ちょっとした出来事、つれづれなるままに

2011/09/23

老人の国

 
 今週は祭日が多いなぁと思って、ふと「9月19日って何の日だったっけ?」と思いましたが、敬老の日だったのですね。昭和の人間なのでしょうか、敬老の日は9月15日って言われないと、ピンとこないのでございます。ハッピーマンデー制が導入されてから月曜日がお休みになることが非常に多く、月曜日というのが特別な、なんか扱いにくい日になってしまっているのでございます。

 というのも、サービス業などでは休み明けの月曜日は暇なことが多く、その月曜日を定休日にしている場合も少なくないのでございます。ところが、時々来るハッピーマンデーのために、不定期に定休日が火曜日にずれたりする。公共施設でもやはり月曜日をお休みにしていたりするので、事情は同じ。2連休(週休2日の人にとっては3連休)を増やして、政府が国民に媚びを売るためのハッピーマンデー制なのでは、とも思えてしまうのでございます。

 そもそも日本に週休2日制が増えたのは、かつて日本が「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と呼ばれた頃に、その勢力を恐れた諸外国(特にアメリカ)が、日本人のお休みを増やすことで国力を衰えさせようと圧力をかけた結果では、なんて勘ぐりもしてしまうのでございます。日本人は古来から働くのが大好きな民族、土曜日半ドンで日曜日お休みの週休1.5日ぐらいが、日本人には合っているような気がいたします。お休みが減った分、そんかわり、サービス残業を徹底的に排除するという方向で行けば、理解も得やすいような気もいたします。

 ワタクシが絶対に信じられないのは、学校まで週休2日になっちゃったこと。ガキの脳細胞ってのは、スゴイ勢いで分裂をしているのでございます。その分裂の盛んな時期に脳細胞を使わないで、いつ使う? 子供というのは、常に遊ぶことを考えている悪魔でございます。ですから、幼少期には“強制的に何かをやらせる”という環境も、ある程度必要なのでございます。しかしながら、その学校の週休2日に加えて「ゆとり教育」なるものも拍車をかけて、子供に「無理して深く考える必要はないのだよ」というぬるま湯を作ってしまう。これも、個人的な想像を加えて深読みすると、「子供に嫌われたくない大人が子供に媚びを売るという深層心理が働いているのでは?」なんて、思ったりいたします。

Kimiga_oyaji 堀江貴文氏の著書『君がオヤジになる前に』という書物の中に、

安らぎは、人の思考を止める。
思考を止めれば、成長はしない。
成長しなければ歳をとるのが早まる。
というくだりがございます。堀江氏は「オヤジ化=思考停止」と言っております。つまり、常に脳細胞をフル回転させて思考することが「若さ」であり、思考停止した瞬間からオヤジ化が始まるとのことでございます。どうでしょう? 「深く考えなくていいんだよ」という教育を受け続けてきた人は、思考停止する癖がついてしまってはいないでしょうか。そして、若くしてオヤジ化しているのではないでしょうかねぇ。

 人気商売でも、人気のある人は頭の中で高速コンピューターのように思考しております。その思考力でお客様の考えや希望を先読みし、対応しているのですよね。逆に、伸び悩む人というのは、あまり深く考えていない。どこか思考停止しちゃっている。お客様からすると、「この子、今ひとつ、気が利かないなぁ」という感を抱かせてしまう。それを指導しようとしても、小さい頃から「考える」という癖がついていないと、「考える」という概念そのものが理解できない。だからこそ、「考える」という行為は、小さい頃から訓練しなければならないと思うのでございます。そう、考える能力というのは、訓練が必要なのでございます。

 風評被害などを見ていると、「あぁ、日本中が思考停止しているなぁ」なんて思ってしまうのでございます。ちょっと深く考えれば、風評被害は起きない。また、脱原発のデモなどを見ておりますと、どちらの言い分も極論を振り回してヒステリックな感情論になっている。ちょっと深く考えれば、論点は原発の是非ではなく“脱する方法”なのだが、それに気がついている人は少ない。と、まぁ、これは長くなっちゃうので別の日にやることにいたしましょうか。

 若いのに思考停止している人を見ると、「あぁ、年は若いのに、すでに老人なんだね」なんて思ったりいたします。国民の高齢化が進みつつある日本ですが、若くして老人になっている人も考慮すると、日本の高齢化は現実の数字以上ではないかと思うのでございます。ということで、先日の「敬老の日」にちなんで、老人のお話でした。秋分の日に敬老の日のお話しをするというのも、ちょっとずれてますが、まぁ、気にしない、気にしない。


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2011/01/27

マザーカレーってのがあると、ちょうど良かったのにね

 先日の1/22は、母親の命日でございました。ちょうど1年前のメールマガジン(10/02/04配信分)にも書きましたが、母親の命日にはいつもよりチョット豪華なものをお供えするのが毎年の恒例になっております。昨年はうな重をお供えしたのでございますが、はてさて、今年は何にするか。うな重を超えるものがあるのか? といった感じで思いを巡らせておりました。こういった考え事は、頭の中を空っぽにするのがよろしいのでございます。「何を食べたいのかなぁ?」とお伺いを立てた後、ボーと頭の中を真っ白にしておりますと、フッと閃(ひらめ)いてくる。そして、その心の声に素直に従うのでございます。

