映画・テレビ

2011/06/06

人類の文明は、たかだか数千年

 今回は、映画のお話。先日、『100,000年後の安全』という映画を観てまいりました。これは、フィンランドに建設された「オンカロ」という放射性廃棄物の永久地層処分場をテーマにしたドキュメンタリー映画。映画館は名古屋の「シネマテーク」という定員100人前後の小劇場。土曜日の夕方という開演時間で、半分近い座席が埋まっている動員状況でございました。実は、先日の5/28にもこの映画館を訪れたのでしたが、初日ということもあり、立ち見席まで完売でその日は見られなかったのでございます。それで、再びその映画館に出向いたということに。しかも、ワタクシが訪れた時には、テレビの取材陣も来て撮影をしておりました。普段なら動員が全く期待できないような地味な映画ですが、やはり福島の事故の影響で、ここ名古屋でも放射性物質への興味が高いのでございましょう。

 放射性廃棄物を扱った映画ではあるのですが、現代の放射性廃棄物の処理に関する総括的なドキュメントをこの映画に期待すると、みごとに肩すかしを食わされます。この映画は、その「オンカロ」という処分場の運営に関して、様々な立場の人が様々な意見を言う姿が、ただ延々と続くだけの映画でございます。ストーリー的な盛り上がりは全くございません。地味な映画ですが、この映画の全編を貫いている不思議な感覚は「100,000年」という数字。100,000年後というのが全く予想つかない世界なのですが、オンカロ処分場の関係者は、その想像できない未来の世界を想定して処分場を設計しなければならない。この直面した現実と夢想とも思える未来とのミスマッチが、この映画に、量子力学の研究者が感じるような不確定性というぼんやりとした空気を与えているのでございます。

 100,000年後というのが、想像つかないですよねぇ。エジプトのピラミッドでさえ、せいぜい数千年前の建造物でございます。しかも、内部は何度も盗賊に荒らされておりますし、現代人は封印された謎のダクト(?)にまで穴を開け、小型カメラを挿入したりしておりますよ。かつて、ピラミッドには都市伝説がありまして、発掘に携わった人がことごとく謎の死を遂げているという謎めいた伝説がございました。もし、あのピラミッドが単なるお墓ではなく、古代の危険物質を閉じ込めた処理場であって、その危険物質が現代人が検知できないようなものであったら...現代人が地下に埋めた放射性廃棄物も、数千年後にはピラミッドのような扱いを受ける可能性もあるのでございます。

 原子力発電所の耐用年数は、40年程度ということで設計されているようです。ところが、そこで出た廃棄物は、100,000年後まで何らかの管理が必要なのでございます。言い換えますと、原子力発電所は、100,000年程の運用年数の中でほんの数十年の間しか発電できないということ。まぁ、何と効率の悪い施設なんでございましょう。多分、人類が原子力を利用するのは、この地球の数十億年以上という長大な歴史の中の、ほんの100年ぐらいでございましょう。なぜなら、今後数十年の間に、原子力は、より新しいエネルギーに置き換えられていくことが予想されるからでございます。そのたった100年間に出した“ゴミ”が、その後の数万年の未来の“お荷物”となるわけで、ワタクシたちのこの世代は、「原子力なんて厄介なもので未来人に多大な迷惑をかけた、大バカ者たちの時代」なんて形容されることでございましょう。

 現代人は、過去の遺産から多くの恩恵を受けております。石炭、石油、レアメタル、レアアースなどが、代表でございますね。しかし、ウランや石油はあと○十年で枯渇するなんてよく言われるように(ほんとかどうかは分かりませんけどね)、ワタクシたちの世代は、その過去の遺産を、歴史上、最も速い速度で浪費している時代ではないでしょうか。数千万年かけて生み出された資源も、使ってしまうのはアッという間なのですよね。そして、扱いに困る大量のゴミを、非常に長い未来に残していく。どうやらワタクシたちは、この地球の歴史の中で、(今のところ)最低の放蕩世代のようでございます。

 放射性廃棄物の処分方法に関しては、世界中のどの国も決定的な解決を見いだしてはおりません。そのような状況の中で、このフィンランドの施設は、決定的な解決とはいかないまでも何かしらの糸口になるのではないでしょうか。よろしければ、この『100,000年後の安全』、ご覧になってみてくださいませ。

●映画『100,000年後の安全』公式サイト
http://www.uplink.co.jp/100000/

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2010/12/21

「死」と「生」は同義語なんです

 2008年の2/14分の書き込みで、『モリのアサガオ』という漫画が第11回文化庁メディア芸術祭漫画部門で大賞を受賞したことをお話しいたしました。その漫画のドラマ化がテレビ東京系で放送されておりまして、つい昨日、最終回で終わりました。

 ご存じない方のために簡単に内容を説明いたしましょうか。これは刑務官と死刑囚との友情の物語でございまして、ある新人刑務官が勤務する拘置所に、かつて同じ少年野球チームに在籍していた知り合いが死刑囚として送り込まれてくるのでございます。その死刑囚の複雑な心境に触れているうちに、いつしか友情が芽生えることに。減刑の可能性も出て来たのですが、結局、その刑務官は死刑を受け入れるように説得してしまい、自分の目の前でその死刑囚=友人の刑が執行されてしまう。という内容でございます。

 死刑制度の是非はいろいろ議論されております。死刑囚が自分の死と向き合うことで初めて自らの罪の重さに気づき、悔い改めるという事もございます。しかし、死刑制度のもとでは、その悔い改めた人間を殺さなければならないのでございます。ここに、死刑制度の大きな矛盾があるのでございます。また、死刑判決を受けたからといって全ての死刑囚が悔い改めるわけではございませんし、あえて死刑になることを求めて残忍な犯罪を犯す人もいたりいたします。そのような人たちにとっては、「死刑」という刑罰にどれほどの意義があるのだろうかと思うときもございます。

 死刑執行は本人に事前に知らせることなく、当日の朝、いきなり告げられるそうでございます。自殺を防ぐのが目的だそうですが、これから殺してしまう人の自殺を防ぐというのも、変な話でございます。まぁ、別に死刑囚でなくても、人間は必ず死ぬわけですし、自分の死がいつやってくるかも分からない。人間はみんな“生まれ持っての死刑囚”みたいなものでございます。

 ワタクシも人生の折り返し点と思える時期を過ぎておりますので、チラホラ、自分の「死」については考えたりいたします。生から死への人生の流れというのは完全な一方通行で、決して後戻りできないところが、実に“もどかしい”のでございます。このもどかしさ、若い頃に分かっていれば、自分の人生も、もう少しやりようが...とは思うのですけどね。このようにして、「最近の若い奴らは」という言葉は何千年もの間、人類に受け継がれてきたのでございましょう。「最近の若い奴らは」という語は、自分の若い頃への憧憬の言葉なんだと、この年で気づくようになりました。

