文化・芸術

2011/12/08

不条理のススメ

 4ヶ月ほど前、東海テレビの『ぴーかんテレビ』という番組が不適切テロップで打ち切りになったのは、まだ記憶に新しいことでございましょう。その後、その空いた時間枠にはフジテレビ系のドラマの再放送が流されておりました。この再放送ってのがなかなかあなどれなく、『古畑任三郎』のシーズン2とシーズン3を、みっちり鑑賞させていただきました。そして、その古畑以後は『アルジャーノンに花束を』が再放送され、先日、その最終回を見終わったのでございます。

 ワタクシ、このドラマは初見でございます。ダニエル・キイス著の原作は若い頃に読んでおりますし、映画も観ております。しかし、その救いようのない空しい結末に、テレビドラマ化されたときには敬遠しておりました。なんでしょうかねぇ、結末の空しさを知っているからでしょうか、あるいは、世界的な名文学ゆえに、それが促成栽培のドラマ化でよくあるような稚拙な演出や演技で汚されるのを危惧していたのでしょうか。2002年の放送時には全く避けていたものを、今回、その再放送でじっくりと鑑賞させていただいたのでございます。

 原作に比べると、ドラマの方はちょっと温かい救いのある結末にしているようでございます。もちろん、本筋は原作を逸脱していないことに安心いたしました。お茶の間ドラマとして放送するには、あまりにも救いのない結末には出来なかったのでございましょう。涙を誘いつつ、ほどよいテイストのドラマに仕上がっていると思うのでございます。実は、その出来のほどを心配しながら観た今回の再放送でございましたが、非常に好感が持てるドラマだったのでございます。特に、主役のユースケ・サンタマリアをはじめ、出演者全員が実に誠実な演技をしております。誠実ってのはいいですねぇ。誠実の反対語は何でしょうかねぇ? 「あざとい」でしょうか?

 ワタクシ、小さい頃に映画化されたこの作品を観て、多分、トラウマのようなものを持った気がいたします。全く救いのない結末、不条理なその内容に、ひどく傷ついたような気がするのでございます。しかし、そんな不条理の中に「現実(リアリスティック)」を見いだしたのでしょうか、ワタクシはね、どんどん不条理映画を好む大人になってしまったのでございます。あぁ、三つ子の魂百までとは、よく言ったものでございます。しかしながら、そういった不条理映画やドラマは、興行収入や視聴率の面で不利にならざるをえない。実際、ドラマ『アルジャーノンに花束を』の2002年放送時には、あまり視聴率が良くなかったようでございます。最近のテレビ局は財政的に厳しいので、確実に数字の取れる番組を、ということで、ネームバリューのあるタレントを起用した明るい内容の、結果的に促成栽培のドラマが多くなっているのではないでしょうかねぇ(特に民放)。

 では、ここからチクチクと憎まれ口をたたかせていただきましょうかねぇ。促成栽培のドラマとは何か? 先ほど申しましたように、確実に視聴率が取れる有名タレントをキャスティングするというのが、まず大前提。すると、そんなタレントは、スケジュールを押さえるのが厳しい。必然的に、短い時間で効率的に撮影を進めていかなければならない。じっくりと何テイクも取りたいような場面でも、当然、妥協することになる。というか、そもそも、何テイクも撮ることになるような、そんな深みのある難しい脚本は最初から提供されない。どうです? 安全に、そして確実に視聴率を稼げる促成栽培のドラマの図式が、見えてくるでしょ。

 たとえば、名前を出して申し訳ないが、木村拓哉。彼の主演するドラマは、どれもみなドラマの中に「木村拓哉」がいるだけ。つまり演技ではなく“地(じ)”で演じているだけ。それでもドラマとして成立しているのは、脚本がそのように作ってあるから。ところが、山田洋次監督の『武士の一分』という映画での木村拓哉は別人だった。そこには、きちんと演じている“役者”木村拓哉がいる。そう、きちんと演技指導をし、時間をかけて撮影すれば、それなりの演技が出来るのでございます。というか、促成栽培の映画を山田洋次が作るわけがない。そんな山田洋次の誠実さを見るに、促成栽培ドラマのテレビ局は、タレントに良い作品を残させてあげようとせず、客寄せパンダ的にタレントを使い捨てにしていると言えるのでございます。

 さて、お話をドラマ『アルジャーノンに花束を』に戻しますと、この作品は、ある意味、運が良かったのかも。まず、内容のシリアスさと主人公が知的障害を演じるということで、人気タレントの起用は難しかったはず。そこで白羽の矢が立ったのが、ユースケ・サンタマリアなのでございましょう。当時、それほど知名度がなかった(失礼)でしょうから、スケジュールも余裕があったはず。それに加え、この原作のドラマ化にあたっては、3年も交渉を続けたとのこと。それだけでもスタッフの原作に対する敬意の厚さが計り知れるのでございます。原作を尊重したスタッフが、主役に十分な演技指導を与えながら撮影を進める。そのような条件が重なって、このドラマが誠実なものに出来上がったのでございましょう。

 ただ、一つ注文をつけさせていただければ、家庭向けのドラマとしては仕方が無いのでしょうが、結末がちょっと救いのある温かいものになっていたこと。原作の不条理さを知っていると、「ちょっと生ぬるいな」という感が否めない。そこで、「不条理は是か非か?」ということになるのですが、ここでちょっと、名古屋薫的なこんな独断発言をいたしましょう。

芸術作品の“感動”は、結末の「ハッピーエンド/不条理」には左右されない

ということ。作品の結末はその作品の“感動”に大きく影響しているように思えますが、いや、結末は作品の感動に関係ないのでございます(キッパリ!)。では、どこに感動があるか。それは、その作品の登場人物の「生きざま」にあるのでございます。最後がハッピーであろうが不条理であろうが、そこに向かっていく人間の生き生きとした生きざまこそに、芸術作品の感動があるのでございます。

 では、結末はどのように影響しているか? 結末というのは、“座標軸の原点”と考えて下さいませ。ハッピーエンドの作品は、「幸せ」というポイントを0(ゼロ)の位置と考える。すると、登場人物はマイナス領域でのたうち回ることになる。逆に不条理な作品では、その不条理な状態を0とする。すると相対的に、同じ“のたうち回り”が、今度はプラス領域になる。つまり、生きざまによる感動を、上から見下ろしたのがハッピーエンドの作品、下から見上げたのが不条理な作品。見る方向が違うだけで、感動の主体である生きざまは、同じものなのでございます。

 さあ、芸術作品の感動には結末は関係ないのですから、ドラマ制作者はもっと勇気を持って、不条理なドラマを作っていただきたいのでございます。登場人物の生きざまさえしっかり表現されていれば、たとえ不条理な結末でも十分な感動を与えることが出来るのでございます。しかし、その「しっかり表現」という手間ひまがかけられず、促成栽培のドラマに落ち入ってしまう。う〜ん、悲しいのでございます。もっとも、ドラマ『アルジャーノンに花束を』の視聴率が振るわなかったように、しっかり作り込んだドラマがそれなりの評価を得られないという、『見る側の目』にも若干の問題があるのではありますけどね。

 ということで、今日は「不条理のススメ」でございました。不条理を伝えるには、発信者側に誠実さが必要でございます。その誠実さに、観た人は感動するのでございます。不条理ドラマ、バンザ〜イ。

Algernon


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2010/12/23

「無」と「有」も、同義語だった!