 で、今回のお供えは「カレーライス」に決定! それも、ココイチ限定。さっそく近所のココイチまで出向きまして、テイクアウトしてきたのでございます。まぁ、メニューは何でもいいのですが、ここは期間限定品の「グランドマザーカレー」を注文。いそいそと帰りまして、さっそくお供えでございます。あ、たまたまワタクシがカレーを食べたかったのだろうと思ってませんか? いや、確かにカレーは好きですよ。でも、それでカレーになったわけではございません。実は、ココイチのカレーには、それなりの思い出があるのでございます。

 お店を始めて2〜3年目の一番大変な時期、ワタクシはほとんど毎日お店に泊まり込んでおりました。母親は数キロ離れた自宅で一人で生活。それで、週に1回ぐらいの割合で、お店が終了した後に待ち合わせをして、ココイチのカレーを食べに行っておりました。カレーを食べた後は、母親を風呂に入れて、体と頭を洗ってやるのでございます。晩年の母親は左手が不自由だったので、体が十分に洗えなかったのでございますよね。そんな、カレーとお風呂のワンセットの恒例行事が、毎週続いた時期がございました。

 晩年の母親は、本当に小食でございました。せっかくココイチへ行っても、ひと皿の3分の1ほどを食べると、「食べて」と言ってワタクシの方へ皿を差し出したものでございました。結局、いつもワタクシはひと皿と3分の2のカレーを食べることに。「せっかく連れてきたのに、なんで食べないんだ」と思ったこともございました。でも、今、自分が年齢を重ねてくると、母親と同じように食が細ってきたのでございます。親子なんですよねぇ。食は細いのにちっとも痩せないところも、まったく母親と同じ(アハハ)。なんか、おなかの形も晩年の母親の形に似てきたような気がします。あ、ダイエットが進まない理由を母親のせいにしちゃってるかな?

 母親と一緒に食事に行った思い出といえば、「レストラン不二家」のエピソードがございます(2007/01/22配信分)。そのエピソードでは、「ワタクシはいつも豪華なメニューを注文するのに、母親は必ずパンケーキしか頼まない。母親はワタクシと一緒に食事をするだけで、すでにおなかがいっぱいだった」と記しております。この回の配信は、実はかなりの反響をいただきました。当時、まだまだ食い盛り(笑)だったワタクシにとっては、母親の小食を、そのような心情的なものだとばかり思い込んでおりました。しかし、多分食べたくても食べられなかったのでございましょうねぇ。それでも、ワタクシと一緒に行動できるのが嬉しくて、街中まで出かけたのでございましょう。

 さて、今年の母親の命日は、こんないろいろなことを思い出した一日でございました。さて、来年は何をお供えすることになるのか? 1年後を、こうご期待なのでございます。

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2010/12/08

イマジン−夢

 今日12/8は、ジョン・レノンの命日でございます。世界中の様々な場所で、『Imagine』が演奏されていることでございましょう。『Imagine』の歌詞には「You may say I'm a dreamer」とあります。確かに、「Imagine there's no countries, ... no religion too」なんて夢か理想のようなことが綴られております。

「no religion」という歌詞には皮肉ですが、理想を追いかけるのは宗教家の役目でございます。一方、政治家が追いかけるのは理想ではなく妥協点。政治の世界には、理想は存在しないのでございます。そんな現実世界のジレンマを超越したこの歌詞が目指すものは、きっと崇高な精神世界なのかも。では、現実世界に住むワタクシたちには、この歌詞は無意味なの?

 夢を語らなければ、現実を語れない。現実を見据えているからこそ、夢を見続けることが出来る。そして、夢と現実の二点を見定められれば、どちらに一歩を踏み出せばいいのかが分かる。現実も大事だけれど、夢も大事。これは、二点が定まればベクトルが決まる数学の原理と同じこと。

 夢を持ち、現実を把握する。すると、今、何をすべきかが分かってくるということなのですが、ニューハーフ業界の若手を見ていても、やはり、「夢」を持たない人が多い。夢がないから「欲」もない。ひたすら現実にしがみつき、「今が大事」と、若いのに守りに入る人がいる。

 生まれたときから不景気が続いている世代ですから、夢の見方が分からないのかも知れません。そして、お手軽な夢が、ゲーム画面の中で手に入ってしまうので、ますます、現実世界での夢の追求には興味が無くなっていくのかも。

 本当は、若い人の夢は、「大人」そのもので有るべきなのでございます。「あんな大人になりたい」「あんな金持ちになりたい」「あんな地位になりたい」そうやって大人を見上げる目が、若い人の夢であるはず。

 ところが、ニューハーフ業界に限っては、中堅以上のニューハーフが新人ニューハーフの「夢」にはなりにくい。ニューハーフを取り巻く世の中がここ数十年で急激に変化し、若い人と中堅以上では、その育ってきた環境が別世界になってしまったからでございます。

 年配のニューハーフは、若いニューハーフに何を見せてあげられるのだろう、そんなことを時々考えたりいたします。若い人は自分の10年後や20年後を想像しにくく、どちらに足を踏み出せばいいのか分からない。

 だからこそ、何でもいいから「夢」を持って頂きたい。他人から、「君は夢想家だな」と一笑に付されるかもしれない。けれど、少なくとも夢を持っている人は、どちらに歩いて行けばいいのかを知っているのです。

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2010/10/05

生き方いろいろ、そして相性というもの

 なんだか、気がついたら中日ドラゴンズがリーグ優勝しておりました。新聞にもその特集などが組まれておりまして、松平健さんがドラゴンズファンだというのを改めて知ったのでございます。海の向こうではイチローが華々しい記録を樹立して、メジャーリーグの殿堂入りなんて話もささやかれております。