 茨城県取手市で、無差別殺人未遂の事件がございました。犯人は、「自分の人生を終わりにしたかった」と供述したそうですが、はたして「死刑」になることを望んでいるのでしょうか? この犯人、生きるのがつらく、「死にたい」と思ったのでしょうか? でも、「死にたい」というのは嘘の感情ですよ。本当は、「“生きたい”のだけれど、“死ぬ”という選択肢しか見つからない」ということのはず。感情の下地に「生きたい」という強い願望があるからこそ、苦しいのですよね。だから、「死にたい」と「生きたい」は同じ意味なのでございます。

 もし「死にたい」と思ったら、その「死」という言葉をペロッとめくってみると、その下からは「生きたい! 生きたい! 生きたい!」という強い願望が顔を出すはずでございます。取手市の犯人も、自分の心根に貼りついているその生への強い願望を見つめることが出来たら、何かしら他の選択肢が見つかったかも知れないのにね。「自分の人生を終わりにしたかった」とのことですが、そう言う人に限って、神様はなかなか終わらせてくれなかったりいたします。運命の神様は、アマノジャクだったりいたします。

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2010/09/02

あと100年ぐらいしたら、もっとクールに語り合えるかな

 さて、いよいよ9月。実は8月中に録画したテレビ番組を、昨日、まとめてガンガン見ちゃいました。というのも、毎年8月は恒例のようにテレビ番組が「戦争」一色に変わるわけでございまして、ワタクシもボチボチそんな番組を見ておりましたが、何しろ2時間とか3時間の番組ばかりで見るのが追いつかない。やっと手が空きましたので、まとめて見た次第でございます。今回は日本人と韓国人の直接対決とかありまして、意外と面白かったのでございます。ということで、ワタクシもちょっと戦争にまつわるお話をするのでございます。堅苦しくならないようにいたしますので、どうかおつき合いのほどを。

 ワタクシの母親は、11歳で終戦を迎えております。戦前の教育を受けているせいか、朝鮮人や韓国人に対する差別意識をしっかり持っておりました。あと、もともと差別意識の強い性格だったのか、ネイティブアメリカン(アメリカインディアン)や黒人などにも、なんとなく差別意識がございました。少年期(!)のワタクシは母親のこの差別意識が大っ嫌いで、よく母親と大喧嘩したものでございます。あまりワタクシが腹を立てるので、いつしかワタクシの前ではそのような話をしなくなりましたが、多分、70歳で死ぬまで、母親のその価値観は変わっていなかったと思うのでございます。

 母親は、テレビで戦争のシーンを見る度に、「東条英機のバカ野郎! アイツが一番悪い!」と叫んでおりました。そんな母親も、町内会の慰安旅行では、バスの中で「同期の桜」を歌ったりして、もうね、戦争を肯定しているのだか否定しているのだか分かりゃしない。母親は何かの集まりで歌を歌ってくれと言われれば、この曲を歌っていたような気がいたします。差別意識を持ち、東条英機が大っ嫌いで、でも「同期の桜」を歌ってしまう、そんな母親でございました。

 ワタクシは、父親とは幼少の頃に生き別れておりまして、ほとんど記憶がございません。ただ一度だけ父親に「戦争では何をやっていたの?」と聞いたことがございました。「南の島で、敵機が飛んできたらゼロ戦をジャングルの中に隠す仕事をしていた」と“嬉しそうに”答えたのを覚えております。ワタクシがゼロ戦のプラモデルを作って見せたりいたしますと、嬉々としていろいろ説明をし始めたりいたしました。大相撲の中継を見るのが大好きで、キュウリを挟んだトーストに醤油をかけて食べるのが大好きで、ゼロ戦の話を嬉しそうにする、そんな父親でございました。

 ワタクシの父親も母親も「絶対に戦争を繰り返したくない」という強い意思は持っていたはずでございます。しかし、戦争を憎みつつも、その戦争を生き抜いたそれぞれの青春時代は、輝いていたのでございましょう。世の中には、「戦争体験は絶対に話したくない」と堅く口を閉ざす人もいらっしゃいます。韓国のように、マスコミが“憎しみの再生産”をしている国もあれば、未だに戦争に関しては奥歯にものが挟まったような言い方しかできない日本という国もございます。戦争の当事者がまだまだご存命なうちは、はっきりとした妥協点を見いだす事は難しいのかも知れません。

 話を冒頭のテレビ番組に戻しますが、やっぱり「爆笑問題」に戦争テーマの番組をやらせちゃダメですよ。あの太田って人は責任のないところで好き勝手やっている分には面白いのですが、戦争という重たいテーマの番組では、足も手もすくみっぱなし。そこへいくと、池上彰さんはやっぱり見事! 惜しむらくは、番組が長すぎる。最近の民放は少ない予算で尺を水増しする事に慣れすぎておりますよね、本当に(プンプン)。戦争がテーマの3時間番組は、う〜ん、見るのが辛いですよ。逆に、NHKは「どこにそんな金があるんだ」と思えるほどの予算と手間ひまをかけておきながら、番組の尺はこぢんまりと適当な長さ。というか、むしろバタバタ急ぎすぎて性急に感じる部分さえ有るのでございます。そして、まとめようとし過ぎ。そんな結論が出るような問題じゃないんだから。

 ちょっと気になったのは、「韓国人が知っている日本の有名人」の第5位に、「豊臣秀吉」が入っていた事。番組がこの件に触れなかったのは非常に残念でございました。というのも、この5位に豊臣秀吉が入ったのは、単に戦国武将として有名だからじゃないはず。これは明らかに、豊臣秀吉の朝鮮半島への“進軍”が原因でございましょう。最近は歴史の授業が少ないっていうから、この史実、どれだけの日本人が知っているのかちょっと心配なのでございます。いじめた方は忘れちゃうけど、いじめられた方はいつまでも覚えているのでございます。それも400年以上も前の話を。この朝鮮半島への進軍、教科書的には「文禄・慶長の役」というのでございます。やっていた事は「侵略」なのですが、ほんとうに日本史の表現てのは、綺麗な言葉をお使いになるのでございますね、オホホホホ(ワタクシが習った日本史の教科書には、「朝鮮征伐」という記述もあったような気がするのですが、ちょっと記憶が定かではございません)。