Newton_hangnya え〜と、今回もチョット小難しいお話になっちゃうのですが、よろしければおつきあい下さいませ。

 ブラッと本屋へ入って雑誌や書籍の間を散策するのが好きなのですが、そんなときに、思いも寄らぬ本に遭遇することがございます。先日、書店で雑誌を二冊ほど衝動買いいたしました。『Newton』という科学雑誌と、『般若心経入門』というこれまた難しそうな題名の雑誌でございます。書店のいいところは、パラパラッと中味を覗けるところでございますよね。で、雑誌をいろいろ立ち読みしておりましたら、この二冊の雑誌がワタクシの灰色の脳細胞の中で結びついたのでございます。科学雑誌とお経の本がどうして結びつくか、それをご説明いたしやしょう。

 科学雑誌で気になったのが「無限ホテルのパラドックス」という記事。これは、「無限大」という数にまつわるパラドックス(逆説)のお話しでございます。ワタクシはこの記事から、「0による割り算」の話を連想したのでございます。みなさん、「1÷0」「0÷0」の答えをご存じですか? ワタクシが学生のころには、

1÷0=できない
0÷0=わからない
と教わった記憶がございます(最近の学説では変わっているかも)。「1÷0」というのは「ひとつの物をゼロ人で分ける」ちゅう事ですから、分けたくても分けようがない。ということで「できない」。「0÷0」というのは、「ゼロの中にゼロがいくつあるか?」ということで、これは一見、答えはゼロのようですが、実はゼロは何個集まってもゼロなので、ゼロの中にはゼロは1個かも知れないし、あるいは百万個かもしれない。答えが無限に存在するということで、「わからない」という答えになるのでございます(う〜ん、難しくてゴメンナサイ)。

 そこで次に、般若心経の一節が、この数式に結びつくわけでございます。

色即是空:形あるように見えても、本当は何もないのと同じ
空即是色:何もないと思える空間にこそ、形が存在する
「色即是空」というのは、「形ある物全ては、本当はゼロなんだ」と言っているのでございます。ゼロだとすると、そのゼロがいくつ集まってもゼロ。その結果、「何もない(ゼロ)ように見えるところは、実は無数のゼロの集合体なのかも知れない」、それが「空即是色」ということ。ここで「有る=無い」という式が成り立つのでございます。この「有る=無い」という式はおかしく思えるかも知れませんが、「無限大」という数字が関わってくると成立してしまうのでございます。

 部屋数が無限にあるホテル(無限ホテル)というのを想像してみて下さいませ。ただ今、無限ホテルは満室でございます。しかし、新たに客が一人、やってきました。さぁ、どうする? ホテルの支配人は全ての部屋の客を、ひとつ大きい部屋番号の部屋に移動させました。すると、まぁなんということでしょう、満室だったはずなのに、1号室が空室になったではございませんか(無限ホテルのパラドックス)。ということで、無限大という数字が関わると、「無=有」という式が成り立ってしまうのでございます。

 余談ですが、先ほどの「1÷0」という式ですが、これを「1÷0=x」とおきまして両辺に0(ゼロ)をかけると「1=0」という式になってしまう! アリャリャ、「有=無」が数学的に成立してしまう! と思いきや、この計算の途中には「0÷0」あるいは「0分の0」という計算が発生してしまうので、「1=0」という結果にはあまり意味は無いのです。ちょっとした数学マジックでございました。

 で、閑話休題、この「有る」とか「無い」とかという概念も、結構、あやふやなものなのでございますよ。例えば、巨大な水槽の中にいる金魚を想像してみて下さいませ。あまりにも水槽が巨大なので、金魚は水槽の縁までたどり着いたことが無いといたします。また、この金魚は水面から飛び出すことも無いといたしますよね。すると、周り全てを水に囲まれている金魚にとっては、水は「無い」のと同じなのでございます。どうして金魚が「水」を認知できないか? それは、“水と水以外のものとの境目”を知らないからでございます。ところが人間は「水槽」や「水面」といった“境目”を認知しておりますので、金魚の周りは水に囲まれていると分かるのでございます。

 この金魚の話を、ひとつ高い次元から考えますよ。現在の科学では、宇宙の広さは有限だと考えられております。では、宇宙と宇宙じゃないところの境目は? その境目を、人類は認知しておりませんよね。ですから、ひとつ高い次元から見下ろしている人からすると、ワタクシたちが真空だと思っている宇宙空間も、実は“何か”で満たされているのかも。ワタクシたちは宇宙という巨大な容器の中で泳ぐ金魚なのかもしれません。どうですか、有るとか無いとかいった概念は、ものの境目が分かるからこそ認知できるのです。

 さて、その「有も無もあやふやなもの」と言っているのが般若心経なのですが、先ほどの「般若心経入門」という雑誌に引かれたのは、その雑誌に般若心経の英訳が書いてあったから。では、その英訳では「色即是空 空即是色」をどのように訳しているでしょうか?

色即是空:Form — it is, in fact, emptiness.
空即是色:Emptiness — it is, in fact, form.
となっております。う〜ん、「無」は「emptiness」ですか。確かに般若心経では「空(くう)」という字を使っておりますので、「空っぽ」という意味の emptinessは間違いとは言いません。ですが、空(から)という意味合いでは、「何も入っていないけれど“容器”だけは存在する」ということになってしまいます。全く何も存在しない「無」という語の意味からは違うような気がいたします。先ほど申しましたように、「無」や「有」を語るときには、“容器”を認知しているかどうかが大きなキーポイントになってくるからでございます。ワタクシ的には「nothing」が妥当だと思うのですが、nothing では、合理的・論理的に思考する西洋人にとって理解不能になってしまうのかも知れませんね。


 般若心経のもつ漠然かつ神秘的なニュアンスは、漢字という表意文字そのものが持つ曖昧さに囲まれて生きてきた東洋人ならではの表現なのかも知れません。一方、表音文字であるアルファベットを使い続けてきた西洋文化には、合理性や論理性が強く感じられるのでございます。これは、歌の歌詞でもそうですよね。英語の歌詞にはダイレクトな表現が多いのですが、それを和訳すると、同じ内容にも関わらず、何か綿(わた)でくるんだような柔らかい表現になるのでございます。チョットダイレクトな表現になった英訳般若心経、外国人にはどのように受け止められるのでしょうかねぇ...