 イチローのその大記録達成を契機に、各スポーツ番組などがイチローの経歴を紹介しております。メジャーリーグでの初ヒットが2001年の4月とのこと。ワタクシのお店のオープンがその4ヶ月前の2000年の12月、イチローが渡米してからの10年間と、ワタクシがお店をオープンさせてからのこの10年間が重なり合い、感慨深い思いをいたしました。

 野球選手の活躍の仕方にもいろいろありまして、スランプを交えながらも同じチームで10年間コンスタントに記録を残してきたイチローのような活躍のしかたもあれば、優勝に大いに貢献しつつもシーズンを棒に振るような大怪我もあり、移籍をしてでも活躍の場を探す松井ゴジラのような生き方もございます。入団したチームがあまり優勝に縁のないチームか、あるいは常に優勝争いに関わっているチームか、そんなことも選手の生き方に大きく影響することでございましょう。

 野球選手がどの球団に所属するか、その所属するきっかけによって運命が決定されてしまう事もございます。ドラフト会議で大きなドラマが生まれた清原・桑田のKKコンビや、社会問題にまで発展した江川・小林のトレードといった事件もございました。ドラフトやトレードといった大きな転機が、それぞれの選手の野球人生を大きく左右させたのは、間違いない事でございましょう。野球選手はある意味「職人」であり、それを管理するチームは「頭領」といったところでしょうか。職人がどの頭領の下で働くか、それによって職人が本領を発揮できたり出来なかったりするのでございます。

 ワタクシはよくニューハーフやニューハーフのお店を野球のチームに例えます。野球選手が職人であると申しましたが、ニューハーフも一人一人が‘こだわり’や商売のやり方を持っていて、職人っぽいところがございます。となれば、ニューハーフが働くお店は頭領である野球チームに相当いたしましょう。野球チームが選手を管理し活躍させるのに似たようなことが、ニューハーフのお店とニューハーフとの関係にもございます。

 そのお店とニューハーフの関係には、“相性”といったものがございます。あるお店で全然うまくいかなくても、違うお店に移籍したとたんに人気を博すということがございます。あるいは、大型店ではうまくいかず、小さいスナックで成功するという場合などやその逆とか、お店の規模が影響する場合もございます。お店の“色”や“品格”とニューハーフのそれとがピッタリ合致して相乗効果を生み出したり、あるいは打ち消しあって何をやっても裏目に出るとか、お店とニューハーフとには、そんな「相性」が有るのでございます。

 また、長く働いているとニューハーフがお店の色に“染まってくる”という現象もございます。ですから、新人ニューハーフがどの店でデビューしたかということが、その新人の将来を大きく左右したりすることもございます。逆に、環境の影響を全く受けずに、どこで働いても終始マイペースを貫き通すニューハーフもございます。さらに、強力な個性を持つニューハーフですと、そのニューハーフの色にお店側が影響を受けるということもございます。

 お店とコンパニオンは有機的にお互いに影響を与え合うような関係なのでございましょう。そのような関係の中で、両者の歯車が噛み合ったり噛み合わなかったりして、人気が出たり出なかったり、長続きしたり短期で辞めてしまったり、元気になったり体調を崩したり、そんないろいろなことが起こります。

 イチローの生き方、ゴジラの生き方、清原や桑田、江川や小林のそれぞれの生き方。そういったものに思いを馳せておりましたら、自分の生き方、自分が使っている従業員の生き方、そんなものもまた幾重にも重なり合いまして、いろいろ回想にふけったりしておりました。ワタクシがニューハーフになってから、すでに何十年も経っております。その間に多くのニューハーフとの出会いや別れがございました。不器用で苦労を重ねる、そんな苦労人のニューハーフが多いのも事実でございます。ニューハーフという特異な生き方、そして職人として自分の居心地のいい場所を探す苦労、ニューハーフがみな苦労人になってしまうのは、仕方がないことなのかもしれませんね。

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2010/09/11

やってみなければ分からない

Archimedes え〜と、紅白歌合戦の直前になると大物演歌歌手のスキャンダルが突如として発覚したり、大相撲の本場所が間近になると野球賭博への追究が急に厳しくなったり、因果関係があるのか無いのかは分かりませんが、実にグッドタイミングで事件が起こるということが、世の中には多いものでございます。最近の政界も、鈴木氏の有罪が急に確定されたり村木女史に無罪判決が出たりと、何やら意味深なタイミングでいろいろな事件が起きております。政治の事はあまり詳しくありませんので純粋に鈴木氏と村木女史の「顔」だけで推測いたしますとですね、お二人とも実に“単細胞”な顔をしていらっしゃる。あまり“表”と“裏”を使い分けるような方には見えない。その単細胞さゆえに、貧乏くじを引くハメになってしまったのでしょうかねぇ。とくに村木女史にいたっては、最初から心外の感を如実に表しておりましたから、ちょっと気の毒でもございました。

 さて、「アルキメデスは手を汚さない」という語がございます。偉大な数学的発見をしたアルキメデスも、その一方で残酷な殺戮兵器を発明しているのでございます。実際に兵器を使ったのはアルキメデスではないとは言え、その発明者が自らの手を汚していないと、はたして言えるのだろうか? これは、その「アルキメデスは手を汚さない」という題名の小説(小峰 元 著)の中にある記述“らしい”です。「らしい」というのは、題名の由来に引かれて読み始めたものの、ぜ〜んぜん面白くなくて、最後まで読んでいないからでございます。また、『ヘウレーカ』という漫画(岩明 均著)には、アルキメデスの発明した殺戮兵器が描かれておりますが、これはちょっと漫画的な誇張を含んでおりまして、あまり参考にはならない。でも、アルキメデスの発明した兵器が敵軍にかなりのダメージを与えたのは、史実のようでございます。