 もし、日韓併合以降のグズグズの日韓関係がなければ、韓国の人たちは未だに豊臣秀吉の進軍にこだわっていたでしょうか? 逆に言うと、近年のグズグズの関係が有るからこそ、400年以上も前の出来事を蒸し返されてしまうということではないでしょうか。あのね、語弊を恐れずに申しますが、「戦争による恨みや憎しみは、何百年という時間の流れで水に流すしかない」と思うのでございます(だって、十字軍をいまだに恨んでいる人なんていないでしょ...多分)。数百年後に水に流せているかどうか、それは、現在のワタクシ達の行いにかかっております。「事実は伝えるが、憎しみは伝えない」ということ。どうでしょうか? でも、数百年後も相変わらず日本史は綺麗な言葉で飾られているかも知れませんし、韓国では憎しみの再生産が続いているかもしれません。そして、ワタクシのこの文章は、数百年後に誰かに読まれる事があるのでしょうか? 歴史というのは何百年という大きな“うねり”に乗って変化しているのに、人間は性急に変化や解決を求めすぎているのかも知れませんね。

 以前、日本にも戦争博物館を作るべきだと申しましたが(「戦争博物館を作りませんか」)、麻生さんが立ち上げたマンガ博物館(だったっけ?)の話がポシャったとき、「その流れた“箱”で戦争博物館が作れたらなぁ」なんて思っておりました。キャメロンが作ろうとした原爆の映画の話も流れてしまったそうですし、スミソニアンは相変わらずだし、日本は戦争に関して相変わらずモゴモゴしているし...毎年8月の戦争特番ぐらいかな、シャキッとしているのは。ということで、本当に長い文章になっちゃいましたが、最後まで読んでいただきまして、ありがとうございます。名古屋薫でございました。

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2010/02/19

今だからこそ、観てもらいたい映画がございます

Nego_invi2 先日、ちょっと暇をいただきまして、映画を観てまいりました。『交渉人 THE MOVIE』と『インビクタス/負けざる者たち』の2本でございます。あまり出かけるチャンスがございませんので、行けるときにド~ンと2~3本、まとめて観てくるようにしております。

 『交渉人』の方は、テレビのスペシャル番組のちょっと豪華版って感じですかね。こういった「ノリ優先」で作っている映画は、そのノリに乗っかってしまうのが一番でございます。「交渉人」というテレビ番組があるそうですが、そちらのほうは見たことがなく、予備知識ゼロでの鑑賞でございます。気楽に観る映画ってのも、なかなかいいのでございます。

 さて、本命の『インビクタス』。この映画は、ラグビーとネルソン・マンデラ元大統領がテーマとのこと。スポーツがらみの映画っていうと、なぜか思い出すのは『ロンゲスト・ヤード』とか『クール・ランニング』といったところ。今回のオリンピックでは、ジャマイカのボブスレーは出場しているのでしょうか。といったところで、映画の話をいたしましょうか。あらすじの確信は書きませんので、まだ観ていない人も安心してお読みくださいませ。

 まず驚いたのが、パンフレットの厚さ。ページ数を数えたら44ページもあって、ビッシリと文字が並んでいる。そして、映画のパンフレットには珍しい縦書きの右開きという体裁。これは、とにかく‘文章を読んでもらいたいパンフレット’ということでございましょう。この映画のシナリオが史実に基づいており、そして、その史実をいたずらに美化することなく、いかに‘ありのまま’に表現したか、そんな熱い思いがパンフレットから伝わってくるのでございます。

 おおまかなストーリーは、就任直後のネルソン・マンデラ大統領の生きざまと、その大統領が国家再建のためのひとつの目標とした南アフリカ・ラグビーチームのワールドカップ優勝への経緯をつづった、スポーツ映画でございます。監督がクリント・イーストウッド。社会の恥部を実にさりげなく臭わせるのが大好きな監督のこと、どうやって南アフリカのアパルトヘイト(人種差別政策)を皮肉るのかと思いきや、そのアパルトヘイトの傷跡はほとんど持ち出さず、実にさわやかなスポーツ映画に仕上げております。それはたぶん、ネルソン・マンデラという人物の人間性に起因するのでございましょう。そのマンデラ氏の人間性こそが、この映画のテーマだからでございます。

 人種差別というと、ついつい黒人と白人の「戦い」のような印象を持ってしまいますが、マンデラ氏にとってはそうではないようでございます。マンデラ氏就任後、それまで白人の象徴であったラグビーチームは、そのチーム名やユニフォームなどを刷新しようという動きが生まれます。その一件にマンデラ氏はどうしたか。「白人の宝物を奪ってはいけない。白人に‘復讐’しても新たな敵対関係が生まれるだけ。白人も黒人も南アフリカを祖国とする国民なんだ」そう言って、そのチームの刷新を思いとどまらせるのでございます。「赦(ゆる)すことから、和解が始まる」、その信念を貫き通すマンデラ氏のひた向きさとスポーツマンの純粋さとが相まって、この映画の大きく、そしてさわやかな感動を生み出しております。

 このマンデラ氏の生きざまは、今の日本人にとっては耳が痛いはずでございますよ。つい最近、大きく政権が変わりましたが、新しい政権のやっていることは、今までの政権がやってきたことをとにかく否定することばかり。これは、「前政権への復讐」ではないですか? 何十年も自分を投獄してきた白人をさえも赦すマンデラ氏の大きな心に比べれば、「友愛」なんて語をひけらかしている人たちの度量の狭さがうかがえるってもんでございます。と同時に、政権を奪われた側の人たちの醜態も相当なものでございました。今の日本には、マンデラ氏のようなさわやかさを持った人はいないのでしょうかねぇ。

 ちょっと脱線いたしましたが、『インビクタス/負けざる者たち』、実にさわやかに気分になれる映画でございます。この映画のラグビーチームは、国歌の威信をかけてワールドカップに挑んでおります。その姿は、ちょうど今開催されているオリンピックの選手たちのイメージとも重なります。この時期だからこそ観るべき映画なのかもしれません。超オススメでございます。

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2010/02/05

古くは、「クストー」なんて人もおりました

Oceans
 先日、映画『アバター』に関する記述で、「CG画像は画面全体にピントが合っている」と書きましたが(2010/1/26配信分「歴代興行収入1位と2位が同じ監督作品!」)、これは大きく間違っておりました。というのも、『アバター』をあらためてIMAXの映画館で見直してまいりました。この映画、フル3Dの場面でもちゃんと光学レンズのピントが合う範囲の効果(被写界深度)をシミュレートしております。最初に観た映画館の方式では画面が暗かったので、頻繁に3D用の眼鏡を外すことになり、気がつかなかったようです。IMAXの明るい画面では3D用の眼鏡を外すようなこともなく、しっかりと確認出来たのでございます。

 さて、同じく最近見た映画がございます。『オーシャンズ』でございます。今回は、この映画の確信のようなものをしっかり書いちゃいますので、まだ観ていないので予備知識を得たくないという方は、この先を読むのはご遠慮ください。

