事件や事故にちょっとひとこと

2011/06/03

犬も食わない不信任案


 
 震災直後は、新聞・雑誌など、隅から隅まで読み込んで情報収集しておりましたが、なんか最近は、政治のことを考えると腹が立ってくるので、政局の記事は見出しだけさらっと読んで目を通さないようにしております。今日もドタバタ劇(内閣不信任案の決議)があったようですが、これでよ〜く分かったのは、「総理大臣の椅子ってのは、一度座ったら手放したくないのだろうなぁ」「与党でいられるというのは、よほど居心地がいいのだろうなぁ」ということ。ワタクシ、このドタバタ劇の直後の会見で、一瞬、菅首相の顔に笑みがちらついたのを見逃しませんでしたよ。何でも顔に出しちゃう人ですねぇ。

 ネルソン・マンデラ氏が長らく続いた南アフリカの白人支配に終止符を打って大統領に就任した時、まず行ったのが「黒人と白人の共存」でございました。政権が入れ替われば、人種差別政策で虐げられていた黒人が白人を追放・迫害するであろうと考えるのが普通でございます。ところがマンデラ氏は、「長年、白人が管理してきた社会を、急に黒人だけで運営したところでうまく行くはずがない」と考えたようでございます。目先の情に流されず、5年後、10年後の展望を見定めた上での考えでございましょう。30年弱もの投獄生活を強いられたマンデラ氏にとっては、5〜10年後の展望を立てることなどたやすいことだったことでしょう。

 さて、我が国の政権交代と比較してみますと、交代したとたんに長年の恨み辛みを晴らすかのように、政敵を全否定。長期的な展望も無しに急ハンドルを切ったようなもの。国家なんて、そう急に曲がれるものでもございません。でも、「ここらで試しに政権交代させてみるか」と投票したのは国民。国民は自業自得として諦めるしかないのでしょうか

 被災者そっちのけのイス取りゲームで停滞している日本の政治に比べると、アメリカがうらやましいのでございます。有事になれば、与党・野党が対立を一時中断してその国家的危機に対応すべく協力しております。イランアメリカ大使館人質事件しかり、イラク戦争しかり、ビン・ラディン殺害しかり。やはり、常にどこかと戦争をしている国は、危機に対する構えが違うのでございます。

 日本も、3月11日以降は戦争をやっているようなものなのですが、おかしいですよね。これが本当の戦争だったら、とっくに占領されているのでございます。もっとも、日米安保の関係の中で「日本の戦力を骨抜きにする」という隠れた思惑がアメリカにあったのならば、みごと術中にはまっているということですけどね。そんなことを考えると、トモダチ作戦の好意の裏に、アメリカの“したり顔”を想像しちゃったりするのでございます。深読みし過ぎでしょうかねぇ?

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2011/05/09

それでも食べるという人が、半数以上いるそうです

 暑い、もう、夏みたいに暑い。この調子で本当の夏が来たら、夏場の電力は大丈夫か! 世の中、感情論で「原発止めろ」って言ってるけど、夏が来て大変なことになっても知らないよ。世の中ってのはそんなに急ハンドルは切れないんだからさ。なんで、5年とか10年といった展望で議論しないのだろう。

 さて、ユッケがいろいろ議論されております。政府やマスコミはやたら「生食用」と「加熱用」にこだわって規制の話をしておりますが、なんか大きな勘違いをしているような気がいたします。その勘違いを、ワタクシがチョットお話ししてみたいと思います。と、その前に、「生食」あるいは「規制」ということで思い出す食品を、ひとつひとつ上げていきましょうか。

 まず、生食用と聞いて思い出すのが「牡蠣(かき)」。牡蠣の生食用というのは“鮮度”の問題ではございません。除菌処理を施しているものが生食用。施していないものは毒素を持っておりますので、当然、加熱用となるのでございます。この場合の規制は「生産者に対する規制」。牡蠣を出荷する前段階での規制というか区別でございます。牛肉に付けられる5段階の等級も、これと同様なのではないでしょうか。

 次に思い起こされるのが「河豚(ふぐ)」。河豚の場合は、「部位」が問題でございまして、この場合は河豚をさばく板前さんの技術や知識の問題。ですから、国家試験という形を取って、「現場の技術に対して規制」をかけているのでございます。牡蠣のような生産者側でかける規制が河豚には使えないというのは、よく分かりますよね。

 他にあたりやすい食品と言えば「卵」。卵には生食用・加熱用なんて区別はありませんが、大きな問題が起こることは少ないですよね。それは、卵はその鮮度が重要だということが周知されているからでございます。ですから、規制というよりは「現場の良識に任されている」といったところでしょうか。実は、卵の殻の表面に付いているボツリヌス菌も要注意なのですが、これもきちんとした料理店(料理人)なら周知しているだろうというところで、現場の良識まかせなのでございましょう。

 では「ユッケ」はどれに当てはまるのでしょうか? 今までは卵のように現場の良識に任されていたわけでございます。そして今回の事件を機に、現場の知識やトリミングという処置を徹底させようというのですから、河豚と同じ「現場の技術に対する規制」ということになるのではないでしょうか。ということは、もし規制をかけるとしたら、それは「流通」ではなく「現場」なのでございます。にもかかわらず、政府もマスコミも流通ばかりを問題にしている。大きな勘違いなのでございます。

 まぁ、国家試験をやるというのは大げさですので、研修制度くらいを導入するというのはどうでしょうか。生肉に対する正しい処置や知識を得るための研修を設け、「ユッケや刺身のような生肉を直接提供するメニューは、その研修を受けた人しか作ることが出来ない」というような仕組みにするのでございます。スナックなどを開業する場合にも必須の研修制度はありますので、それほど混乱せずに導入できるのではないでしょうか。