 ということで、今回も、本当にニューハーフらしからぬ内容でゴメンナサイ。ワタクシの脳細胞の中で数学とお経が勝手にくっついてしまい、個人的にチョット感動したので、つい書いちゃいました。ではでは、おつきあい、ありがとうございました。

●参考
 ・『Newton』2011年1月号
 ・『「般若心経」入門』プレジデント2010年12月25日号別冊

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2010/12/21

「死」と「生」は同義語なんです

 2008年の2/14分の書き込みで、『モリのアサガオ』という漫画が第11回文化庁メディア芸術祭漫画部門で大賞を受賞したことをお話しいたしました。その漫画のドラマ化がテレビ東京系で放送されておりまして、つい昨日、最終回で終わりました。

 ご存じない方のために簡単に内容を説明いたしましょうか。これは刑務官と死刑囚との友情の物語でございまして、ある新人刑務官が勤務する拘置所に、かつて同じ少年野球チームに在籍していた知り合いが死刑囚として送り込まれてくるのでございます。その死刑囚の複雑な心境に触れているうちに、いつしか友情が芽生えることに。減刑の可能性も出て来たのですが、結局、その刑務官は死刑を受け入れるように説得してしまい、自分の目の前でその死刑囚=友人の刑が執行されてしまう。という内容でございます。

 死刑制度の是非はいろいろ議論されております。死刑囚が自分の死と向き合うことで初めて自らの罪の重さに気づき、悔い改めるという事もございます。しかし、死刑制度のもとでは、その悔い改めた人間を殺さなければならないのでございます。ここに、死刑制度の大きな矛盾があるのでございます。また、死刑判決を受けたからといって全ての死刑囚が悔い改めるわけではございませんし、あえて死刑になることを求めて残忍な犯罪を犯す人もいたりいたします。そのような人たちにとっては、「死刑」という刑罰にどれほどの意義があるのだろうかと思うときもございます。

 死刑執行は本人に事前に知らせることなく、当日の朝、いきなり告げられるそうでございます。自殺を防ぐのが目的だそうですが、これから殺してしまう人の自殺を防ぐというのも、変な話でございます。まぁ、別に死刑囚でなくても、人間は必ず死ぬわけですし、自分の死がいつやってくるかも分からない。人間はみんな“生まれ持っての死刑囚”みたいなものでございます。

 ワタクシも人生の折り返し点と思える時期を過ぎておりますので、チラホラ、自分の「死」については考えたりいたします。生から死への人生の流れというのは完全な一方通行で、決して後戻りできないところが、実に“もどかしい”のでございます。このもどかしさ、若い頃に分かっていれば、自分の人生も、もう少しやりようが...とは思うのですけどね。このようにして、「最近の若い奴らは」という言葉は何千年もの間、人類に受け継がれてきたのでございましょう。「最近の若い奴らは」という語は、自分の若い頃への憧憬の言葉なんだと、この年で気づくようになりました。

 茨城県取手市で、無差別殺人未遂の事件がございました。犯人は、「自分の人生を終わりにしたかった」と供述したそうですが、はたして「死刑」になることを望んでいるのでしょうか? この犯人、生きるのがつらく、「死にたい」と思ったのでしょうか? でも、「死にたい」というのは嘘の感情ですよ。本当は、「“生きたい”のだけれど、“死ぬ”という選択肢しか見つからない」ということのはず。感情の下地に「生きたい」という強い願望があるからこそ、苦しいのですよね。だから、「死にたい」と「生きたい」は同じ意味なのでございます。

 もし「死にたい」と思ったら、その「死」という言葉をペロッとめくってみると、その下からは「生きたい! 生きたい! 生きたい!」という強い願望が顔を出すはずでございます。取手市の犯人も、自分の心根に貼りついているその生への強い願望を見つめることが出来たら、何かしら他の選択肢が見つかったかも知れないのにね。「自分の人生を終わりにしたかった」とのことですが、そう言う人に限って、神様はなかなか終わらせてくれなかったりいたします。運命の神様は、アマノジャクだったりいたします。

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2008/03/04

トランクの中の日本

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右手の親指で、右の耳穴をふさいでみて下さいませ。親指を耳の穴に入れるのではなく、穴の前縁にプクッと膨らんだ部分があるでしょ。あれをフタがわりにして親指の腹で押してやると、うまくふさがったりいたします。残った四本の指は、眼球のくぼみの上に押し当てて下さいませ。同じように左手の親指で左の耳穴を、残りの四本の指で眼球のくぼみをふさいでみてくださいませ。さてさてさて、これは何をするときの動作でしょう?

なにやらクイズめいた書き出しでございました。この動作は、すぐ近くで爆弾が破裂したとき、その爆風で鼓膜を破られたり、眼球が飛び出したりするのを防ぐ動作でございます。ワタクシがこれを教わったのはワタクシの母親から。たぶん二人で戦争映画か何かを見ているときに、母親がなにげに自分の体験談を話したのを、ワタクシが覚えていたのでございましょう。もちろんワタクシは、戦争も空襲も知らない世代でございます。母親から教わったこの動作を実際に実行する機会などは、もちろんなく、母親から聞いたその体験談も記憶の引き出しの片隅に追いやられたまま、何十年も忘れ去られておりました。

しかし今日、ある一枚の写真を見て、その片隅に追いやられていた記憶の片鱗が、鮮やかに思い起こされたのでございます。その写真を掲載している写真集の題名は『トランクの中の日本』。昨年の9月に、ワタクシが紹介した書籍でございます(2007/9/11付『9月が来ると…』参照)。かなり以前に出版された本で、もはや古本市場でしか巡り会えないと思っていた本が、この度増刷されたということを知り、さっそく購入したのでございます。この本は、昨年テレビなどでも取り上げられましたから、出版社に問い合わせが殺到したのでございましょう。その問い合わせを受けての増刷だと思われます。

この写真集は、アメリカの従軍カメラマン「ジョー・オダネル」氏が、終戦直後の広島・長崎を撮影した写真集でございます。オダネル氏は軍用カメラの他に、私用カメラも持ち込んでおりました。その私用カメラで残された映像は、そのままオダネル氏によって封印されることになります。そして終戦後50年を経て、オダネル氏自らによって封印を解かれたその貴重な記録は、1995年、写真集として世に出ることになるのでございます。

この写真集の93ページに、七五三用の振り袖で着飾った少女の写真が載っております。振り袖の派手な柄とその背景に広がる焼け野原が、非常に対照的でございます。上方の空はすばらしい青空なのでございましょう。白黒の写真ではございますが、しばらく眺めていると、そんな色彩が感じられるような錯覚にさえ陥ります。

各写真には手記が添えられております。その写真の説明を読むと、その晴れ着の少女は、両耳の聴力を完全に失ってしまったとのこと。空襲の際、爆撃機の音が聞こえると、母親は少女の耳に布を詰め込んで、爆音で鼓膜が破られるのを防いでいたそうでございます。たまたまその耳栓が間に合わず、少女の耳は、永遠に聴力を失ってしまったそうでございます。

ワタクシが幼少の頃、母親から例の耳と目をふさぐ動作を聞いたときには、なんだか現実味がなくて実感がわかなかったものでございます。しかし、この少女の写真を目の当たりにしたとき、その何十年も忘れていた記憶が呼び起こされ、空襲の爆音のすさまじさが、より現実味を帯びて感じられたのでございます。本物の重みとでもいうのでしょうか、ドラマや映画でどれほどの凄惨なシーンを見せつけられても、この少女の写真にはかないません。この少女は本物だからでございます。

コンピュータグラフィックスの発達により、最近の映画などで見る凄惨なシーンには、かなりリアリスティック(写実的)なものがございます。凄惨なシーンがリアリスティックになればなるほど、観客は「これは本当は作り物なんだよ」という意識を再認識しているのではないでしょうか。だって、そう思わなくちゃ、怖くてそんな映画、見てられないでしょ。

ところが、本当に怖いのは、ありふれた日常に凄惨な事実が隠されているという状態ではないでしょうか。七五三に向かう少女の写真を見て心なごまされる感覚と同時に、その少女が聴覚を失っていると知ったとき、その少女が体験してきた凄惨な状況を思い浮かべ、愕然とするわけでございます。「もしその少女が自分だったら」と、その写真を見た人は考えるわけでございます。