    ---------- Intermission ----------


 ワタクシ、映画の嵐のシーンが大好きでございます。小さい頃に観た『ジャワの東』という映画に感化されたのでしょうか。その他にも『白い嵐』であるとか『パーフェクト・ストーム』なんて映画は大好きでございます。今回、この『オーシャンズ』を観に行ったのも、本物の嵐のシーンがあるからとのこと。もうね、ほんの数分の嵐のシーンのために、お魚のシーンをず〜と我慢して観る覚悟で臨んだのでございます。いや、失礼、お魚たちも可愛かったですよ。で、その嵐のシーン、CG(コンピュータ・グラフィックス)ではない本物の迫力は、大変なものでございます。たった数分の映像を撮りためるために、なんと3年間も理想的な嵐を待ち続けたとのこと。もうね、すっかりその嵐のシーンで堪能させていただいたのでございます。『剣岳 点の記』の解説でも申し上げましたが、CGを使わないという大前提は、製作側と観客側とに、ある種の信頼関係を生み出すのでございます...と、言いたいところですが、ところが、ところが、この信頼関係、映画の最後であっさりと裏切られるはめになるのでございます。

 映画の中盤にとても残酷なシーンがございます。フカヒレ漁のシーンでございます。網で捕獲されたフカが船の上に引き上げられ、胸ビレ・背ビレ・尾ヒレ全てを無残にも切り取られ、また海に捨てられるのでございます。口をパクパクと動かすただの肉の塊にされたそのフカは、ゆっくりと海底に沈んでいき、動かなくなります。この一部始終の全てを、海中から上を見上げた「サカナ目線」で撮影しております。まるでフカヒレ漁の風景を盗撮しているかのような映像でございます。この何ともショッキングな映像を目の当たりにして、観客はこの映画のふたつ目のメッセージを受け取ることになるのでございます。ひとつ目のメッセージは大自然が自明的に持つ調和の力。そしてこのふたつ目は、その調和を乱すように働く人間の力でございます。

(このフカヒレ漁のシーンに続いて、捕鯨のシーンも続いていたのでございますが、捕鯨シーンは非常に短くなっておりました。これは日本版独特の編集なのでしょうか、あるいはオリジナル通りなのか、ちょっといぶかしく思えたのでございます)

 で、先ほど、製作側と観客側との信頼関係があっさり裏切られると申しましたが、それは、映画のいちばん最後に添えられた言葉に由来いたします。映画の最後には、

   撮影に当たって魚を一切傷つけていません
   一部の残酷なシーンは、映像的な処理によるものです

と添えられるのでございます。確かにパンフレットを見ると、フカヒレ漁のシーンはアニマトロニクス(精巧な動物型ロボット)を使用しているとのこと。む〜ん、確かに最近の風潮を考えますと、あの残虐シーンを本物で撮影するというのは問題が残るでしょうねぇ。現に残虐なフカ漁は密かに行われているわけで、映画は間違ったな情報を提供しているわけではないでしょうが、この映画のメッセージの重厚さは、かなり薄らいでいるような気がいたします

(余談ですが、ジャコペッティの『世界残酷物語』なんてのを思い出しましたが、ジャコペッティのはヤラセ映像も多く含まれているので、映画全体を見るとドキュメントとはちょっと言い難いかもです)。

 話はそれますが、日本の捕鯨がオーストラリア方面で問題になっております。前述のフカの例が「フカ漁」ではなく「フカヒレ漁」であるように、日本の捕鯨も古くから「クジラ漁」であり、けっして「鯨油漁」ではなかったのでございます。つまり、日本は鯨のカラダ全体を食用目的で捕鯨していたのに対し、欧米諸国は古くから鯨の油(鯨油)目的で捕鯨をし、(先ほどのフカヒレ漁のように)油を搾り取った後の鯨の本体は、海に捨てておりました。現在の鯨の激減は、この近世欧米諸国による「鯨油漁」が大きく影響しているのにも関わらず、日本の捕鯨だけが矢面に立たされるのは、どうも納得いかないのでございます。

 さて、閑話休題。『オーシャンズ』という映画、何も考えずにノンビリと映像を眺めていたいというのには、ピッタリでございます。種の絶滅に対するメッセージは込められておりますが、そういった理屈臭い映像は、最後の方の最小限にとどめられております。単純に自然の醍醐味を堪能できる映画でございます。そして、すべての映像を通して、魚たちとの距離感が実に近い。魚に接近しての撮影には、相当な苦労があったはずでございます。また、音声も非常にクリアなのは、ワタクシ的に高得点なのでございます。若干、効果音的なものが入れられている部分もあるようですが、基本的に海の中の音をそのまま録音している。ノイズが入りやすい海中撮影でクリアな音声を録音するというのにも、苦労が多かったはずでございます。

 そういえば、この映画の共同監督である「ジャック・ペラン」と「ジャック・クルーゾー」は、2001年に同じコンビで『 WATARIDORI 』という映画を制作しております。この映画、『オーシャンズ』の鳥版とでもいうべき作品で、空を飛ぶ渡り鳥の姿を数メートルの距離で追いかけながら撮影しているという大変な映画でございます。つーか、ワタクシ、この『WATARIDORI』という映画をよく知っておりますのに、『オーシャンズ』を観て同じ監督作品の『WATARIDORI』を思い出さなかったのは、実に不覚なのでございます。『オーシャンズ』同様、この『WATARIDORI』も、超オススメなのでございます。

 ということで、『オーシャンズ』という映画の感想でございました。『プラネットアース』とかお好きな方は、絶対楽しめる映画でございます。

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2010/01/26

歴代興行収入1位と2位が同じ監督作品!

Avatar「夜中に急にいなり寿司が食べたくなる…」というコンビニのCMがございましたが、夜中に急に『タイタニック』が観たくなるということはございませんか?(笑) 先日、朝までかかって『タイタニック』を鑑賞したあげく寝過ごしてしまい、「ママ、お店の鍵を開けてください」という従業員からの電話で起こされてしまったことがございました。従業員には普段から早起きを推奨しているワタクシとしたことが、大失態なのでございます。

 なぜ『タイタニック』なのか? そう、ちょいと前にジェームス・キャメロンの『アバター』を観てきたからでございます。絶大なるCG技術を駆使した最新映画を目の当たりにして、そのCG黎明(れいめい)期の作品を懐かしくなりまして、まぁ、ちょっと“さわり”だけみようと思ったらいつしか全編観ちゃっていたのでございます。で、その『アバター』でございますが、超おすすめでございます。ストーリーは単純でございますが、とにかく楽しませる事に徹した映画でございます。ある意味『スターウォーズ』のあの娯楽性に通ずるものがございます。

