不条理のススメ
4ヶ月ほど前、東海テレビの『ぴーかんテレビ』という番組が不適切テロップで打ち切りになったのは、まだ記憶に新しいことでございましょう。その後、その空いた時間枠にはフジテレビ系のドラマの再放送が流されておりました。この再放送ってのがなかなかあなどれなく、『古畑任三郎』のシーズン2とシーズン3を、みっちり鑑賞させていただきました。そして、その古畑以後は『アルジャーノンに花束を』が再放送され、先日、その最終回を見終わったのでございます。
ワタクシ、このドラマは初見でございます。ダニエル・キイス著の原作は若い頃に読んでおりますし、映画も観ております。しかし、その救いようのない空しい結末に、テレビドラマ化されたときには敬遠しておりました。なんでしょうかねぇ、結末の空しさを知っているからでしょうか、あるいは、世界的な名文学ゆえに、それが促成栽培のドラマ化でよくあるような稚拙な演出や演技で汚されるのを危惧していたのでしょうか。2002年の放送時には全く避けていたものを、今回、その再放送でじっくりと鑑賞させていただいたのでございます。
原作に比べると、ドラマの方はちょっと温かい救いのある結末にしているようでございます。もちろん、本筋は原作を逸脱していないことに安心いたしました。お茶の間ドラマとして放送するには、あまりにも救いのない結末には出来なかったのでございましょう。涙を誘いつつ、ほどよいテイストのドラマに仕上がっていると思うのでございます。実は、その出来のほどを心配しながら観た今回の再放送でございましたが、非常に好感が持てるドラマだったのでございます。特に、主役のユースケ・サンタマリアをはじめ、出演者全員が実に誠実な演技をしております。誠実ってのはいいですねぇ。誠実の反対語は何でしょうかねぇ? 「あざとい」でしょうか?
ワタクシ、小さい頃に映画化されたこの作品を観て、多分、トラウマのようなものを持った気がいたします。全く救いのない結末、不条理なその内容に、ひどく傷ついたような気がするのでございます。しかし、そんな不条理の中に「現実(リアリスティック)」を見いだしたのでしょうか、ワタクシはね、どんどん不条理映画を好む大人になってしまったのでございます。あぁ、三つ子の魂百までとは、よく言ったものでございます。しかしながら、そういった不条理映画やドラマは、興行収入や視聴率の面で不利にならざるをえない。実際、ドラマ『アルジャーノンに花束を』の2002年放送時には、あまり視聴率が良くなかったようでございます。最近のテレビ局は財政的に厳しいので、確実に数字の取れる番組を、ということで、ネームバリューのあるタレントを起用した明るい内容の、結果的に促成栽培のドラマが多くなっているのではないでしょうかねぇ(特に民放)。
では、ここからチクチクと憎まれ口をたたかせていただきましょうかねぇ。促成栽培のドラマとは何か? 先ほど申しましたように、確実に視聴率が取れる有名タレントをキャスティングするというのが、まず大前提。すると、そんなタレントは、スケジュールを押さえるのが厳しい。必然的に、短い時間で効率的に撮影を進めていかなければならない。じっくりと何テイクも取りたいような場面でも、当然、妥協することになる。というか、そもそも、何テイクも撮ることになるような、そんな深みのある難しい脚本は最初から提供されない。どうです? 安全に、そして確実に視聴率を稼げる促成栽培のドラマの図式が、見えてくるでしょ。
たとえば、名前を出して申し訳ないが、木村拓哉。彼の主演するドラマは、どれもみなドラマの中に「木村拓哉」がいるだけ。つまり演技ではなく“地(じ)”で演じているだけ。それでもドラマとして成立しているのは、脚本がそのように作ってあるから。ところが、山田洋次監督の『武士の一分』という映画での木村拓哉は別人だった。そこには、きちんと演じている“役者”木村拓哉がいる。そう、きちんと演技指導をし、時間をかけて撮影すれば、それなりの演技が出来るのでございます。というか、促成栽培の映画を山田洋次が作るわけがない。そんな山田洋次の誠実さを見るに、促成栽培ドラマのテレビ局は、タレントに良い作品を残させてあげようとせず、客寄せパンダ的にタレントを使い捨てにしていると言えるのでございます。
さて、お話をドラマ『アルジャーノンに花束を』に戻しますと、この作品は、ある意味、運が良かったのかも。まず、内容のシリアスさと主人公が知的障害を演じるということで、人気タレントの起用は難しかったはず。そこで白羽の矢が立ったのが、ユースケ・サンタマリアなのでございましょう。当時、それほど知名度がなかった(失礼)でしょうから、スケジュールも余裕があったはず。それに加え、この原作のドラマ化にあたっては、3年も交渉を続けたとのこと。それだけでもスタッフの原作に対する敬意の厚さが計り知れるのでございます。原作を尊重したスタッフが、主役に十分な演技指導を与えながら撮影を進める。そのような条件が重なって、このドラマが誠実なものに出来上がったのでございましょう。
