世の中に提案!

2011/02/23

電子化が進めば、公務員は半分に減らせるはず

今、銀行の預金通帳って、わざわざ銀行まで行かなくてもネットで残高を確認したり振り込んだりすることが出来るの、知ってました? ワタクシもちょっとした確認ならば、ネットでやっております。そんな便利な銀行の通帳ですが、こと、通帳の相続となりますと、厳格な手続きを要求されたりいたします。

銀行の預金通帳の相続って、みなさんやったことございます? ワタクシは母親を6年ほど前に亡くしておりますが、その母親の預金通帳がずっとそのままになっておりました。1年ほど前に相続手続きを始めたのですが、母親の戸籍を調べる段階で大きな問題発生。母親の出生から死亡までの連続した戸籍が必要なのですが、結婚や離婚、転籍といったことをくり返した波瀾万丈の人生ゆえ、戸籍の情報が各地に転々と分散しているのでございます。

「岬〜、めぐりの〜」なんて歌はありましたが、母親の過去をたどって、ワタクシは“区役所めぐり”なのでございます。除籍謄本(亡くなっているので除籍)を区役所で取りますと、その記録がどこから転籍・入籍されたかが記されております。分かるのはひとつ前の情報だけ。それで、そのひとつ前の区役所まで行って、同様に謄本を取ってひとつ前の場所を知って・・・ということのくり返し。名古屋市内の区役所を4カ所ほど回ったところで、次の手がかりが「京都、中京区」とある。こりゃ大変だとばかり作業中断したのが、ちょうど1年前のお話しでございます。

と、ここまで読んで、どうして区役所のハシゴをしなければならないかと疑問に思っていらっしゃるかもしれませんね。実は、戸籍というのは存命中に入籍や転籍といった移動がありますと、移動先の区役所に全ての管理が移ってしまい、各区役所にはその戸籍が入ってきた時から出て行った時までの記録しか残っていないのでございます(事情の違う地域もありますが、それは後ほど)。それでワタクシの母親のように入籍や転籍で戸籍が動いておりますと、その動きを逆にたどりながら区役所のハシゴをすることになるのでございます。

で、その相続手続き、いつまでも放置しておくわけにもいかず、先日、夕方までお休みをもらって京都まで行ってまいりました。京都中京区で謄本をもらい、次の手がかりは大阪市阿倍野区。さぁ、大阪に移動でございます。電車を乗り継ぎまして、阿倍野区役所へ。

さぁ、大阪は何カ所回ることになるのやらと思いながら阿倍野区役所へ。その阿倍野区役所で、事態は大きく変化するのでございます。なんと阿倍野区役所の担当の方、ワタクシのひいおじいさんの代まで調べてくれたのでございます。大阪市は戸籍の電子化が進んでおりまして、大阪市内の移動であれば、1カ所で記録を追跡することが出来るそうでございます。ワタクシの母親は大阪市の旧南区(現在のミナミのあたり)の生まれとのこと。夕方までかかるかなと思っていた戸籍の追跡、なんとか昼過ぎに完了したのでございます。

現在、各自治体で戸籍の電子化が進められているそうでございます。1年前は名古屋中をハシゴさせられた名古屋市の戸籍ですが、今現在は16区中13区まで電子化が進み、今年度中に名古屋市全区が電子化されるとのこと。これだけコンピュータが進んでいる時代に、戸籍の管理はつい最近まで原始的な手作業(さらに手書き!)でやっていたのでございますよ。全国的に電子化が進んでいるそうで、あと何年後かには電子化が完了するのでしょうが、ワタクシ、ちょっとした不安を感じているのでございます。

戸籍電子化の資料を読みますと、「漢字の異体字の処理をどうするか」といったことが長々と解説されております。異体字ちゅうのは、「渡辺」と「渡邊」みたいに同じ漢字のバリエーションでございます。あと「高」と「髙」なんてのも有名。同一人物であろうと思われるデータ間でこのようなちょっとした違いがあった場合、人間の手作業ならば前後の関係や状況で同一人物だと推測してしまうでしょう。しかし、コンピュータでは、よほど周到な人工知能的プログラムでも組まない限り、こういった微妙な違いを別人だと判断してしまうのでございます。また、当然混じっているであろう誤字・脱字に関しても、コンピュータは柔軟に処理するのは難しいのでございます。

消えた年金問題を思い出していただきたいのでございます。国民年金は氏名と生年月日だけで処理しておりますので、同姓同名がいたり誤字が有ったりいたしますと、そこで記録の錯綜(さくそう)が起こる可能性が高いのでございます。あれは、年金の担当者がかわいそう。あんな原始的な記録方式で、間違いが起こらない方が不思議なのでございます。さらに、その消えた年金の追跡調査もなかなか進まないとのこと。そりゃぁ当たり前。手書きの文字を手作業で一人ずつ拾っていっているのでしょうから、気の遠くなるような作業なのでございます。まだ、江戸時代の米問屋の帳簿を解析する作業の方が、楽なことでございましょう。

この同一人物の判断には「ユニーク性」というものが関わってくるのですが、その前にちょっと「データベース」のお話しを。データベースとは、多くのデータを処理する方法のこと。コンピュータで処理する場合には、それ専用のソフトが有ったりいたします。このデータベース処理には「伝票型」と「リレーショナル型」の二種類がございます。今までの戸籍や住民票や年金といったものは、伝票型の処理を手作業でやっていた。各伝票一枚一枚に、個人や家の情報を書き記すようになっているのでございます。ただ、ワタクシの母親のように転々と移動しておりますと、一人の人間の情報が、何枚もの伝票に分散されて記されることになる(区役所のハシゴ)。また、戸籍と年金のような種類の違う伝票を関係づける際には、同一人物で有るかどうかの十分な検証が必要とされる(消えた年金問題)。現在のような複雑な社会構造の中では、単純な伝票型の管理はすでに限界を通り越しているのでございます。

次に「リレーショナル型」の説明を。伝票型は記入する台紙に注目する方法でしたが、リレーショナル型は、個々のデータに持たせた多くのフラグ(旗)に注目する方式。例えばワタクシの母親の例ならば、「昭和○年大阪市阿倍野区○○家」「昭和○年京都市中京区○○家」「昭和○年名古屋市中川区」……というフラグを、経歴の数だけ持たせるのでございます。母親以外の他の人すべてにも同様にそれぞれのフラグを持たせてありますので、「昭和△年大阪市阿倍野区□□家」といったくくりで検索をかけると、それにマッチしたフラグを持ったデータが抽出されることになる。その時初めて台紙を用意し、その抽出されたデータを台紙に並べれば、その時期の家族構成が出来上がり、とまぁ、こういった仕組みで管理するのでございます。

さぁ、ここで絶対に必要となってくるのが「データのユニーク性」というやつ。この場合の“ユニーク”っていうのは、「ひとつしかない」という意味。例えば(またワタクシの母親の例で恐縮ですが)、戸籍データベースの母親のデータと、年金データベースの‘ある’データとが同じ人物つまりワタクシの母親のデータであると結びつけられれば、戸籍で検索をかけるだけで年金のデータも抽出できてしまう。あるいは、生年月日も姓名も同じデータがもし複数見つかっても、ユニーク性が有れば、それらが別人か同一人物であるかをハッキリと区別できる。コンピュータでデータベースを処理する場合には、この「データのユニーク性」が必要不可欠なのでございます。ユニーク性を確保できないデータ処理なんてのは、たとえコンピュータを使っていたとしても、それは「高級な文房具を使った手作業」に他ならないのでございます(現在の社保庁の年金データ解析がこれ)。

国民データのユニーク性、そう、何十年も前から議論されている「国民総背番号制」が、このユニーク性の実現に相当するのでございます。このユニーク性が無いために、日本のお役所仕事は明治時代と何ら変わっていない。今後、戸籍の電子化、住民票コード、年金データの整理などが進むでしょうが、それらを関係づける横のリレーションが確立しない限り、縦割りの処理形態は依然残り、前時代的なお役所仕事は続くのでございます。そして、年金のデータは解析が完了する前に、該当者がみんな死んでしまうなんてことにも(笑)。

ここで、衝撃的な事実が! 背番号制が導入され、各役所のデータが完全に電子化されリレーション化されると、多分、お役所の公務員は半分以下で足りてしまう。公務員の給料が民間に比べてどうとか言っているけど、背番号制を導入して公務員の人数を減らせば、大幅な経費節減が可能なのでございます。細かく別れている役所の窓口も、総合受付ひとつで足りてしまう。ひとつの窓口で、戸籍や年金のデータだけではなく、電気や水道や電話料金の履歴まで調べることが出来てしまう。ちょっと極端な例えだったかもしれませんが、各データにユニーク性を持たせて横のリレーションをつけてやれば、そんなことも可能なのでございます。