 映画の内容を言ってしまうのはヤボですので、ちょっと違う視点で説明してみましょう。この『アバター』に登場する異星人、肌の色を除けば全くもってアメリカインディアンにそっくりでございます。キャメロン監督も、意図的にそのようなデザインにしたようでございます。「『アバター』は『ダンス・ウィッズ・ウルブス』のリメイクだ」とも言われているように、このアメリカインディアンとの相似には、キャメロン監督の“わざとらしい”意図が垣間見られるのでございます。観ていない人には意味不明でしょうけどね、まぁ、観てみればすぐに分かります。

 ワタクシはこういった意図が盛り込まれている映画を個人的に、「アメリカの免罪符映画」あるいは「アメリカの贖罪(しょくざい)映画」と呼んでおります。「人類の存亡をアメリカが救う」といった「アメリカ・アズ・ナンバー・ワン映画」がもてはやされた時期もございましたが、その一方でアメリカ人の心の古傷をほじくり返すような映画が作られるのも、最近のアメリカ映画の傾向でございます。どこの国の歴史にも明部と暗部があるわけで、クリント・イーストウッドなんて監督も、その暗部をチクチク掘り出すのが好きな監督でございます。かつて猪突猛進だったアメリカも、今、その方向性に迷いを感じている時期なのかもしれませんね。と言うと日本にも暗部があるのでございますが、な〜んかなぁ、日本ではその“暗部”がアンタッチャブルになっちゃっていて、なかなか取り上げられなかったりするのでございます。「出る杭は打たれる」なんていう実に日本的なことわざが、そういった体質を象徴していますよね。

 さて、先ほど『ダンス・ウィッズ・ウルブス』が出てきましたが、ワタクシが思い出したのは、ロバート・レッドフォード主演の『大いなる勇者』という映画でございます。これも、白人とアメリカインディアンとの悲しい歴史に翻弄(ほんろう)された、ある白人男性の物語でございます。小さい頃にこの映画を観て、なんだかひどく悲しい気分になって、ストーリーはあやふやなのに、その悲しい感覚だけは鮮明に小さなトラウマになっております。小さいときに触れる芸術作品というのは重要でございますね。「三つ子の魂百まで」とは、よく言ったものでございます。

 『アバター』のお話を少しいたしましょうか。ワタクシは3D(立体)版を観てきましたが、う〜ん、まだまだ過渡期の技術なんでしょうねぇ。ワタクシが観た方式の3Dでは、ちょっと疲れてしまったのでございます。いろいろな情報を読むと、どうもIMAXという方式が一番評判が良いようでございます。そういえば、昔、新宿高島屋にあったIMAXで観た立体映画は、非常に鮮明でスクリーンも巨大、とても迫力があったのを覚えております。ところが、今現在日本で稼働しているIMAXの映画館は、その本来の巨大なスクリーンよりは少し小さめのスクリーンだとか。まぁ、この不景気では、しょうがないですよね。それを考えると、新宿高島屋のIMAXが潰れちゃったのは、もったいなかったですねぇ。もう少し3Dブームが早く来ていれば、今頃ウハウハでボロもうけしていたでしょうに。

 で、3Dを“過渡期の技術”と申し上げましたけどね、どうも立体に見えるのが邪魔になる事がある。まず字幕。字幕も画面の中に浮かんで見えるのですが、奥行き情報が増えた関係で画面の中が非常にやかましい。そのやかましい画面の中に字幕が埋もれてしまうのでございますね。普通の2Dの映画のようにすんなりと字幕が目の中に入ってこない。それが疲れる原因のひとつのようでございます。また、飛び出す画面の中で行き場を失った字幕がその表示場所をコロコロ変えたりする。これも視線が飛ばされて、疲労感の一端となっている。3Dの映画は「吹き替え版」をお勧めするのでございます。

 さらに、「画面がやかましい」と申し上げましたが、これは3DというよりはフルCG画像が持つ問題。画面の中の情報量が多すぎるのでございます。これはね、きっと「捨てる勇気がない」のでございますよ。今、CGクリエイターたちは、「あんなことも、こんなことも出来る」とウハウハ状態で作品を作っておりますので、画面に愛着を持ち過ぎるのでございましょう。ポイントを絞り込んで、捨てるものは捨て、“魅せたいものに視線が集中するような絵作り”があるともう少し見やすいのにというのが、ワタクシの現状のフルCG画像の印象でございます。

 そうそう、映画を観ていて気がついたのでございますが、カメラ撮影の実写のシーンは、画面の全てにピントが合っているわけではないのでございます。当然、被写体以外のところはピントが甘くなっているので、自然に被写体に視線が集中することになる。ところが、そのピントが来ていない部分も3Dで浮き上がって妙に存在感を主張してしまいますので、せっかくピントを外して“捨てた”つもりでも、画面の中では主張してしまい“やかましく”なるのだと思います。さらにこれが実写ではなくフルCGの画面ですと、画面の全てにピントが合い、しかも立体情報も持っていますので、さらに“やかましさ”は倍増なのでございます。

 こう考えると、これからのフルCG画像そして3D画像は、「捨てる勇気」が必要になってくる気がいたします。これは皮肉なもので、コンピュータの能力がまだ十分でなかった頃は、精細な表現を諦める事で、そのコンピュータの能力不足や特殊効果の限界を補っていたのでございます。逆に現在は、どこまでも精細でリアルな表現が出来るにもかかわらず、あえてその精細さを部分的に潰していき、簡素な表現を目指すことになるかもしれないのでございます。これを皮肉と言わず、なんと言いましょうか。

 あ〜、この「捨てる勇気」ってのは、他のいろいろなことにも言えるかもしれませんね。芸術作品全般には必要でしょうし、電子機器や家電製品の設計などでもあるでしょうし、会社経営とか、政治の世界でもあるかもしれません。あ、そういえば、ワタクシの家の押し入れにも、いろんなガラクタや空き箱やらがいっぱい...捨てる勇気を持たなければね。

 では、いろいろ申しましたが、みなさまもよろしければ、『アバター』、ご覧下さいませ。3D版は非常に混雑いたしますので、余裕を持ってお出かけくださいませ。ではでは...

