文化・芸術

2018/04/09

【これで行こうとみんなが納得すれば、それが伝統となる】

百人一首、藤原公経(ふじわらのきんつね)の歌に、こんな歌がございます。

 花さそふ
  あらしの庭の
  雪ならで
 ふりゆくものは
  わが身なりけり

強い風で桜の花弁が一面に散り敷いて、季節外れの雪が積もったように、庭を白くしている。桜も降(ふ)り行くが、むしろ、髪を白くしている私も、旧(ふ)り行く(年を取ること)ものだなぁ。と歌った和歌でございます。

藤原公経は桜の花弁を雪と見間違えたわけですが、高山では、実際に季節外れの雪が降り、桜の花に雪が積もったそうでございます。「寒の戻り」とは言いますが、何もそこまで戻らなくてもよろしいのにねぇ。「桜に積もる雪」なんて場合、季語はどうなるのでしょうねぇ。

お話は変わって、先日、大相撲で女性が土俵に上がるウンヌンというお話がございました。それで、表彰式などは女性に「男装」をさせれば良いなんてぇことを、ワタクシ、申しましたが、それに関してさらなるアイデアが思いついたのでございます。

どうせやるなら、トコトン、頂点を極めましょう。男装と言えば、そう、「タカラヅカ」でございます。タカラヅカから暇そうな人を呼んで、いや、失礼、もとい、タカラヅカに協力を仰ぎまして、スタッフを呼ぶのでございます。出番の空いている男役の団員さんを呼ぶというのも、これまたよろしいかと。

そこでですねぇ、表彰式で土俵に上がりたいと言う市長さんなり官房長官なりがいらっしゃいましたら、そりゃぁもう、タカラヅカ張りの男装を決めまして、立ち居振る舞いも団員さんの実技指導を施すわけでございます。タカラヅカの男役に実技指導を受けると聞いて、喜ばない女性がいるでしょうか。女性側の問題は、これで解消ですし、最高の余興になる可能性も! いや、女性を余興とか、セクハラ失礼。

あとは、世論ですよねぇ。これが難題。どうやって世間に理解を得るか? 都市伝説として、女性の生理が不浄だから、神聖な場所にはふさわしくないという説がある。神聖と言われましてもねぇ、普段は体育館だったりする場所で行われているわけで、単に「空気・雰囲気」の問題なのでございますよね。ここに、「スポーツ」として合理化していない大相撲の難しさがございます。

そこで、一案! 「神様を騙す」と相撲協会が公言してしまう。男装をすることで、神様の目を欺くわけでございます。神様を騙していいのかと叱られそうですが、日本の神様は騙していい。なぜなら、日本の神様は、嫉妬もすればイジワルもする、西洋の絶対神に比べると、日本の神様は、ずっと、ずっと、感性豊かで人間的なのでございます。

まぁ、詭弁になっちゃいましたけど、女性が土俵に上がれないという問題は、何かしらのルールを作らないとマズイでしょうねぇ。ワタクシみたいに、男だか女だか分かんないのも増えちゃってるわけですしねぇ。男だと思って土俵に上げたら、実は女でしたなんてことになったら、どうなるのでしょう。これはこれで、ちょっと、ワクワクですな。では、では。

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2017/08/07

【和歌 vs ロックンロール】

昨日は、日本人とアメリカ人の感性の違いってのに、少し触れておりました。そこで今日は、別の角度から、その違いを紐解くのでございます。題材は「百人一首」。ピーター・J・マクミランという方が百人一首を英訳しておりまして、その中から「小野小町」を選びましょう。では、はじまり、はじまり~~~。

まず、歌の紹介から。

花の色は うつりにけりな
いたずらに
わが身世にふる
ながめせしまに

「桜の花の色はすっかり色褪せてしまったなぁ...長雨が降り続いて空しく日々を過ごしている間に」という意味でございます。この歌には、もう一つの意味がございますが、それは後ほどに。で、これを英訳するとどうなるか? これでございます。

I have loved in vain
and now my beauty fades
like these cherry blossoms
paling in the long rains of spring
that I gaze upon alone.