 で、ここからが本題。「菅 vs 小沢」のニュースで持ちきりですが、ワタクシの個人的なイメージを述べさせて頂ければ、菅さんはそれこそ単細胞なお人。一方小沢さんは典型的なタヌキオヤジ。まぁ、小沢さんは、古いタイプの政治家に似ているって感じがいたしますよね。そういえば、ここ数年の間に頻繁に交代した総理大臣、みんな単細胞型だったような気がいたします。単細胞な人には、複雑怪奇な政治の世界のトップに立つのは難しいのでしょうかねぇ。ここは逆に、小沢さんのようなタヌキオヤジの方が向いているのかもしれません。先週号の『週刊新潮』で佐藤優氏が、「自分の利益を執拗に追究する小沢一郎氏のような汚くて下品だけれども強い人が首相になる方が、結果として日本のためになる」と言い切っております。そうですね、今の日本に求められているのは「強い政治家」かもしれませんね。

 ちょうど1年前の政権交代以降、小沢さんは自分の手を汚さずに采配を振ってきた感がございますが、ここいらで、ご自分が矢面(やおもて)に立たれるというのも、いいかもしれませんよ。実際に自分の手を汚し始めると、その難しさを実感されるのではないでしょうか。そもそも首相っていうのは政権を取っている政党の代表がなっているんでしょ。自分の所属する政党から最大限のバックアップを受けられるはずなのに、ここ数年の頻繁に変わる首相は皆、どうしてあんなに孤立した寂しい顔をしてるんでしょうかねぇ。

 さて、評論家気取りの話ばかりでもいけませんので、自分の経験談をひとつ、お話しいたしましょうか。ワタクシもね、自分が従業員として働いていた時期は、そりゃぁ勝手なことをさんざん言ったもんでさぁ。でもね、いざ自分がお店を管理する立場になりますとね、いやぁ、これがなかなか思うようにいかない。言うのとやるのとは大違いでございます。そうそう、学生時代にブラスバンド部やオーケストラ部というのに入っておりましてね、自分が指揮者を務めているときには、全体をまとめるのにそりゃぁ苦労するわけでございます。でも、逆に自分が演奏者側に回りますとね、自分が指揮者を務めていたときの苦労などすっかり忘れて、自分勝手な自己主張をついついしてしまうのでございます。

 人間というのは、基本的にエゴイズムな動物のようでございます。そのエゴを飲み込んだところにリーダーとしての真価が問われるのでございますが、そのエゴこそが人間のモチベーションの原動力だったりするのでございます。リーダーたる者はエゴを捨てなければならない、けれど、そのエゴがなければ政権も取れないし首相にもなれない。こんなジレンマの上に成り立つ政治の世界ですから、そりゃ、不思議なタイミングで不思議な事件が起きるのでございましょう。難しいものでございます。

 政治家のみなさんも自己主張の強い方ばかり。次は誰が首相になるのかまだ分かりませんが、時期首相は、どうやって日本をまとめていくのでしょうかねぇ...

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2010/08/31

時計がなかった頃には当たり前でした

 相変わらず暑い日が続きますが、ワタクシ、先週末ぐらいから、“秋風”の香りを感じております。暦の上の「立秋」は8月の上旬、今日あたりは風が涼しくなるという「処暑」を少し過ぎた頃でございます。自分の感覚と暦とを透かし重ねてみると、時々、その微妙な符合のしかたに驚いたりすることがございます。

 8月31日と言えば、そう、夏休みの宿題。子供の頃は宿題の山を前にして憂鬱になる日でございました。最近は夏休み期間中に自由研究用の教材がいろいろ売っているようで、東急ハンズなどでそういったものを見つけると、別に宿題が有るわけでもないのに、ついつい買っちゃったりするのでございます。今年の夏も、買っちゃいました。なぜかシースルーの時計の教材が気になって。それから、『大人の科学』というシリーズから「和時計」というものが出ておりまして、あ〜、これも衝動買い。どうもメカニカルなものに弱いようでございます。

 シースルーの時計は、大きな歯車が見えていて非常に面白いのですが、やはりそこは子供向けの教材、ゼンマイを一杯に巻き上げても数時間で止まってしまう。さらに、「カッカッ、カッカッ」と大きな音が、まるで壊れかけたメトロノームのように偏ったリズムを刻んでおります。まぁ当たり前ですが、とても実用的ではなく、飾って楽しんでおります。

 もうひとつの「和時計」。これは大当たり。簡単に説明しますと、時間を刻む天符(てんぷ:時計の上の天秤のようなもの)が、昼用と夜用で2本付いております。たった1本しかない針は1周で24時間。その針がちょうど180度回転するたびに、その昼用と夜用の天符が切り替わるのでございます。これは何を意味するか? そう、江戸時代の時間は「不定時法」と言われるもので、早い話が、「日の出はいつでも朝の6時、日没はいつでも夕方の6時」と決めてしまうわけでございます。そして、その「日の出」と「日没」を区切りとして、その間を等分して時を刻むのでございます。あぁ、6時というのは分かりやすく現代の表記に言い直しただけでございます。これほどまでに不定時法を大事に扱ったのは、世界的に見ても日本独自の文化だそうでございます。

