をした」という利己的な思いもございますよね。つまり、「損をした、得をした」という感情が、腹を立てさせたり、憎ませたりしているのでございます。

 ではでは、損をした人生とか、得をした人生とかって何でしょう。長生きできれば得ですか? 百年以上生きた金さん銀さんに比べれは、ほとんどの人が損をしていますよね。でも、出生直後に死んでしまった赤ん坊に比べれば、はるかに得をしている。結局、損得というのは比較の問題ですから、比較し始めるとこの両極端まで行き着いてしまう。そしてさらに、不幸な長生きと、幸せな短命と、いったいどちらが得でしょう? さぁ、もう比較なんて出来ないことに気がつきますよね。そう、魂だけ抜け出して他人に乗り移るなんて非現実的なことでもしない限り、自分の人生が得なのか損なのかなんていう他人との比較は、出来ないのでございます。

 じゃぁ、死んだ後に天国で反省会でもいたしますか? 天国へ行って、「いやぁ、今回の人生はオネウチな人生でした」とか、「ショボイ人生だったので、さっさと戻ってきちまったよ」とか話し合いますか。でも、現世で稼いだお金は、天国へ持って行けるわけでもございません。地位も名声も、天国では関係ございません。もし死後の世界があるとして、その死後の世界で反省会をやったとしても、現世での損得勘定は、死後の世界では全く無意味なのでございます。

 つまりつまり、損とか得とかいうことは、他のものと比較して初めて発生する感覚なのでございます。人生というものが他人のそれと比較できない以上、損をした人生とか得をした人生とかは有り得ないのでございます。チリメンジャコのような短命の人生も、神社の池の亀のような長生きも、人生の価値としては全く同じ。その人生がどのような終末を遂げようとも、それは自分をも含んだ万物が影響し合った末での、偶然の結果なのでございます。

 最初の話に戻りますが、身内の死によって、何かに怒りたい、何かを恨みたいという感情がわき出るのは仕方ございません。しかし、決して損をしたわけではございません。そして、その身内の運命に多少なりとも自分も荷担してきた、その結果の運命なのでございます。そう思えば、すこしは気持ちが救われるのではないでしょうか。

 人生とは、「ぶっつけ本番の、一幕ものの一人芝居」。誰かと交換することも出来ませんし、やり直すことも出来ません。そうそう、「全方向スクリーンの真ん中で一人芝居をしている」、それが人生だと考えてみて下さいませ。自分を怒らせたり、自分を悲しませたりしているものがあったとしても、それは、スクリーンに映っている立体画像なのでございます。そうして、何もない空間で、スクリーンに向かって怒ったり、泣いたり、話しかけたり。そんな一生を、神様と閻魔(えんま)様が、ポップコーンを食べながら鑑賞している。そう考えると、怒ったり、悲しんだりとか、滑稽に思えてきませんか?

 よく、「哲学」と「宗教」の違いを考えたりいたします。大ざっぱに申し上げますと、哲学というのは「どう生きるか」というのがテーマでございます。それに対し宗教というのは「どう死ぬか」というのがテーマでございます。「どう死ぬか」なんて書くと誤解を招きそうでございますが、死ぬという人間の宿命を受け入れて、それにどう向き合うか、その死の恐怖や悲しみに対し、いかにして「救い」を求めるかということでございます。

 今回申し上げた「人生の損得」のお話は、ある意味、「宗教」のお話なのでございます。もし仮に、自分では受け入れがたい死や別れに直面しても、たとえ悲しむことは有れ、怒ったり、憎んだりするのは無意味でバカらしいということだということでございます。じゃぁ「人生に損も得もないのだから、『生』を蔑(ないがし)ろにしてもいい」というわけではございません。生きている間は、どう生きるかという「哲学」を大事にしていってもらいたいものでございます。

 では、今回はこのへんで。ちょっと難しいお話になっちゃったかも知れませんね。最後まで読んでいただいてありがとうございます。次回をお楽しみに。名古屋薫でございました。

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2009/03/13

ワイルドな線に深い愛情が

 漫画家、西原(さいばら)理恵子女史の新刊を、2冊ほど読んでみたのでございます。

  ・『毎週かあさん』(小学館)※「毎日」ではなく「毎週」であることに注意
  ・『この世でいちばん大事な「カネ」の話』(理論社)

 『毎週かあさん』は、自著の『毎日かあさん』を自分でパロディー化したものでございます。パロディー元の『毎日かあさん』は、掲載紙が毎日新聞ということもあって善良で朗(ほが)らかな内容に終始しておりますが、一方、この『毎週かあさん』は、ウェブ掲載の漫画ということで、ドロドロの悪汁を出しまくっております。しかも自分の作品のパロディーを違う出版社から出させてしまうという大胆不敵さ。だけど、それをまわりが認めてしまうのも、西原女史の人望のなせる技。善良な部分も不良な部分も、その全部が西原女史の“本音”であるがゆえの爽快感を感じる一冊でございます。