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2009/12/30

軽い話と重たい話、映画の話をふたつほど

 今回は、ちょっと前にテレビで観た映画の話。軽い話と重たい話があるけど、まずは軽い話から。

 『武士の一分』が先日放送されておりまして、何気に見ておりました。実は、この映画、封切りの際に全く興味を持たなかったのでございます。というのも、主役が「木村拓哉」ということ。ワタクシ、この映画を観るまでは、木村拓哉の演技力をゼ〜ンゼン認めておりませんでした。何のドラマに出演しても、いつもそこには劇中の人物ではなく「木村拓哉」がいるだけ。というか、木村拓哉のキャラクターに合わせて、脚本が書かれていると言うべきか。結果、何を演じても同じようなキャラクターになる。そんなネームバリューだけを使用するようなドラマ起用に、ウンザリしておりました。

 ところが、この映画の山田洋次監督、見事に木村拓哉を使い切っている感がございます。木村拓哉本人も、この映画はキツかったでしょうね。監督がまったく妥協していないのがよく分かるのでございます。でもその結果、この映画での木村拓哉は、実にいい演技をしております。そして、こういった役者を甘やかさない監督に触れたとき、役者は大きく成長するキッカケを見つけたりいたします。逆に、ネームバリューだけ借りて役者を甘やかすような「よくあるドラマ」は、役者の成長の芽を潰しかねません。木村拓哉さん、この映画でいい経験をしましたよね。そして、この映画を映画館に観に行かなかったことを、非常に後悔しております。

 さて、次は、ちょっと重たい話。つい数日前、東海地方で深夜に『夕凪の街 桜の国』という映画が放送されておりました。この映画は、「こうの 史代」さんが描かれた同名の漫画の映画化でございます。原爆、そしてその被爆の後遺症で苦しむ人たちが主人公。ほのぼのとしたストーリーの中に、実に巧みに被爆者の苦しみを盛り込んだ、考えさせられる作品になっております。この作品の主人公が被爆後10年を経たときに発した、ある印象深いセリフをご紹介いたします。

  (この街の人は)誰もあの事(原爆)を言わない
  いまだにわけが わからないのだ
  分かっているのは「死ねばいい」と誰かに思われたこと
「死ねばいい」と思っただけでは、人は死なない。「死ねばいい」と思い、それを実行に移す人がいると、ナイフを振り回す人がいたり、女性の首を絞めてしまう人がいたり、あるいは、ビルに旅客機が飛び込んだり、ユダヤ人が虐殺されたり、原爆が落とされたりする...

 そしてこの漫画は、主人公が死ぬ場面で、さらにこのようにも書いております。

  原爆を落とした人は私を見て、
  「やった! また一人殺せた」
  と、ちゃんと思うてくれとる?
 ただ「死ねばいい」と思われ、理由も分からずに殺されていく無念さ、そんな思いがこの言葉には込められております。そして、戦争という殺戮(さつりく)のシステムが、「死ねばいい」という言葉の重さをどんどん希薄にしていくのでございます。

 例えば、我々が原爆の被害者に対する思いを深くするのであれば、私たちは同時に、真珠湾で死んでいったアメリカ兵にも思いを寄せることが必要でございます。なぜなら、そのとき我々日本人もアメリカ兵のことを「死ねばいい」と思っただろうから。そう、お互いに相手を「死ねばいい」と思ったとき、戦争が始まる。けれど、「死ねばいい」と思った人と、それを実行する人は別の人。それが戦争の殺戮システム。だから、死んでいった人たちには、無念さばかりが残る。

 この『夕凪の街 桜の国』というような作品は、多くの人に観てもらいたい作品でございます。こういう作品てのは、なんでしょうかねぇ、国とかが著作権を買い取って、非常に安い金額、あるいはコピーフリー(改変・編集は不可)という形で配布できないでしょうかねぇ。そうすると、爆発的に世界中に広がると思うのでございます。あるいは、学校の授業の中に映画鑑賞として組み込んでしまうとかはどうでしょう。でも、そういうことを国が主導で行うと、またいろいろ問題になっちゃうのでしょうね。難しい国でございます、この日本という国は。

 常々、ハリウッド映画が核爆発を非常に軽率に表現するのを、苦々しく思っております。この『夕凪の街 桜の国』のように、核爆発の本当の怖さを表現した映画こそ、広く鑑賞されるべきだと思うのですが、どうでしょうか。

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2009/12/15

驚異的なCGは、もはや“エロ”である!

Up_2012
 久しぶりにお休みをいただきまして、映画などを観てまいりました。『カールじいさんの空飛ぶ家』、『2012』の二本でございます。あえて映画の内容を書いたりはいたしませんので、まだ鑑賞していない方も安心してお読みください。

 『カールじいさん〜』は、最近増えてきた3D(立体)映画でございます。客席の入り口で専用めがねを渡されまして、それで映画を見ると立体に見えるのでございます。この液晶シャッター式のめがね、画面が少し暗く見えてしまう。それでなくても、ワタクシの目は夜盲症の傾向がございまして、映画の薄暗いシーンは非常に苦手。結局、画面の明るさに応じて、専用めがねをはめたり、はずしたり、はめたり、はずしたり、はめたり、はずしたり、と忙しかったのでございます。

 立体の度合いはそれほど強くなく、ほぼ自然に見える感じ。小さな子供が怖がったり、気分が悪くなる人が出ないようにとの配慮でしょうか。多分、テーマパークなどのアトラクションの立体映像の方が、もっとド派手な設定にされているはずでございます。ああいったものは視聴時間が短いですからね。そういえば、最近はデジタル処理だからこういった立体映画も簡単なのでしょうが、ワタクシが子供の頃、“東映まんが祭り”とかの「赤青セロハンめがね」で見る立体映画は、その製作現場は大変だったんでしょうねぇ。仮面の忍者赤影の適役の金棒がワタクシの頭の上をかすめ、オシッコをちびりそうなくらいに怖かった覚えがございます。

 さて、前作の『ウォーリー』の出来があまりにも良かっただけに、この『カールじいさん〜』にも期待されるところでございますが、う〜ん、非常によく出来てはいるものの、残念ながら『ウォーリー』を超えてはいないかも。『カールじいさん〜』は、映画のいちばん感動的な部分を予告編としてバンバン流しちゃっていたのがいけないと思いますよ。ただディズニーの映画には、「絶対に悲しい結末にならない」という安心感があるのでございます。これは、ディズニーの映画ポリシーが作り上げた“良き伝統”でございますよね。

 では、『2012』のお話でもしましょうか。こういうのは「一種のパニック映画」と扱えばいいのでございましょうか。人類滅亡型のパニック映画というのは、昔からいろいろあるのでございます。その他、風災害型パニック映画、人災型パニック映画も含めれば、映画というのはパニック映画の宝庫なのでございます。昔のパニック映画というのは、特撮にそれほどの時間を割けませんので、必然的に「人間模様」のゴタゴタが話のメインになっていくわけでございますよね。

 ところが、この『2012』のように、驚異的なCG画像がてんこ盛りになっちゃいますと、ストーリーの人間模様が“どうでもよく”なってくるのでございます。映画館だから駄目だけど、もし自分の部屋でDVDを観ているのだったら、多分、CG以外のシーンを全部早送りで進めていたかも。と書いて、ふと思ったのでございます。この「どうでもいいシーンを早送りで送る」って、これって、「エロ映画」を見るときのノウハウではございませんか。結論! パニック映画のCG技術が進めば進むほど、映画はエロに帰結する!