 で、夏と冬では昼と夜の長さが違いますよね。そこで、夏は昼用の天符をゆっくり、夜用の天符を早く動くように調整し、1日の帳尻を合わせるのでございます。当然、冬はその真逆の設定。昼と夜の長さは毎日少しずつ変化していきますので、昼用、夜用の天秤棒の調整も、二十四節気ごとに少しずつ変えていかなければなりません。結構面倒くさい上に、あまり正確ではないのでございます。そんな時計のどこにワタクシが魅力を感じたのか? さぁ、これからそれを説明いたしやしょう

 よく、「夏は日が長い」とか言いますよね。天文学的には、昼間の時間が長いのですから当たり前でございます。ところが、「日の出は朝6時、日の入りは夕方6時」と決めている不定時法では、「昼は時間がゆっくり進み、夜は早く進む」という感じになるのでございます。そう、この和時計は、その昼と夜との時間の進む速さの“感覚的な違い”を、実際の針の動きに反映させてしまうという、これまた何とも“人間寄りな”時計なのでございます。しかしですよ、もし時計なんてものがなかったら、人間はきっと、日の出とともに行動を開始し、日没に合わせて寝床に向かったはずでございます。ですから、不定時法に合わせた生活というのは、もっとも自然に即した生き方と言えるのでございます(あ〜あ、言い切っちゃったよ)。

 そこで、和時計がどのようにしてその不定時法の時間を指し示すかでございますが、針を等速で動かし文字盤の方に細工を施した方がはるかに構造は簡単でございます(実際、そういう和時計も有る)。しかし、それをやらないところに、この時計の「粋(いき)」が有るような気がするのでございます。物理的な時間の長さを基準とせず、感覚的な時間の速度を実際に針の動きに反映させる、もうね、ロマンじゃないですか。アインシュタインもびっくりなのでございます。日本人はすでに江戸時代において、「時空」という概念を獲得していたのでございます(ちょっと大げさかな、アハハ)。

 そして、世の中には、実際にこの不定時法で生活をしている人もいらっしゃるとのこと。まぁ、学者さんが研究のためにそのような生活をしているそうでございます。その学者さんが言うには、不定時法の生活をしていると、一分一秒を争うような生活をしなくなるそうでございます。さらに言うと、時計そのものがあまり必要ではなくなってくるとか。太陽さえ出ていれば、だいたいの時間が分かるようになるそうでございます。どうですか! みなさん、太陽を見て時間が分かるんですよ。不定時法、バンザ〜イ! 人間がこんなに自然らしく生きる生き方って有りますでしょうか?

 そういえば、人間の体内時計というのも、体が浴びている「光」に関係しているそうでございます。海外旅行の際に時差ぼけを起こさないために、出発の数日前から計画的に強い光を浴びるなんて研究もあるそうでございます。やはりね、人間は「陽の光」に合わせて生活するのが自然なんでしょうねぇ。そんな不定時法を温存していた昔の日本人は、本当に四季折々の自然の移り変わりを大事にしていたのでございましょう。

 さて、ここで、名古屋薫、ちょっとした予言をするのでございます。あまり確信のない予言でございますから、外れても文句を言わないように。その予言とは...

     近い将来、不定時法のプチブームがやって来る

ということでございます。そして、そのきっかけとして、「現代の不定時法時計」の出現が考えられるのでございます。

 江戸時代にはほんの一部の人にしか使いこなせなかった和時計も、現在の技術を使えば誰にでも使えるようなものが出来るのでございます。まず、日の出・日の入りが関係してきますので、時計そのものが現在位置を知るような仕組みが必要でございます。置き時計ならば、あらかじめ多くの都市名をプリセットしておき、ユーザーに選ばせればいい。腕時計なら、最新技術のGPSを内蔵してしまえば、世界中どこへ行っても不定時法で時を示す腕時計を作れたりするのでございます。

 この際、秒針・分針は無しの方向で。針は時針のみ。デジタル表示なんてのはもってのほか。「自然に即したおおらかな時間感覚を得る」という不定時法の立場のもとでは、秒針や分針やデジタル表示はジャマなのでございます。もちろん、電車に乗ったり人と待ち合わせたりという場合に必要ですので、普通の時間も切り換えて見られるようにしておけば、日常生活でも困らないのでございます。でも、不定時法の時間と定時法の時間を並べて表示させたりする機能は、まったくナンセンス。定時法の時間感覚に縛られないための不定時法時計なのですからね。さてさて、こんなブーム、こんな時計は現れるのでしょうかねぇ?

 夏は長い昼をのんびり過ごし、冬は夜長を楽しむ。日の出とともに行動を開始し、日没を一日の区切りとする。毎日を時間で追われる生活をしていると難しいですが、この不定時法による生活パターン、ちょっと魅力を感じるのでございます。ワタクシも現場を離れ年金生活をするころには(って、いつの話だ?)、この不定時法の生活を意識してみましょうかねぇ。

↓名古屋薫の夏休み自由研究(音が出ます)
 ※Macでは不具合有るようで、ただ今原因確認中です。こちらをクリックして下さい。

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2010/04/05

♪ヤミにか~くれて生きるッ、俺たちゃで〜んきゅ〜売人なのさッ

Anime_stand←クリック。GIFアニメが見られます。

 かわいらしい容器に入ったお菓子を見つけましたので、さっそく購入して、その容器を利用して自作のライトを作ってみました。東急ハンズで、電球、ソケット、コード、紙やすりを購入して総額¥1200ほど。紙やすりは何に使ったかと申しますと、ガラス瓶の周りをこすって“すりガラス”にするのでございます。透明なガラス瓶はいかにも“昔の裸電球”を想像させてしまい、安っぽくなってしまうのでございますね。ちょっと(と言っても小一時間かかりましたが)擦って“すりガラス”にすると、あら、まぁ、なんということでしょう、そこはかとない高級感が醸し出されてくるのでございます。