そしてさらに衝撃的な事実が! 背番号制の導入で、戸籍は必要なくなるのでございます。実際、アメリカやカナダには戸籍や住民票というものがない。その代わり「社会保険番号」といった背番号のようなものが存在し、それで管理している。つまり、最初からリレーショナル型に近い方式で進めてきたので、いまさら戸籍を作る必要がなくなってしまったのでございましょう。日本も、背番号制の実現以降は戸籍の管理はほとんど必要なくなるはずであり、それにかかっていた経費が大幅に浮くことになるはず。また、背番号制の導入は、今まで取りこぼしていた税金をきちっと徴収することを可能にするのでございます。消費税を上げるかどうかが物議を醸しておりますが、取りこぼしをなくせば、これまたかなりの財源になるはずでございます。

しかしながら、背番号制には根強い反対派もいらっしゃいます。あの住基ネットでさえ、その安全性を疑問視する自治体はいくつかございます(名古屋市の河村市長も、かつてはそうでした)。日本国民ってのはさ、一方で「年金のずさんな管理はゆるさん」って言っておいて、もう一方では「個人情報を守るために背番号反対」って言っちゃう。アッチもコッチも欲しいって、そりゃ無理だと思いますよ。アメリカ人なんかは、ネットでも何でも本名をよく使う。アメリカには「匿名」という文化がほとんど無いのでございます。それは「実名を使うことでのデメリットもあるけど、それ以上にメリットを感じられるから」という合理性で動いているからでございましょう。Facebookのような実名でのコミュニケーションが発達しているのも、そういった合理性のなせる技なのでしょう。

日本人の個人情報に対する過敏性は、考え直してみるべきでございますよ。個人情報を守りすぎる風潮のため、刑事が捜査できない、郵便配達人が配達できない、そんなことも起きているようでございます。個人情報を守りたいという気持ちは分かりますが、社会全体のメリットとデメリットを考えると、国民を背番号で管理するという方法は、今や避けて通れないと思うのでございます。銀行の預金通帳がネットで管理できる時代でございます。国民に背番号が振られたからといって、それほど危険だとは思えないのですけどねぇ...振られると、困る人がいるのかな?...いや、今回はこのへんで、では、次回をお楽しみに、名古屋薫でございました。長文を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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2010/09/20

どうして、あの「形」にいつまでもしがみついてるの?

 お店の洗濯機が突然壊れたのでございます。まぁ、大きいのと小さいの、ふたつの洗濯機がありましたのでとりあえず大丈夫なのですが、このまま壊れたままにしておくのも心もとない。ということで、洗濯機を買いに行ったのでございます。いざ、ビッ○カメラ! なのでございます。

 で、ビック○メラの白もの家電の売り場、なんともまぁ待たされて閉口なのでございます。店員が少ないというのも原因のひとつなのですが、それよりも、平日の夕方に冷蔵庫や洗濯機を買いに来る人がこんなに多いとは思いも寄らなかったのでございます。そして、ここで問題発生。お店の置き場所の関係から、今‘はやり'の横向き扉のものではなく、昔ながらの垂直式のものに限られ、しかもかなり大型の機種を所望していたのですが、そのような機種がことごとく1週間以上の入荷待ちとのこと。そりゃぁそうだ。横向きも垂直式も大して値段が変わりゃぁしない。最新式のものが買いたいというのが世の中の流れでございましょう。かくして、昔ながらの垂直式で、かつ大型のものなんてのはメーカーも力を入れていないのでございましょう。あ、いや、ひょっとすると受注生産、ま、そんな事はないでしょうけどね。

 結局、ワタクシが購入した洗濯機は2週間待ちとのこと。この際、1週間も2週間も大して違わないのでございます。ワタクシを担当して下さった店員さん、変なお客でごめんなさい。ワタクシが指示した機種が軒並み入荷待ち状態なので、担当の店員さん、どんどん焦りまくっていくわけでございますね。こんなニッチな洗濯機を欲しがるお客も、珍しかったことでしょう。あ、○ックカメラの名誉のために付け加えておきますが、1週間以上の入荷待ちが発生したのは連休・祭日を間に挟んでいたからということもあり、また、売れ筋の機種は即日配送が出来たようでございます。

 さて、ここからが本題。順番待ちをしている間にブラブラと店内を散策したのでございますが、気になったのはLED電球のコーナー。とにかく、種類が多いですね。そして分かりにくい。白熱電球ではワット数がそのまま明るさの目安になりましたが、LED電球では「ルーメン」という別の単位で明るさを表している。そのため、なかなか明るさがイメージできない。白熱電球のような安いものですと、何種類か買って帰り、とっかえひっかえ試すということもできますが、数千円もするLED電球では、そんなリッチな試し買いは出来ない。ここは通産省いやもとい、経済産業省がお上の鶴のひと声をかけまして、標準の規格を作るべきでございます。白熱電球と置き換えようというのならば、白熱電球と同じ感覚で商品選びが出来るような規格が必要なのでございます。そして、白熱電球と違い、「試し買い」が難しい商品であるという認識も、メーカーやお上は、もっともっと持つべきでございます。

 そのLED電球、白熱電球ほどには熱を持ちませんが、やはり熱くはなる。電球の半分以上を放熱板が占めている事でも、メーカーはLED電球の放熱に苦慮しているのでございましょう。ここで、ワタクシ思うのでございますが、あの古くからある電球の形にこだわるから、いろいろと大変なのでございます。ここはひとつ、あの電球の形を「捨てる」のでございます。メーカーがあの電球の形にこだわるのは、今までの照明器具にそのまま使ってもらおうとしているからでございましょうが、この発想がすでにケチ臭い。そもそも昔の照明器具が電球部分だけ取り換えられるようになっていたのは、白熱電球の寿命が非常に短い(半年ぐらい)からでございます。

 ところが、LED電球は10〜20年の寿命がございます。もはや「電球を取り換える」という発想は必要ないのでございます。LED電球が切れるころには本体部分もすでに古くなっていて、電球だけではなく本体まで買い換えることになるのは十分予想できるのでございます。でしたら、最初からLED方式に特化した照明器具を作り、電球が切れたら照明器具ごと買い換えてもらえばいい。現在のLED電球には、3千円〜6千円ほどの価格が付けられております。でも、これだけの予算なら、照明器具本体を買うのと意識的にはそれほど変わらない。そして、LEDに特化した照明器具ならば、あの電球の形にこだわる必要がございませんので、放熱や電源回路も十分余裕を持って設計できる。余裕があるということは大きな部品が使えるということで、それだけコストは下がる。多分、LEDに特化した照明器具でも、それほど高価にはならないと思うのでございます。

 内部のLED電球が切れる10〜20年後には、照明器具ごと新しいものに買い換えるということになるはず。あるいは、それがもったいないという人には、メーカーに送れば部品交換という形で電球交換をするサービスをすればいい。今売っているような白熱電球の形にこだわったLED電球は、今から10年間の過渡期的限定商品と割り切って生産するべきでございます。なぜ10年間かって? それは、今使われ始めているLED電球が、ちょうど10年後ぐらいに切れ始めるわけでございますよね。そう、そのLED電球の「ひとつ目」から「ふたつ目」への交換時期こそ、その時期に照明器具ごと買い換えてもらい、洋なしのようなあの電球の形を世の中から払拭する、いいチャンスなのでございます。

 そしてメーカーは、今からすぐに、LEDに特化した照明器具を作り始めるべきでございます。電球型LEDなんてのは片手間でいいのでございます。従来の白熱電球用に設計された照明器具にLED電球を使うと、どうしても違和感が出るのは必至。買う側からすると、照明器具は変えずに白熱電球だけをLED電球に取り換えるのは、ある意味「冒険」なのでございます。するとメーカーはどう考えるか? 多分、白熱電球の特性に限りなく近づけるようなLED電球の開発に勤しむことでございましょう。あ〜、この発想が超貧乏くさい。もうね、白熱電球という過去の仕様から離れるべきでございます。