映画などの作り物の凄惨なシーンよりも、はるかに重みを持ってその少女の写真が我々に訴えてくるのは、その少女が実際に存在した本物であり、そしてそんな少女が他にも大勢いただろうことが想像でき、もしその時代に自分が生まれていたら自分がその少女のようになっていたかも知れない。その一枚の写真の重みは、見た人の心にどんどん近づいてくるのでございます。本物を写し取るという「写真」ならではの重みでございます。映画のような作り物の画像が持ち得ない、「現実味」でございます。

この写真集には、俗に言うグロ写真と呼べるものは一枚もございません。むしろ、運動会の風景のような、心なごむ写真も多く取り上げられております。日本人とアメリカ人がひとつの食卓を囲んでいる写真などもございます。敵味方の区別がなくなった人たちが、隔たりなく接している姿、なお笑顔でたくましく生きる子供たちの姿、そんななごやかな写真もございます。しかし、それらはみな、まぎれもなく終戦直後の日本の姿なのでございます。

コンピュータグラフィックスの発達で、世の中にはリアリスティックな映像が氾濫しております。と同時に、インターネットを軽く検索すると、俗に言うグロ画像と呼ばれる凄惨な映像は、いくらでも手に入ります。コンピュータグラフィックスのような作り物の映像がリアルになればなるほど、その作り物の映像と現実との境界は曖昧になり、人々は、現実の映像でさえ作り物の映像と同一視するようになります。想像力の放棄でございます。そして、想像力の乏しい人間は、人の痛みが分かりにくくなります。

もしあなたが子供をお持ちならば、どうぞこの写真集を見せてあげて下さい。本物を写し取った「重み」が、この写真集の中にはあります。想像力豊かな感性を持たせるためにも、見せてあげて下さい。「つまらない」と言うかもしれません。けれど、小さなころに体験したことは、たとえそれが記憶の片隅に追いやられたとしても、きっと将来、何らかのきっかけで花咲くかもしれません。子供さんに、小さな花の種を植え付けると思って、この写真集を見せてあげて下さい。

では、今回はこのへんで。なんだか写真集の売り込みみたいになっちゃいましたね。写真集としては、¥2625という、まぁ手頃な金額でございます。装丁や大きさを変えた廉価版がもう少し安い値段で出れば、あるいは文庫版で出てくれたりすると、この写真集、もっともっと普及するはずで、ワタクシとしては嬉しいんですけどねぇ。

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2007/10/05

細密貼り絵の妙「山下清」

山下清、スゴイっす。いや、ホント。

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唐突で驚かれたかもしれませんが、昨日、ヤボ用で東京へ行った際、「上野の森美術館」へフラリと立ち寄ったのでございます。以前この美術館では、悪趣味なガンダム展でひどい目に遭っており、あまり印象は良くないのでございます。まぁ、しかし、美術館に罪はございません。出し物も確かめず、とりあえず足を運んでみたのでございます。

というわけで今回観賞したのが、「山下清」。いやこの人、名前は知っておりましたよ“おにぎりが好きなただのデブ”なんて思ってないですよ。ちゃんと絵画や貼り絵をする人だって知ってましたよ。しかし、しかし、この人の作品って、これほどまでにスゴイものだとは思っていなかったのでございます。今回はその山下清展での興奮を、冷め止まぬうちに取り急ぎご報告するのでございます。

以前、「美術作品は実物を見なきゃだめだ」って申し上げたことがございますが、この山下清さんの作品が、その典型的な例でございます。この人の作品のすばらしさは、目録などでは絶対に分かりません。絶対に実物、実物を見なきゃダメでございます。

みなさま方、"Google Earth"というのをご存じでございますか? 地球の衛星写真にどんどん近づいていくと、細かい部分がいくらでも拡大されて細部が見えてくるあのGoogle Earthでございます。まさに山下清画伯の貼り絵が、そのGoogle Earthそのものでございます。

清画伯の貼り絵は、遠目で見ると筆で描いた細密画のようでございます。ところがところが、絵に近づいていくにしたがい、細部がどんどん見えてくるのでございます。この細部が見えてくる感覚は、先述のGoogle Earthの例えそのものでございます。近づくに従い、底なし沼のような立体感に引き込まれそうな感覚に驚かされるのでございます。

十数センチという所まで絵に近づくと、清画伯の貼り絵の造作がはっきりと分かります。わずか数ミリという微塵(みじん)な色紙の切り端が、ビッシリと貼り敷きつめてございます。決して無造作になることなく、すべての一枚一枚にまで、十分な思慮・思い入れを込めて貼られているのが、ゾクッとするほど伝わってまいります。

間近で見る切り端のひとつひとつは、おのおのが光を受け、色を発し、そして影を作っております。小さな小さな切れ端の、ひとつひとつの様々な色や光や影が、混ざり、対抗し、調和し、不思議な不思議な立体感を醸し出しております。オーケストラと合唱団による何百人ものハーモニーのような、荘厳(そうごん)な立体感を醸し出しております。

清画伯の絵は、ワクワクするのでございます。ワタクシ絵を観ながら、小さな声で「スゴイ、スゴイ」を何度も連呼しておりました。何千枚、何万枚という小さな切れ端が、すべてその大きさ、色、角度など、計算され尽くして配置されております。ミクロな観点では時計職人が切り出した歯車のような緻密さを持ち、数歩離れてマクロな見方をすると、今度は正確でしっかりした構図が安定感を与えてくれるのでございます。

時間がなかったのでそそくさと観てしまった今回の山下清展でございましたが、もし時間があれば、数時間かけてじっくり観たかったのでございます。山下清の作品は、実物でなければ絶対にその感動が伝わってまいりません。もし、清画伯の作品を実際に観る機会がございましたら、足を運んでみて下さいませなのでございます。今回ワタクシが観た「上野の森美術館」での開催は、2007年10月9日(火)まででございますので、行かれる方はお急ぎ下さいませ。

ではでは、次回をお楽しみに。名古屋薫でございました。

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2000/07/03

あなたは感動スルハ、サセルハ?

はーい、皆様方、‘OL’の名古屋薫でございます。さあて、OLって何のことでしょうね? オフィスレディ?、オバケレディ?、オフロレディー?...皆様方、わかりますでしょうか? 少なくとも後者二つは私に当てはまるはずなのですが(笑)。

さて、ここのところワタクシのお気に入りの舞台が続いているのでございます。5月の末にはあの池端慎之介ことピーターのコンサートを、そして、6月には夏木マリさんと島田歌穂さんのミュージカル『The Link』を観たのでございます。また7月には三輪明宏さんの『エディットピアフ物語』が名古屋に来るのでございます(すべて名古屋でのスケジュールでございます。中部地区以外の方、ぬか喜びをされぬように)。

ワタクシ、とっても舞台が好きなのでございます。特に前述いたしました舞台の出演者の方々は、皆様方もご存じの通り、ワタクシのフェヴァリット(fevorite)なのでございます。では、なぜワタクシはこれほどまでに舞台が好きなのか、皆様方お分かりになりますか? この疑問への回答が、今回のテーマの糸口なのでございます。今回の表題「あなたは感動スルハ、サセルハ?」...意味深ですね...そう思ったら、もうあなたは“名古屋ワールド”に片足踏み入れていらっしゃるのでございます(ちなみに、昔、ストウハと黒人が叫ぶ映画がありましたが、全然関係有りません。アシカラズ)。