 アニメでもそうですが、CGで作製されたシーンというのは、情報量が多すぎるのでございますよね。観ている方がその情報量に追いつかなくて、何が起きているかを十分に読み取る前にシーンが進んで行ってしまう。そういった点では、CGに制約の多かった昔の映画の方が、「適度なディテールの省略」があって、見やすかったような気がいたします。すると、今後はCGの乱用が見直される流れになるのでしょうか? 実際、ちょっと前にかけられていた『剣岳 点の記』という映画はCGを全く使っておらず、それゆえの安心感や臨場感、現実味が感じられたのでございます。「完全CG無使用」というのも、CG技術が発達した今だからこそ、映画のうたい文句のひとつとして有効になり得ると思っております。

 一方、こんなことも考えました。最近の小さな子供は、ゲームをすごい速さで遊んでおります。でたらめにボタンを押すのではなく、ちゃんと画面を見て状況判断をして、的確なボタンをすごい速さで連打して遊んでおります。また「デッキ」と呼ばれるカードゲームなどもあるようで、まるで早回しをしているようなスピードで、カードを出し合って遊んでおります。そういったことを見ると、テレビゲームで育った世代というのは、頭の中の構造がそのような高速処理に最適化されているのかもしれません。情報量あふれかえる映画の画面を見て、「ついて行けない」と思うワタクシは、すでに時代に取り残されているのでしょうかねぇ。

 さて、『カールじいさん〜』を見るときに思ったのですが、映画の前に必ず出される「盗撮禁止の注意」が、ほとんど出されておりませんでした。そりゃそうですよね。3D映画のブレた画像を盗撮しても、まったく盗撮の意味がございません。映画館というシステムの中でなければ鑑賞できない3D映画というのは、盗撮に対する大きな防護壁になるような気がするのでございます。実際、3D映画が活発なアメリカでは、DVDの販売で落ち込み続けていた映画館の収益が、今年から上昇傾向にあるようでございます。映画館大好きなワタクシといたしましては、この「3D」で、ぜひとも巻き返しをはかっていただきたいものでございます。

 その3D技術は、そろそろ一般のテレビ受像器にまで普及するようでございます。来年あたりから、「立体テレビ」の発売が予定されております。「3D」ってのを「現実をより現実っぽく映す技術」と定義いたしやしょう。さらに「CG」ってのを「非現実を現実のように映す技術」なんて定義するざんす。するってぇと、このふたつが協力すると「非現実を、より現実っぽく映す」ことが出来るのでございます。だんな、こりゃぁ危険ですよ。こういった技術の発達によって、映像における信憑性の偽造は際限なく青天井になってしまったのでございます。

 ちょっと前までは、「動画」と呼ばれるものにはそれなりの信憑性がございました。ところが、これからは、どんな動画ももう信じられない。いかにも自然な映像でそれが立体的に見えていたとしても、すでにそれはデジタル処理から生まれた架空の世界の出来事なのかも知れないからでございます。あぁ、もう何も信用できない。「すべての映像は“ウソ”かもしれない」と世の中を常に斜めに見て生きていかなければならない時代が到来するのでございます。すべてを疑って見始めると、信じられるのは自分の意識だけ。そう、デカルトの「われ思う故にわれ有り」という言葉を思い出したのでございます。

 ちょっと脱線しましたね。話を映画に戻しますと、映像技術が発達しますと、その中のストーリーがドンドン霞んでくるのでございます。例えばね、辛いのが好きな人が食べるものにいっぱい唐辛子をかけていくと、ただ辛いだけで本来の味はなくなっちゃうでしょ。それと同じ。CGが発達すればするほど、映画は「単なる刺激を求めるだけの映像」になっちゃって、ストーリーなんていらなくなっちゃう。初めの方で述べました、映画の「エロ化」でございます。で、観客はどうせウソの映像だって分かっているから、「あんなことになったらどうしよう」とストーリーを追うのではなく、「もっとやれ、もっと壊せ、さぁ俺を驚かしてくれ」と刺激に走るわけでございます。

 製作側はウソ映像で驚かす、観客側は単に刺激を求める、こういった図式というのは、映画の製作側と観客側との“意思の疎通”が失われているような気がするのでございます。「売れる物を作る」といった打算に走ると、こういった図式になるのでしょうか。その一方で、ジャッキーチェンの作品のように、スタントマンもウソ映像も全く使わないという映画がございました。こういった作品では、ジャッキーチェンのポリシーと観客との間に、ある種の“信頼関係”が生まれているのですよね。ジャッキーは映画の中で絶対にウソをつかないと。

 また、やはり先ほど述べました『剣岳 点の記』というCG未使用の映画も、やはり観客は「すべてが本物の映像」という信頼関係を得られるわけでございます。(またこれはCGの技術とは関係ないのですが、ディズニーには「絶対に観客を悲しませない」という強いポリシーがございます。その安心感も、やはり製作側と観客側との信頼関係の表れだと思うのでございます。)映画におけるウソ(CG技術)は、ややもすると製作側と観客との信頼関係を壊してしまう悪魔の技術にもなりかねないのでございます。映画館に観客が戻り始めているこんにち、映画がどのような形で“ウソ”をつくかは、これから重要なキーになってくると思いますよ。

 あと、最後にひと言だけ。テレビの3D技術が一般化するというのをニュース番組などで取り上げておりますが、その用途を「映画」とか「音楽」とか、もぅ何ともナマッチョロイことを言っております。映像技術が普及するキーは、「エロ」。エロしかないのでございます。VHSがあれほど普及したのも、多くのエロVHSが発売されたからなのでございます。3Dテレビを開発している各家電メーカーは、まずテレビよりも3Dカメラを開発して、エロ製作会社にどんどん提供するのでございます。3Dのエロってのはすごいですよ。目の前に“立体”でオニャノコが存在するのでございますよ。これは、絶対売れる! もうね、3Dテレビを普及したかったら、まずエロ、エロを普及させるのでございます。

 では、ちょっと支離滅裂になっちゃいましたが、今回はこの辺で、最後まで読んでいただいて、ありがとうなのでございます。ではでは...