 もし、切れた白熱電球をLED電球に交換しようとする人がいて、そしてもし、そのLED電球の値段よりもちょっと高いぐらいの10年〜20年もつ照明器具が同時に並んでいたら、いっそ照明器具ごと取り換えようとするはずでしょ。そう、メーカーは、従来の白熱電球が有った場所をLEDに置き換えようなんて発想をしていては、ダメ、ダメ、ダメ。照明器具ごと買い換えさせるという発想でなくちゃ。そして、そんな魅力的な発色、魅力的な価格帯の照明器具を世に出せたら、その商品はヒット間違いなしでございます。え、まだ使える照明器具を捨てるなんてエコじゃないって? じゃぁ、地デジはどうなの?! ある日突然、日本中の多くのテレビがただの箱になるんだよ...ということで、技術の移行期には、涙を飲んで多くのガラクタを排出する必要がある場合が、多いのでございます。

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2010/09/02

あと100年ぐらいしたら、もっとクールに語り合えるかな

 さて、いよいよ9月。実は8月中に録画したテレビ番組を、昨日、まとめてガンガン見ちゃいました。というのも、毎年8月は恒例のようにテレビ番組が「戦争」一色に変わるわけでございまして、ワタクシもボチボチそんな番組を見ておりましたが、何しろ2時間とか3時間の番組ばかりで見るのが追いつかない。やっと手が空きましたので、まとめて見た次第でございます。今回は日本人と韓国人の直接対決とかありまして、意外と面白かったのでございます。ということで、ワタクシもちょっと戦争にまつわるお話をするのでございます。堅苦しくならないようにいたしますので、どうかおつき合いのほどを。

 ワタクシの母親は、11歳で終戦を迎えております。戦前の教育を受けているせいか、朝鮮人や韓国人に対する差別意識をしっかり持っておりました。あと、もともと差別意識の強い性格だったのか、ネイティブアメリカン(アメリカインディアン)や黒人などにも、なんとなく差別意識がございました。少年期(!)のワタクシは母親のこの差別意識が大っ嫌いで、よく母親と大喧嘩したものでございます。あまりワタクシが腹を立てるので、いつしかワタクシの前ではそのような話をしなくなりましたが、多分、70歳で死ぬまで、母親のその価値観は変わっていなかったと思うのでございます。

 母親は、テレビで戦争のシーンを見る度に、「東条英機のバカ野郎! アイツが一番悪い!」と叫んでおりました。そんな母親も、町内会の慰安旅行では、バスの中で「同期の桜」を歌ったりして、もうね、戦争を肯定しているのだか否定しているのだか分かりゃしない。母親は何かの集まりで歌を歌ってくれと言われれば、この曲を歌っていたような気がいたします。差別意識を持ち、東条英機が大っ嫌いで、でも「同期の桜」を歌ってしまう、そんな母親でございました。

 ワタクシは、父親とは幼少の頃に生き別れておりまして、ほとんど記憶がございません。ただ一度だけ父親に「戦争では何をやっていたの?」と聞いたことがございました。「南の島で、敵機が飛んできたらゼロ戦をジャングルの中に隠す仕事をしていた」と“嬉しそうに”答えたのを覚えております。ワタクシがゼロ戦のプラモデルを作って見せたりいたしますと、嬉々としていろいろ説明をし始めたりいたしました。大相撲の中継を見るのが大好きで、キュウリを挟んだトーストに醤油をかけて食べるのが大好きで、ゼロ戦の話を嬉しそうにする、そんな父親でございました。

 ワタクシの父親も母親も「絶対に戦争を繰り返したくない」という強い意思は持っていたはずでございます。しかし、戦争を憎みつつも、その戦争を生き抜いたそれぞれの青春時代は、輝いていたのでございましょう。世の中には、「戦争体験は絶対に話したくない」と堅く口を閉ざす人もいらっしゃいます。韓国のように、マスコミが“憎しみの再生産”をしている国もあれば、未だに戦争に関しては奥歯にものが挟まったような言い方しかできない日本という国もございます。戦争の当事者がまだまだご存命なうちは、はっきりとした妥協点を見いだす事は難しいのかも知れません。

 話を冒頭のテレビ番組に戻しますが、やっぱり「爆笑問題」に戦争テーマの番組をやらせちゃダメですよ。あの太田って人は責任のないところで好き勝手やっている分には面白いのですが、戦争という重たいテーマの番組では、足も手もすくみっぱなし。そこへいくと、池上彰さんはやっぱり見事! 惜しむらくは、番組が長すぎる。最近の民放は少ない予算で尺を水増しする事に慣れすぎておりますよね、本当に(プンプン)。戦争がテーマの3時間番組は、う〜ん、見るのが辛いですよ。逆に、NHKは「どこにそんな金があるんだ」と思えるほどの予算と手間ひまをかけておきながら、番組の尺はこぢんまりと適当な長さ。というか、むしろバタバタ急ぎすぎて性急に感じる部分さえ有るのでございます。そして、まとめようとし過ぎ。そんな結論が出るような問題じゃないんだから。

 ちょっと気になったのは、「韓国人が知っている日本の有名人」の第5位に、「豊臣秀吉」が入っていた事。番組がこの件に触れなかったのは非常に残念でございました。というのも、この5位に豊臣秀吉が入ったのは、単に戦国武将として有名だからじゃないはず。これは明らかに、豊臣秀吉の朝鮮半島への“進軍”が原因でございましょう。最近は歴史の授業が少ないっていうから、この史実、どれだけの日本人が知っているのかちょっと心配なのでございます。いじめた方は忘れちゃうけど、いじめられた方はいつまでも覚えているのでございます。それも400年以上も前の話を。この朝鮮半島への進軍、教科書的には「文禄・慶長の役」というのでございます。やっていた事は「侵略」なのですが、ほんとうに日本史の表現てのは、綺麗な言葉をお使いになるのでございますね、オホホホホ(ワタクシが習った日本史の教科書には、「朝鮮征伐」という記述もあったような気がするのですが、ちょっと記憶が定かではございません)。

 もし、日韓併合以降のグズグズの日韓関係がなければ、韓国の人たちは未だに豊臣秀吉の進軍にこだわっていたでしょうか? 逆に言うと、近年のグズグズの関係が有るからこそ、400年以上も前の出来事を蒸し返されてしまうということではないでしょうか。あのね、語弊を恐れずに申しますが、「戦争による恨みや憎しみは、何百年という時間の流れで水に流すしかない」と思うのでございます(だって、十字軍をいまだに恨んでいる人なんていないでしょ...多分)。数百年後に水に流せているかどうか、それは、現在のワタクシ達の行いにかかっております。「事実は伝えるが、憎しみは伝えない」ということ。どうでしょうか? でも、数百年後も相変わらず日本史は綺麗な言葉で飾られているかも知れませんし、韓国では憎しみの再生産が続いているかもしれません。そして、ワタクシのこの文章は、数百年後に誰かに読まれる事があるのでしょうか? 歴史というのは何百年という大きな“うねり”に乗って変化しているのに、人間は性急に変化や解決を求めすぎているのかも知れませんね。

 以前、日本にも戦争博物館を作るべきだと申しましたが(「戦争博物館を作りませんか」)、麻生さんが立ち上げたマンガ博物館(だったっけ?)の話がポシャったとき、「その流れた“箱”で戦争博物館が作れたらなぁ」なんて思っておりました。キャメロンが作ろうとした原爆の映画の話も流れてしまったそうですし、スミソニアンは相変わらずだし、日本は戦争に関して相変わらずモゴモゴしているし...毎年8月の戦争特番ぐらいかな、シャキッとしているのは。ということで、本当に長い文章になっちゃいましたが、最後まで読んでいただきまして、ありがとうございます。名古屋薫でございました。

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2010/05/04

ジャパン・アズ・ナンバーワン・アゲイン

 あなたがもし経営者なら、どうしますか?