 『この世でいちばん大事な「カネ」の話』は、西原女史には珍しい、全ページ文章の書籍。幼少期から現在に至る生い立ちを、お金に絡めて書きつづっております。美大学生の頃までは非常に貧乏な生活を送り、漫画家として名を馳せた後もアルコール依存症の夫に悩まされる日々。そのような生い立ちの中で、西原女史が身につけた独特のお金に対する価値観を、軽快な文章で描いております。何億という印税収入を得ながらも、貧乏だった頃のお金の価値観を忘れずに持ち続け、アジアの貧窮地域の子供たちを憂い、自らもそのような地に赴いていく。毒舌をはきながらも、その毒舌の下地に、厚い厚い愛情の裏打ちを感じられる。それが西原女史の魅力でございます。

 西原理恵子の漫画は、最初はそのワイルドなタッチに驚かされるのでございますが、読み進めるにしたがって、そのワイルドな絵柄の裏側に、熱い熱い愛情のバックボーンがあることに気づかされるのでございます。しかも、西原女史が語る愛情は、きれいごとを並べるような中途半端な愛情ではないのでございます。罵詈雑言や悪態の中にも、ちゃんと愛情が潜んでいる。きっと苦しく長かった貧乏生活、そしてさまざまな人生経験、そのような中から、愛情の本質のようなものを直感的に会得していらっしゃるのでございましょう。

 しかも西原女史の漫画は、いつも自然を見つめている。大自然をこよなく愛し、その大自然も、その上で生活をはぐくんでいる人間も、大人も子供も、親しい人も他人も、好きな人も嫌いな人も、それらすべてを、全部ひっくるめて大自然の一部としてとらえ、等しく愛している。愛するためには何をやったらいいか、何をやらなければいいかを知っていて、そのように行動できない自分の弱さも知っている。そしてそれらを、ダイレクトに本音で描く。本音で描くということが西原女史の自然体であり、自然にふるまい自然に生きるということ、その愛情に裏打ちされた自然体の生き方に、読者は感動するのでございます。

 もし西原理恵子という漫画家をご存じでなければ、一度お試しくださいませ。最初は戸惑うかもしれませんが、彼女の本音に爽快感を覚え、そして、彼女の深い愛情に、きっと涙することでございましょう。

 そうそう、『この世で〜』を読んで、ワタクシと西原女史の共通の価値観を見つけたのでございます。ひとつは、食費の基準価値が「のり弁」ということ。ワタクシが東京で本当に生活が苦しかったとき、ホカ弁の一番安いメニューが「のり弁」だったのでございます。のり弁の価格より安い食費は「節約」、のり弁より高い食事は「贅沢」、食事の価値観の基準が「のり弁」だったのでございます。

 もうひとつは、友人との食事は必ず「割り勘」にすること。これは、ワタクシがニューハーフデビュー直後の頃に、先輩のお姉さんから教えられたことでもございます。そのお姉さんは小銭をいつも持ち歩いていて、一円の単位まで割り勘にする。いつも割り勘にするということで、いつまでも同じ人間関係でおつきあいが出来るのでございます。「たった○○円」と思える金額が、違う人には「○○円もの金額」と考える人もいる。違う価値観の人どうしが末永くおつきあいする一番明瞭な解決法、それが「割り勘」なのでございます。

 『毎日かあさん』は、4月からアニメ化され、テレビ放映されるようでございますね。漫画では過激な「西原節(ぶし)」。アニメではどのように表現されるのでございましょうね。ということで、今回はこの辺で、次回をお楽しみに。名古屋薫でございました。

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2008/01/27

ドアの向こうを優先する人たち

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今さらながらではございますが、読者のみなさま方、あけおめなのでございます。

さてさて、毎日新聞の日曜版に西原(さいばら)理恵子女史の『毎日かあさん』が連載されておりますが、ちょうど一週間前に掲載の「子供の扉」の号が、ワタクシ的にちょっと興味深かったので、ご紹介するのでございます。

何回注意しても開けたドアを閉めない子供たちを叱りながら、そんな子供たちの感性を、

「ドアを開けた目の前の新しい世界が最優先になってしまうんだろう。」

と称しております。

あと、食べた後に放置されるお菓子の包み紙、靴を履かずに帰ってしまう‘よそ’の家の子、高い木に登って降りられなくなった世界中の子供たち、道路の向こう側の犬を触ろうとして飛び出そうとする子供、そんな子供たちの行動をも、そのドアの向こう側の世界が最優先になる子供たちの感性をもって、「理解できる」と言っております。

実は実は、この「ドアの向こう側の世界が最優先になってしまう人」というのは、子供だけではないのでございます。大人になっても、こういった感性を残している人がいるのでございます。今回は、そんな大人になっても子供の感性を持ち続けている人の、輝きと苦悩をひもとくのでございます。ではでは。

まず、以下の引用を読んでいただきたいのでございます。夏目漱石の「草枕」の冒頭からの引用でございます。

「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角(とかく)に人の世は住みにくい。」

さてこの文章。一般的には「知恵を働かせすぎると事が荒立つ。情けをかけすぎると自分が流されてしまう。頑固な生き方は窮屈なだけだ。」といったような解釈が多いのではないでしょうか。ところがところが、ワタクシ名古屋薫は、ちょっと違う解釈をするのでございます。