ただ、一つ注文をつけさせていただければ、家庭向けのドラマとしては仕方が無いのでしょうが、結末がちょっと救いのある温かいものになっていたこと。原作の不条理さを知っていると、「ちょっと生ぬるいな」という感が否めない。そこで、「不条理は是か非か?」ということになるのですが、ここでちょっと、名古屋薫的なこんな独断発言をいたしましょう。
芸術作品の“感動”は、結末の「ハッピーエンド/不条理」には左右されない
ということ。作品の結末はその作品の“感動”に大きく影響しているように思えますが、いや、結末は作品の感動に関係ないのでございます(キッパリ!)。では、どこに感動があるか。それは、その作品の登場人物の「生きざま」にあるのでございます。最後がハッピーであろうが不条理であろうが、そこに向かっていく人間の生き生きとした生きざまこそに、芸術作品の感動があるのでございます。
では、結末はどのように影響しているか? 結末というのは、“座標軸の原点”と考えて下さいませ。ハッピーエンドの作品は、「幸せ」というポイントを0(ゼロ)の位置と考える。すると、登場人物はマイナス領域でのたうち回ることになる。逆に不条理な作品では、その不条理な状態を0とする。すると相対的に、同じ“のたうち回り”が、今度はプラス領域になる。つまり、生きざまによる感動を、上から見下ろしたのがハッピーエンドの作品、下から見上げたのが不条理な作品。見る方向が違うだけで、感動の主体である生きざまは、同じものなのでございます。
さあ、芸術作品の感動には結末は関係ないのですから、ドラマ制作者はもっと勇気を持って、不条理なドラマを作っていただきたいのでございます。登場人物の生きざまさえしっかり表現されていれば、たとえ不条理な結末でも十分な感動を与えることが出来るのでございます。しかし、その「しっかり表現」という手間ひまがかけられず、促成栽培のドラマに落ち入ってしまう。う〜ん、悲しいのでございます。もっとも、ドラマ『アルジャーノンに花束を』の視聴率が振るわなかったように、しっかり作り込んだドラマがそれなりの評価を得られないという、『見る側の目』にも若干の問題があるのではありますけどね。
ということで、今日は「不条理のススメ」でございました。不条理を伝えるには、発信者側に誠実さが必要でございます。その誠実さに、観た人は感動するのでございます。不条理ドラマ、バンザ〜イ。

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この舞台は第一部と第二部で構成されています。第一部はジャン・コクトーの一幕物(いちまくもの)の一人芝居を「役者」池端慎之介が演じ、第二部はエディットピアフのシャンソンを「歌手」ピーターが歌いきるといった趣向なんです。おっと、「新宿コマ劇場で小林幸子が、一部をお芝居、二部を歌謡ショーの構成で、 毎年座長公演をやってるじゃないか」とか「私は、小林幸子のより梅沢トミオのほうが好きだっちゃ」なんて声が聞こえてきそうですが、今回のはそんな大衆芸能ではなく、むしろ純芸能(注1)を追求したものなのです。あっ、別に小林幸子さんや梅沢トミオさんのが低レベルなんて言ってるわけじゃないですよ、念のため。
今回は夏木マリさんの舞台をレポートいたしまーす。この舞台Vol.5ということで今回で5年目5回目の公演と言うことですね。私名古屋薫はこの印象派の舞台をVol.1から全部観ているわけで、最初のVol.1は私の故郷、名古屋のマツザカヤホールで観たわけです。そのマツザカヤホール、やや小さめのホールであるにもかかわらず観客は5割程度といった感じ、しかも公演の途中で席を立って帰る人も何人かって感じだったんです。それに比べると今回のVol.5では、アートスフィアがほぼ満席状態。最近では発売日にチケットを購入しても中程の席しか確保できないほどの超人気舞台に化けちゃったというわけ。夏木マリのファンの一人といたしましては、なんともうれしい限りなんです。
当日は(1998年)10月11日、会場のある天王洲アイルには浜松町から羽田空港行きのモノレールに乗るのですが、この日二連休の二日目の夕方ということもあって関東圏から戻っていく人そして関東圏へ戻ってきた人たちでモノレールは大混雑だったわけです。そんな状態の中、普段ならあまり下車しない天王洲アイルでただならぬ下車する人の数。この人達が皆アートスフィアの夏木マリさんを見に行くのかなっなんて思っちゃったりして。そして会場に訪れた観客の顔ぶれを見ると、以外にも若い女性が多いんですよね。5年前のVol.1の頃はアイドル夏木マリで青春時代を過ごしたような年輩の方がほとんどでしたが...