 さらに、韓国ではこういった問題が起こらないのは、非常に厳しい抜き打ち検査があるようでございます。厳しい罰則があれば、当然、現場の人間や管理者は勉強いたします。現場の良識でトラブルを回避しているということでございますよね。日本の事件も、現場の人間や管理者が、ほんのちょっと勉強していれば防げたこと。厳しい罰則や抜き打ち検査を設けて現場の良識を促すというのも、ひとつの方法かも知れません。

 ワタクシ、学生の頃、焼肉屋でアルバイト(皿洗い、鉄板磨き)をしていたことがございます。厨房の中を観察しておりますと、一日に二度、ランチの後と営業終了時に、厨房の中を完全に清掃・消毒しておりました。また、どんなに面倒くさくても、肉は注文が入ってから切り分けておりました。今思い返せば、事故を未然に防ぐ重要なノウハウだったのでしょうが、当時のワタクシは「ここの作業はもっと合理化できるのに、要領悪いね」なんて思っていたのでございます。ほんとうに、無知とは怖いものでございます。

 あの食中毒事故を起こした焼肉屋の社長は、「日本中のお店が、加熱用の肉でユッケを出しているじゃないか!」と息巻いておりましたが、問題はそこではないのでございます。問題は社長自身の勉強不足に有るのでございます。犠牲になられた方は本当に不運でございましたが、その犠牲を無駄にしないためにも、生肉に対する正しい処置の仕方や技術が、今回の事件を機に、広まって欲しいと思います。

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2011/04/27

この世にだって、天国も地獄もある

Memento_mori2 震災以降、ふだん購入しないような雑誌まで購入したりしております。多くの雑誌が報道色の強い明示的な写真を多く載せる中、異色を放っている雑誌がございました。『AERA』の臨時増刊でございます。この雑誌の写真、実にカメラマンの思い入れが強く入っておりまして、不謹慎ではございますが、アートっぽさを強く押し出しております。出版元の朝日新聞も、この雑誌を「写真集」と銘打っておりますので、確信犯的な雑誌なのでございましょう。この時期にこういったものを出すのは何かと物議を醸し出すのではないかと思ったりいたしますが、震災直後にガスマスクの写真を表紙に使った『AERA』ですので、AERAらしいって言えば“らしい”のでございます。

 その雑誌から、一例を紹介いたしましょう。真っ平らになった瓦礫の街を、夜、高台から写した暗い写真がございます。はるか下方に見える道路を、数台の自動車が、ポツリポツリと走っております。そのヘッドライトやテールランプは、まるで廃墟の中に転がした宝石のようにも写っております・・・また別の写真では、瓦礫の中にまるで誰かが寝ているかのように布団が二組ほど敷かれております。薄暗いまわりの景色の中で、そのキャラクター柄の赤い布団だけが妙に浮き上がっております。もちろん、その布団の中に寝ているのは骸(むくろ)。収容がなかなか進まずに放置されているのを、発見者が思いやって布団を掛けたのでございましょう。見続けるのがつらい写真でございます。

 この写真集を見て、ある書物を思い出しました。写真家・藤原新也さんの名著『メメント・モリ〜死を想え』でございます。「メメント・モリ」というのは、ラテン語で「自分が、いつか必ず死ぬことを忘れるな」という意味らしいです。この藤原新也さんの写真集にも、「死」や「生」が、数多くちりばめられております。人生を「生」だとすると、その「生」は「死」という儀式をもって完成するのでございます。「生」だけでも「死」だけでも人生は完結しない。「生」と「死」はワンセットなのでございます。「終わる」と考えると寂しいですよね。でも、「完結する」と考えればどうでしょう。

 被災者の方々にはつらい表現になりますが、『メメント・モリ』の中には、ガンジス川で水葬に伏される骸の写真がいくつかございます。あるものは水に浮いたまま水鳥に啄(ついば)まれ、そのまま骨だけになっております。またあるものは岸に打ち上げられ、犬に食われております。そんな骸に対して著者の藤原新也さんは、「骨の髄まで食ろうて、ありがたや」「人間は犬に食われるほど自由だ」と申しております。

『メメント・モリ』の中には、そんなドキッとするような写真だけではなく、草木が熱く萌える大自然の写真も多数掲載されております。小さな羽虫の写真には、「肉親が死ぬと、殺生が遠ざかる。一片の羽虫にもいのちの圧力を感じる。老いた者の生きものに対するやさしさは、身辺にそれだけ多くの死を所有したことのあらわれ」と言葉を添えております。やさしさというものは生への尊厳であるのですが、その生への尊厳は、死に直面することによって育てられるという逆説的な関係を、著者は説いております。

 死に直面するほどに、人はやさしくなれるということでしょう。そしてその死は、自分にも必ずおとずれる。自分の死を必ずやってくるものと受け入れたとき、人は自分自身に対してもやさしくなれるはず。そして生をまっとうして死を迎えるとき、人間の人生なんてものは、自然界の弱肉強食のシステムの中で入れ替わる小動物や、季節ごとに生と死をくり返す草木の入れ替わり、そんなものと何ら変わらないと思えるのでしょうか。

 若いころには、自分の人生に無限の時間が残されているような気がいたします。年齢を重ねるに従い、自分の人生がどんどん短いものに感じられております。この調子でいくと、人生を「完結」させるときには、自分の人生が一瞬の刹那(せつな)のできごとのように感じられるのでしょうかねぇ。

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2011/04/24

放射線よりも、怖いもの

 ・゚・(つД`)・゚・ スーちゃん、逝っちゃいましたね。唐突であり、本当に意外でございました。ご冥福をお祈りいたします。乳がんだったとのこと。もっとも、日本人の50%は一生のうちに何らかの癌にかかるという統計も出ておりますので、「癌」という病気は決して他人事ではないのでございます。この癌と、脳、心臓というのは、日本人の3大死因となっております。