単刀直入に申し上げましょう。なぜ舞台が好きなのか。それは、“感動できる”からでございます。感動するということは人間が人間であることの証(あかし)、人間が動物と違って、文化や哲学を持ち得るのは、この“感動する”ということがあるからなのでございます。そして、この感動するということは人間の本能的な欲求なのでございます(ワタクシ、勢いと思いつきで文章を書いております。ひょっとするとそのスジの方のそのスジの専門用語が有るのかもしれません、でも、アシカラズ)。

でも、‘感動する方々’がいらっしゃれば、‘感動させている方々’もいらっしゃるということでございます。そして、その感動する派と感動させる派が存在すると、そこになぜか“商売”が生まれるのでございます(この商売という概念も実に人間的でございますネ)。たとえばでございます。コンサートホールで観客を魅了している歌手の方、この場合歌手は感動させる派であり、観客は感動する派なのでございます。そして、感動させられるからチケットが売れる。これは単純明快、よくお分かりですよネ。

でも、でも、しかしながらでございますヨ。カラオケボックスのドアの隙間からこぼれ出てくる歌声を、通路で受付をしている従業員のお兄さんが聞いているといたしましょう。この場合は先ほどのコンサートホールとは逆でございまして、歌を歌っている方がお客さんであり感動する派、そして従業員のお兄さんがお金を頂いてお客さんを感動させる派なのでございます。これも同じぐらい単純明快、自明の理でございます。

ここで、薫語録(かおるごろく)の登場でございます。

 「すばらしきこと、それは感動すること。
    しかし、もっとすばらしいのは、感動させること」

人間、感動する喜びというものは本能的な欲望なのでございます。しかしながら、感動させる喜びというものはむしろ知的な欲望なのでございます。そこで前述のカラオケボックスのお兄さん再登場なのでございます。あのお兄さんが一ヶ月働いて「お給料を貰うときの感動」、それはごく“本能的な欲望を満たされた感動”なのでございます。

しかし、もしそのお兄さんが気持ちよさそうに歌っているお客さんの顔を見て、「もっと気持ちよく歌って貰おう」という気持ちになったといたします。そのとき、そのお兄さんは“もっと感動させたい”という知的な欲望に目覚めたのでございます。まさにその瞬間、そのお兄さんは動物から知的生命体へと進化したのでございます(くれぐれも申しますが、ワタクシ、勢いと思いつきで単語を選んでおります。多少、不愉快な思いをされる方がいらっしゃるかもしれませんが、アシカラズ、悪気はございません)。

この感動させたいという欲望、別に商売に限ったことではありません。芸術家、科学技術の研究家、あるいは政治家のような方にも、是非とも持っていただきたい感覚なのでございます。しかしながら、世の中には、‘自分が感動したい方々’が多くいらっしゃるのでございます。まったく困ったものでございます(なんだか、世を儚(はかな)んで出家した修行僧のような口調になっておりますが、決してワタクシ出家などしておりません、アシカラズ)。

一期一会(いちごいちえ)と申します。日々出会う方それぞれが、人生においてこれっきりの出会いかもしれないから大事にいたしましょうという意味でございます(そのスジの方、専門用語があるでしょうが文句を言わないように)。そして、ワタクシ、自分の人生を舞台だと思っております。自分はその舞台の上の一人芝居の役者。そして、出会う方々一人一人が観客だと思っております。一人一人の観客を大事にし、感動していただこう、そう思って日々を送っております(そこのアナタ、だから、ワタクシ、本当に出家などしてないんだって)。しかし、「言うは易(やす)し、行うは難(かた)し」なのでございます。だから人生はおもしろいのでございます。

さて、チョット現実的なお話。今の時代、勝ち組のお商売は、みなこの“感動させる”というポイントを押さえているようなのでございます。自分の感動したい衝動を押し殺して、お客を感動させることに専念する。言い換えると、自分の趣味を押し殺して、お客の趣味に自分を染める(ほかにも言い方はいっぱいあります)。それを徹底しているお店が、どうもお金儲けをしているようなのでございます。お金儲けをしながら、自分の知的欲望も満足できる、まさに人生バラ色でございまする。

近頃は、お金儲けをするのが難しい時代になっております。皆様方も名古屋薫のShe-mailをごらんになって、どんどんお金儲けをしていただきたいものでございます(こう言っているワタクシがどれほどのお金持ちかって? 医者の不養生、紺屋(こんや)の白袴って言うでしょ! キニシナイ、キニシナイ)。

閑話休題、皆様方、いつでも人を感動させたい、そう思って日々過ごしていただきたいものでございます。それが、あなたの人間的魅力につながること受け合いでございます。では最後に...

  あなたは、感動する派、それとも 感動させる派?

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2000/02/15

夏木マリコンサート、マッドフレンチってご存じ?

全国の皆様、そして遠く海の向こうの皆様、一ヶ月ぶりの『名古屋薫のShe-mail』でございます。正月早々、立て続けに配信する事が出来、皆様方よりご好評をいただいてちょっと油断してしまった名古屋薫でございます。

ちょうど2月からお店のショータイムが切り替わり、この一ヶ月間というものは、そのショーの準備でかかりっきりでございました。「席に着けば漫才師、暗くなれば踊り子、昼間歩けばただの変態」などと自分のことを称しておりましたが、今回は「自宅にいるときはお針子娘」なのでございました。ホステス、ダンサー、歌手、振付師、衣裳作製師、エッセイイスト(えーとっ、他に何かあったっけ)といろんなことをやっておりますが、あまりに手を広げすぎて自分でも息が切れかかっている状態なのでございます。一般企業でも多角経営に手を広げすぎるというのはあまりよいものではございません。名古屋薫はましてや個人営業(?)、なおさらなのでございます。

さて、私が大変敬愛申し上げておりますアーティストの方が三人ほどおります。

  夏木マリ
  池端慎之介(ピーター)
  美輪明宏
    (敬称略)

の三人でございます。この三人に共通していることとは何でしょう。えっ、三人とも「オカマ」ですって!! 確かにピーターと三輪明宏はオカマ(ゲイボーイ)ではありますが、夏木マリは「オカマ」ではなく「オカマっぽい」のでございます。実は実は、この三人に共通するのは『シャンソン』なのでございます。三輪明宏のシャンソンは有名ですが、ピーターもコンサートではシャンソンを歌いますし、シャンソンのCDも出しています。では、夏木マリのシャンソンって?? 意外ではありませんでしたか? 今回のShe-mailはその夏木マリのコンサートのレポートなのでございます。

時は1月30日(日)、場所は東京天王洲アイル。名古屋在住の名古屋薫は、眠たい目をこすりながら東京まで馳せ参じたのでございました。このコンサートの正式な題名は

Piaf2000
 〜夏木マリ Mad Frenchを唄う〜

でございます。このMad Frenchという言葉、パンフレットの中では、「フレンチ狂」と訳しておりますが、私はむしろ、「ドロドロなフレンチ」といった感じで受けとめております。まさしくその通り、夏木マリの唄うフレンチは「ドロドロ」なのでございます。

日本でシャンソンといえばまず思い出されるのは越路吹雪。そして岩谷時子という作詞(訳詞)家の方が有名なのでございます。ただ、この方々を通じて日本にシャンソンというものが広まったときは、まだ日本は戦後の動乱期の中なのでございます。暗く落ち込んだ人々に少しでも明るい歌をと、必然的に日本のシャンソンはアッケラカンとした脳天気な歌になっちゃったのでございます。