結論から申しましょう。元の小野小町の歌、これは「はぐらかし」の集大成でございます。一方、ピーターさんの英訳はともうしますと、これが実にダイレクト。一点の曇りもなく、写実的に表している。では、1行目から紐解いて行きましょう。

まず、英訳の1行目、いきなり「I have loved in vain」と来ちゃいました。いやぁ、シビレル! ロックだねぇ! いきなり本題に入っちゃいますか! 実は、この歌には意味がもう一つございます。「私の容姿はすっかり衰えたなぁ...空しく恋に時を過ごし、もの思いにふけっている間に」という意味が隠されているのですが、それをズバリ、最初に、言っちゃいますかぁ。いやぁ、ロックンロール!

一番大事なことを最初に言うのは、住所表記でも現れてますよね。欧米の住所は番地やストリート名から先に記述して、州とか国はいちばん最後に書く。日本は逆。大まかな区分から記述し、徐々に細かく書いていく。やはり、アメリカ人、ロックなんですよ。まず、ハートの叫びがあり、細けぇ説明は後でいいんだよっていうノリなのでございます。

この歌には「はぐらかし」が有ると申しましたが、それを一つ一つご説明いたしやしょう。まず、和文では、自分の「容姿」に関して言及しておりません。あくまでも主題は「花=桜」でございます。その桜の色褪せを語りながら、「私の心情を勝手に想像してね」っていうスタンスなのでございます。

歌に二つの意味を持たせたため、和文には二つの「時間軸」が重なっているのでございます。ひとつは、桜が色褪せる春の日の数日間という時間軸。もう一つは、若い頃から恋遍歴を重ね今は年老いてしまったという小野小町の人生。桜が色褪せた数日間を自分の人生に投影するという、実に繊細かつ壮大な重ね合わせが有るのでございます。

まだまだ有りますよ~。歌に二つの意味を持たせるため、ところどころ言葉のマジックをしているのでございます。「ふる」は「(時を)経(ふ)る」と「(雨が)降る」の二つの意味が。「ながめ」には「眺め」と「長雨(ながめ)」との二つの意味を含ませております。同音異義語が多い日本語ならではの、「掛詞(かけことば)」というテクニックでございます。

和文、第三句の「いたずらに」という語。この語は、この歌のキーワードなのでございます。英訳でも冒頭に現れた「vain」という単語がそれ。「無駄に」「空しい・儚(はかな)い」という意味でございます。この語が、桜の色褪せを表すとともに、作者の心情も表している。

そして、この「いたずらに」が歌のまん中に配置されているというのも、ミソ。小野小町のニクイ演出でございます。「いたずらに」が、「うつりにけり」に掛かっているのか「世にふる」に掛かっているのかを、はぐらかしている。桜の花も儚いけど、私の人生も儚かったなぁと、「いたずらに」という語が歌全体にベールを掛けるように色づけているのでございます。

和文は、はぐらかしの集大成。一方、英訳は、隠れた主題をいきなり登場させ、オーバーラップされた二つの意味、二つの時間軸は、それぞれ別に書き連ねる。ですので、一文一文の表現や時制は明瞭。余談を挟む余地は無し。まぁ、英語でも”はぐらかした表現”は出来るのでしょうけど、英訳者のピーターさんは、難解な詩になるのを恐れたのかも知れませんね。

長くなっちゃいましたが、いかがなものでしょう? 日本語の表現ってのは、古来から「はぐらかし」の集大成なのでございます。特に「心情を赤裸々に語らず、はぐらかすのが風流」という考え方がございます。一方、英語の表現というのは、ダイレクト。表現がロックンロールなのでございます。

昨日は、日米の「融和」というお話をいたしましたが、分かり合うためには、相手のことをよく知ることも重要でございます。はぐらかすのが美徳とする日本、ダイレクトに表現するアメリカ。この違いを吸収するのは、お互いの相手への理解でございます。と、長くなってしまいましたので、この辺でお開きにいたしましょうか。では、では。


参考文献
『英語で読む百人一首』
 ピーター・J・マクミラン英訳
 文春文庫 ¥740+税

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2017/06/04

【花子とアンでは、カッコ良かった】

ちょいと前に、プロとアマチュアのお話をいたしました。プロは余力を残しておくというお話でございます。それに関してまして、先日見た朝の番組での吉田鋼太郎さんのお話が、また興味深かったのでございます。