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2009/12/07

TVに出るためには勝ち続けなければならないという残酷

 ちょっと前のスポーツの試合で、最近には珍しく、視聴率40%をたたき出した番組がございました。そう、亀田興毅と内藤大助のボクシングの試合でございます。試合結果に関しては、みなさまご承知の通りでございますよね。ということで、今回はボクシングの試合とテレビ局のお話。ボクシングにあまり興味が無いという方も、しばし、おつき合いのほどを。

 そのボクシングの試合中継を、ボチボチ、お店の電話番をしながら片手間に見ておりました。まぁ、シロート目にはいい試合だったと思いますよ。なんか逃げ回ってばかりいる試合とか、抱き合ってばかりいる試合とか、そんな試合じゃありませんでしたしね。まぁ、ボクシングに関してはあまり詳しくないので、内容の是非に関しては、ちょっと置いておきましょうか。それよりも、ワタクシがチョット気になるのは「テレビ局」の方。

 特に根拠はないのですが、こういった試合を見るたびに、テレビ局というものがどんどん不純に見えてくるのでございます。スポーツといえども“興業”ですので、興行収入とか動員数というものが大前提になってくるのは仕方がないこと。そう考えると、あれだけの動員を稼げる亀田一家というのは、興行的な感覚で見れば大変な“実力者”と言わざるを得ません。ところが、こういった“色物的な実力”というのは――まぁ一種の「ブーム」と呼びましょうか――時期が過ぎると、あっという間に「夢のあと」となりかねない、そんな一過性のブームなのでございます。

 テレビ局も、そんな一過性を十分に分かっているはずでございます。分かっていながら、“旬”の間にボロ稼ぎをしようというのが、常套手段。持ち上げるときは思いっきり持ち上げて金儲けをし、落とすときにはこれまた思いっきり落とすことで話題性を取ろうとする。ひとつのネタで二往復分を稼ぐという効率のいい“利用の仕方”。しかもその上がり下がりが、テレビ局による操作だったりするのでございます。人気が上がるのも落ちるのも、すべてテレビ局の胸先三寸。テレビ画面から伺える「人気」というのは、その本人の実力ではなく、テレビ局が作り出した幻想なのかもしれないのでございます。

 そんなテレビ局と張り合うためには、テレビ局以上に“したたか”でなくてはならないのですが、亀田一家、どんなもんでしょうかねぇ? 亀田一家から感じるのは、“したたかさ”ではなく「幼さ」なんですよね。そう、一家全員が幼い(失礼)。幼さゆえの「純粋さ」というものはございます。その純粋さが、ある種の「カリスマ性」を生んでいるのでございます。ですから、幼いということは決して悪い事ではないのでございますが、その幼さゆえに、暗黒のフォースに染められてしまうという危険もはらんでいるのでございます。

 とにもかくにも、一時期はガラガラだったボクシングの試合に、あれだけの観客を動員したというのはすばらしいことでございます。でも、亀田以外の試合は、相変わらずガラガラなんですよね。どうもテレビ局は「亀田」だけに興味があるようで、ボクシング界全体には興味がないようでございます。そんなところに、テレビ局の「使い捨て感覚」を感じちゃったりするのですけどね。

ということで、今回はこの辺で。テレビ局のことばかり書きましたが、これは、テレビだけではなく、雑誌などでも言えるような気がするのですけど、まぁ、それは別の回で...

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2009/11/23

伝統を変えるっていうのは、勇気がいるものです

 大相撲の九州場所が始まっておりますが、ワタクシ、この大相撲中継の音声を聞いていると、なぜか妙に懐かしい感覚に陥り、そして非常に眠たくなってくるのでございます。大相撲中継の音声をを聞きながらウトウトしているときなんてぇのは、「もう、このまま死んじゃってもいい!」って思えるほど気持ちがいいのでございます。これはきっと、小さいころ昼寝をするときに親がいつも相撲中継を見ていたか、はたまた、相撲中継の音声の中に、ワタクシを眠りに誘う秘密の周波数があるのか? そうそう、赤ん坊は「ザ~」というホワイトノイズの音を聞かせると寝付きが良くなるとのこと。なんでも、赤ん坊が母親の胎内で聞いていた音が、ホワイトノイズに近いそうでございます。ということは、ワタクシの感性は“赤ん坊なみ”っちゅうことでしょうか。まぁ、大相撲中継の音声を聞いてワタクシが懐かしい気分になるということは、それだけ大相撲中継の音声の雰囲気が変わっていないということでもございます。

 某国営放送(NHK)には、大相撲中継の他にも、昔からあまり変化のない長寿番組がございます。大晦日の「紅白歌合戦」でございます。その出演者が本日発表されたそうでございます。この番組、数年前に視聴率が非常に低迷いたしまして、いろいろテコ入れをやったあげく、少しずつ盛り返してきております。でも何でしょうねぇ、NHKの他の音楽番組には秀逸なものが多いのに、この紅白歌合戦だけは何か因習のようなものを引きずっていて、根本的なところで大改革をやり損ねておりますよね。NHKの資本力をもってすれば、もっとすごい音楽番組が出来るはずなのに、でございます。大相撲でもそうでございますが、なまじっか“伝統”があるものってのは、その伝統が改革の邪魔をするのでしょうね。

 もう、「生放送」にこだわらなくてもいいと思いますよ。あれだけの出演者が入れ代わり立ち代わり出演するとなると、どうしても舞台上で組めるセットというものに制約が生じてまいります。また、生舞台・生放送ということで、ポストプロダクション(映像収録後に行うエフェクトなどの処理)もほとんどできません。そして秒単位で管理する番組の流れが、どこか「せせこましさ」を与えてしまっております。同じNHKの『SONGS』なんて音楽番組では、大がかりなセットを組んで実に独創的そしてダイナミックな表現をしております。どうも紅白歌合戦は、録画技術が生まれる前の骨董的伝統に縛られているのではないでしょうかねぇ。今までのどこかの時期に、「録画にしましょうよ」って言い出した人がひとりぐらいいたような気もするのでございますが、そんな革命家の提案よりも、長らく続いた伝統の重さが勝ってしまうことは、容易に想像できるのでございます。

 出演者の選定にも「アレッ」って思うことは有りますが、その出演者が歌う曲目の選び方にも、芸がないですよね。せっかくの大晦日という特別な日の特別な時間の娯楽なのに、その娯楽番組の内容は「ありきたり」をただ集めて、せわしなく次から次へと流すだけ。ここはいっそ、普段見られないものを見たいですよね。そして、普段聞けないものを聞きたいですよね。他人の歌をカバーしたり、普段歌わないジャンルを歌ってみるとか。演歌歌手ってのは歌詞を大事にしますので、バラードなどを歌わせると意外にもムチャクチャうまいですよ。また、大勢でミュージカル仕立ての演出なんてのもいいですよね。なんてことを書いていてふと思いつきました。そう、そうですよ、あのフジテレビの『新春かくし芸大会』の趣向を、そのまま使っちゃうのでございます。あの「非日常感」というのが、紅白歌合戦には少ないのでございます。

 “生放送”にこだわらなければ、もっとすごい番組に出来るはずなのですけどね。すばらしい音楽番組を多く作り出しているNHKにしては、実にもったいないと思うのでございます。といったところで、今年の紅白歌合戦はどうなるのでございましょうか。自分のお店を「完全年中無休」にしちゃったおかげで、毎年お店で店番をしながら年を越してしまう、名古屋薫なのでございます。

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