さて、肝心の舞台の内容ですが、この舞台、冒頭の演出からコリまくってます。ある年はそれこそSMショーよろしく舞台の上から鎖に逆さ吊りになったままゆっくり降りてきたり。それも逆さで降ろされながらちゃんと歌を歌っているのですよ。またある年は舞台をわずか暗転している間に忍者のように舞台に現れていたりと、とにかく最初からドッキリビックリの舞台なのでございます。そこで、今年の最初のドッキリビックリはと申しますと、何と客席に入ったときにはもう舞台に板付きで固まっているのです、それも両手をインド舞踊のように差し上げて。舞台も会場内も薄暗く、夏木マリさんの姿はシルエットとして後ろのスクリーンに映し出されているだけなのですが、そのシルエットは紛れもなく夏木マリさん本人。会場内がまだざわついているにもかかわらず舞台上だけは非常に静かで強烈な存在感を匂わしているのでありました
突然の大音響と共に始まる今回の「印象派」、なんと舞台の上には中央のわずかのスペースを残して一面にリンゴが敷き詰められているのです。あと舞台の上にあるのはやや大きめのテーブル。これだけのシンプルな舞台(*1)なんです。最初、薄暗い間はこのリンゴ、何だかわからず何があるのだろうといぷかしく思っておりましたが、舞台の進行とともにそのリンゴが様々に様相を変えるのです。あるときは色様々なジェリービーンズの様であったり、そして次の瞬間には金属的な鈍い光を帯びて冷たく光ったりと、照明の変化に応じて次々にイメージ(印象)を変えていく。おそらく、この敷き詰められた物体がリンゴである必要性は全くないのでしょうね。夏木マリ演じるところのイメージによって一面のリンゴが何に見えるかは観客の想像力に任せる、そんな自由な見方で良いのではないでしょうか。とにかくコリまくりの夏木マリさん。去年の「印象派」では舞台に砂が敷き詰められてました。毎年、舞台装置はいたってシンプルなのですが、そこは観客の自由な発想を求める現れではないでしょうか。こんなところに「印象派」と能楽との共通点を見付けたような気がするんですが。
舞台上のリンゴが様々にそのキャラクターを変化させていくように。演じるところの夏木マリさんも次々と化けていくんですね、これが。 無邪気な子供がはしゃぎ回っているかと思えば文字通り「理解に苦しむ」ような狂人の独り言のようでもあり、またある時は弁舌激しい革命家のようであったりと。 はっきりと意味を持った言葉を発するときもあれば全く意味不明の奇声をあげていたり。ストーリーが有るようで無いようで有るのか無いのか? いや、テーマはあるけど(*2)ストーリーは無いんでしょうね。シナリオや演技や声が観客を感動させるのではなく、夏木マリさんの発する印象(波動)が直接観客の心を打つ、そんな感じじゃないでしょうか。「印象派」の舞台に対して適当な形容があるとすれば「パフォーマンス」ではないでしょうか。「歌」は歌うけれどコンサートではない。まぎれもなく「演技」なのですが、一貫したシナリオは無い。しかし、舞台上からは強烈な波動が発せられている。そんな感じ、この文章だけでどれほど理解してもらえますでしょうか?
ところで、私たちが舞台(コンサートでもミュージカルでも何でも良いんですが)を観たときに、いったい何に感動しているんでしょう。きらびやかな衣装? きれいな歌声? あるいは緻密な脚本? これらは決して間違いではないでしょう。舞台を構成する上でそれぞれ大事なものです。ただ、舞台の上から小物や小細工をどんどん取り去って舞台の上にいる演者を裸にしていったら...どうぞ想像してみてください。舞台の上に残るのはいったいなんでしょう? その回答がこの「印象派」にあるような気がします。さて、あなたは何だと思いますか? 私なりの回答それは、最後に舞台上に残るのは演者の「息づかい」ではないでしょうか。何もかも取り去るとそこには一生懸命演じている演者の息のみが残っている。そして、その息づかいこそが観客に伝わる。これは演劇だけではなく、ダンスや歌などにも通じることではないでしょうか。衣装がきれい、歌声がきれい、と人は感じることもある。でもそんなことは一時的なこと。時と場所が変わってしまえば変わってしまうかもしれません。でも、息づかいだけは真実。母親や父親のあなたに対する息づかい、あるいは恋人があなたに告白するときの(逆の時もあるよね)息づかい。これらは真実であったはず、ネッ、そうでしょ(*3)。
どうです、この「印象派」の舞台、興味がわいてきましたか? 私などは公演中何度か、わけもわからず目頭が熱くなる瞬間がありました。何かがダイレクトに私の心に波動を送っているのを実感しました。ただ、前述しましたように能楽に通じるような難解な要素も持っているので、「ナーニこれ、ぜーんぜんわかんなーい」って感じる人もいるはず。でも、「わかる」ことは重要ではないはず。むしろ重要なのは「感じる」こと。これが能楽に通じると私が思える理由ではないでしょうか。「夏木マリ・印象派」、これは「パフォーマンス」です。綺麗な歌を聞きに行った人、あるいはドラマチックなストーリーに期待した人はそれなりに失望するかもしれません。しかし、強烈な波動(印象)を感じられることは間違いないはず。残念なことに今回は東京以外の地方公演は無いとのこと。しかし、来年(1999年)の1/15,1/16にパリ公演を控えているそうです。この時期にフランスにいらっしゃる方はぜひ、ごらんになってください。
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