吉田鋼太郎さん曰く、「(演技をするに当たって)ギリギリまで使ってしまう」とのこと。アナウンサーの有働由美子さんが「リスクヘッジとか考えないのですか?」と問いかけますと、「20%残したりすると、残しているのが気になって楽しめない」という返事が返ってまいりました。

有働さんの言うリスクヘッジってのは、まさしくプロ的な考え方ですよね。いかにもNHKのアナウンサーって感じでございます。吉田鋼太郎さんは「楽しめない」と発言。これも、引退直前の浅田真央さんが「スケートを”楽しむ”こと」に拘っていたのと重なって、面白いのでございます。

ギリギリまで使うと言っても、やはりお仕事ですから必ずどこかでコントロールされているわけで、本当のギリギリではないと思いますよ。でも、鋼太郎と有働さんのお仕事へのアプローチの仕方の違いが、興味深かったのでございます。

なんかね、以前ワタクシが書いた内容とこの番組の一節が妙にリンクしちゃったので、紹介いたしました。でも、鋼太郎さん、声を潰しちゃったりとか、大変でしょうねぇ。と言うワタクシも、今、鼻がつまっておりまして、鼻づまりの色気の有る声になっちゃってます(笑)。喋りにくくて大変なのですけどね。

ということで、本日はこの辺で。安静にして、早く体調を戻します。では、では。

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2017/05/30

【演歌にも「うなり」という技法がございます】

もう花粉症の季節は過ぎたと思うのですが、朝から鼻水が出っぱなし。何度も鼻をかんでいたら、鼻血が出る始末。鼻をかむ勢いで鼻血が出ますと、ちょいと鼻の周りが大変、いや、鼻の周りだけじゃなく、手とかも大騒ぎ(笑)。あまり他人に目撃されたくない瞬間でございます。

鼻の話が出ましたので、鼻にまつわるお話をいたしましょうか。声楽の勉強、まぁ、今風に言いますとボイトレ(ボイストレーニング)でしょうか、そのボイトレのお話でございます。

歌を歌うとき、多分、音楽の先生なんかは「鼻に共鳴させて歌いなさい」と言うはずでございます。頭蓋骨に共鳴させて歌うのが、古典的な発声法。クラシック的な音楽教育を受けた人は、まずこう言うはずでございます。

一方、ワタクシがミュージカルの勉強を始めたとき、鼻に抜かない発声法を教わったのでございます。鼻に共鳴させた透明感のある澄んだ歌声とは対称的に、鼻に抜かない声というのは、地声っぽいゴツゴツした荒い声になるのでございます。

歌声を「音色」として聞かせる場合は、そりゃ澄んだ綺麗な音の方が良いに決まっている。そう、古典的な鼻に抜く発声法というのは、声を「楽器」として扱っている考え方でございます。

では、ミュージカルでは、なぜ、あえてゴツゴツした声で発声するのか? 多分、楽器としての完成度よりも、セリフを伝えるという「演技」を重視しているからだと思うのでございます。

あまり難しいお話ばかりでは何ですから、ここでくだけたお話に切り換えましょう。ニューハーフの声なんてのも、この「鼻に抜く」という技術に注目すると格段に耳当たりが良くなるのでございます。

ニューハーフやオネェの声、女声を模しているわけだから高い声を出しているかと思いきや、それほど高くしているわけではございません。男声と女声の差は、ほぼ1オクターブ。本物の女声の音域で話そうとすると裏声(ファルセット)になってしまい、違和感が強くなってしまう。あまり、営業的な声ではないのでございます。

それで、無理に声を「高く」するのではなく、鼻に抜いた「柔らかい声」を目指した方が、営業的には有利なのでございます。テレビなどに出られているオネェの方々が、低い声なのに柔らかく聞こえるのは、そういう発声をしているからでございます。

そしてさらに、「台詞(せりふ)」には、ある興味深い現象がございます。(その人にとって)低い声(音域)を使った方が、説得力は高くなるのでございます。逆に言いますと、高い声を使うほど、嘘っぽく響いてしまう。役者さんが嘘っぽい台詞を話すとき、わざと声を上ずらせますよね。あれは、この理論を利用しているのでございます。