 従業員が5人います。
 総額50万のボーナスを、その5人に渡さなければなりません。
 どのように配分するのが妥当でしょうか?
 日本人なら、多分、5人に10万ずつ等分に分けることを、真っ先に思いつくことでしょう。ところが、アメリカ人はそのようには考えないそうでございます。一番成績の良かった人に、50万円全部をあげてしまうのが、アメリカ的だそうでございます。

「国際人事コンサルタント」というお仕事をしている「奥山由美子」さんという方が、先日、あるテレビ番組に出ておりまして、日本人とアメリカ人の「配分」に関する感覚の違いについて、話されておりました。「みんなで平等に分ける」のが日本式、「勝ち残ったものが総取りする」のがアメリカ式だそうでございます。

Japan_as_no1 この奥山さんの説明とほぼ同じ分析を、30年も前に行っている人がおりました。「エズラ・F・ヴォーゲル」という人でございます。『ジャパン・アズ・ナンバーワン』という1979年に発行された書物の、著者でございます。このエズラさん、日本式の配分法を「フェア・シェア(fair share)」と名付けております。配分の前によく吟味し、話し合い、時には密談や根回しをし、結果的に“丸くおさまる”ような配分方法を決める、それがフェア・シェア、つまり日本式の配分法だそうでございます。ちなみに、アメリカ的な配分は「フェア・プレイ(fair play)」と名付けております。みんなが同じルールで競ったのなら、勝者がご褒美にありつけるのが当然という考え方でございます。

 前回、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という語を使いましたら、なんだかその有名な書物を(いまさらながら)読みたくなりまして、思い立ったように探してみたのでございます。30年以上も前の書物が見つかるものかと思いましたが、以外とあっさりと見つかったのでございます。1979年に発行された『ジャパン・アズ・ナンバーワン』、実は2004年に復刻版が発行されておりました。ということで、その30年前に一世を風靡したベストセラーを読んでみたのでございます。

 復刻版ですから、中味は30年前に出版されたものと同じ内容。読みながら「オヤッ」と思うこともありますが、それは30年前のことですから当然のこと。脳内補完をしながら読み進めたのでございます。まぁ、読んでいくと、これが面白い、面白い。著者のエズラさん、当時(1970年代)の日本を褒めちぎっております。ただ褒めるだけではなく、“どうして日本人がそのように行動するのか”ということを日本人の気質の面から分析し、日本の高度成長の理由を理路整然と解説しております。とどのつまり、この本は、アメリカ人に対する「日本の解説書」なのでございますよね。当時の日本は「エコノミック・アニマル」なんて言われておりました。エコノミック・アニマルという語の語感からは、単純で猛進的・情動的なイメージを感じます。しかし日本の大成功の真理は、実際には実に複雑で、日本人が熟考した上で用心深く行動した故の結果だと、論じております。

 エズラさんが何を褒めているか、紹介いたしましょう。まず官僚を褒めちぎり、天下りというシステムが政界と企業をつなぐ良いパイプライであると褒め、料亭での密会、そしてさまざまな根回し、そういったものが実に効率的に機能していると褒めたたえているのでございます。今、“事業仕分け”で仕分けの対象になっているような団体や研究所なども、当時は非常に良い情報収集源だとして褒めております。面白いのは、政権交代後に民主党がことごとく否定したものが、1970年代当時はうまく機能していたということでございます。時代の変化とともにそぐわないものになってしまったということでしょうか。民主党が過去のいきさつを全否定したい気持ちは分かりますが、日本が世界の台頭に登りつめることが出来たのはこの古くさいやり方のおかげであることを考えると、闇雲に“すべてを”否定するのは、ちょっと考えが浅いかなとも思えてまいります。

 さ〜てさて、今では諸悪の根源のように言われております「官僚」「天下り」「料亭での密会」「根回し」...といったものがどうして1960〜70年代にうまく機能したか。それをエズラさんは先ほどの「フェア・シェア」という日本人本来の気質によると書いております。でも、天下りや密会などは、本来ならば「なれ合い」に繋がるものでございますよね。では、どうしてなれ合いにならなかったのか? それは、当時の日本人が私利や省益にこだわらず、日本全体の利益を考えて行動したからだそうでございます。で、ワタクシ、ハタと膝を打ったのでございます。この“日本全体の利益を考えて動く”って、そう、「明治維新」ではないですか!

 エズラさんは、「日本には大きな改良の時期が二つも有った」と書いております。「明治維新」と「第二次大戦での敗戦」でございます。そして、日本がとんでもなく誇っていいのは、ほとんどのアジア諸国が植民地時代を経験しているにもかかわらず、日本はどこの植民地にもなっていないということでございます。明治維新の際、多くの侍が藩の壁を越えて協力し、「日本」という国造りに尽力いたしました。二次大戦敗戦後は、多くの政治家や文化人が、日本の分裂化、植民地化に対抗いたしました。古来より日本人の気質が独特なのは、民衆が蜂起して世の中を変えるという“革命”で世の中が変わるのではなく、支配者層が日本全体の利益を考えて刷新するというところに有るのでございます。

 そして、この「全体のために動く」という日本人の気質は、高度成長期にも大活躍することになるのでございます。先ほども書きましたように、すべての日本人が「全体の利益」という大きな目標を目指して行動しております。そのように全員が同じ目標を持っておりますと、一見、癒着やなれ合いに見えるような関係も、それが意見を調整し大きな対立をあらかじめ避けるような場として、実に効果的に機能したようでございます。

 さて、では、この日本人の気質が、維新と敗戦、そして高度成長期という三つの時期になぜうまく働いたか? この三つには、不思議な不思議な共通点が有るのでございます。分かりますか? 「アメリカ」という存在でございます。早い話、「日本人のアメリカ・コンプレックス」でしょうねぇ。

 明治維新が性急に進んだのは、「黒船」というカルチャーショックがあったからこそ。二次大戦敗戦後は、「進駐軍」というカルチャーショックを受けております。野坂昭如(昭和5年生まれ)の小説などには、このアメリカ・コンプレックスが色濃く出ておりますよね。そして高度成長期。この時期はちょうど、日本がアメリカの技術に手が届き始めた時代でございます。「アメリカに追いつき追い越せ」とばかりに、いつもアメリカの背中を羨望していた時代でございました。ちょうど、野坂昭如と同じ世代の人が、世の中の主役になり始めた時期ではないでしょうか。

 思えば、日本という国は、このアメリカ・コンプレックスが有ったからこその、今の繁栄なのではないでしょうかねぇ。そう考えると、アメリカという国は、ほんとに影響力の大きな国でございます。日本は自力で大きくなって来たと、つい思いがちですが、ひょっとしたらアメリカというお釈迦様の手のひらの上で動いているだけの存在なのではとも、思えてくるのでございます。

 ただ、日本人の「全体のために動く」という気質は、今でも健在だと思いますよ。本質的な気質というものは、そう簡単に変わるものではないと思うのでございます。そこで、あえて断言しちゃいましょう。結論! 「日本人は、皆、坂本龍馬なのでございます」。そう、あの龍馬は、藩の敷居を超えて日本全体のために疾走したのでございます。高度成長期には、官僚や政治家や大企業が立場の壁を越え、お互いが意見を譲り合い、日本の発展のために尽力を尽くしました。高度成長期に日本を動かした人々は、皆、ひとりひとりが坂本龍馬だったのでございます。

 ちょっとオーバーでしょうか。で、現代を考えますと、アメリカがコンプレックスではなくなっちゃってますからねぇ。せっかくの日本人の気質も「アメリカを超えた!」と思った瞬間に、うまく機能しなくなってしまったのではないでしょうか。そうそう、ニューハーフも、「あら、私って綺麗ね」と思い始めた瞬間から美しくなくなっていく...おっとっと、話がそれましたね。コンプレックスを持ち、みんなが全体の大きな目標を追いかけている時にはうまく機能していたことも、そのコンプレックスから解放された瞬間から、ブレーキの役目にしかならなかったということでしょうねぇ。逆に考えれば、その日本人の気質をうまく利用すれば、まだまだ日本は頑張れるはずだと思うのでございます。新たなコンプレックス。中国がそのコンプレックスになり得るでしょうかねぇ。

 上海万博のニュースなどを見ておりますと、日本館に殺到した観客が「日本の最新技術を見に来た」と口をそろえて言っております。日本を追い越した中国といえども、まだまだ日本は羨望の的なのでございます。そして、30年前の日本がアメリカにとって驚異であったように、今、中国が日本にとって驚異となっております。ですが、今まで申し上げたように、高度成長期の日本の大成功は、日本人の独特な気質に因るところが大きいのでございます。多分、中国や韓国などがそっくり日本のマネをしても、かつての日本のようにはうまくいかないことでしょう。そう思うと同時に、日本人が自分たちの気質を再認識することによって、まだまだ日本には可能性があると思うのですけどねぇ。

 ガンバレニッポン。

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2010/03/18

このシステム、まず政治家に使用してもらいたいものです

Chobo 普通、税務署からの郵便物というのは、あまり嬉しくないものでございますよね。ところが、先日の郵便物は、チョット嬉しい税務署からの郵便物でございました。「還付金の振込のお知らせ」でございます。もっとも、お店の膨大な税務処理はワタクシがやっているわけではございません。というか、無理! つうことで、税理士さんに“丸投げ”しているのでございます。