 さて、また原発の話題になってしまうのでございますが、原発の20km以内が立ち入り禁止になってしまいました。日本政府の対応にはイライラさせられることが多いのでございますが、どうしてこう、お役所的で融通が利かないのでございましょう。この規制にもかかわらず、頑として圏内にとどまっていらっしゃる方も有るようですが、そのような人も圏外へ排除する方針のようでございます。

 ワタクシなどはこの圏内にとどまっている人たちを、「身をていして人体実験をしてくれている奇特な人たち」と思うのでございます。国はこの人たちを特に手厚く援助し、そして毎日データをもらいに行けばいい。その人たちの健康データが、規制解除に向けての大きな指針となるはずでございます。そもそも、放射線の人体への影響には諸説が入り乱れ、実際のところはかなりグレーなのでございます。というか、とりあえず戻りたい人は自己責任で戻ってもらい、その代わり、圏内にいる人の健康チョックを国が責任を持ってこまめに行うという方法は取れないものでしょうか。そこで、不謹慎ながらも大胆な発言をするのでございます。

 「高齢者は原発のすぐ近くまで戻っても大丈夫」

ということでございます。というのも、放射線が人体に影響するのはDNAの部分でございます。DNAの損傷で生まれたがん細胞が、人間の免疫システムをかいくぐって残り、成長して癌になる、というのが放射線で人が死ぬプロセスでございます。このプロセスの潜伏期は10〜20年と言われております。つまり、高齢者は、放射線の影響が出る前に寿命の方が来てしまうのでございます(不謹慎なのは分かっております)。ですから、現在観測されている程度の放射線であれば、高齢者限定で戻ることには問題が無いように思えるのでございます。放射性物質を「空から降ってくる青酸カリ」のように思っている人もいますが、放射線にはそんな即効性はございません。「何十年もかかって成長する癌という病気の、最初のきっかけになる“かもしれない”」というレベルなのでございます。

 でも、広島や長崎では、被爆直後に大勢の方が亡くなられております。また、東海村の臨界事故では、やはり二人の作業員が治療のかいもなく亡くなられております。こういった事例では、浴びた放射線が非常に強いため、体の免疫システムそのものが破壊されてしまったのでございます。福島の原発付近でそのような強い放射線を浴びるには、核燃料を直接手で拾うぐらいのことでもしない限り...おっとっと、そう、福島の原発は水素爆発をしておりますよね。政府はなかなか正式な声明を出しませんが、あの爆発のときに使用済みの燃料が飛び散った可能性もあるのでございます。政府がかたくなに20km以内の立ち入りをさせないのは、その可能性があるか、あるいはすでに飛び散った核燃料が発見されているか、とまぁ、これは推測が過ぎましたよね。

話を戻しますが、放射線の人体に対する影響は、諸説入り乱れております。プルトニウムの毒性に関しても、大変な猛毒だという説もあれば、すぐに排泄されるから影響は少ないという説もございます。これはひとえに、人体実験をするわけにいきませんので、動物実験や過去の事故からの推測に頼っているからでございます。さらに、原発推進派と反対派との思惑なども、そのような説に影響をしているものと思われます。とどのつまり、現在観測されている程度の放射線が、人体にどのような影響を及ぼすかは、まだまだ未知の世界なのでございます。ただ、放射線の影響による人体の変化は、かりに影響があるとしてもその進行は非常にゆっくりでございまして、十分な検査・観察を怠らなければ、それほど深刻に考えることはないような気がいたします。60歳以上ぐらいの人なら、十分な健康チェックを行いながら生活することは問題ないように思えるのですけどねぇ。

 あと、もうひとつ。特定の地域での作付けを禁止しちゃいましたよね。あれも、「収穫後にすべて国が買い取る」という条件で作らせることは出来ないものでしょうか? まず、作付けをすることで、放射性物質の農産物への影響のデータが取れるのでございます。どうして国は、こんな貴重なデータを取るチャンスをみすみす放棄するのでございましょう。また、農産物が放射性物質を吸収すれば、土壌にはそれだけ放射性物質が少なくなっているわけです。2年後、3年後への土壌の改善のためには、どんどん土地を活用した方がいいのでございます(注※)。さらに、農村のお年寄りに希望を持たせるためにも、農作業を続けさせた方がいい(キッパリ)。今回、作付けを禁止したことにより、やることが無くなった老人がボケ始めたらどうするんですか。

(注※)実際にチェルノブイリでは、汚染された土地にひまわりや菜の花を植えて、植物に放射性物質を吸収させることにより、土壌の改善を推し進めております。また、福島原発付近に関しては、土壌の汚染がまだ表層に限られているので、土の表層をゴッソリはぎ取ってしまうことで除染をかなり進められるという話もございます。

 今日は、原発関連でチョット理解しがたい政府の判断がありましたので、シロウトの分際ではありますが、せん越ながら自分の考えを書かせていただきました。そうそう、放射線はDNAを攻撃すると申しましたよね。DNAを損傷すると、細胞分裂が出来なくなるのでございます。ところが、人間の体の中で、まったく放射線の影響を受けない部所がございます。心臓と脳でございます。なぜなら、心筋細胞と脳細胞は、細胞分裂をしないからでございます。東海村臨界事故の被害者の作業員も、致死量の2倍とも言われる放射線を全身に浴びながらも、心臓と脳だけは最後まで無傷だったという記録が残っております。放射線に対してこれほどまでに堅牢な心臓と脳を、現代人は自らの不摂生で痛めつけておりますよね(3大死因を思い出して下さいませ)。放射線も怖いけど、もっと怖いのは自分たちの不摂生かもしれませんよ。ではでは...