ここで、大問題、発声、いや発生! ニューハーフのお仕事は、出来ればちょっと高めの可愛らしい声を使いたい。ところが、高めの声を出すほどに、説得力は弱まっていく。ここで、耳当たりを取るか、内容で勝負するかの選択を迫られるわけでございます。

そして、さらに面倒くさい事実が。台詞というのは、雑味のある声の方が説得力が高まる。澄んだ声ほど、説得力が弱まるのでございます。ミュージカルが雑味のある声を優先するのも、この理論。浪曲師がわざと声を潰すのも、この理論。スナックのママさんの嗄(しゃが)れた声で繰り出す話が、妙にジンワリ来るのも、この理論でございます。

綺麗な声を出したいというニューハーフの願いと、声のこういった特性とが、実に反比例の関係なのでございます。ただ、声帯というのは成長し、形も変わっていきますので、使い続けていると馴染んでくるということもございます。ニューハーフの声は、一夜にしてならずというところでしょうか。では、では。

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2017/04/24

【静心、大好きな言葉】

バスタオルを乾燥するために、大きな乾燥機を使っております。すぐにフィルターがモッサモサになりますので、紙製のフィルターを定期的に交換いたします。そのついでに、フィルターを押さえているプラ製の網もお掃除いたします。

お店の窓はビルの9階。窓の外へ向かって、その網をフッと拭いてやりますと、フワフワの毛玉たちがフワッと飛び出していいきます。ほんのわずかな陽の光の上昇気流を受けて、その毛玉たちは目の前にしばらく浮かんでとどまってくれます。空中で静止する毛玉たちは、まるでマジックショーの演出の様。

そして、次第に、ゆるやかな風に乗って、ばらばらな方向へ漂っていきます。ほぼ真下にグルグル回りながらゆっくり落ちていくもの。軽いものは、激しく上昇して、あっという間に消えていく。また、風に乗って、大きく旋回しながら、ゆっくりと遠ざかって行く毛玉もございます。

小さな毛玉ですが、漂っていくのを目で追っていくと、意外に遠くの方まで目で追えることに驚かされます。どこかの家の庭に漂着するもの。遠くのマンションのベランダに飛び込んでしまうもの。グルッと大きく回って、戻ってきてしまうもの。毛玉をフッと吹く度に、その毛玉がどんな旅をするかでいつもワクワクさせられます。

風が弱く陽の光が差しているときの乾燥機のフィルター掃除には、こんな楽しみがございます。そんなポカポカした春の日を、歌人「紀友則」はこの様な歌にしたためております。

久方の光りのどけき春の日に しず心なく花の散るらむ

のどかな春の日に、慌ただしく散っていく桜の花を惜しんだ歌でございます。「しず心(ごころ)」、「静心」と漢字で書けば、意味は明白ですね。「落ち着いた心」という意味。「しず心なく」と否定の語をつけて、落ち着かないとか慌ただしいという意味になります。

ワタクシは、漂う毛玉を眺めて「静心(しずごころ)」になりますが、紀友則は、舞い散る桜の花びらを見て、逆に「静心なく」と表しました。これは一説に、静心ないのは紀友則ではなく「桜の木」そのものであるとする説もございます。静心なく花を散らしている桜の木を、紀友則は誰かに重ね合わせたのでしょうか?

そんな桜の花も、東海地方では、すっかり開花時期を過ぎてしまいました。まだ、東北や北海道では、これから見られる様でございます。そちらにお住まいの方、お花見に行かれましたら、こんな「静心」「静心なく」のお話も思い出していただければ、より楽しめるのではないでしょうか。そして、花の宴で、先ほどの紀友則の一首でも講じれば、格好つけられますよ。

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2017/02/19

【シンコペーティド・シーズン】

木村拓哉のドラマ『A LIFE』が、どんどん面白くなっております。最初のギクシャクした感じがなくなったのでございます。松山ケンイチが、ノビノビと演技をしております。もともといいキャラクターと間の良さを持っておりますので、本領発揮というところでしょうか。木村文乃という女優さんも、魅力的な演技をしております。豪華で経験豊かなキャストがそろっておりますので、歯車さえ噛み合えば、いいものが出来てくるのは当然でしょう。