 お店の毎日の営業記録と必要経費の領収書、これを税理士さんに定期的に渡すわけでございます。で、あとはぜ~んぶ税理士さんが計算してくれる。と書くと簡単ですが、この領収書というのが、膨大な量がある。写真を見ていただくと分かりますが、左側の店舗名が書いてあるもの2冊が営業記録の1年分。1日1枚使いますので、各店舗ごとに365枚有るわけでございます。

 そして、真ん中にある「領収書」と書かれたファイルが、当店の1年分の領収書。A4サイズで厚さが8cmもございます。光熱費や広告費、各種備品代からコンビニのレシートにいたるまで、すべての領収書を1年分ファイリングすると、この量になるのでございます。で、営業記録と領収書を元に税理士さんが作成した帳簿が、右側の青い表紙のファイル2冊。

 毎年領収書を整理していて思うのですが、この領収書、いい加減に大きさを統一してもらえないものでしょうかねぇ。各店舗ごとに大きさや書式がバラバラなんてのは、本当に意味がない。せめて、3~4種類ぐらいの大きさで、書式もある程度決めておいてもらえると、管理もファイリングもしやすいのですけどねぇ。

 あ~、あと、こんな事も考えた! 今、ポイントカードってのは当たり前になってるでしょ。あれの領収書版。ものを買ったとき、領収書をもらう代わりにそのカードを差し出す。お店がそのカードをレジに通すと、そのカードに支払いの情報がインプットされるというもの。さぁ、どうだ、このアイデア。カードの中で金額はデジタルデータになっておりますので、集計も楽。領収書を1枚ずつ確認して表計算ソフトに入力するなんて“原始的”な作業は、もはや必要ないのでございます。申告も今は電子申告の時代、領収書もデジタルにするべきでございます。

 でも、デジタルデータというのは複製や偽造の心配がございます。カードの情報を操作して悪さするヤカラが出るやもしれません。ではどうするか? その領収書カードの中にはデータを置かず、ID番号のみを記録しておくのがよろしいでしょう。データの保存は、すべてどこかのサーバが行うのでございます。コンビニのようなPOSシステムであれば、直接サーバへアクセス出来るでしょうし、ネット通販のような場合は、購入時にID番号を知らせておき、販売店またはカード会社がサーバへアクセスするようにすればいい。

 さぁ、こういったシステムに当てはまらない小さなお店も、多数ございます。ただ、最近はかなり小さなお店でもレジスター機を導入しております。そこで、そのレジスターに“バーコード入りの領収書機能”を標準化させるのでございます。バーコードが入っていれば、データ化するのは簡単なこと。その領収書のサーバ登録を、コンビニなどで代行するということも実現可能なのでございます。

 さらに、自動引き落とし等も、最初に領収書カードのIDを登録しておけば、引き落とし時に自動的にサーバ登録でございます。あ~、もう、何もかもドンドン簡単になっていく。そんな夢のような時代が来ないでしょうかねぇ。これだけコンピュータによる処理が発達していて、どうして「領収書」だけは、あんな原始的な方法なのでございましょう。まぁ、「領収書カード」は無理としても、領収書の書式や大きさを、ある程度決めていただくというのは、ぜひともお願いしたいのでございます。

 以前、東京のショーパブで働いていたとき、この還付金の処理をキッチリやってくれるお店がございました。長年働いている先輩のお姉さん方は、タクシーや美容院の領収書をしっかり保存しておいて、年度末に還付金をもらっておりました。当時、ワタクシはそんなことに全く無頓着でございましたから、渡されたお給料をそのまま額面どおりにもらっておりましたよね。あのころ、先輩のお姉さん方は、どのくらいの還付金が戻ってきてたのでしょうかねぇ? 先輩に聞いても、「うん、ちょっと嬉しいぐらいの額よ」としか言ってくれませんでした。まぁ、何はともあれ、払ったものが多少なりとも戻ってくるというのは嬉しいものでございます。

 え? 今回、ワタクシに戻ってきた還付金はいくらぐらいかって? う〜ん、「ちょっと嬉しいぐらいの金額」でございます。

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2009/12/10

意味や由来ではなく、それを扱う人の心が大切なのですが

 ニューハーフが書いているということで「さぞかしエロいことが書かれているのだろう」と期待される方が多いようですが、どうも堅い話が多くなってしまいまして、ゴメンチャイなのでございます。今回もちょっとお堅いお話ですが、よろしければ、最後まで。

12/8(火)のテレビ番組で、

  『クローズアップ現代』(NHK総合)
   さまよう 兵士たちの“日の丸”
という番組がございました。この番組を見て、ちょっと思ったところがございますので、お話しするのでございます。

 今、アメリカ国内で、日の丸の売買が行われているそうでございます。64年前、太平洋戦争で戦死した旧日本兵が身につけていた日の丸を、アメリカ兵が戦利品として持ち帰り、大事に保管していたものでございます。破れたり、血痕が付いていたりしますが、日本兵が出兵した時の寄せ書きがぎっしりと書き込まれており、アメリカ国内では“美術品”として扱われ、数百ドル~数千ドルで売買されているそうでございます。

 売りに出す人の多くは、それを持ち帰ったアメリカ兵。戦死した日本兵に心を痛め保管していたのですが、「もし自分が死んだら簡単に捨てられてしまうだろう」ということを心配し、日の丸の価値が分かる場所へ出品するとのこと。遺族に返そうと、直接日本の外務省に送られてくる日の丸も年間200枚ほどに上るそうですが、当時の出兵者の記録などがほとんど残されてなく、遺族に返される日の丸は非常に少ないそうでございます。

 日本人が見れば、その日の丸が何であるか、そしてそこに秘められた「重たい意味」は一目瞭然でございます。そういったものが何万枚も美術品として流通し売買されているというのは、日本人の感情としては、非常に心苦しいものがございます。しかし、最初は“戦利品“としか思われなかった日の丸も、戦後、時を経るにつれ、徐々にその「重たい意味」が理解されてきたようで、64年を経た今でも、その多くが処分されずに残っているというのは、幸いなのでございます。

 アメリカ国内を美術品として“さまよう”日の丸、また、日本国内で遺族の見つからぬまま“さまよう”日の丸、こういった貴重な戦争の資料を、管理し保管するような施設は、日本にはございません。いやむしろ、小さな記念館は日本中に散在いたしますが、戦争の記録を総合的に陳列するような博物館は日本にはございません。以前、韓国へ旅行に行ったとき、ソウル市内にある立派な戦争博物館を訪れて、感動した覚えがございます。そして、日本にもそういった戦争博物館を作れないものかと、自分のブログで申し上げたことがございました。(「戦争博物館を作りませんか」)

 ところが何でしょうねぇ、日本では「戦争」を深く掘り下げることには、どこか“アンタッチャブル”な空気がございます。戦争どころか「日の丸」「君が代」といったものもきちんと“決着”を付けられず、相変わらず論争の種になっております。オリンピックなどの国際試合で堂々と日の丸も君が代も使っておいて、学校の始業式ではそれを使うかどうかで揉めたりする。その「チグハグさ」を、小さい子供たちが見てどう思うでしょうかねぇ。

 もちろん、議論することは必要だと思いますよ。ただ、大人の議論を子供の教育の場に持ち込むのは、それこそ「場違い」だと思うのでございます。大人の理屈はとりあえず“飲み込んで”おいて、それでいて子供たちにどういう“姿勢”を見せることが大切かを、考えて欲しいものでございます。「日の丸」や「君が代」が持つ社会的問題は、子供たちが理解できる年齢まで待ってから伝えるというような「余裕」は、教育の現場にはないような気がいたしますねぇ。多分子供は、大人の不統一な態度を、敏感に感じ取っているはずでございますよ。

 この、日本という国が戦争・日の丸・君が代といったものに対してアンタッチャブルな空気があるのは、戦争責任を押しつける決定的な「大悪人」が存在しなかったからではないでしょうか。と書くと、ちょっとピンと来ないかもしれませんね。たとえば、ドイツには「ヒトラー」という大悪人がおりました。まぁ、こんな表現をするとドイツの方に怒られそうですが、ドイツという国は戦争責任を全面的にヒトラーに押しつけることで、自国の戦争を明からさまに論じてくることが出来た。ところが日本は、自国の史実を掘り下げて論じようとすると、必ず「誰に責任があったか」という議論になり、責任のなすりつけに終始してしまう。明からさまに論じるには、あと40年ぐらい、そう、戦後1世紀ぐらいの時間経過が必要なのかも知れませんね。

 さて、お話を日の丸にもどしましょうか。日本人自らが決着を付けられていない「日の丸」を、多くのアメリカ人が大切に保存してくれていたというのは、なんだが恥ずかしい思いがしたのでございます。そして、その日の丸が廃棄されるのを心配して美術品として出品するアメリカ人、遺族に返してくれと日本に送ってくるアメリカ人、そのようなアメリカの心に対して、日本人は本当に国歌や国旗を大切に扱っているでしょうか。そんなことを考えさせられる番組でございました。

 ちょっと堅苦しいお話で申しわけございませんでした。次回は、ちょっとエロい話でもいたしましょうかねぇ。ではでは...