最初の「智に働く」。この「智」は「知恵」を指しているのではございますが、個人の知恵ではございません。世間一般の知恵、つまり規則とか法律とか常識といったものでございます。次の「情」はナサケではなく、「感情」の情。人間の心の欲望や理想、煩悩といったものでございます。「智」が人間を取り巻く外側の世界を指しているとすれば、「情」は人間の心の内面を指しているとも言える。あるいは「智」は人の心に外側から及ぶ力、「情」は心の内側にひそむ力、と言えるかもしれません。

「生き方のメーター」なるものがありまして、その目盛りの両極端が「智」と「情」を指すとすれば、そのメーターの針がどの位置を指しているか、それが「意地」でございます。意地というよりは「意志」の意味合いでございます。「意地を通す」ということは、その生き方メーターの針を、“ある一点で”固定してしまうということでございます。

では以上の解釈のもとに意訳いたしますと、

「規則や常識に従いすぎると、角が引っかかって立ち行かない。心のおもむくままに行動すると、今度はとりとめもなく流されていく。その中間がいいのだろうが、かといってひとつのポジションを固執すると、束縛されて何も出来ない。」

といったところが、名古屋薫風解釈でございます。

生き方メーターの針が「智」と「情」の真ん中ぐらいでフラフラ揺れている、これが普通の人の、ごくありふれた生き方でございます。その時の感情やまわりの状況で、程よいポジションを探しながら生きているのでございます。ところがところが、ドアの向こう側の世界を最優先してしまう人というのは、生き方のメーターが「情」の方へ振り切っているのでございます。

この針が「情」に振り切っている人というのは、芸術面などで才能溢れる場合が多いのでございます。また企業などでは、一般常識にとらわれない斬新なアイデアを出したりするアイデアマンだったりいたします。芸能界や風俗などの人気商売では、他の追従を許さないほどの、すごい人気を博したりするのでございます。いいことずくめでございますが、針が振り切っている人特有の悩みというものもございます。

まず空気を読むのが苦手でございます。空気が読めないので、時として「わがまま」とか「生意気」なんて思われたりいたします。また、規則を守るのも苦手でございます。規則よりも自分の理想の方が優先するからでございます。そして、小さな子供がドアや包み紙を放置してしまうように、それを人間に対してやってしまったりするのでございます。本人には全く悪意がないのに、知らないうちに悪い評価を得たり、恨みを買ったりする、それが「針が“情”に振り切った人」の苦悩なのでございます。

こんな「自由奔放な苦労人」が身近にいたりすると、なんとかうまく人間関係を調整してやりたくなるのでございますが、こういった人には「説得」も「議論」も出来ないのでございます。というか、それが出来るのなら、本人が自分で針の位置を調整しているはずでございます。人間関係の歯車が、ギリギリと軋(きし)みながら噛み合うさまをただ俯瞰(ふかん)しているのは、靴の上から足をかくようなもどかしい思いなのでございます。そんなときに出来ることは、他の人から隔離して、出来るだけ人間関係の接点が少なくなるようにすることぐらいでございます。

すばらしい才能や輝きを呈していながら「ちょっと問題あり」と言われてしまう人、身の回りや芸能界などに多いでしょ。そういった人たちの多くは、この「メーターの針が“情”に振りきっている人」なのでございます。夏目漱石は、「“智”に振りきっている人」を「角が立つ」と言いましたが、実は「“情”に振りきっている人」もそれなりに角を立てながら生きているんですよね。

みなさんのまわりで、この「ドアの向こう側の世界を最優先してしまう人」がいましたら、どうかその本人の苦しみなども分かってやって下さいませ。でも、くれぐれも申しますが、そういう人には「説得」も「議論」も無駄でございますからね、念のため。

ではでは、今回はこのへんで。次回をお楽しみに。名古屋薫でございました。

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2007/10/06

秋の音を聴く

夜中にベランダへ出て、ふと気づく
今年の秋の到来をまっ先に告げに来たのは、虫の音だった

いつも、いつも、春と秋は突然やって来る
突然やってきて、
柔らかく包み込んだり、そっと頬をなでていったりする

小憎らしいのは夏と冬である
いつの間にか忍び寄って来て、
真上からにらみつけていたり、足下で ほくそ笑んだりしている

このサイクルを、幾度となく繰り返してきた
そして、幾度となく繰り返していくのだろう

いつでも、春と秋は、優しく柔らかく
夏と冬は、したたかで憎らしい

でも、それがたまらなく楽しくてしょうがない


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脳細胞を研究している学者さんに言わせると、日本人は虫の音を、音楽を聴くのと同じ中枢を働かせて聞いているそうです。虫の音を「音楽」と捉(とら)えているのですね。ところが西洋人が虫の音を聞くと、ノイズ・雑音を聞くときの中枢が働くそうです。西洋人にとっては、虫の音は雑音として聞こえているようです。

「虫の音を聴く」のが日本人。
「虫の音を聞く」のが西洋人。

ということだそうです。

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2007/09/14

一にハッタリ、二にオダテ、三、四がなくて、五に理論

車を運転する方はこんな経験はございませんか? 側道から本道に入りたがっている車がさんざん躊躇したあげく最悪なタイミングで合流し、周りの車をヒヤッとさせるようなことを。安倍首相の辞任劇が、まさにそんな感じでございますね。なんか政治的な話題が続いちゃいますが、その辞任劇に関して、ちょっと思うところがありますので、まぁ、しばし、お付き合いのほどを。