 こんな工作は日曜大工レベルでございますが、ワタクシは学生時代にある貧乏劇団に入っておりまして、そこで電気の知識はいろいろ身につけております。いやぁ、貧乏劇団というところは何でも自分たちでやらなければいけませんので、電気の知識どころが、大工仕事、ミシンや裁縫、塗装、印刷といった様々な知識が身につくのでございます。当時身につけた知識のほとんどが、今のお店のセッティングに役立っておりますので、人生、何が役に立つか分からないものでございます。

 その劇団で身につけた技術で、「照明のノウハウ」がございます。舞台に“時間”や“奥行き”、“暑さ”、“寒さ”、“エロチック”などを、照明の強度とカラーフィルターの色で表現できるのでございますね。このノウハウが、ワタクシのお店では大活躍しております。よく観察いたしますと、お店のいたるところに舞台照明用のカラーフィルターが使われているのに気がつくはずでございます。お部屋全体の明るさ、照明の色、スポット照明の位置や明るさ、そんなところにワタクシの得たノウハウを使用しております。まぁ、センスが良いか悪いかは別でございますけどね(笑)。

 そうそう、「昔の裸電球」と書きましたが、昔の電球は明るさをかせぐために、電球のガラスが透明でございました。最近の電球はもはや明るさをかせぐ必要はなく、ソフトな感じを出すためにすりガラス様になっております。その「最近の電球」も、すでに大手メーカーは生産を打ち切り、蛍光灯型電球やLED電球にシフトしております。当店のようなサービス業では、「調光」という明るさを無段階に調整する機械を多用しておりますので、調光の難しい蛍光灯型電球やLED電球はあまりありがたくないのですけどね。

 透明なガラスを使用した電球は陰影をはっきり出すことが出来ますので、一部の照明機器では必須なアイテムとなっております。そんなものも、なくなってしまうのでしょうか? いや、きっと、どうしても必要な人向けに、裏社会を「ヤミ電球」なるものがはびこるはずでございます。明るく照らす電球に“ヤミ”とは、ちょっと不思議な語感でございます。繁華街の薄暗い闇の中で、ヤミ電球のやりとりがなされるのも、時間の問題ではないでしょうか(個人の妄想です)。

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2010/02/21

自分を客観的に見ることを、“メタ認知”なんて申します

 NHK大河ドラマの『龍馬伝』が面白いのでございます。今はちょうど、龍馬が短期の江戸修行を終えて里帰りしているところ。江戸で見聞きしたものに喚起され、さらなる江戸行きの野望に胸を膨らませている龍馬が描かれております。もうね、この龍馬を見ていると、20代の頃の自分のようで、ジリジリジリジリしてくるのでございます。

 その頃のワタクシは、とにかく何かをやりたくて、オーディションを受けまくっておりました。そして、東京のミュージカル養成学校のオーディションに合格し、上京するわけでございます。東京では驚きましたねぇ。とにかく人間が多い。自分と同じような野望を持った人間がワラワラとレッスンを受けに来ている。そして、そのレッスンの内容が濃い! もう何が濃いかって言うとですね、実際に舞台に携わっている人が、ごく普通に講師であったり生徒の中に紛れていたり。だから、レッスンもより実践的でしかも初めて聞くような最新の技術だったりするのでございます。

 ワタクシが東京で得たショックというのは、龍馬が黒船を見たときの衝撃と同じではないでしょうか。「あぁ、名古屋はなんて遅れていたんだ」と思い知らされたものでございます。「名古屋の数年間が東京の数ヶ月と同じ」ぐらいに思っておりました。もっとも、この東京での体験によって、「あぁ、私にも田舎があるんだ」と再認識できたとも言えるのでございます。東京へ行くまでのワタクシは、それこそ名古屋人の例に漏れず、「東京ほどではないにしろ、名古屋もそこそこ頑張っている」ぐらいに思っておりました。そんな名古屋への過大評価が崩れるとともに、より客観的に名古屋を見つめることにより、名古屋に対する愛着が増したわけでございます。

 で、ニューハーフにも同じようなことが言えちゃったりしまして、中部地区の外へ出たことがないニューハーフの場合、どうしても「井の中のかわず」状態になりかねない。そこでワタクシは、若いニューハーフには「気軽に東京を見て来なさい」と言ったりいたします。絶対的にレベルの違うものに触れますと、客観的に自分を評価する目が生まれたりいたします。自分の「立ち位置」が分かるわけでございますよね。この「立ち位置」をわきまえ、受け入れると、人間、「腹が据(す)わる」のでございます。

 ワタクシ、ニューハーフの美しさは外観的な美しさだけではないと思っております。この「腹の据わり」というのも、ニューハーフの魅力の大事な要素だと思っております。かつては、ニューハーフになるには、ある種の「覚悟」が必要でございました。家族とのつながりを断ち切り、一生この世界に骨を埋める、そんな覚悟でございます。ですから、古いニューハーフさんには、自然とその「腹の据わり」を備えていたような気がいたします。ところが、最近はそんな深刻な思いでニューハーフになる人は少なくなっておりますので、何かしらの大きなカルチャーショックでもないと、腹が据わらないかもしれません。

「腹が据わると、どうして美しくなるのか」と聞かれると困るのでございますが、たぶん、そのドーンと落ち着いた心が、相手に対して安心感を与えるのか、あるいは様々な体験が、達観した広い心作り出すのか、そんなところでございましょう。テレビの坂本龍馬を見ていて、なんだか自分の若い頃に重ね合わせてしまった今日でございました。

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2010/02/04

ワクワク、それだけで幸せなはずなのに...