さて、また別のテレビ番組でのお話。厚切りジェイソンさんが「日本の四季」に関して言及しておりました。世界中に四季はあるのに、ことさら日本の四季に驚かなければならない番組が多いとのこと。まぁ、これは、日本のテレビ製作者の安易さが問題でしょう。無理に感動させる、これ、つまり、「やらせ」でございますからね。まぁ、「リアクション」とも呼びますが(笑)。

日本の季節感には、世界でも希な特徴がございますから、ジェイソンさんが理解しがたいのも分かる気がいたします。確かに、日本は春夏秋冬がかなりはっきりしております。でも、それだけなら、世界中に同じような場所は多くあるのでございます。

実はですね、日本の季節感には「時間軸」があるのでございます。これは、「ワビ」「サビ」といった感覚に通ずるもの。ワビ・サビというのは、「人が居なくて寂しい様子」「古びている様子」を表しております。しかし、このワビ・サビの感覚は、風景の一瞬を切り出しているのではございません。現在から過去の風景に思いを馳せ、その移り変わりに風情を感じる感覚なのでございます。

ここに、ワビ・サビには、「過去に思いを馳せる」という時間軸を伴った感覚である事が分かります。同様に、日本人の季節感にも、この「時間軸」が多く存在しております。たとえば、春に桜を愛でますよね。西洋人は、flowerとしての美しさを賞賛する。しかし、日本人は、桜を見ながら、その桜が散っていく「運命」に思いを馳せ、そこに「儚(はかな)さ」を感じ取る。

西洋人の感動のポイントは、ビジュアル。しかし、日本人の感動のポイントは「移り変わり」なのでございます。これは、食べ物の「旬」の感性にも表れております。食べ物をその「旬」に合わせて食べるのが、西洋人。ところが日本には、「はしり」「さかり」「なごり」という3種類の旬がございます。

「はしり」というのは、その年の最初に出たもの。「さかり」というのは一番美味しい時期。そして「なごり」というのは、その食材の最後の時期。「はしり」や「なごり」の時期は、必ずしもその食材が最高の状態ではございません。「はしり」「なごり」というものは、味メインではなく「季節感」を食べるのが目的だからでございます。

さて、ちょっとお話が飛びますよ。音楽で「シンコペーション」というものがございます。規則正しいリズムよりメロディーが先に飛び込んだり、あるいは次の拍まで粘ってくい込んだりするリズムでございます。ジャズなんかでは当たり前のリズム。シンコペーションのある音楽は、跳躍感が生まれ、軽い曲調を醸し出します。日本の「旬」の感覚は、まさに季節感におけるシンコペーションなのでございます。

日本の季節感は、「移り変わり」「移ろい」を主とし、過去を偲んだり、未来に思いを馳せたりという時間の概念が必ず付きまといます。瞬間、瞬間をビジュアル的に切り出すのが主の西洋の感覚とは、チョイト違う。でも、この感覚が分からないと、日本人の奇異な季節感は、理解しがたいでしょうねぇ。

ジェイソン氏は、現在多くある日本の自己賞賛番組を、おかしい、変だ、と主張しております。うん、ワタクシもそう思うのでございます。まぁ例外的に『和風総本家』と『YOUは何しに日本へ』、この2つの番組はかなりまとも。外人の感覚主導で構成しておりますからね。それ以外の日本賞賛番組は、ほんとダメ。見ているこちらが恥ずかしくなる。

本当に日本を賞賛する番組を作るなら、もっと掘り下げて頂きたいものでございます。表面的なことを題材に持ってきて、外人を呼んで無理矢理感動させる。日本を賞賛するどころか、日本のテレビ制作の一番見にくい恥部を見せつけられているようでございます。まぁ、思いっきり勝手なことを申させて頂きましたけど、テレビ業界の人、考えてみて下さいませ。では、では。

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2017/02/05

【たった1曲のためにCDアルバムを買うなんて事、多かったです】

先日、JASRAC が音楽教室に請求するというお話をいたしました。「教材として使う場合は、オリジナルを購入すべき」という考えに賛同するご意見も頂いたりしております。今回の件では、個人の音楽教室は対象にしないとのお話ですよね。それで、いろいろ思い出したことをお話しいたしますね。