もう安倍首相、許してあげようよ。解放してあげようよ。そもそも安倍首相の就任のいきさつって、気の弱い子に無理矢理に学級委員を押しつけたようなものじゃない。もともと首相に向いてないような人が、よくここまでやったでしょ。誰も引き受けてくれないような貧乏くじ首相を一年間も務めてくれたのだから、まぁこれで楽をしてもらいましょうよ。

安倍首相を無責任とか言うけれど、本当の無責任は一年前にさんざん大風呂敷を広げて、その風呂敷をたたまぬままさっさと退いたイイカッコシイの小泉前首相でしょ。格好いい部分だけ演じて、いちばん大変な局面になるとサッサと他人に下駄を預けてしまうって、ちょっと小泉、調子いいのでございます。まぁ、そんなタヌキなところがなければ、政治家なんて務まらないのでしょうけどね。

とか言うワタクシ名古屋薫も、様々なプレッシャーに負けて東京から名古屋に逃げ帰るといったことが、過去に二回もございます。安倍首相の場合は、その辞め方が最悪でございますが、プレッシャーに潰され逃げ出したその気持ち、ワタクシ分からないでもないのでございますけどねぇ。

ではここで、ワタクシの経験談を、ひとつ紹介するのでございます。

ワタクシ、高校時代にブラスバンド部の指揮者の経験をしております。大学時代にはオーケストラ部に在籍し、指揮者の留守中にコソッと指揮棒を振らせていただいたりしております(なんか「のだめカンタービレ」を地で行くような学生時代でございます)。その指揮棒を振った際の体験談でございます。

指揮者とかいうと、なんだか楽団を完全に掌握しているようなイメージがございますが、実際には指揮者と楽団とは、ある意味「戦い」なのでございます。指揮者の技量がおぼつかないと、楽団は指揮者をからかおうといたします。わざときっかけを無視したり、わざと音を外して指揮者が気づくかどうか試したりとかね。そんな楽団のオチョクリになめられないように、指揮者は様々な手法を駆使して楽団をコントロールするわけでございます。指揮者の手腕とは、「一にハッタリ、二にオダテ、三、四がなくて、五に理論」。そんなところでございます。

自分が指揮台に立っているときには、そういった楽団の洗礼を散々受ける羽目になるわけでございます。指揮者の時に自分が嫌な思いをしているにもかかわらず、不思議なもので、自分が楽団側に座って他人の指揮を受ける立場に回りますと、今度は、技量の未熟な指揮者をオチョクル自分がいたりするのでございます。人間、痛みが分かっていれば他人に優しくできるなんて言いますが、それは本人の精神力しだい。ましてや、自己顕示欲の強い音楽家の世界では、「ニコッと微笑みながら生き馬の目を抜く」なんて感覚が結構あるのでございます。

そういえば、舞台の上でも同じ思いをしております。舞台の上での立ち位置というのは、稽古時に演出家が“厳格に”決めるのでございます。しかし、舞台稽古を重ねるうちにその立ち位置がジリジリと移動し、ベテラン俳優がどんどんおいしい位置を独占していってしまう。ワタクシの様な端役は、どんどん居場所を失ってしまい、台本に「○○へ移動する」なんて書いてあっても、舞台上でそこまで移動するルートが無かったりするのでございます(笑)。それでベテラン俳優に注文をつけたりすると、とんでもない叱責を受けたりする。舞台の上も、戦いなのでございます。

人というものは優しくあるべきでございます。ところが、自己顕示欲の強い世界では、そんな優しさなんて決して期待は出来ないのでございます。たとえ他人の痛みが分かっている人でさえ、自分が攻撃できる立場に回ってしまうとアッサリと以前の痛みなど忘れて攻撃側に回ってしまったりとか、そんなものでございます。政治の世界にも、そんな陰湿さって、ありますよね。

安倍首相は性格のストレートな、いわゆる「いい人」でございます。そんないい人が、タヌキ親父の巣窟である政界で、よく一年間も頑張られました。お疲れ様なのでございます。ここらで政治からすこし距離を置いて、ゆっくり療養していただきたいものでございます。そして、今まで気楽な立場から突っつき回していた連中は、「やれるものなら自分たちがやってみろ」なのでございます。そうそう、指揮者の奥義、「一にハッタリ、二にオダテ、三、四がなくて、五に理論」っていうのは、政界にも有効かも知れませんよね。

ではでは、次回こそ、朝青龍のことを書かなくっちゃね。それから「どろろ」も棚上げになっちゃってるしね。次回をお楽しみに。

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2006/11/03

メトロン星人の瞳の奥に見たものは

Fi107882423_0eいやね、TVを見ておりましたら、メトロン星人とモロボシダン(=ウルトラセブン)が卓袱台(ちゃぶだい)を挟んで密談をしているではございませんか! 知る人ぞ知る、あのウルトラセブンの名場面のひとつでございます。パチンコ台のコマーシャルとして度々流されてましたから、ご覧になった方もあるかもしれませんね。

そんな映像をあぁ懐かしスなんて思っていたら、今日の朝、新聞広告にダダの顔が大きく掲載されておりました。何の広告かは失念いたしましたが、「ダダ」と「只(タダ)」を掛けているような広告だったので、いま何かとお騒がせなソフトバンクの広告ダタかもしれません。