【戦争博物館を作りませんか】
http://blog.she-mail.jp/blog/2006/08/post-f62b.html

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2009/12/06

親子でくっついて、お昼寝のススメ

 今日はね、今日一日に起きた事を、ダラダラと書くダラ~。

 朝刊の見出し、「『子供必要ない』と答えた人が42%」の文字。それも、中日新聞と毎日新聞がこの記事ををトップに掲げている。毎日新聞の『毎日かあさん』の面。親子三人がそろって風邪気味で、一日ダラダラと過ごす。仕事場に置いてあるベッドで親子三人がゴロゴロ。そこに猫もやってくる。

「私の大事なものが何年も使っているボロボロベッドに全部乗っちゃって、おお今日のシアワセは安くていいな、と思いつつ眠る」
とは、作者西原理恵子談。

 名古屋駅、高島屋へお歳暮の手配に。大変な人混み。にもかかわらず、お歳暮のコーナーは大きく縮小。陳列よりも、オペレータの人数優先か? エスカレーターの降り口に、立ち止まり防止の誘導柵が、長~く設置。エスカレーターを降りた後、大変な大回りをさせられる。ふと見ると、ほとんどの人がエスカレーターの段を、ひとつないしふたつほど飛ばして乗っている。エスカレーターの速度を逆にもう少し“遅く”し、隙間なく乗らせるようにした方が輸送力は大きいのではないか? などと、勝手な「エスカレーターの法則」を思案していると、昨年の夏の東京ビックサイトでのエスカレーター逆走事故を思い出して、ギョッとする。なんで、こんなこと覚えてるんだろ、そして、こんなときに思い出すんだろと、自分に呆れる。

 歳暮の手配を終わり、エスカレーターで降りていくと、2階のバルコニーになにやら造作物が。近づいていくと、「かまくら」風の作り物。ケロロやキッコロ、モリゾーなどが並んでいる。多くの家族が、そのかまくらの前で記念写真。その風景を見ながら、「大事なもの」「今日のシアワセは安くていいな」のセリフを思い出す。百貨店の中には物欲をくすぐる品々が溢れていて、見ているだけで幸せな気分。自分のものだったらどんなに幸せかななんて想像する。でも、身近なところにも、お安くて大きな幸せが存在しているのを、見過ごしてしまったりしている。百貨店の陳列物は、お金を払わなければ他人のもの。でも自分の子供は、最初っから最後まで、自分の子供。

 帰りの地下鉄、たまたま女性専用車両に乗る。説明文の文字。

「女性専用車両は、以下のお客様にもご利用いただけます。
 ・女性のお客様に同伴される小学6年生以下のお子様。
 ・身体の不自由なお客様と介護者のどちらかが女性の場合に同伴される男性のお客様」
 あ~、分かりにくい! お役所仕事丸出し!
 ・「小学生はOK」
 ・「体の不自由な方は、本人か介護者のどちらかが女性ならOK」
でいいじゃん。つうか、そもそも障害者に条件出すなよ! 目の不自由な方にも、この説明文を読ませるのか! なんて思いつつ、あ~ぁ、分かりやすい表現に拘りすぎるのは、いつも電話誘導で苦労しているからかな? 職業病? といった思いが、脳裏を横切ったりする。

てな感じでスタートした、名古屋薫のとある日曜日でございました。しかし、42%の人が、子供を持たなくていいと言っているとは。日本、このままだと滅んじゃいますよ。親子が体をくっつけてゴロンと昼寝をすることが、どれほどの至福か。その至福を想像できるのなら、きっと子供が欲しいと思えるのでしょうけどね。今からでも遅くはない。子供をお持ちの方々、親子で体をくっつけて、ゴロンと昼寝でもやりませんか?

と、子供を産むことも産ますことも出来ないワタクシが言うのも、変ですけどね。エヘヘ。

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2009/11/26

ワタクシが書かねば、誰が書く!

Science
 科学雑誌を時々購入いたします。興味のある内容だったりすると、ついつい購入しちゃったりするわけでございます。『Newton(ニュートン)』という雑誌は写真やイラストがメインで解説も一般向けで分かりやすく、眺めているだけでも楽しめる雑誌でございます。専門知識を持っていない一般の読者をターゲットにしているようでございます。一方、『日経サイエンス』という雑誌はかなり高度な話題が多く、こちらはチョット専門的な雑誌でございます。高校生の時などは、理解も出来ないのに『日経サイエンス』を読んだりして、カッコウを付けたりしておりました。書いてあることの半分も理解できませんでしたが、何かハイレベルなものに触れているという高揚感あったものでございます。

 さて、最近の巷の話題といえば、「事業仕分け」でございますね。いやぁ、蓮舫さん、凛々しいですねぇ。そんな蓮舫さんの歯に衣着せぬもの言いに、高名な学者様からクレームがついたようでございます。確かに、科学技術というのは何十年もの過程を経て進歩していくもので、今結果が出ていないからと予算を減らされるのは、最前線の研究者の方々にとっては不本意でございましょう。また、いわゆる発明・発見というものは“たまたま偶然見つかる(スピンオフ)”ことが多いわけで、「投資」と「結果」が直接結びつかないという点が、こういった予算の設定を難しくさせております。

 ただ、先ほどの二種類の科学雑誌のように、『Newton』のように科学を広い視野で見て説明しようとする方法もあれば、『日経サイエンス』のように非常に狭い範囲を深く掘り下げて説明する方法もございます。どうも技術の最先端にいらっしゃる学者さんなどは、『日経サイエンス』的な説明の仕方が板に付きすぎているようで、科学研究の重要性ばかり説いておられます。ところが、“仕分け人”の方々は、そんな科学研究の重要性なんて、たぶん百も承知なはずでございます。研究の重要性を分かった上で、無駄なところに流れているお金を搾(むし)り取るための“牽制球”を投げているのでございます。

 学者の皆さん方は、頭から湯気を出して怒っているばかりではなく、ご自分の研究の現場を、もっと広い視野で見直すべきでございます。というか、研究バカ(失礼)な学者さんの横でちゃっかり私腹を肥やしている要領のいい人(普通は研究にあまり関係ない公務員が多い)が必ずいるはずで、今回の事業仕分けは、そういった「ちゃっかりさん」に対する“牽制球”なのでございますよね。たとえば、日本科学未来館関連のディベートでは、宇宙飛行士の毛利衛さんが直接事業仕分けに出席しておりました。未来館の意義を熱く説く毛利さんの姿とはうらはらに、仕分け人の感心はその未来館に張りついている科学技術広報財団の方でございました。

 さてさて、そういった事業仕分けに関する賛否は世間で十分やられておりますので、ワタクシはちょっと違った見方をしたいと思うのでございます。“仕分け人”の方々には様々な厳しい批判がされております。同じ政治家の中にも、批判的な言葉を下す方もいらっしゃいます。でもね、思うのでございますが、仕分け人の方々も、けっして「好きでやっている」わけではないのでございます。たぶん、たまたま適任として選ばれたのでございましょう。中には、「貧乏くじ引いたな」と思っている仕分け人もいるかもしれません。にもかかわらずあれほど熱心に“仕分け”をする原動力は何か? ワタクシは何となく、「自分がやらねば誰がやる」といった使命感を感じたのでございます。

 世の中には、「割の合わないつらい仕事」というのはいっぱいあるのでございます。医者、看護師、消防士、警察官...こういった人たちの志気を支えているのは「自分がやらねば誰がやる」といった気持ちだと思うのでございます。仕分け人のダイレクトなもの言いには賛否両論ありますが、すべて「お仕事」として使命感に燃えてやっていること。最近の政治家は、貧乏くじを引くことをことさら怖がって、総理大臣の椅子さえ、その座り手が二転三転する時期もございました。「人を助ける」「世の中を救う」、そういった分野にこそ、「自分がやらねば誰がやる」といった意気込みが必要なのでございますけどね。

