ぶっつけ本番の、一幕ものの一人芝居
まず今回は、お詫びと訂正から始まるのでございます。前回、4月29日に配信の際、ワタクシ、「みどりの日」と申し上げましたら、読者の一人から「おみゃーさん、何、とろくしゃーこと言っとりゃーす。みどりの日じゃにゃーて、『昭和の日』に決まっとるがね」というご指摘を頂いたのでございます。確かに、2007年から変更されておりまして、2年間も気がつかないとは、まったくお恥ずかしいしだいなのでございます。
さて本題。先日配信しました「愛情飽和度100パーセントの人生」(4/27配信分)の内容に関しまして、数人の読者からご意見を頂きました。ありがとうございます。それで、ちょっと言葉足らずの面もございましたので、本日は、その続編というか、さらに突っ込んだお話を書いちゃうのでございます。ちょっと浮世離れしたお話に感じるかも知れませんけど、おつきあいのほどを。ででん、でん、でん、でん。
ではまず、想像してみて下さいませ。自分の身内でいちばん大切な人が死んでしまったと。では次に、その大切な人の死因が通り魔による無差別殺人だったといたしましょう。どうですか? 悲しいですよね。腹が立ちますよね。犯人が憎らしいですよね。では今度は、その大切な人の死因が、通り魔ではなく空から降ってきた隕石が偶然当たってしまったのだと想像してみて下さい。悲しいけれど、何に向かって腹を立てますか。隕石を憎みますか。隕石に腹を立ててもしょうがないですよね。運命だと思ってあきらめますか。
ここで、考えてみましょう。同じ「身内の死」という出来事なのに、その死因の違いで腹が立ったりあきらめたり。「その犯人さえいなければ」と思うかも知れませんね。では、もしその出来事の直前に、あなたがその身内に電話をしていたら、その身内の運命が変わって犯人と出会わなかったかも知れない。そう、あなたもその身内の運命に荷担しているのです。あるいは、その身内が出かけるときに玄関でつまづいていたら、やはり運命が変わっていたかも知れない。あるいは、あるいは・・・といった具合に、隕石で死んだのも、通り魔に殺されたのも、どちらも、単なる偶然の産物に過ぎないということになってしまうのでございます。
では、どうして通り魔に殺されたときだけ腹が立つのでしょう。それはきっと、「本当なら、もっと長生きできたはずなのに、チクショー」という感情ではございませんか。ちょっとエゲツナイ言い方をすると、もっと長生きして有意義な人生を送れたのかも知れないのに「損をした」という感情でございます。これは、その身内が損をしたという「思いやり」の気持ちと同時に、「(大切な人を失って)自分が損をした」という利己的な思いもございますよね。つまり、「損をした、得をした」という感情が、腹を立てさせたり、憎ませたりしているのでございます。
ではでは、損をした人生とか、得をした人生とかって何でしょう。長生きできれば得ですか? 百年以上生きた金さん銀さんに比べれは、ほとんどの人が損をしていますよね。でも、出生直後に死んでしまった赤ん坊に比べれば、はるかに得をしている。結局、損得というのは比較の問題ですから、比較し始めるとこの両極端まで行き着いてしまう。そしてさらに、不幸な長生きと、幸せな短命と、いったいどちらが得でしょう? さぁ、もう比較なんて出来ないことに気がつきますよね。そう、魂だけ抜け出して他人に乗り移るなんて非現実的なことでもしない限り、自分の人生が得なのか損なのかなんていう他人との比較は、出来ないのでございます。
じゃぁ、死んだ後に天国で反省会でもいたしますか? 天国へ行って、「いやぁ、今回の人生はオネウチな人生でした」とか、「ショボイ人生だったので、さっさと戻ってきちまったよ」とか話し合いますか。でも、現世で稼いだお金は、天国へ持って行けるわけでもございません。地位も名声も、天国では関係ございません。もし死後の世界があるとして、その死後の世界で反省会をやったとしても、現世での損得勘定は、死後の世界では全く無意味なのでございます。
つまりつまり、損とか得とかいうことは、他のものと比較して初めて発生する感覚なのでございます。人生というものが他人のそれと比較できない以上、損をした人生とか得をした人生とかは有り得ないのでございます。チリメンジャコのような短命の人生も、神社の池の亀のような長生きも、人生の価値としては全く同じ。その人生がどのような終末を遂げようとも、それは自分をも含んだ万物が影響し合った末での、偶然の結果なのでございます。
最初の話に戻りますが、身内の死によって、何かに怒りたい、何かを恨みたいという感情がわき出るのは仕方ございません。しかし、決して損をしたわけではございません。そして、その身内の運命に多少なりとも自分も荷担してきた、その結果の運命なのでございます。そう思えば、すこしは気持ちが救われるのではないでしょうか。
人生とは、「ぶっつけ本番の、一幕ものの一人芝居」。誰かと交換することも出来ませんし、やり直すことも出来ません。そうそう、「全方向スクリーンの真ん中で一人芝居をしている」、それが人生だと考えてみて下さいませ。自分を怒らせたり、自分を悲しませたりしているものがあったとしても、それは、スクリーンに映っている立体画像なのでございます。そうして、何もない空間で、スクリーンに向かって怒ったり、泣いたり、話しかけたり。そんな一生を、神様と閻魔(えんま)様が、ポップコーンを食べながら鑑賞している。そう考えると、怒ったり、悲しんだりとか、滑稽に思えてきませんか?
よく、「哲学」と「宗教」の違いを考えたりいたします。大ざっぱに申し上げますと、哲学というのは「どう生きるか」というのがテーマでございます。それに対し宗教というのは「どう死ぬか」というのがテーマでございます。「どう死ぬか」なんて書くと誤解を招きそうでございますが、死ぬという人間の宿命を受け入れて、それにどう向き合うか、その死の恐怖や悲しみに対し、いかにして「救い」を求めるかということでございます。
今回申し上げた「人生の損得」のお話は、ある意味、「宗教」のお話なのでございます。もし仮に、自分では受け入れがたい死や別れに直面しても、たとえ悲しむことは有れ、怒ったり、憎んだりするのは無意味でバカらしいということだということでございます。じゃぁ「人生に損も得もないのだから、『生』を蔑(ないがし)ろにしてもいい」というわけではございません。生きている間は、どう生きるかという「哲学」を大事にしていってもらいたいものでございます。
では、今回はこのへんで。ちょっと難しいお話になっちゃったかも知れませんね。最後まで読んでいただいてありがとうございます。次回をお楽しみに。名古屋薫でございました。
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