この宇宙人の名前、ダダ星人だったか、星人ダダだったかを確かめようとググりましたら、正式名が「ダダ」、「ダダイズム」という美術思想の名称をもじった名前のようでございます。勉強になったのでございます。たかが宇宙人の名前と侮れないのでございます。

映像を見た瞬間、メトロン星人とかダダといった何十年もお呼びがなかった記憶が、時空をワープして脊髄反射的に脳裏に浮かんだ自分に呆れております。三つ子の魂百までなんてことを申しますが、幼少の頃に覚えたことというのも、これまた侮れないのでございます。

メトロン星人の宇宙船が、日本の下町風ボロアパートから飛び立っていくシーンはワタクシにとってはトラウマ的映像であり、いまだに脳裏に焼き付いております。ひょっとしたら、地球人に偽装した宇宙人が日常の社会生活には大勢とけ込んでいるのではないか? 子供の頃、似たようなボロアパートを見ると怖かったものでございます。今では、自分が宇宙人のような存在(1999/05/13配信分)で一般の方を欺いて生活しているというのにね、皮肉なものでございますね。

このメトロン星人の放送分を調べましたら、何と監督が「実相寺昭雄」。特撮シリーズの中でも、特に異色な監督でございます。悲哀と申しましょうか、映像的耽美派と申しましょうか、怪獣の悲しい性(さが!?)を独特の色とアングルで表現した作品が多うございます――元宇宙飛行士が放射能で変わり果てた姿になってしまったジャミラ、たまたま地球に墜ちてしまい宇宙を恋しがるシーボーズ。この2作品は秀逸でございます(このあたりの詳しい内容は、実感ある人だけ納得してくださいませ)。

特にウルトラマンのジャミラの回は、子供心に胸がキュ〜ンとしたものでございまして、怪獣の墓標と夕日で構成したラストシーンは、いまだにはっきりと覚えております。非常に手の込んだ画面作り、非常に深いメッセージ、子供向けの特撮番組とはいえ、大人が見て十分に感動できる要素が盛り込まれているのでございます。

「人間としてこう生きたい」「こう生きたいが生きられない」

そういった人間の願望や葛藤を表現すること、それが文学性でございます。たとえ小さな子供が見るような番組でも、このような文学性をきちんと盛り込んだ作品であれば、きっと大人になってもう一度見返したとき、新たな発見や新たな感動が必ず得られるものでございます。良い作品とは、そういったものでございます。

小さなころに体験した感動は、一生涯のその子の価値観を決定するかもしれません。毎日毎日、莫大な数の、子供向け番組が製作され放送されておりますが、どうか小さな子供が見るものだからこそ、なおさら深く重たい文学性のあるメッセージを、作品に盛り込んでいただきたいと思うのでございます。そのときの子供には分からないかもしれませんが、潜在意識として刷り込まれたメッセージが種となり、成長して心が十分に熟したときに、芽を出し、メッセージが花開くかもしれないのでございます。

種をまかなければ、絶対に芽が出ることはございません。世の子供向け番組のクリエイターさん達、どうか子供の心に素晴らしい種をいっぱい植え付けられるような、そんな番組を作ってくださいませませでございます。

といったところで、では、次回をお楽しみにネ。名古屋薫でございました。

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2006/02/26

プロとアマチュアの間の深くて暗い河〜その息つぎの相違による推考

荒川静香さん、金メダルおめでとうなのでございます! というわけで、今回はフィギュアスケートを題材に、プロとアマチュアの間の深くて暗い河を語るのでございます。では早速、この名文をお読み下さい。

  「夢をかなえられるのがスポーツ、
   夢をかなえられないのもスポーツ、
   夢にむかって努力できるのもスポーツ」
女子フィギュアスケートの米国代表に選ばれておきながら、体調不良を理由に開会式の直後に出場を辞退した、「ミシェル・クワン」さんの言葉でございます。

このクワンさん、まぁ、なんて文学的な方なんでしょうと思って、実際の記者会見の記事をあたってみたのでございます。ところがドッコイ、原文はたいしたことはない普通の言葉。日本語に訳すときに、脚色されたようでございますね。
(参考までに原文を紹介しときますです。cnn.comの記事はこちらから)
(※元記事は削除されております)

"It's always been a dream to win the Olympics and it's always an honor to represent your country.(中略)I have no regrets. I tried my hardest. And if I don't win the gold, it's OK. I've had a great career. I've been very lucky. This is a sport, and it's beautiful."
お次は、みごと金メダルを取った荒川静香さんのお言葉。NHKのニュース番組で、インタビューに答えてのお言葉でございます。
  「心からスケートを楽しみたい。
   本当に楽しんでスケートをすることが
   どれほど難しいか、わかった。」
ミシェル・クワンさんと荒川静香さん、お二人とも“楽しんで”いらっしゃいますよね、スポーツを、そして、ご自分の人生を。こういった達観した言葉を発せられるのも、自分の限界ギリギリに挑戦し、すべてを出し切ったから言えるのでございましょう――といったところで今回の本題に入りましょう。今回のテーマは、『プロとアマチュアの間の深くて暗い河〜その息つぎの相違による推考』なのでございます。