しかし、本来シャンソンには暗いドロドロした人間くさい要素を持っているのでございます。それを忠実に表現しようとしたのが三輪明宏、そして、その三輪明宏と越路吹雪の中間の表現をしているのが、ピーターなのでございます。三輪明宏のシャンソンもドロドロ感の強いものなのでございますが、夏木マリのドロドロは更に強烈なのでございます。

シャンソンといえば『愛の賛歌』が有名。今回のコンサートでも曲目の中に入ってはいたのですが、もう、ほとんど原曲のイメージをとどめていない状態。シャンソンにあまり詳しくない人が聴いたら、まずこの曲が愛の賛歌とは思わないでしょう。また、伴奏も伝統的な(?)シャンソンにこだわらず、むしろ今風の新しいアレンジで新鮮な感覚なのでございます(ちなみにバンド編成はピアノorキーボード、ドラム、ギター、ベース。アレンジは江草啓太という方)。

パンフレットの中で、永瀧達治(フレンチ狂家元)という方がこんな言葉を寄せております。

(最近の芸術が薄っぺらくなるのを憂いて)薄っぺらになることではフランスもまた例外ではないが、パ・コム・レゾートルという言葉で「人と違うこと」を誇りにする品性がある。その点のみにおいてフランスには、今も、まだ表現者にとっての希望がある。Mad French(フレンチ狂)とは日常の損得や暮らしの安逸を越えて、どうしようもない人生、パ・コム・レゾートルの道を歩むことである。(以上、コンサートパンフレットより抜粋)

この永瀧達治さんは「夏木マリに夢中だ」と訴えております。私名古屋薫も夏木マリを大好きでございます。『印象派』を5年間続けている夏木マリが大好きでございます。「絹の靴下」をいっさい歌わなかった夏木マリが大好きでございます。しかし、今回のコンサートでロックバージョンの絹の靴下を歌った夏木マリも大好きでございます。気取らずに自分に正直に生きている夏木マリ、時々眉毛を書かない夏木マリ、たばこの似合う夏木マリ、オカマみたいな夏木マリ、苦しくても夢を捨てなかった夏木マリ、そして他人にも夢を持ち続けなさいと訴える夏木マリ、頑固な頑固な夏木マリ...そんな夏木マリが大好きでございます。

今の世の中、他人と違うことをするっていうのは大変勇気がいる時代になってしまっております。そのような時代の中で、夏木マリは自分のやりたいことをやり通しております。『印象派』という舞台はとても一般受けしにくい舞台です。初回の『印象派』では、上演の途中で席を立つ観客もおりましたが、現在では芸術賞を受賞するほどに評価されております。

また、アイドル歌手の頃の自分を切り捨てたかったのでしょうか? 「絹の靴下」という大ヒット曲を全く歌おうといたしませんでした。アイドル時代の曲を期待して来ているディナーショーのお客に対しても難しい曲を歌ってお客を当惑させたりしたこともありました。しかしながら、今回のコンサートではアンコール曲ではありましたが、ロックバージョンの絹の靴下を披露したのでございます。私は、そこに何か心の呪縛が吹っ切れたのではないかと思うのでございます。

アイドル人気が衰えて苦しい時代にあえてレッスンに励み自分を磨き、夢を捨てなかった人。そして他人にも「夢は実現する、夢を持ち続けなさい」とうったえる人。そんな人だからこそ、そこから表現されるものにも厚みがあるのでしょう。皆様も夢を持ち続けていただきたいものでございます。普段コマーシャルやドラマなどで見る夏木マリとは違った世界が舞台の中には存在します。

夏木マリの所属オフィス「K-LINK's」のサイト内に夏木マリBBSが開設されております。もし興味がおありでしたら、そちらの方もごらんになられてはどうでしょうか? 

K-LINK's
※現在は夏木マリ|事務所

また、今回のコンサートでは、「鎮静剤」という曲が私のお気に入りでございます。ローランサンの詩に曲をつけたものでございます。CDも出ております。もしよろしかったら聴いてみてください。

LA MARIE EN SEPTEMBRE ( WILDJUMBO TKCJ-70714)
¥2,200

ではでは、今回はこの辺で。夏木マリに興味がない人にとっては、ちょっと退屈なShe-mailだったかもね。それでは、玉石混交の『名古屋薫のShe-mail』次回をお楽しみに。

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1998/12/17

三つの顔を持つ男(?) ピーターこと池端慎之介

 さて今回は、七つの顔ならぬ「三つの顔を持つ男(?)」がテーマです。

  ある時は華麗なる貴婦人、ある時は紅顔(こうがん)の美少年、そしてある時は日舞の名取、その実体は? というわけで、ピーターこと池端慎之介さんの舞台、
Ctuepaf
(1998/10/18 東京都 博品館劇場にて)
をレポートしまーす。

◆このステージを簡単に説明すると

Ptr_hyoshi この舞台は第一部と第二部で構成されています。第一部はジャン・コクトーの一幕物(いちまくもの)の一人芝居を「役者」池端慎之介が演じ、第二部はエディットピアフのシャンソンを「歌手」ピーターが歌いきるといった趣向なんです。おっと、「新宿コマ劇場で小林幸子が、一部をお芝居、二部を歌謡ショーの構成で、 毎年座長公演をやってるじゃないか」とか「私は、小林幸子のより梅沢トミオのほうが好きだっちゃ」なんて声が聞こえてきそうですが、今回のはそんな大衆芸能ではなく、むしろ純芸能(注1)を追求したものなのです。あっ、別に小林幸子さんや梅沢トミオさんのが低レベルなんて言ってるわけじゃないですよ、念のため。

 ジャン・コクトーそしてエディット・ピアフと言えば、共に波乱の20世紀前半のフランスを生き抜き世界的に大活躍した、フランスが産みフランスが誇る偉大なる“劇作家”及び“シャンソン歌手”なんですよね、これが。そんな偉大なるお二人にいっぺんに挑戦しちゃおうっていう一粒で二度おいしいグリコアーモンドキャラメルのような(注2)舞台を観てきたのです。

<一部> ジャン・コクトーの世界

 「声」(東京創元社「ジャン・コクトー全集」より)

 舞台装置は大変シンプルでした。白を基調に淡いブルーの照明で味付け。登場人物は年増の女(池端慎之介)一人だけ。その女が電話の向こう側のほとんど絆の切れかかった恋人を必死につなぎ止めようとする様子が、淡々と続くのです。台詞(せりふ)は電話の受話器を握りしめる慎之介の声だけ、途中何人かの第三者が電話に割り込んでくるのですが、それも一人芝居で表現しちゃうのです。役者としてはやりがいがあるけれどトッテモつらい脚本のはず。それでなくても一人芝居っていうのは台詞の量が膨大になっちゃって役者にとっては負担が大きいんですよね。物語は結局、その年増女が悲しみに打ちひしがれて電話のコードで首を絞めて自殺してしまうのですが、その結末までの小一時間を“役者”池端慎之介さんがたった一人で演じきっていました。