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2011/03/24

ちょっと計算してみました

 わたくしが住んでいる名古屋市では、震災による深刻な影響は受けていないのですが、関東地方の方々は大変でございますよね。特に、水道水で放射性物質が発見されて、みなさん、ペットボトルなどを購入するのに苦労されているようでございます。これには、この放射性物質というものがどんなものかよく分からないところにも、不安を大きくする原因があると思うのでございます。それで今回は、その不安を少しでもやわらげようと思いまして、ワタクシなりに放射性物質について説明してみるのでございます。

 会見などの説明はどうも分かりにくく、不必要に不安を煽っているような気がするのでございますよね。「直ちに人体に影響が出る数値ではない」なんて言ってますが、その曖昧な言い方が良くないのでございます。ここは、ハッキリと数量的な表現をした方が過剰反応を防げると思うのです。しかし、放射能(放射線)の単位の表し方が、ちょっとややこしいのでございますよね。そこで、かんな風に理解してみてはどうでしょうか。

 まず、「シーベルト」という単位ですが、これには「マイクロ」と「ミリ」のふたつの単位があって、これが分かりにくくしている。ですから、ここでは、「マイクロシーベルト」に統一して、お話しいたします。また、被曝量を表す時の数字の分母が、「1年」だったり「1時間」だったりして、これまた比較を難しくしている。そこで、ワタクシはこの放射能(放射線)を、お店などのポイントカードに例えるのでございます。

 ここにポイントカードが1枚有ると思ってくんなまし。そのカードに溜まるポイントを、受けた放射線に例えるのでございます。で、このカードに10万ポイント溜まると、チョット健康に影響が出てくる。数百万ポイントから一千万ポイントが溜まってしまうと、生存が危ういほどのダメージを受ける、まず、この大前提を覚えておいて下さいませ。

 それで、自然界には自然に存在する放射能というのがございまして、この自然放射能をポイントに換算すると、一日分が約6.6ポイント。つまり、このカードは何もしなくても毎日6.6ポイント増えていくわけでございますね。すると、40歳を超えたあたりで、10万ポイント達成。ちょうど体にガタが出てくる年齢でございます。では、40歳ぐらいで体にガタが出てくるのは、この自然放射能の影響かと申しますと、そうではない(キッパリ!)。

 この10万ポイント(マイクロシーベルト)という数字、一度に浴びると何らかの影響が出る数字ですが、ところが人間の細胞には修復・再生する能力がございまして、ゆっくり浴びる分には、この修復機能がかなり有効に働くのでございます。もっともこの自然放射能、100歳まで生きたとしても24万ポイント。大きなダメージを得る数字には、まだまだ余裕があるのでございます。放射線というのは、微量を浴びる分には体に良いという説もございます。「ラドン温泉」なんていうのは、微量の放射線を帯びた温泉で、「放射線泉」と呼ばれております。

 さて、会見などでよく引き合いに出される「東京・ニューヨーク間の航空機往復」でございますが、これが200ポイント。1回往復すると、カードに200ポイント加算されるわけでございますね。また、胸部CTスキャンが1回6900ポイント。これはかなり大きいが、複数回行わなければ十分に余裕のある数字でございます。

 このように、「シーベルト」という単位は、放射線を浴びたときに、前述したポイントカードにどれくらいポイント加算されるかという数字なのでございます。この単位には必ず分母がありまして、「1年に○シーベルト」とあれば、1年かけてゆっくりポイントが加算されます。あるいは「1時間に△シーベルト」という場合に、30分しかその場所にいなければ、受ける放射線は半分になるのでございます。シーベルトという単位を読むときには、その分母も考慮してどのくらいの速さでポイントが加算されていくのかを考える必要がございます。

 さてさて、ほうれん草などでは「ベクレル」なんて単位が出ております。このもうひとつの単位が出てくるために、放射能が分かりにくくなっております。このベクレルは、電球のワット数に例えるのでございます。そこで、まず大きな大前提。人間はみんな、その体重に応じて、6000〜7000ワット(ベクレル)の輝きで光り続けているものだと思って下さいませ。恋人と抱き合っているときは、お互いに6000ワットの電球(放射性物質)を抱いているのと同じなのでございます。この電球(放射性物質)の光を浴びると、前述のカードにポイントが加算されていくのでございますが、電球というのは離れてしまうと暗くなりますよね。つまり、電球に近づくとたくさん速く加算され、離れればゆっくりになり、十分に距離を置けば加算されなくなるのでございます。

 水道水から見つかった数字が100〜220ベクレル(/1kg)ほど。これは、人間本来の輝き(6000〜7000)からすればそれほど影響は少ない。ただし、この人間が元から持っている放射線はその体重によって計算されまして、乳幼児ではその体重比を考えると300〜600という数字になってしまう。これを考えると、水道水の100〜220という数字は、ちょっと避けた方がいいという判断が出来ますよね。でも、「他に飲むものがなければ、飲ませてもいい」という報道もされております。「エッ? 大丈夫なの?」と思われるかも知れませんよね。それを、説明いたしましょう。

 このベクレルという単位を、先ほど申しましたポイント(に換算する式がございます。この水を「飲んだ」場合、そのヨウ素に関しましては、

  [ベクレル × 0.022 ]マイクロシーベルト

という式で、計算できます。220ベクレルの水道水1kg(=1リットル)で計算しますと、4.84ポイント(マイクロシーベルト)。大人の場合、1日に2リットルの水を飲んだとして約10ポイント。乳幼児ならば、1日に500cc飲むとして2.42ポイント。自然放射能の毎日6.6ポイントに比べれば、ビックリするほど大きな数字ではございません。「他に飲むものがなければ、飲ませてもいい」という報道の根拠は、ここにございます。もちろん、お風呂のように浴びるだけの水の場合は、受けるポイント(シーベルト)は極端に少なくなりますから、心配する必要はまったくございません(キッパリ)。