 先月の1月22日は、ワタクシの母親の命日でございました。ワタクシ、ちょっと考えがありまして、お墓も作っておりませんし、遺骨も拾っておりません(よい子は真似をしないように!)。ただ、母親の命日には、デパートでちょっと高級なお弁当を買ってきて仏前にお供えするのが、毎年の常となっております。その命日も、恒例の行事を実行すべく、ちょいと時間をいただいて外出してまいりました。

 天気も良かったのでテクテクと歩いて外へ。お店の近くのATMで支払いを済ませ、さぁ三越の食品売り場まで足を伸ばそうかなと思ったときでございます。どこからか美味しそうな香りが漂ってまいりました。ATMの近くにある‘うなぎ屋'さんでございます。そこで、ワタクシ、ふと思ったのでございますよね。

「三越で何千円もするお弁当を毎年買っているけど、あれって、確かに食材はいいけど、味が地味だし、大して量もないし」...なんて考えておりましたら、かつて母親と一緒に大須(名古屋の古くから商店街のひとつ)のうなぎ屋へ行ったときの光景が思い出されたのでございます。きびすを返しまして、いざそのうなぎ屋へ。ひつまぶし弁当とおだしのパックと、あと母親が好きだった‘う巻き'を買って、いそいそと自分の部屋へ向かったのでございます。

 なんでしょうねぇ。三越の高級弁当をお供えしていたときには感じなかった、妙にワクワクした想いがわき上がってきたのでございます。もうね、気分は新婚直後の帰宅を急ぐサラリーマンのようなものでございます(いやワタクシ、“新婚”も“サラリーマン”も経験ないですけどね)。きっと、母親とうなぎを食べた思い出がそうさせたのでしょうか、イソイソと家路を急ぎ、お供えしてお線香を上げ、お経を読んで、一段落でございます。

 これは、ワタクシのちょっとしたエピソードでございますが、人を愛するってことは、この「ワクワク」、この「ワクワク」だけでもう必要十分条件ではないかと思うのでございます。家で待っている人に早く会いたい。このお土産を早くあの人に渡してあげたい。たった、それだけの気持ちで必要十分なんじゃないでしょうか。そういえば、小さな子供の頃ってのは、家に帰るのが楽しみでしょうがなかったですよね。家というものが、自分を温かく迎えてくれるすばらしい場所だった。みなさんも、そんな自然と家路を急ぐような体験って、なかったでしょうか。

 さて、本日見たテレビ番組で(テレビの話題が多くて申し訳ないです)、30代から60代の社会人のストレスの原因は、男性の1位から3位が「仕事」「上司」「同僚」、女性の場合が1位から「配偶者」「子供」「仕事」ということだそうでございます。男性の場合は一日の多くを職場で過ごしますので、まぁ妥当な結果なのでしょうが、女性のストレスの大きな原因が配偶者と子供というのは、なんだか悲しいですよねぇ。新婚当初はホンワカホンワカだった家庭が、いつのまにかストレスの元凶になっちゃってるということは。

 そしてまた、ニューハーフになる人っていうのも、どうしても家庭あるいは家族と疎遠になることが多いのでございます。ニューハーフになるのを大賛成する家族ってのも、珍しいですからね。ですから、そういった人は家庭の「ワクワク」というものに実感が少ないからでしょうか、今の自分のすみかのワクワク感を育(はぐく)もうとする気持ちが薄かったりいたします。本来自分の部屋っていうのは「巣」であり「城」であって、外で嫌なことがあってもそこへ帰るとホンワカできる安らぎの場所でなければいけないのですが、自分のすみかに対するワクワク感がないと、つい家の外でストレスを発散しがちになってしまうのでございます。

 家路を急ぐときのワクワク感、みなさまはお持ちでしょうか? 自分の家が巣や城となってますでしょうか。顔を見たくてワクワクするような人が身近にいらっしゃるでしょうか。ということで、みなさんも、ちょっとした「ワクワク」を大事にしてくださいませ。そうそう、お供えしたひつまぶし弁当は、お供えの後に、ワタクシが美味しくいただきましたですよ。ではでは...

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2010/01/16

♪君の行く道は、果てしなく遠い〜〜〜

 ハッピーマンデー制度なんてものが出来てから、月曜日が祝日になることが多くなりました。その結果、週休2日の人ならば3連休になるわけでございます。「成人の日」もそのハッピーマンデー制度の対象のひとつ。今年は1/11の月曜日が成人の日でございました。ということで、今回は成人に日にちなんで、「若者たち」のお話をするのでございます。

自分の成人式の日って、何やってたかなぁって思い出すと、2浪のボロボロの受験生。しかも目標は「音大」。午前中はあんこ工場(和菓子に入れる「餡」をいっぱい作っている工場)でアルバイトをし、午後から夜にかけて毎日8時間ぐらい練習をしている日々でございました。成人式って言ったって、なんか着ていく服もないし、というか本当は振り袖を着ていきたかったけど、そんなもの買うお金も、着て行く勇気もなかったし...ということで、成人式はバックレ(しらばっくれるとかサボるという意味)て、自分の部屋で悶々としていたような気がいたします。