まぁ、今はこんなですが、若い頃は音楽家を目指しておりました。個人の先生のレッスンもいろいろ受けておりました。個人の先生は、ほんと、大量のレコードやCDを購入しております。ミュージシャンにとっては、個人の音楽教室というのはお得意様なのでございます。

また、レッスンで使った曲は、生徒側も購入する場合が多い。楽譜を購入し、原曲も購入する。シンガーソングライターにとっては、二重に美味しい市場でございます。レッスンの場というのは、それなりに需要があるのでございます。

ダンススタジオにも通っておりましたが、ダンスの先生も、いつも大量のCDを持ち歩いておりましたね。本当に、ゴッソリと持っておりました。また、ダンスの生徒側は、音楽畑以上にオリジナルを購入する割合は高いのではないでしょうか。自分で練習する際、原曲を聞きながらやりたいですからね。

「教室」の場というのは、音楽を「販売する」ということに関しては、そこそこの需要があるように思えます。売上に貢献している場所ですから、まぁ使用料を徴収するということになっても、格安料金にしてあげて欲しいですよねぇ。それならば、まぁまぁ現場も納得できるのではないでしょうか。

こんな興味深いお話がございます。細かい部分は忘れちゃいましたが、あるアーティストが、自分の店で、自分の作った曲を弾き語りしていたら、JASRAC から請求が来たとのこと。ウ〜ン、確かに使用料が発生する事案ではございますが、「自分の曲」に関する特例みたいな規則はないのでしょうか? 

デジタルとかネット配信とか、音楽の聴き方が大きく変わってきて、法律の方がまだまだ追いついていないのかも知れませんよね。その不備を突いて、iTunes のように音楽の配信では、あっという間にアメリカに主導権を握らせてしまいました。テレビのネット配信も、最近やっと法律が変わったところで、まだまだこれからのお話。

10年くらい前、本業の傍ら、副業で飲食店をやりたいと魔が差したことがございました(笑)。店内にピアノを置き、弾き語りをお客に聴かせたらどれくらいの使用料になるか調べたことがございます。曲目はほぼ関係なく、お店の規模でほとんど決まったように記憶しております。払えない金額ではないですが、まぁまぁお高い金額になった覚えがございますね。

お店でBGMを流しておりますが、あれはUSEN。昔で言うところの有線放送でございます。これは、USENの会社側が使用料を払っておりまして、ワタクシが払っているUSENの使用料にその著作権料も折り込み済みなのでしょうね。昔は有線放送でかかることがレコードの売上に繋がったりいたしましたが、今はどうなんでしょう?

まぁ、JASRAC がいろいろ言われるのは、会計が不透明なところじゃないでしょうかねぇ? ネットの普及で著作権が蔑(ないがし)ろにされることが多くなっております。著作権の管理は厳しくしなければなりませんが、お金の関わることですから、会計に関してはもう少し厳しいルールが有ってもいいと思いますけど。

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2017/02/02

【教室は生徒に請求するということになるのでしょうか?】

ワタクシはコラムの中で本を紹介する場合、必ずその本の実物を購入するようにしております。内容を引用するという責任上、それが執筆者への「礼儀」だと思っております。音楽に関しても同様で、やはり紹介する際には自分が購入していること前提でございます。今日は、こういったことに関係したお話。

JASRACという団体がございます。著作権を管理している団体でございますね。その団体が、音楽教室にまで使用料を請求するという話になりまして、いろいろニュースになっております。多くの音楽教室を持っているヤマハや河合楽器は、裁判も辞さないとの構え。そりゃそうですよね、音楽教室にしてみれば、寝耳に水でございますからねぇ。

今までスルーしていたことに急に課金するとなれば、課金される方は納得いかないですよね。音楽教室の形態が大きく変わったというわけではない。これは、JASRACの「思い付き」としか考えられない。で、そのちょっとした思い付きで何十億円ものお金が動くのだから、そう簡単に思いつかれては、回りはたまったもんじゃない。

スマホやPCからもテレビ視聴が可能になった時代に、もはや現状のNHK受信料のシステムというのは現実に即していないと言えます。音楽にも同じ事が言えまして、音楽を購入することも聴くこともすごく手軽になった時代に、旧態依然の著作権のシステムでは、何を課金の対象にするかという線引きが、非常に難しくなっているのでございます。