 では、どうして、それほど大きな数字ではないのに政府が用心深く報道しているかというと、安全かどうかの判断をする指標の「暫定規制値」を、「1年」という単位で決めてしまったからでございます。つまり、1㎏(=1リットル)を1年間続けて摂取した場合で基準値を決めてしまったのでございます。「暫定」っていうぐらいですから、以前から決めていたわけではなく、今回慌てて定めた数値。まぁ、これを機会に、この様な基準値は「継続的に摂取する場合」と「一時的に摂取する場合」の二通りの基準を設けておいた方が良いようでございますね。

 どうでしょうか、この様にはっきりと数字で表すと、その危険性が分かりやすいのでございます。例えば、賞味期限で単純に「新しい」「古い」って書いてあるだけだと、すごく心配になりますよね。でも「賞味期限○月○日」って書いてあると、その日付までは万感の信頼を得て食べますが、1日でも過ぎると、とたんに心配になってしまう。でも、その日付を過ぎたとたんに急に痛み始めるわけではございませんよね。この様に、曖昧な表現をせずにどこかで“線引き”をしてやると、不思議に安心感が出るのですよね。今回の食品に関する報道でも、「直ちに体に影響する〜」なんて曖昧な表現ではなく、「体重○○キロの人は、1日に△△グラム(リットル)までは摂取して大丈夫」なんていう表示にすると、あまり不安を煽らなくて済むような気もするのですが、どうでしょう?

 長々と説明してまいりましたが、少しは安心していただけましたでしょうか。放射線の影響をカードのポイントに例えてお話しいたしましたが、このポイントが溜まるということが、すぐに死に直結するわけではございません。多くの放射線を浴びると癌の発生率が高くなるとは言われておりますが、健康体の人が放射線を受けたためにいきなり末期癌になるということはございません。この場合も、もし、放射線による影響の心配があるならば、こまめに検査をすることで癌を早期発見するという事後策もございます。現在の癌は、早期発見出来ればそれほど怖くないのでございます。

 ちょっと長くなりましたが、ワタクシなりの説明をしてみました。こんな時ですから、風評に惑わされず、冷静に行動したいですよね。ではでは。

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2011/02/10

節約は、元から断たなきゃダメ!

 先日の日曜日、名古屋ではトリプル選挙なるものが行われたのでございます。名古屋市長、愛知県知事、名古屋市議会の解散、この三者をいっぺんに決めてしまうという総いれかえ椅子とりゲーム選挙だったのでございます。阿久根市といい名古屋市といい、市長と議会がこれほどまで揉めるのって、他の地域の方には不思議でしょうねぇ。これは、「市政」という限定的な地域で起きている出来事が、全国的に報道される際に端折(はしょ)られてしまうからでございましょう。まぁ、名古屋以外の方にはあまり興味がないでしょうが、この一連の名古屋市での出来事を、一人の名古屋市民の目からお話ししてみるのでございます。

 2009年4月に名古屋市長として当選した河村たかし氏は、公約の二本柱である「減税10%」「議員報酬半減」で市議会と対立することになったのでございます。「議員報酬半減」はことごとく議会に否定されましたが、「減税10%」はさんざん揉めたあげく、何とか勝ち取ったのでございます。しかし議会側が「あれは来年だけの話だよ〜ん。再来年以降は元に戻るんだよ〜ん」という後出しジャンケンのようなことを言い出したからさぁ大変。河村市長ブチ切れでございます。「なに言っとりゃーす、あんたら、そんなら、議会を解散だわ!」と議会解散のための準備を始めたのでございます。

 市長が議会を解散するためには、まず市長側が有権者の署名を一定数集め、それが実現した後、さらに住民投票で決定するという2段階の手続きが必要なのでございます。「名古屋市のような人口の多い都市で署名を有効数集めるのは難しいかも」と言われながらも、市長側のボランティアは人海戦術を駆使いたしまして、必要数の署名を集めてしまうのでございます。ところがところが、選挙管理委員会が有効署名の中から多くの無効署名を絞り出し、署名の数は有効数を下回ってしまう。これには訳がございまして、選挙管理委員の4人の内3人が市議会のOBということもあり、常識破れの厳しさで多くの署名が無効判定されてしまったのでございます。これに腹を立てたのが市長側ボランティア。今度は、無効にされた署名から有効署名を拾い出すという泥仕合が行われ、結局、署名は有効数を上回ることに。このドタバタで、市議会側の保身意識がさらに露呈することになったのでございます。

 トリプル選挙は、開票直後に「当選確実」が出そろってしまうほど、圧倒的な差でございまして、市長、県知事、市議解散、全てにおいて河村たかし氏側の圧倒的勝利でございます。とまぁ、これがここ一年ほどの出来事の顛末なのでございます。名古屋以外の方にはあまり興味が無いであろうことを長々と書いたのは、この出来事が、報道されているような民主・自民といった政党の戦いではなく、市長と市議会との戦いだったことを分かって頂きたいからでございます。保身に走った市議会に対して、名古屋市民が見切りを付けたって感じでしょうか。また、この一連の騒動で市民が気がついたのは、市長と市議会の意見が対立すると、これほどまでにグダグダになるものなのかということでございます。じゃぁ、今までの市長と市議会は「できあい市政」だったのかなんて疑念も、出てきちゃいますよねぇ。まぁ、それは置いといて。\(^^\)

 とにかく、名古屋市民が市政に大きく関心を持ったことは確か。政治にとって最悪なので「無関心」なのでございます。河村市長の大立ち回り、これが市民の関心を集めるための計算づくの行動であったなら、たいしたものなのでございます。この手法は、大阪府知事の橋本さんもやりますよね。あえて過激な発言をすると、頼みもしないのにマスコミが取材にきてニュースにしてくれる。今は情報社会ですから、情報発信でも先手に立つことで事を有利に運べるのでございます。河村市長や橋本知事といった芸能界経験者は、こういったマスコミの利用方法を無意識のうちに身につけているのでございましょう。