 科学研究の成果がすぐに表れないのと同様に、事業仕分けの成果が問われるのも、まだまだ先のことになるのでしょう。あえて日本の将来のために貧乏くじを引こうとする姿は、最近の日本の政治家が忘れている真っ当なあり方ではないですか? 公務員を称して「公僕」なんて言葉がございます。国民の僕(しもべ)という意味でございます。事業仕分けには大変な数の傍聴者が足を運びました。これは、事業仕分けの熱いやりとりに、本来有るべき政治の姿の片鱗を見ることが出来たからではないですか。世の中の関心を集めたという点だけでも、事業仕分けはひとつの成果を上げたと思うのでございます。世の中を腐敗させるのは政策の是非ではなく、「一般大衆の無関心」なのでございます。

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2009/03/04

人間にやさしい機械のススメ

 みなさま、お久しぶりでございます。名古屋薫でございます。自分のお店のホームページの方は、こまめに更新しているのでございますが、すっかりメールマガジンの方がお留守になってしまっております。お店のホームページのワタクシの「日記」に掲載している文章を、よりぬきしてメールマガジンで配信していくつもりでございます。

 今回は銀行のATMのお話し。商売柄、頻繁にATMは利用するのでございますが、もうね、あのATMの画面のデザインの悪さにはあきれかえっております。振り込め詐欺にも悪用されるATMの機械。もっともっと使いやすく、もっともっと悪用されにくいデザインというものがあるのでございます。もし、ATMの画面をデザインする人が読んでいらっしゃいましたら、参考にしてくださいませなのでございます。

 みなさまがた、数字キーの並び方に、「電話型」と「電卓型」の二種類が存在するのは、お気づきでございますよね。電話などは「1」の数字が左上に来ております。一方、電卓やパソコンのキーボードなどは、「1」のキーが左下に来ております。この二つの仕様を両立させてしまったことは、デジタル技術の黎明期における、最大の失態なのでございます。銀行のATMのように、「金額、電話番号、暗証番号」といった様々な種類の数字を扱う機械では、この数字キーの二つの異なった仕様が、問題になってくるのでございます。

 ワタクシが普段よく使うのは、三菱東京UFJ銀行のATMでございます。つい最近も内部ソフトのバージョンアップが有ったようで、画面のデザインが大幅に変わっております。そこで、例の数字キーの扱いでございますが、UFJのATMでは、数字入力する画面では、すべて「電話型」の配置でございます。ところが、ATMの機械には小さな電卓が用意してございますよね。もちろん、その電卓は「電卓型」の配置。まったくもって、チグハグなのでございます。

 「数字を入力する画面は、すべて同じ画面を使いたい」そう考えるのは技術屋の性(さが)でございましょう。ところが、人間には「慣れ親しんだ指の感覚」というものがございます。金額を入力する画面では「電卓型」、電話番号を入力する画面では「電話型」のほうが、“しっくり”くるのでございます。すると技術屋は、「画面がコロコロ変わると、利用者が混乱するのでは」と反論することでございましょう。

 その技術屋の反論を、みごと解決する方法がございます。電卓型の入力画面では、画面デザインを電卓の絵にしてしまうのでございます。同様に、電話番号の入力画面では画面を携帯電話の絵にしてしまう。不必要な「*」や「#」といったキーも、デザインとしてうっすら添えておけば、もう誰が見ても電話番号の入力画面と一目瞭然なのでございます。

 そうそう、暗証番号の入力画面をどうするかという問題がございます。いっそ、暗証番号の入力画面は、数字を横一列に並べるとか、丸く並べるとか、電話型でも電卓型でもない、まったく違う並び方がいいのでございます。ポイントは、「今、暗証番号を入力している」ということが、その数字の並び型で自明に利用者に伝わるということが重要なのでございます。

 さて、ワタクシが何を言いたいか。それは、画面デザインや数字の並び方で、今、何の数字の入力画面なのかが、はっきり利用者に伝わるようにするべきだということでございます。振り込め詐欺の犯人などは、まず最初に画面を英語に変えさせておいて、何の作業をしているのかを分かりにくくさせたりいたします。ATMにもう少し明示的なデザインが施されておりましたら、そのような振り込め詐欺は、本当にやりにくくなったはずでございます。

 振り込め詐欺がATMの英語表示を悪用しているというのは、早くから分かっていることでございました。でしたら、ATMの技術者は「バイリンガル」などと気取らずに、すべてのページで日本語・英語の並列表記を採用するべきだったのでございます。また「お待たせ中」のアニメーションも、矢印が点滅するだけなんて、まったく手抜きでございます。そのとき実際に行われている作業をアニメーションで表示すべきでございます。

 振り込み作業ならば、二つの通帳の間を羽根の生えたお札が飛んでいくアニメーションなどがよろしゅうございますね。もし振り込め詐欺で騙されている人も、お札が逆方向に飛んで行くアニメーションを見れば、すぐに気がつくはずでございます。そして、いつでもすべての作業を中止できる「エマージェンシーボタン」を必ず表示しておけば、たとえ騙されそうになっても、気づいた時点ですぐに作業を中断することも出来るのでございます。

 そしてさらに、数字の並び方やボタン配列のような基本的な仕様を、すべての銀行で統一すべきでございます。様々な仕様が乱立するから、利用者側に混乱が発生する。そして、振り込め詐欺を行うような人は、その混乱につけ込んで悪用しようとする。残念ながら、現状のATMはスキだらけなのでございます。機械に慣れた技術者だけで設計をするのでなく、心理学や認知科学の学者なども交えた、グローバルな設計が望まれるのでございます。

 人間と機械との接点を「マンマシンインターフェース」と呼んでおります。このマンマシンインターフェースに統一感や区別を設けることで、人間のウッカリ操作というものを未然に防ぐことが出来るのでございます。たとえば、車のアクセルやブレーキの位置は、どの車も同じ。「つまみ」は右に回すと「大」。トイレの看板は男が「黒」、女が「赤」とかとかとか...

 そうそう、このマンマシンインターフェースを応用すればいいのにと思いながら、なかなか実現しないものに、エレベーターの「開」ボタンと「閉」ボタンがございます。あれ、まぎらわしいですよね。「“ひらく”ためのボタンは、“とじる”ためのボタンより必ず大きくなければならない」なんていう法律がもし有ったら、エレベーターのボタンは、ずっと、ずっと、使いやすくなっているはずなんですけどねぇ。

 ということで、ATMの機械に限らず、人間と機械の接点をちょっと工夫してやると、人間のうっかり操作というものをかなり防げるのでございます。と同時に、悪人が悪用するというスキも与えずにすむのでございます。ところが、技術者が作る道具というものは、どうも「機械にとって都合がいい」設計に偏る傾向がございます。「人間にとってわかりやすい」設計というものが、世の中の様々な面で、もっともっと重要視されるべきだと思ったりいたします。

 ということで、次回をお楽しみに。名古屋薫でございました。

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2008/05/20

困ったときはお互いさまプロジェクト

Kokusaikyujotai昨日(2008/5/19)の『毎日新聞』の一面トップに、ちょっと衝撃的な写真が掲載されておりました。「離さなかった冷たい手」と題されたその写真には、赤いペンを握りしめた小さな子供の手が、超アップで写されております。かさかさに乾いた皮膚は、まだいくらか赤みを帯びていて、今にも動き出そうな気配さえ感じさせております。けれど、真っ黒に変色した親指の爪の色が、その拳の持ち主が、すでにこと切れていることをものがたっております。

中国の四川大地震は、大変でございますね。オリンピックを目前にしたこの時期に、なぜこのタイミングで起きるかなぁとも思いますが、出物腫れ物所嫌わず(ちょっと違うか?)、自然現象なのでしかたがないのでございます。各国から派遣された救助隊も、中国政府の間口の狭さ、受け入れの遅さに、十分な能力を発揮できずに歯がゆい思いをしているようでございます。

タイフーンに襲われたミャンマーでもそうですが、こういったときに極端に間口が狭くなるってのは、はやり軍部主体の政治だからでしょうかねぇ。大災害時の救助活動は、最初の数時間が勝負だと言われます。中国解放軍が、ここぞとばかりに自己主張をしたいのでございましょうが、大地震の壮絶な破壊力は、一国の軍隊が対処できる規模ではございません。中国という国は、間口も狭ければ、了見も狭いのでございます。