以上、フィギュアスケートのお話しをしてきましたが、ここで、スポーツ・舞台・芸術など、すべておしなべて、プロとアマチュアとの違いをお話ししてみるのでございます。

すべてを出し切る”、“限界に挑戦する”、“自分との戦い”、これらはすべて、アマチュアの精神でございます。つまり、アマチュアとは自己完結の世界でございます。極端なことを言いますと、順位とかも関係ないのでございます。“自分が頑張ったかどうか?”、ここに集約されるのでございます。

ではプロの世界は? プロの世界では自分の限界に挑戦しません。当然、すべてを出し切るなんてこともしません。戦う相手は、自分というよりはむしろ“お客”なのでございます。(プロの)舞台上での出来事は、すべてが計算された出来事でなければなりません。イチかバチかのチャレンジとか、不意のアクシデントとかは許されないのでございます。いつでも安定した同じレベルの演技を提供できるということ、この“安定&計算”こそがプロのプロたるゆえんなのでございます。

ですからプロは、7〜8割の力しか出しません。それは、安定した確実なプレイを行なうための“プロの表現術”のひとつでございます。そして、演技中でも意識は常にお客に向けられ、どうしたら“サープライズ(感動)”させられるかを、頭の中で高速演算しているのでございます。さてここで、そのサープライズさせるための重要なファクターがございます。“呼吸”でございます。

実は、サープライズさせるための呼吸とは、“非日常”の呼吸なのでございます。「息を呑(の)む」なんて表現をしますが、お客に息を呑ませておいて、その息をパァ〜ッと吐き出させたときにお客はサープライズするのでございます。落語家の故桂枝雀師匠もその著書の中で、「緊緩(きんかん)の法則」として理論づけたりしております。お客に非日常的な息づかいをさせるには、演じる側にもその非日常的な呼吸が要求されるのは、当然なのでございます。

一方、体を動かす、セリフを喋る、歌を歌う……こういった動作のときに生理的に要求される呼吸というのは、いたって日常的な呼吸であり、しかも深い呼吸を要求されるのでございます。その深い呼吸を我慢しながら、詰まった浅い呼吸でお客をサープライズさせる。このまったく相反する二つの呼吸を処理する苦しさこそが、プロフェッショナルの息づかいなのでございます。

要約いたしますと、“ハァハァ言いながら自分の限界あるいは限界以上に挑戦する美しさ”、そればアマチュアの美学でございます。対しまして、“ほどほどに高度なことを、(内心のハァハァは押し殺しながら)すました顔でやってのける”、それが、プロフェッショナルの美学でございます。

では、お話しをフィギュアスケートにもどしましょう。オリンピックや世界選手権でのフィギュアスケートは、もちろんアマチュアスポーツとして分類されるわけでございます。しかしながら、その採点基準には、“表現”・“感動”といった芸術的要素も要求されております。したがって、演じる選手達には、“技を正確に演じる技術”とともに、感動させるための“プロ的な感覚”も同時に要求されるのでございます。

荒川静香さんの演技は、実に優雅で華麗でございました。たぶん、演技の後半部分では、息はハァハァ、足はガタガタの状態だったはずでございます。しかし、その苦しさをすべて押し殺し、すました顔で演じきったがゆえの聴衆の感動であり、スタンディング・オヴェイションだったのでございます。アマチュアスポーツでありながらプロ的要素も要求されるとは、フィギュアスケートはなかなかに奥が深く、ハードなスポーツなのでございます。

以上、その息づかいの違いから、プロフェッショナルとアマチュアとをお話ししてまいりました。これからは、プロスポーツ選手や舞台などを観るときには、優雅に泳ぎながらも水面下で足をバタバタさせている水鳥を思い出していただければよろしいかと思うのでございます。

あるいはみなさま方、カラオケなどを歌うときには、“自分が苦しいほど観客は感動する”という心構えで歌っていただければよろしいかと。エッ、カラオケでは誰も他人の歌なんかに聴き入ってはいないって! そうですよね。ではカラオケも、ご自分の限界に挑戦するアマチュア精神で歌っていただければよろしいかと。アッ、くれぐれも、限界に挑戦しすぎて、喉やお体を壊しませんように。

というところで、ちょうどよい行数になってまいりました。今回はこのへんで失礼いたします。では、次回をお楽しみに。名古屋薫でございました。

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2006/02/18

自分を持て余す人達

みなさま方、「カーリング」ってご存じですか? ほら、ただ今開催中、トリノオリンピックの1種目でございます。つけもの石みたいなのが滑っていくのを、モップを持った人が、必死で氷上をこすりながら追いかけるアレでございます。

「完全武装的」なウェアでのぞむことが多いウィンタースポーツの中で、カーリングは比較的軽装でイヤリングなんかもしちゃったりして、けっこうオシャレなのでございます。ああいった「優雅な」ウィンタースポーツも、なかなかにいいのでございます。

さて今回は、「自分を持て余している人達」のお話しでございます。「自分を持て余す」。不思議な表現でございますよね。自我が強すぎて、ついつい人間関係でトラブルを起こしてしまう人。自分の自我に振り回されて困ってしまう人が、今回のテーマでございます。