 逆に、「河村のパフォーマンスにやられた」と捨てゼリフを吐く他の立候補者や市議もおりました。これなんかも、ワタクシか言えば愚の骨頂。いやしくも政治に関わろうとする人がパフォーマンス出来なくてどうする! 確かに河村市長の発言には危なっかしい部分もございます。しかし、名古屋市民はその危なっかしさも織り込み済みで、河村市長の「パワー」を選択したのだと思うのでございます。負けた人は、パフォーマンス以前にパワーや情熱といったものが欠けていたことを反省するべきでございます。

 また、「河村はダメだ!」を連呼するしか能がなかった対立候補ばかりでウンザリ。どうして、「俺は河村より上手にやってみせる」という言い方をする人はいなかったのでしょうかねぇ。他人をこき下ろすことによって自分を大きく見せようとするのは、自分に確固たる自信や信念が無い現れでございます。東京都都知事の石原慎太郎氏は前回の都知事選で、多くの対立候補が立ったことを指して「百花繚乱」と称したのでございます。自信に満ちあふれると同時に、「私より素晴らしい人がいたら、どうぞ当選して下さい」という潔(いさぎよ)さも感じるのでございます。

 河村市長の危なっかしさと申しましたが、この河村たかしさん、情熱が過ぎるばかりにせっかくの賛同者が離れていくことも少なくないのでございます。この熱血漢に上手にブレーキをかけさせる人が現れるといいのですけどねぇ。だから、市議会が河村派一色で染まってしまうこともまた危険だと思うのでございます。国政でも同じなんですけど、ねじれ状態の中で大人の議論をし、立てるところは立て、譲るところは譲り、上手に落としどころを見つける、そんな昔タイプの政治家が枯渇しているのでございます。南アフリカのネルソン・マンデラ氏が初めて黒人大統領として当選したとき、彼は解雇を覚悟していた多くの白人の役人に、そのまま留まるように言い伝えたのでございます。“総入れ替え”した後の脆弱性を、マンデラ氏は分かっていたのでございましょう。「入れかえれば変わる」というものでもない。車だって急ハンドルを切るとひっくり返ってしまうのでございます。

 で、河村市長が呼び掛けている「減税」のお話を少し。よく、その減税に反論する形で「減税で減った分の財源はどうする?」とよく言われますが、減ったなら減ったなりにやればいいというのが、ワタクシの考え方。どうして減ったらそこを“埋めよう”とするのかなぁ? 国の財源も、ここ数年極端に減少していることが問題になっておりますが、「少ないから気づくこと」というのもあるのでございます。

 以前書きましたが、お店を運営していて思うのは、「物というのは、有れば有るだけ無くなる」、「物に出すお金は、出せば出すだけ無くなる」ということでございます。節約を考えるのならば、最初から“出さない”のが一番。減った分を無批判に埋めていると、現場は考えることを放棄してしまうのでございます。財源が減ったならば、減ったなりにどうにかする方法を全員で考えればいい。「財源をどこから確保するか」ということをあきらめ、「無いものは仕方ない。これだけでどうやっていくか」ということを考えなければいけないところに来ていると思いますよ。地方自治も、国政も。

 あ〜あ、また小難しいことを書いちゃいましたね。すいません。

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2010/12/21

「死」と「生」は同義語なんです

 2008年の2/14分の書き込みで、『モリのアサガオ』という漫画が第11回文化庁メディア芸術祭漫画部門で大賞を受賞したことをお話しいたしました。その漫画のドラマ化がテレビ東京系で放送されておりまして、つい昨日、最終回で終わりました。

 ご存じない方のために簡単に内容を説明いたしましょうか。これは刑務官と死刑囚との友情の物語でございまして、ある新人刑務官が勤務する拘置所に、かつて同じ少年野球チームに在籍していた知り合いが死刑囚として送り込まれてくるのでございます。その死刑囚の複雑な心境に触れているうちに、いつしか友情が芽生えることに。減刑の可能性も出て来たのですが、結局、その刑務官は死刑を受け入れるように説得してしまい、自分の目の前でその死刑囚=友人の刑が執行されてしまう。という内容でございます。

 死刑制度の是非はいろいろ議論されております。死刑囚が自分の死と向き合うことで初めて自らの罪の重さに気づき、悔い改めるという事もございます。しかし、死刑制度のもとでは、その悔い改めた人間を殺さなければならないのでございます。ここに、死刑制度の大きな矛盾があるのでございます。また、死刑判決を受けたからといって全ての死刑囚が悔い改めるわけではございませんし、あえて死刑になることを求めて残忍な犯罪を犯す人もいたりいたします。そのような人たちにとっては、「死刑」という刑罰にどれほどの意義があるのだろうかと思うときもございます。

 死刑執行は本人に事前に知らせることなく、当日の朝、いきなり告げられるそうでございます。自殺を防ぐのが目的だそうですが、これから殺してしまう人の自殺を防ぐというのも、変な話でございます。まぁ、別に死刑囚でなくても、人間は必ず死ぬわけですし、自分の死がいつやってくるかも分からない。人間はみんな“生まれ持っての死刑囚”みたいなものでございます。

 ワタクシも人生の折り返し点と思える時期を過ぎておりますので、チラホラ、自分の「死」については考えたりいたします。生から死への人生の流れというのは完全な一方通行で、決して後戻りできないところが、実に“もどかしい”のでございます。このもどかしさ、若い頃に分かっていれば、自分の人生も、もう少しやりようが...とは思うのですけどね。このようにして、「最近の若い奴らは」という言葉は何千年もの間、人類に受け継がれてきたのでございましょう。「最近の若い奴らは」という語は、自分の若い頃への憧憬の言葉なんだと、この年で気づくようになりました。