<二部>エディット・ピアフの世界

 「ピアフ外伝」

 そして、短い休憩をはさんで舞台上はエディット・ピアフの世界へ。第二部の舞台はシンプルではあるけれどやや強いブルーの下地に赤のアクセントをあしらったコントラストのある照明で、第一部よりもちょっとハデになってます。やはり、舞台上は“歌手”ピーター(注3)が一人だけ。エディット・ピアフの妹の手記「ピアフ外伝」の朗読とシャンソンとを織り交ぜながらの進行なのでした。第一部のお芝居では台詞がきちんと決まってしまっていましたが、この第二部はむしろコンサートのノリ。アドリブっぽいMCなども時々挟み込んでの気楽な感じで、十数曲のシャンソンを歌いきりました。

◆ピーターがデビューした頃を知ってますか

 さーて、舞台の内容が長くなっちゃいました。大体の雰囲気が伝わったでしょうか? ところで、私名古屋薫がこの舞台にこれほどまでにもこだわる訳、実はあるんですねー。ピーターといえば今から○○年前、「夜と朝の間に」でデビューし、その独特の色気と当時では珍しいビジュアル系の出で立ちでかなりの人気を博した“歌手”だったそうです(注4)。今では、そのころのピーターさんを知っている人はそこそこの年齢なんでしょうね。しかし、ゆく川の流れは絶えずして、芸能人の人気なんてよどみに浮かぶうたかたの様なもの。一世を風靡したピーターさんも芸能界の激しい川面に浮かぶ一粒のうたかた、いつの間にか過去の人になっちゃったんですね。

 歌手として世の中からすっかり忘れられ、“あの人は今”なんたらというまるで沈殿物をかき回し直すような番組の題材になったかどうかは定かではありませんが、かのピーターさん本人は新たなる再デビューに向けてレッスンに励んでいたそうなんです。記念すべき再デビューの舞台が何であったかはよく知らないのですが、再デビュー後は池端慎之介として、“役者”にチャレンジし始めたんですね。

◆長いブランクの末の再デビュー

 一人三役をこなした『夏の夜の夢』(注5)、ミュージカル『お国』、TVドラマ『寝た振りしてる男たち』、まだまだいろいろあるのでしょうが、再デビュー後の池端慎之介さんは男役女役にこだわらず、果敢にチャレンジしていったんです。歌手時代は「ピーター」という一種の出来上がったイメージを作られ、ひょっとすると本人自身がその作られたイメージを必死に追っていたのかもしれません。ピーターというマスコミや大衆によって創られた固まったイメージをぬぐい去ることが、ピーターから池端慎之介に生まれ変わるための必須条件だったんでしょうね。

◆三つの名前を使い分ける

 その様なわけで、もうすっかり人気の定着したピーターこと池端慎之介さんですが、最近は本来のお家芸日本舞踊吉村流の名取として「吉村」という名前を、歌手としては「ピーター」を役者としては「池端慎之介」を使っているのです。簡単に考えると世間から忘れられた元歌手が役者としてカムバックって簡単に考えられちゃうんでしょうが、実際にはブランクに落ち込んだ芸人が、必死にスポットライト当たるところへはい上がってきたという涙ぐましい努力が隠されているんです。私名古屋薫はそんな思いでピーターさんを応援してるんですけど、みなさんはどうですか。ピーターさんに対する見方、これでちょっと変わりましたか?

【脚注】

(注1)純芸能
大衆文学に対して純文学という語があるように、大衆芸能に対になる語の意味で、今、私が思いつきで作った造語です。

(注2)グリコアーモンドキャラメルのような
ちなみに、アーモンドの量を2倍あるいは3倍に増量し、(2度x2倍増量)で4倍、(2度x3倍増量)で6倍もおいしい特別バージョンのグリコアーモンドキャラメルを知ってますか? 私は食べたことが有りまーす。

(注3)“歌手”ピーター(本文へ戻る)
あえて、“池端慎之介”と“ピーター”を使い分けています。

(注4)“歌手”だったそうです(本文へ戻る)
名古屋薫は24歳なのでその当時のことは全然分かりません(ということにしといてネ)。

(注5)『夏の夜の夢』
1991年6月シアターコクーンにて(加藤直演出)

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1998/12/16

強烈なるパフォーマンス『夏木マリ・印象派』

夏木マリ・印象派

Inshof今回は夏木マリさんの舞台をレポートいたしまーす。この舞台Vol.5ということで今回で5年目5回目の公演と言うことですね。私名古屋薫はこの印象派の舞台をVol.1から全部観ているわけで、最初のVol.1は私の故郷、名古屋のマツザカヤホールで観たわけです。そのマツザカヤホール、やや小さめのホールであるにもかかわらず観客は5割程度といった感じ、しかも公演の途中で席を立って帰る人も何人かって感じだったんです。それに比べると今回のVol.5では、アートスフィアがほぼ満席状態。最近では発売日にチケットを購入しても中程の席しか確保できないほどの超人気舞台に化けちゃったというわけ。夏木マリのファンの一人といたしましては、なんともうれしい限りなんです。

Natuki1当日は(1998年)10月11日、会場のある天王洲アイルには浜松町から羽田空港行きのモノレールに乗るのですが、この日二連休の二日目の夕方ということもあって関東圏から戻っていく人そして関東圏へ戻ってきた人たちでモノレールは大混雑だったわけです。そんな状態の中、普段ならあまり下車しない天王洲アイルでただならぬ下車する人の数。この人達が皆アートスフィアの夏木マリさんを見に行くのかなっなんて思っちゃったりして。そして会場に訪れた観客の顔ぶれを見ると、以外にも若い女性が多いんですよね。5年前のVol.1の頃はアイドル夏木マリで青春時代を過ごしたような年輩の方がほとんどでしたが...

Panfuさて、肝心の舞台の内容ですが、この舞台、冒頭の演出からコリまくってます。ある年はそれこそSMショーよろしく舞台の上から鎖に逆さ吊りになったままゆっくり降りてきたり。それも逆さで降ろされながらちゃんと歌を歌っているのですよ。またある年は舞台をわずか暗転している間に忍者のように舞台に現れていたりと、とにかく最初からドッキリビックリの舞台なのでございます。そこで、今年の最初のドッキリビックリはと申しますと、何と客席に入ったときにはもう舞台に板付きで固まっているのです、それも両手をインド舞踊のように差し上げて。舞台も会場内も薄暗く、夏木マリさんの姿はシルエットとして後ろのスクリーンに映し出されているだけなのですが、そのシルエットは紛れもなく夏木マリさん本人。会場内がまだざわついているにもかかわらず舞台上だけは非常に静かで強烈な存在感を匂わしているのでありました

Tshort突然の大音響と共に始まる今回の「印象派」、なんと舞台の上には中央のわずかのスペースを残して一面にリンゴが敷き詰められているのです。あと舞台の上にあるのはやや大きめのテーブル。これだけのシンプルな舞台(*1)なんです。最初、薄暗い間はこのリンゴ、何だかわからず何があるのだろうといぷかしく思っておりましたが、舞台の進行とともにそのリンゴが様々に様相を変えるのです。あるときは色様々なジェリービーンズの様であったり、そして次の瞬間には金属的な鈍い光を帯びて冷たく光ったりと、照明の変化に応じて次々にイメージ(印象)を変えていく。おそらく、この敷き詰められた物体がリンゴである必要性は全くないのでしょうね。夏木マリ演じるところのイメージによって一面のリンゴが何に見えるかは観客の想像力に任せる、そんな自由な見方で良いのではないでしょうか。とにかくコリまくりの夏木マリさん。去年の「印象派」では舞台に砂が敷き詰められてました。毎年、舞台装置はいたってシンプルなのですが、そこは観客の自由な発想を求める現れではないでしょうか。こんなところに「印象派」と能楽との共通点を見付けたような気がするんですが。