「自分がいつもいちばんでありたい」

「人をけ落としてでも、上へあがりたい」

こういった心というのは、大なり小なり、誰でも人間の本能として心の奥底に備えているものでございます。もちろん、こんな本能を100%丸出しで行動すれば、人間関係に角が立って、うまくいくものではございません。みんな、本能を理性で抑えながら行動しているのでございます。

ところが、この「理性で抑える力」の弱い人がときどきいらっしゃいます。不用意に本能丸出しの発言や行動をしてしまうのでございます。ご自分では、「アッ、しまった」とか「なんで、あんなこと言っちゃったのかな」なんて後から思うのでございますが、後悔先に立たず、ついつい理性よりも本能が先行してしまうのでございます。

この「負けん気の本能」、若い時期にはむしろプラスに働いたりいたします。「うぬぼれも芸のうち」、「うぬぼれも実力のうち」なんてことを申しまして、芸ごと・スポーツ・商売などでは、この負けん気丸出しの方が伸びたりいたします。そして、ときどきやりすぎて痛い思いをし、ひとつ賢くなっていくわけでございます。

また、若い頃の横着は、周りが許してしまうということもございます。「若いから仕方ないよね」と見逃された若き日の過ちも、年輪を重ねた成熟期に同じことをすれば、周りは許しません。いい歳をして本能優先の行動ばかりしていれば、本人が「おかしいな、おかしいな」と思いつつ、周りとの人間関係はどんどん歪みを増していくのでございます。

このように、自分を持て余すばかりに、人間関係の歪みの迷宮でさまよってしまう方々に対して、ワタクシはいつも、

「人畜無害・無味無臭になりなさい」

とアドバイスしております。人間関係を修復するために、進んで何かアクションを起こすのではなく、役にも立たず、害にもならず、自分の個性さえも押し殺してしまったような存在にご自分を持っていきなさい、ということでございます。

これすなわち、「自我を殺す」ということでございます。ときどき勝手に飛び出してくる自我のためにつらい思いをするのならば、その自我を押し殺してしまえばいいのでございます。原因は元から絶つ! もし原因を野放しにしたままでさらなるアクションを起こせば、それは悪循環の繰り返しでございます。

言うは易く行うは難し。実際、自我を殺すというのは大変でございます。ただ、自我を殺すというと、何もかも我慢した修行僧の禁欲生活のように感じられますが、そこまで我慢することはございません。「なすがままを受け入れる」。それだけでいいのでございます。

勝っても負けても、その結果を素直に受け入れる。損をしても得をしても、それもまた運命として受け入れる。他人と比較をしない。自分の過去と比較をしない。今のこの瞬間の出来事を、ひとつづつ柔順に受け入れていく。そういうことでございます。

人間関係でトラブっている人ほど、自分の外ばかり見ようといたします。人間関係で困っている人は、外側ではなく、ご自分の内面への問いかけをしてみると、なにか解決の糸口が見つかるかもしれませんよ。特に自分を持て余している人、人畜無害・無味無臭をテーマに行動してみてはいかがでしょうか。

というわけで、今回は偉そうなことを書いておりますね。人間というものは、自分が悩み苦しみ、そして克服してきたことというのは、ついつい偉そうに語ってしまうものでございます。あーあ、ワタクシも口うるさいオヤジ(?)の仲間入りでしょうかね。ではでは、次回をお楽しみに、名古屋薫でございました。

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2006/02/01

♪男が恋に落ちるとき

今年もあっという間に1ヶ月が経ち、今日からは2月でございます。みなさま方の大人のオモチャ、名古屋薫でございます。自分のHP(←なぜか更新されない)の表紙が、なぜか去年のままになっているのでございます。このままでは恥ずかしいので、早急に絵柄の更新を考えております。

何てことを考えておりましたら、姫路城、じゃなかった、名古屋嬢、じゃなかった、案の定、HTML形式のメールマガジンの苦情をチラホラいただいたのでございます。読めなくなっちゃった方、あるいは、生理的にHTMLメールのお嫌いな方、今しばらく我慢していただけますでしょうか? 対応策を思案中でございます。

ブログ業界の最大手、ライブドアが例の不祥事で風向きが怪しくなったのを「これ幸い」と、IT産業に殴り込みをかけん! 打倒ライブドア!と、息せき切って始めたワタクシのブログでございますが、初(しょ)っぱなからみなさま方に不自由を掛けているのでございます。まぁ、メールマガジンのバックナンバーとしての意味合いが強いブログでございますので、世間一般のブログに比べると、なかなか使い勝手が悪かったりするのでございます。

さてさて、新聞のTV蘭に、「細木数子が風俗にナンタラ…」と書いてあったので、ついついチラッと見てしまったのでございます。細木女史いわく、男性の風俗はスポーツだそうでございます。一汗かいた後に、ちゃんと奥さんの所へ帰って行くのだから、もし気づいてしまっても、脅かす程度にしておいて、あまり追求するなということだそうでございます。

まぁ、それはそれで男性心理をよく突いた、的確な意見だとは思うのでございます。さてそこで、現役(もうすぐ賞味期限切れ)風俗嬢のワタクシ名古屋薫が、現場の目で見た、より突っ込んだ分析をするのでございます。風俗大好きな男性諸君も、彼氏(or夫)の風俗通いに戦々恐々とする女性軍も、まぁ、聞いてくださいなのでございます。