 音大っつっても、お金がないので公立のピンポイント受験。そして、その公立の音大っていうのは「東京音大」と「京都市芸」のふたつしかない。どちらも競争率30〜40倍。受験勉強を2浪もしていると、自分の可能性っていうのが見極められてくるものでございます。ここは妥協して「愛教大の音楽科」なんていう選択肢もあるのでございますが、当時は血気盛んな若者であったワタクシ、「ケッ、先コウなんかになれるかよ」なんて思っております(教職の激務に従事されていらっしゃる方々、ごめんなさい、若気の至りです)。きっと「目標を下げたら負け」なんて思っていたのでございましょうね。現実を直視する勇気を持てず、目標が定まらないままに、ただただ黙々と練習だけを続けている日々でございました。

 午前中は蒸気釜の大鍋を前にして、ズタボロになってアルバイトをし、午後はひたすら練習をする。ソルフェージュ、ピアノ、専門楽器と、やるべきことは山ほどあり、8時間でも足らないと思っておりました。でも、そんなアルバイトと練習の日々が、まったく辛くはなかったし、それを軽くやってしまう体力もあった。年を取ると脳細胞は賢くなるが体力が無くなる。若い時は体力はあるけど頭の中が単細胞。世の中、うまく出来ているものでございます。目標が定まらないまま、血気だけは熱く、パワーは余りまくっておりました。軍隊の一個中隊でも与えられたらクーデターでさえやりかねない、そんな若者だったのでございましょう。

 さて、ちょっと話が変わりますが、最近見たふたつのテレビ番組のお話をいたします。ひとつは1/4にNHKで放送された『7サミット』という番組。これはニートであった若者が山に魅せられ、7大陸のそれぞれの最高峰に挑戦するドキュメンタリーでございます。もうひとつは1/8にテレビ東京系で放送の『たけしのニッポンのミカタ』という番組で、やはりニートが話題になっておりました。何でも最近は、ニート同士がネットでコミュニケーションを取り、お金を恵んだり恵んでもらったりするサイトがあるとのこと。同じニートを扱ったふたつの番組でございますが、妙に対照的な内容であったため、印象に残っております。

 両者は同じように、生きる目的が見つからない青年たちの姿でございますが、一方は有り余ったパワーを大きな目標にぶつけるドン・キホーテのような生き方をし、かたや一方は、惰性で生きる者同士が傷をなめ合って現実を直視しないようにしている。この両極端に見えるふたつの生き方に共通するのは、「傷つきたくない」という衝動。そう、若者は傷つくのを恐れるものなのでございます。パワーを出し続けていないと心が壊れてしまったり、傷をなめ合うことで孤独感を紛らわしたり、大人になるのが怖くて成人式で暴れてしまったり...そう、若者のガラス細工のような心は傷つきやすいのです。だから、若者は気取ってばかりいるのでございます。

 閑話休題。ガムシャラに山に登っている若者を見ると、「目標を達成しても空虚感が待っているだけだよ。だって、君はただパワーを山にぶつけているだけだから。ぶつけるものが無くなったら寂しくなるだろ」と思ってしまう。それは、自分も通ってきた道だからよく分かる。そして傷をなめ合っている若者たちには、「君たちの中には核融合でも作り出せないような巨大なパワーが秘めているのに、どうして使わないんだい。使っても使わなくても、そのパワーは年を取ると無くなってしまうんだよ」と思ってしまう。それは、ワタクシも若い頃は「この若さが永遠に続く」なんてアマッチョロイことを考えていたから。

 ゆとり教育というものが、“我慢の出来ない若者”を大量生産しているような気がしてなりません。でもその教育のシステムを作っているのは大人たち。大人の「いつまでも可愛い子供のままでいてね」という子供をペット化する思いが、そのようなシステムを作ってしまったのかもしれません。その最大の被害者は当の若者たち。世の大人たちは、最近の若者の弱体ぶりを嘆く前に、子供たちを崖下に突き落とす勇気を持てなかった自らの心の甘えに、気づくべきでございます。そして若者たちよ、大人に責任転嫁したところで、自分の人生はすべて自分にツケが回ってくるんだよ。大人を反面教師にして、生きろ!、そう言いたい。

 さらに話は変わって、ずっと前に、かぐや姫の『神田川』という歌の歌詞について書いたことがございました(2006/1/28分「やさしさ」)。最後の「ただ、あなたの優しさが、怖かった」という歌詞の深い意味に関してでございます。これに関して、テレビのあるバラエティー番組で言及(※注)しておりましたので、改めて補足いたします。この歌の歌詞、前半の石けんカタカタとか二四色のクレパスとかのくだりは、女性目線の歌詞だそうでございます。そして、最後の「若かったあの頃、何も怖くなかった、ただ、あなたの優しさが怖かった」という部分だけは、男性目線の歌詞だそうです。女性のひたむきで平凡を求める愛情に溺れそうになる心と、秘めたパワーのやり所に困る心、このふたつの心の間で葛藤する若者の心の歌だったのでございます。

 まぁ、年を取ると「平凡の中にも幸せはある」と思えてくるのでございますが、若い頃は「平凡は負け」ぐらいに思っておりますからね。若者には若者にとっての幸せ、年寄りには年寄り向けの幸せというものが有るようでございます。あ〜あ、最後は年寄りくさい話になっちゃった。ではでは、最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。

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※注
『人生が変わる1分間の深イイ話』(NTV系) 2009/12/14 放送分より

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