Natuki2舞台上のリンゴが様々にそのキャラクターを変化させていくように。演じるところの夏木マリさんも次々と化けていくんですね、これが。 無邪気な子供がはしゃぎ回っているかと思えば文字通り「理解に苦しむ」ような狂人の独り言のようでもあり、またある時は弁舌激しい革命家のようであったりと。 はっきりと意味を持った言葉を発するときもあれば全く意味不明の奇声をあげていたり。ストーリーが有るようで無いようで有るのか無いのか? いや、テーマはあるけど(*2)ストーリーは無いんでしょうね。シナリオや演技や声が観客を感動させるのではなく、夏木マリさんの発する印象(波動)が直接観客の心を打つ、そんな感じじゃないでしょうか。「印象派」の舞台に対して適当な形容があるとすれば「パフォーマンス」ではないでしょうか。「歌」は歌うけれどコンサートではない。まぎれもなく「演技」なのですが、一貫したシナリオは無い。しかし、舞台上からは強烈な波動が発せられている。そんな感じ、この文章だけでどれほど理解してもらえますでしょうか? 

Tshotbところで、私たちが舞台(コンサートでもミュージカルでも何でも良いんですが)を観たときに、いったい何に感動しているんでしょう。きらびやかな衣装? きれいな歌声? あるいは緻密な脚本? これらは決して間違いではないでしょう。舞台を構成する上でそれぞれ大事なものです。ただ、舞台の上から小物や小細工をどんどん取り去って舞台の上にいる演者を裸にしていったら...どうぞ想像してみてください。舞台の上に残るのはいったいなんでしょう? その回答がこの「印象派」にあるような気がします。さて、あなたは何だと思いますか? 私なりの回答それは、最後に舞台上に残るのは演者の「息づかい」ではないでしょうか。何もかも取り去るとそこには一生懸命演じている演者の息のみが残っている。そして、その息づかいこそが観客に伝わる。これは演劇だけではなく、ダンスや歌などにも通じることではないでしょうか。衣装がきれい、歌声がきれい、と人は感じることもある。でもそんなことは一時的なこと。時と場所が変わってしまえば変わってしまうかもしれません。でも、息づかいだけは真実。母親や父親のあなたに対する息づかい、あるいは恋人があなたに告白するときの(逆の時もあるよね)息づかい。これらは真実であったはず、ネッ、そうでしょ(*3)。

Posterどうです、この「印象派」の舞台、興味がわいてきましたか? 私などは公演中何度か、わけもわからず目頭が熱くなる瞬間がありました。何かがダイレクトに私の心に波動を送っているのを実感しました。ただ、前述しましたように能楽に通じるような難解な要素も持っているので、「ナーニこれ、ぜーんぜんわかんなーい」って感じる人もいるはず。でも、「わかる」ことは重要ではないはず。むしろ重要なのは「感じる」こと。これが能楽に通じると私が思える理由ではないでしょうか。「夏木マリ・印象派」、これは「パフォーマンス」です。綺麗な歌を聞きに行った人、あるいはドラマチックなストーリーに期待した人はそれなりに失望するかもしれません。しかし、強烈な波動(印象)を感じられることは間違いないはず。残念なことに今回は東京以外の地方公演は無いとのこと。しかし、来年(1999年)の1/15,1/16にパリ公演を控えているそうです。この時期にフランスにいらっしゃる方はぜひ、ごらんになってください。


最後に、「夏木マリ・印象派」のヒストリーをパンフレットから書き写しておきます。詳しくは夏木マリさんの所属事務所「K-LINKS」のサイトへどうぞ。

印象派Vol.1
 1993年11月26日、27日、28日●
  東京 シアターX
 12月1日●
  愛知 マツザカヤホール

印象派Vol.2
 1994年10月29日●
  東京 アートスフィア

印象派Vol.3
 1995年9月21日、22日●
  東京 アートスフィア

印象派Vol.4
 1997年3月7日、8日、9日●
  東京 アートスフィア
 3月16日●
  愛知 名古屋芸術創造センター
 3月17日●
  大阪 シアター・ドラマシティ
 3月20日~29日●
  ロンドン ICA(Institute of Cntemporary Arts)
 11月28日、29日●
  パリ Theatre du conservatoire
 1998年7月27日~8月2日●
  フランス アビニョン演劇祭 Theatre du Chien qui Fume
 8月6日~15日●
  イギリス エジンバラ演劇祭 Continental Shifts at St Bride`s

印象派Vol.5
 1998年10月9日、10日、11日●
  東京 アートスフィア
 1999年1月15日、16日●
  パリ Le Theatre de Corbeil-Essonnes

1999年秋・公演予定地
 LONDON, GALSGOW(UK)  GALWAY(IRELAND)
 PARIS, CORBEIL, LYON, MARSEILLES. NANTES(FRANCE)
 MILANO(ITALY)  PLZEN(CZECH)  SRATOV(RUSSIA)
 TORUN, KRAKOW(POLAND)

 (以上、「夏木マリ・印象派」プログラムより)

●閑話休題●

ちょうど、今回の舞台を観た翌日に、ある雑誌で興味深い話題を見付けました(*4)。みなさん、中島みゆきの「夜会」というのをご存じでしょうか。その夜会での隠しマイクの是非について中島みゆきさんがインタビューに答えていたんです。

「夜会」という舞台でミュージカルみたいに全身で表現して歌いたい。そのためにミュージカルで使うような小さなマイクで歌声を拾おうとしたのだけれど、結局本番ではハンドマイクに戻しちゃった。そのわけをインタビュアーが聞くと、そういった小さなマイクは息を拾わないからダメとのこと。息の成分の無い歌が許せないと中島みゆきさんは言ってるんです。実音じゃない息の部分とか空気の音とか、要するに「気配」として表現されるものを表現したい、とも言っています。この話と、「印象派」での息づかいの話とが何かしら共通しているみたいで、興味深かったんですね。この「夜会」、見に行った人に内容を聞くと、やはり、「印象派」と同じような要素を持っている様子、コンサートというよりもパフォーマンスに近いらしいんです。この記事を読んで、無性に中島みゆきの「夜会」を観てみたくなっちゃいました。でもこのチケット、プラチナペーパーと呼ばれているらしくなかなか入手困難らしいんです。もし、この「夜会」に行けたら、またレポートしましょうね!

 

リンク

K-LINKS's(夏木マリさんが所属する事務所)
 ※現在は「夏木マリ|事務所」
  http://marinatsuki.com/

脚注:

(*1)シンプルな舞台
昨年は舞台上に砂が敷き詰められていました。
 
(*2)テーマはあるけど
この印象派に限らず夏木マリさんの一貫したテーマは「反戦」ではないでしょうか。
今回のパンフレットにも「NHK海外たすけあい」のページがありました。
 
(*3)ネッ、そうでしょ
えっ、真実じゃなかったって、それはまた不幸な人生でしたね。
でも、めげずに頑張ってね。
 
(*4)ある雑誌で興味深い話題を見付けました
Weeklyぴあ(関東版) 1998年10月19日号 27ページ
「変わりつづける。」中島みゆきが語る「夜会」の10年

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