(細木数子風に)ズバリ言うわよ! 男というものは、

 一生母親の影を追い続ける、さびしくそして甘えん坊な動物
なのでございます。

男ってね、いつも異性に対して「母親」を求めているのでございます。そりゃ、恋人に対しては、母親を求めたりしませんよ。そんなことしたらマザコンだと思われて、あっさりと振られちゃうのでございます。

 恋人 = まだモノにしていない = 所有権がない(女性の方、失礼)
でございますので、モノにするまでは実直に「男」を演じるものでございます。しかし、男を演じつつも、心の中では恋人と自分の母親を重ねて見ているものでございます。「一目あったその日から、恋の花咲くこともある」なんて言葉もございます。男性の心の中の母親思慕周波数と、女性のもつ思慕誘導インダクタンスがみごと一致すると、そのとき、男は、恋に落ちるのでございます。
♪When I Falling Love with You.〜

ワタクシの母親は、生前、よくワタクシに言ったものでございます。

 「おまえは、私の分身なんだよ」
自分の肉や血を分け与えた分身、それが母親からみた「わが子」でございます。

自分の体の一部から生まれ出たという実感、それは、母親のみが感じ得る、母とわが子との深い絆でございます。この「自分の分身」という感覚は、残念なことに父親には、逆立ちしても感じることが出来ないのでございます。母親は、(父親が誰であろうとも)わが子を絶対に自分の子供だという実感が持てるのに対して、父親はともすると、「本当に自分の子供か?」なんてことが頭をよぎる瞬間があったりいたします。父親の悲しい性(さが)でございます。

万有引力というもの、引っ張る力が強ければ、「引っ張られるもの」にも逆向きの同じ力が働きます。「反作用」という力でございます。つまり、母親がわが子に対する思い入れが強ければ強いほど、同じように子供も母親への思い入れが強くなるものでございます。特に、母親と息子の関係では、ときとして「マザーコンプレックス」とか「エディプスコンプレックス」といったものにまで発展してしまったりいたします。これは、反作用ではなく「副作用」でございます。

ちょっと脱線いたしました。本題に戻りましょう。男の子は、思春期に母親が、いろいろな意味で「女」と見えてくる瞬間がございます。そのときに、男の子の中のチューニングメータが、ピピピッとその母親の周波数に同調するようにチューニングされてしまうのでございます。このチューニング現象、母親と娘の関係では、あまり起らないような感じでございます。やはり、母親の強い愛情と、息子の思春期における「男性としての性の目覚め」との、相乗効果によって起きることのようでございます。

卵からかえった鳥のヒナは、始めて見た動くものを、母鳥として認識する習性があるそうでございます。男という動物も、思春期にピピピッとチューニングされ、一生その周波数に同調する女性を追い求めるさまは、まるで母鳥を追いかけるヒナ鳥のようでございます。成長し、巣立ちし、母親から卒業しても、そのポッカリと空いた心の穴を、ピッタリ埋めてくれる「母親代理」を求め続けているのでございます。

さてさて、非常に長い前置きでございましたが、お話しを風俗に戻しましょう。風俗嬢が男性に与えられるものは、いっときの仮想恋人でございます。(一部の特殊な風俗を除いて)風俗嬢は男性に対し、母親を与えることは出来ないのでございます。ですから、細木数子女史いわく、「風俗に行った男性は、終わった後、『あぁ、奥さんのミソ汁が飲みたい』といって帰って行く」ことになるのでございます。

ですから、男性の母親代わりになれる奥さん(恋人)には、風俗嬢は決してかないません。世の女性陣、男性をふところに入れておきたければ、男性の母親役になってしまえばいいのでございます。そんな幸せ者の男性は、もし風俗などに行ったとしても、きっと、居心地の良いあなたのもとへ帰ってくるはずです。だって、風俗では絶対得られないものが、あなたのふところにあるのでございますから。

ただ、時々、「風俗嬢を落としてやる(自分のものにする=結婚)」という意識で風俗にのめり込んでしまう男性もいらっしゃいます。そうなると、風俗通いとしては重傷でございます。そんなときに男性を追いつめると、これは逆効果でございます。男性が焦心したころあいを見計らって、優しく声をかけて上げましょう。

「私ね、あなたのことをずっと見てて、風俗行っているのも知ってたのよ。経済的にも精神的にも、あなたが疲れていくのが、私は心配でたまらないの。私がおいしいご馳走を作るから、一緒に食事しない?」

何てことを言ってあげましょう。怒りに満ちた般若の面は仏の顔の下に隠しておかなければいけませんよ。男性はたとえ風俗に心を落としても、「帰るべき場所」というのは初めから分かっているのでございます。タイミングよく間口を開けてやれば、ストンとふところに落ちてくるものでございます、きっと、ね(効果には個人差があります)。

では、世の女性軍のみなさま、男性心理を見抜いて、彼氏や旦那様を上手に手のひらでころがしていただきたいものでございます。男性は孫悟空、そして女性はお釈迦様でございます。お釈迦様のような大きな心で男性に接してあげて下さいませ。だって、男性ってのは、一般的に、意外と小心なのでございますからね。

ではでは、今回は長くなりました。最後まで読んでいただいてありがとうございます。次回をお楽しみに、名古屋薫でございました。

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