 茨城県取手市で、無差別殺人未遂の事件がございました。犯人は、「自分の人生を終わりにしたかった」と供述したそうですが、はたして「死刑」になることを望んでいるのでしょうか? この犯人、生きるのがつらく、「死にたい」と思ったのでしょうか? でも、「死にたい」というのは嘘の感情ですよ。本当は、「“生きたい”のだけれど、“死ぬ”という選択肢しか見つからない」ということのはず。感情の下地に「生きたい」という強い願望があるからこそ、苦しいのですよね。だから、「死にたい」と「生きたい」は同じ意味なのでございます。

 もし「死にたい」と思ったら、その「死」という言葉をペロッとめくってみると、その下からは「生きたい! 生きたい! 生きたい!」という強い願望が顔を出すはずでございます。取手市の犯人も、自分の心根に貼りついているその生への強い願望を見つめることが出来たら、何かしら他の選択肢が見つかったかも知れないのにね。「自分の人生を終わりにしたかった」とのことですが、そう言う人に限って、神様はなかなか終わらせてくれなかったりいたします。運命の神様は、アマノジャクだったりいたします。

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2010/11/18

役者というのは因果な商売

 「役者は親の死に目に会えない」。ワタクシの母親の口癖のひとつでございました。ワタクシの母親は、幼少時に“松竹”の子役をやっており、女優を経て女剣劇までやった人でございました。母親のこの言葉をけっこう耳にした覚えがございますので、多分、ワタクシの母親は親の死に目に会えなかったのではないでしょうか。

 ワタクシも若いころミュージカルをやっておりましたので分かるのですが、役者というのは何があっても舞台に穴を開けることが出来ない。たとえ端役のエキストラといえども、ダブルキャストでない限り、ひとりでも欠けると舞台が成立しないのでございます。自己管理が出来、舞台に穴を開けないというのは、役者にとっては絶対必要条件なのでございます。

 松平健さんの奥さんが亡くなられたそうですね。心よりご冥福を申し上げます。松平健さん、奥さんの訃報を知らされたとき、博多で公演中でございました。その日の舞台を終えるやいなや、博多から東京の自宅へ飛び帰り、奥さんの顔を確認すると、きびすを返してまた博多へ戻ったそうでございます。次の日の公演に出演するためでございます。奥さんの葬儀は、12月に入ってから行うそうでございます。

 松平健さんのこの行動には様々な反応があるようですが、ワタクシは役者として至極当たり前の行動だと思っております。ワタクシも舞台に立っていたとき、「もし今、母親が倒れても、行けないな」なんて思っておりましたし、逆に、舞台に穴を開けてまで母親の元へ駆けつけようものなら、多分、母親はワタクシのことを厳しく叱りつけたことでしょう。

 似たような話で、市川海老蔵さん(現十一代目)にこんなエピソードがございます。ある舞台の直後、父親の市川團十郎が危篤状態だという知らせを受け、急いで父親の元へ駆けつけたそうでございます。すると、父親のベッドの周りをすでに家族が囲んでいる。父親が死んでしまうと思い込み、家族は泣きじゃくっている。駆けつけた海老蔵は、「この雰囲気に呑まれたら、明日の舞台が立てなくなる」と思い、「父は死なない」という強い信念を持ってその場を離れ、翌日の舞台に備えさっさと寝てしまったそうでございます。(その後、父親の團十郎は一命を取り留め、現在、存命でございます)

 さて、ワタクシは母親の死に目に会えたのかどうかと申しますと、実は会えておりません。入院中の母親が危ない状態になりワタクシは病院に泊まり込みを始めたのですが、その「いつ死んでもおかしくない」という状態が一ヶ月ほど続いたのでございます。病院を離れるのは最小限にしていたのですが、どうしてもお店に戻らなければならない用事がありまして、3時間ほどお店に戻っておりました。そして、お店から病院に戻る途中で、「今しがた亡くなった」との連絡が病院から・・・出来る限り母親に付き添っておりましたが、わざわざワタクシが離れたスキを狙って逝ってしまったような感じでございました。どうしてでしょうねぇ? 照れくさかったのかな?

 奥さんの死の悲しみを呑み込み、舞台に立つ松平健さん、心中お察しいたします。

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2010/10/07

おめでとう、おつかれさま、ありがとう

 先日のこと、朝起きたら、池内淳子さんの訃報が報じられておりました。いつも健康的な顔をしていらっしゃった女優さんで、病人の役をやっても病人に見えないなんてこともございました。けれど、人間はいつかは必ず死ぬものですからね。ご冥福をお祈りいたします。

 ワタクシは人の死に対面いたしますと、心の中でつぶやく言葉がございます。

 「おめでとうございます。お疲れ様でした。そして、ありがとう」

 もちろん、葬式の場で「おめでとう」と声に出して言うわけではございませんよ。でも、心の中でつぶやきます。なぜ「おめでとう」なのか。それは、死ぬということは楽になることだからでございます。よくギャングが「とどめを刺して楽にしてやれ」なんてセリフを吐くでしょ。ほらね、死ぬってことは楽になることなんですよ(ちょっと、例えが悪いかも)。と同時に、生きるということは辛いこと。でも、決して自殺を勧めているわけではございませんよ。人間は、最後に死ぬという大前提のもと、生きているんですよ。そして死ぬときは裸、天国へも地獄へも、何も持って行くことは出来ないのでございます。

 よく葬式の場で「この度はご不幸で…」なんてことを言いますが、不幸という感情は残された人たちの別れの寂しさであって、逝ってしまった人はむしろ楽になってめでたいのでございます。つまり、「不幸」と思う気持ちは、残された者のエゴなんですよ。死んで楽になったのだから、おめでとうと言うのが正しい(あ〜、不謹慎なのは分かってます)。蓄えた財産や家族と別れるのは本人も辛いだろうと思われるかもしれませんが、死ぬときは裸で何も持って行けないというのは生まれたときからの大前提。最初から決まっていたことですから、損も得も、嬉しいも悲しいもないのでございます。そして、あなたと同じ時間に生きられたこと、あなたからいろいろなものを頂いたということに、「ありがとう」と言う。だから、「おめでとう、お疲れ様、ありがとう」なのでございます。