大災害の救助活動でやはり頼りになるのは、軍隊による絶大な機動力でございます。それと、消防が持つハイテク救助技術。中国に赴いた日本の救助隊が、バスで10時間もかけて現場へ向かったとか報道されてましたが、もうね、手伝わせたくないから、わざと意地悪しているとしか思えないのでございます。ヘリで運べよ、ヘリで、と思いません? 中国としては自国のメンツもあるのでしょうが、本当に、本当に救助第一と考えるのなら、どこの国の救助隊だろうが人手が一人でも多いというのはありがたいはずでございます。人命よりも国のメンツが優先する国なのでございます。

そこでワタクシ、こんなことを考えました。「国際救助隊・サンダーバード」の結成でございます。あの人形劇の世界を、今、現実にする時代が来たのでございます。製作当時は夢のマシンであったサンダーバードメカも、その性能に近いものは、大国の軍隊が、現代では当たり前のように装備しております。今現在の人類が持ち得ている科学技術で、十分サンダーバードは実現可能なのでございます。あとは、その技術や装備を使う側の、人間の意識の問題でございます。

サンダーバードの物語には、ジェフ・トレーシーという総司令官がおりましたが、リアルサンダーバードの場合、やはり完全中立ということを考えますと、国連主導で行うのがよろしいかと思います。まぁ、国連なんて政治的には何の強制力も持っておりませんが、やはり絶対中立の非営利組織が行わないといけません。世の中には、救助活動でさえお金儲けに繋げようとする輩(やから)が、ウジャウジャおりますのでねぇ。で、世界中の危機管理のエキスパートを集めて、その国連内に国際救助隊の中枢部を置くのでございます。

あとは、各国の軍隊、消防、特殊部隊などから、さまざまな人材や機材をそれぞれ持ち寄るのでございます。大災害時の救助活動は、その初動パワーが重要でございます。世界規模の人力と機材力、機動力で取りかかれば、もっともっと迅速に救助活動が進むはずでございます。まぁ、世界中からと申し上げましたが、なにも人形劇のように、南の孤島に全メンバーと機材を集めておく必要はございません。世界中にバラバラに待機しているメンバーが、災害時に「いざ、鎌倉」と現場へ集合すればいいのでございます。それぐらい、現代の移動手段、通信網が発達してきているということでございます。大発明家ブレインズも、これほどまでの進歩は予想しなかったのでございましょう。

「備えあれば憂いなし」と申しますが、いくら最先端の救助技術を持っていても、急ごしらえで現場に放り込まれたのでは、十分な実力を発揮できないのでございます。危機管理というものは、普段からの準備が大事でございます。そのためにも、平常時に国際救助隊を組織しておけば、常に大災害時を想定に入れた準備が出来るのでございます。世界中に散在する救助活動のエキスパートたちが、大事あれば各自が一斉に動き出す。この一斉に動き出し、全体の統制を取るということが、現状では難しいのでございます。

現場に入った人には、現場しか見えなくなってしまいます。ですから、現場の人間が判断を下し指示を出すというのは、あまり合理的ではございません。そこで、集中管理をする中枢部が必要でございます。中枢部では各地のデータのみを収集し、判断し、現場に指示を出す。この情報の一元管理がなされないと、トンチンカンな出来事が多くなるのでございます。たとえば、都市型のハイテク救助装備をした隊員が山奥に配属されたりとか、食料は届いたけれどそれを運ぶ手段がないので腐らせてしまったりとか。指令系統の組織化、情報網の確保、まぁ、対処のしかたは戦争と同じなのでございます。大災害というものは、人間と大自然との戦争のようなものでございます。

組織的な国際救助隊を作ったところで、現地に入国出来なければ、何も出来ないのでございます。そう、国際救助隊の活動には、政治の壁を越えた行動力が必要なのでございます。ですから、たとえ国連主導で結成されたとしても、現段階では、むりやり救助活動をするわけにはいきません。将来的に、国連が特別な権限を持つようになるというのは、あまり期待できませんよね。そこで必要なのが「受け入れ国の理解」でございます。受け入れ国の理解というよりは、大災害が起きたら国際救助隊に助けてもらうという風潮が、世界的に浸透すればいいのでございます。「困ったときはお互いさま」の感覚でございます。ワタクシ、この国際救助隊発足計画を、「困ったときはお互いさまプロジェクト」と勝手に命名するのでございます。

「困ったら助けてもらいましょう。そのかわり、どこかでこまったことが起きたら、すぐに駆けつけるよ、もちろん」
各国にこういった意識が浸透すれば、国際救助隊はどんどん活躍の場を増やすでしょうし、大災害時に迅速に起動できるはずでございます。もちろん、中国やミャンマーのように、受け入れを躊躇する国もあるでしょうが、他の国が当たり前のように国際救助隊を利用していれば、その垣根の高さも徐々に低くなるのではないでしょうか。そして「助けた」「助けられた」という事例が世界規模で増えていけば、それが潜在的な不文律の安全保障条約になるような気がします。自分の命を救ってくれた人に対して、刃を向けられますか? 国際救助隊という国家を超えた組織の活動が、国家間の紛争に歯止めをかけられる。ワタクシ、そう確信するのでございます。

世界中の多くの国が、高機能な兵器をそろえております。それらの兵器の中には、災害救助に流用できるものも多くあり、実際に災害時に活躍しております。災害救助に使える機材が、世界中で多く眠っているのでございますから、それを世界的な規模で有効に利用しましょうよ。戦争の道具が国家間の平和に一役買うというのも皮肉なものでございますが、よく使える道具というものはそういうものでございます。切れ味の良い包丁は、美味しい料理で人を幸せにすることも出来ますし、人を刺し殺すことも出来るでしょ。

そして、人類は、大自然の摂理の雄大さを、もっともっと実感するべきなのでございます。四川大地震の犠牲者の数が、5万人ともそれ以上とも言われております。この地球が、ちょっとクシャミをしたり、シャックリをしただけで、何万人という被害者の大災害が起きるのでございます。一方、広島の原爆は、一瞬にして数万人を焼き殺し、最終的に20万人以上の犠牲者を出しておりますが、人類が作り出したそれほどの殺戮兵器でさえ、地球のシャックリやクシャミと、たいして程度は変わらないのでございます。

もっと言うと、ちょっとした大自然の摂理の気まぐれが起きたら、我々人類は、あっという間に絶滅するかもしれないのでございます。我々人類なんて、地球という手のひらの上でうごめく、細菌・ウイルスのようなものでございます。ちょっと地球が石けんで手を洗ったら、たちまち絶滅してしまうのでございます。そんな脆弱な存在でしかない人類が、地球のクシャミ・シャックリ程度の殺戮兵器を作り出して、お互いにいがみ合っているというのは、バカらしいものでございます。そんなことを考えると、国際救助隊よりももっともっと必要なのは、「地球防衛軍」かもしれませんよ。ガミラスのような敵が攻めてきたら、人類は一つになれるのかもね。

さて、お話を四川大地震にもどしますと、この地震、大災害ではあるけれど、中国の歴史から考えると、ある意味、タイムリーな出来事だったのかもしれません(不謹慎は承知しております)。チベット問題で中国は疎外感のかたまりになっておりましたからねぇ。今回、外国の救助隊を受け入れたことで、国際的な近所づきあいみたいなものを、ちょっと認知したのではないでしょうか。国内でのマナー改善や、コピー商品の摘発など、中国は今、自国の国際化に躍起になっております。チベット問題では世界中から冷水を浴び、逆に、この地震では世界中から温かい手を差しのべてもらう。短い期間に冷たいものと暖かいものを一時に体験したことは、国際化に向けて、非常にいい体験になったはずでございます。

とまぁ、今回はこのへんで、と言いたいのですが、あともう一つだけ。今回、中国がなかなか諸外国からの救援隊を受け入れなかった間口の狭さを申し上げましたが、実は、日本も同じことをやっているのでございます。23年前に日航123便墜落事故というのがございました。その際、アメリカ軍は早々と墜落地点を特定し、墜落の数時間後には現場上空で特殊部隊が待機していながらも、日本政府からの援助要請が出なかったため、やむを得ず引き返すということがあったのでございます。結局、歩いて向かった地元の消防団が現場に到着したのは、翌朝のことでございました。

メンツにこだわってはいけません。「困ったときはお互いさまプロジェクト」、実現しませんかねぇ。といったところで、長くなりましたので終わりにしましょうか。次回をお楽しみに。名古屋薫でございました。

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