Setsugudou_2 ちょっと話は飛びますが、マナー講師の「平林 都」さんという方が、接客業では過去形の「ありがとうございました」は絶対に使ってはいけないと申しております。「ありがとうございます」という言葉には、まだ感謝や接客が続いているという空気がございます。しかし、「ありがとうございました」という過去形の言葉には、感謝が切れ、接客が終了したことを連想させてしまうからだそうでございます。「〜ました」は、けっして間違いではないのですが、どちらが“より美しいか”と考えると、「〜ます」の方に軍配が上がるような気がいたします。

 閑話休題、さしずめ、“この世”との縁が切れ“あの世”へ旅立った人を見送る時には、「ありがとうございました」でよろしいのでしょうかねぇ。池内淳子様、ほんだしのCMを始めいろいろ楽しませて頂き、ありがとうございました。生きるということ、お疲れ様。そして、おめでとうございます。

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2010/10/01

ただ今の決まり手は、勇み足でニッポンの負け〜と思いきや

 ゲロゲロ〜〜、信じらんない! 中国漁船の船長を釈放しちゃったよ。日本人がスパイ容疑で捕まったからって、そんな脊髄反射で譲歩していいのか! チキン! ヘタレ! もうね、やってらんない...漁船の船長が釈放された直後、日本中のブログや掲示板で、こんな日本政府の弱腰ぶりを批判する書き込みがされたのではないでしょうか。その釈放から1週間が経ち、少しずつ情勢が変わりつつあります。

 1週間前、日本政府というか沖縄地検ですが、何でそんな弱気になったのでしょうかねぇ。事件が大きくなってきて、詰め腹を切らされそうになった役人が、さっさと‘事なかれ主義'に走ったのでしょうか。こんな前例を作ると、これから尖閣諸島では中国のやりたい放題になっちゃいますよ。む〜ん、残念...そう、1週間前はこんなことも考えたのでございました。けれど、今ふり返りますと、この即時の釈放後、中国は諸外国の批判の的になり、手綱を緩めざるを得ない状況に追い込まれたのでございます。この諸外国の動静まで読み透かした上での即時釈放だったとしたら、その命を出した人、アッパレなのでございます。もっとも、結果オーライだったのかも知れませんけどね。

 4人の日本人がスパイ容疑で逮捕された後、あっさりと4人のうちの3人が釈放されましたが、これも、中国が世界情勢の中で追い詰められているという証拠でしょうか。えん罪を犯してまで“人質交換の材料”を用意しておきながら、日本側があっさり船長を釈放してしまい、結果的には中国の「一人相撲」的な展開になってしまっております。ここで、いい‘ことわざ’を思い出しました。「君子危うきに近寄らず」、顔を真っ赤にして怒っている危ない人には、クールに接して近づかないのが賢明なのでございます。中国のみならず、韓国や北朝鮮と日本政府が接するときにも、このクールな接し方が有効かもしれませんよね。ひとつ勉強になったのでございます。

 船長が逮捕されてから、中国はいろいろ「意地悪」をしてきました。レアアースの問題もありますし、荷物の関税の通過が異常に遅くなったりとかもございました。いつも他人に意地悪をしている人は、他人も意地悪をしてくると思っておりますから、ついあわてて先を越そうとするのでございますよね。でも今回は、そんな中国の意地悪に世界中が反応して中国を批判し始めた。多分、中国の意地悪には、今まで世界中がうんざりしていたのでしょうね。で、今回の事件で堪忍袋の緒が切れた。今までの中国なら諸外国の批判なんか‘ガン無視’しておりましたが、近代化・国際化を目指す今の中国には、そんな唯我独尊は許されない。変わりつつある中国が、諸外国との付き合い方を手探りで模索している、そんな感じがいたします。

 中国政府はあれだけ中国国民を煽っておきながら、さっさと手綱を緩めてきた。これは、もはや中国政府の自国民へのコントロール能力が、非常に弱くなってきているということじゃないでしょうか。日本製の家電を使いたい、日本の芸能文化を享受したい、そのような思いが大衆に浸透しているのと同時に、オリンピック・万博で多くの外国人と接する機会が増え、中国人が自国の状況を冷静に見始めているのかもしれません。日本のニュースが報道しているほどに本当に中国人が熱くなっているのか、どうも疑問なのでございます。

 今回の事件で、中国は諸外国との付き合い方を少し学習したかも知れませんね。少なくとも、以前の強硬な中国ではないのでございます。そして日本を初め諸外国が、中国依存から脱却する必要があることに気づき始めたのも確かでございます。中国は今、すごい経済成長をしておりますが、貧富の差が極端に拡大した歪んだ成長であり、また中国の古来からの伝統である贈賄がはびこっているとも考えられます(個人の想像です)。いつか中国のバブルははじけますよ、多分、それも盛大に。その時に慌てないように、着実に中国依存からの脱却を進めた方がいいです。みんな、国産品を買いましょう。やはり、日本の中小企業が元気にならないと、日本はだめです。だからみんな、ちょっと高くても、国産品を買いましょう、ね。

 しかし、衝突時の動画、出す出さないで揉めてますよねぇ。動画が公開されず、さらに、こうもあっさり釈放したところを見ると、「日本側にも何らかの“非”があるのか」なんて、勘ぐっちゃうのでございます。菅首相は「ビデオは全く見ていない」なんて口笛吹く、いやもとい、うそぶいておりますし。もう、あきれちゃう。アメリカからの何らかの口添えがあった上での‘そらとぼけ’なら、たいした役者でございますけどねぇ。

 というわけで、今回は小難しい内容で失礼いたしました。固い内容にも関わらず、最後まで読んでいただき、ありがとうございます。名古屋薫でございました。

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