そこで、ちょっと余談を。最近、保育園を作ろうとすると、地域住民から反対されるという事が多くなっております。それに対して、「その子供達が、将来、あんたらの年金を払ってくれるんだぞ!」と反論した人がおります。

音楽教室の問題も似たようなものがありまして、その教室で学んでいる人達が、将来、音楽を作り出す人になるわけですよね。そして、その人達が作り出した楽曲が、著作権料を生み出す。JASRACは目先のお金に目がくらみ、長期的な展望を失ってないですかねぇ。

学校で「教材」として使う場合は、著作権というのはかなり緩くなっております。これは著作権法でそのように取り決められております。教材選びで教育の場が萎縮するというのは、良くないですよね。同様に、著作権問題で音楽教室が萎縮するということは、音楽産業全体の萎縮につながるという可能性もあるのでございます。

ここて、提案。音楽教室に楽曲の使用料を請求するというのではなく、「音楽教室で教材として使う場合は、オリジナルの楽曲を購入していなければならない」とする案。これならば、楽曲の売上にも貢献し、音楽家にもお金が落ちる。教室も納得できる範囲内だと思いますし、どうでしょうねぇ。今は1曲200円くらいで購入できますから、妥当な金額だと思いますよ。

そうそう、森のくまさんの問題、無事、和解したようですね。良かったのでございます。軽い行き違いだったようでございます。では、では。

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2017/01/05

【“空間"に気がつくかどうかがキモでしたね】

昨日、「近年暖かいねぇ」なんて申しましたら、今日の夜の寒いこと寒いこと。外を歩くと、冷凍庫の中に居るような寒さでございます。いやぁ、うかつなことは言えませんねぇ(笑)。

紅白歌合戦の演出が、袋だたきに会っております(笑)。巷で騒がれているように、SMAPの出演辞退で、大番狂わせが起きたのでしょうか。「天下の紅白だから、当然出るでしょ、タモリも出るし」みたいな大あぐらをかいていたかも知れませんね。

そこへもってきて、2階のサブステージなんていう新しい試みも盛り込んじゃって、現場は阿鼻叫喚の大騒ぎだったのでしょうねぇ。サブステージは、「とりあえず、使いました」的な感じ。模型ではカッコ良かったのですが、実物を見ると、なんか使いづらそうなステージですよね。日本の芸能には「デベソ」とか「花道」という古典的な舞台装置があるのですから、それに乗っかっちゃっても良かったですよね。

デベソって言うのは、舞台のまん中が客席の方へ張り出している形。客席のど真ん中に出演者が立つことが出来る。花道ってのは、歌舞伎でお馴染み。劇場の後方と前方とを繋ぎ、客席を通り抜けることが出来る舞台。宝塚大劇場のオーケストラピットと客席の間にあるアーチ状の道は、「銀橋(ぎんきょう)」と言うらしい。

西洋の舞台は、伝統的に舞台側と客席側をはっきり区別するのでございます。プロセニアムアーチという額縁状のものを通して舞台を見、そのアーチの向こう側は物語の世界。アーチのこちら側は現実の世界。アーチに下ろされる緞帳(どんちょう)は、物語と現実を分け隔てる隔壁。そして、舞台装置は高く上方向に組み上げられることが多いのでございます。

一方、日本の伝統的な舞台は、舞台と客席をはっきり二分するような構成にはなっていない。能舞台の非対称で舞台を客席が取り囲むような配置とか、歌舞伎の花道とか。西洋式の劇場のように舞台と客席をスパッと二分する境目を、あまり意識させない形になっております。舞台装置も、あまり高さを出さず、横に平面的に作り込むものが多いのでございます。

西洋の舞台は、「絵画」を目指しておりますよね。プロセニアムアーチという額縁があり、その額縁の中にどんな素晴らしい絵柄を作り込むか、それを目指しております。一方、日本の舞台では、「空間」の演出を目指しております。舞台と客席の境目がはっきりしていないことで、観客はその空間の中で体感するのでございます。

では、お話を紅白歌合戦のサブステージに戻しましょうか。このサブステージ、やっていることは日本の伝統芸能の流れを汲んでおります。であるからして、目指すべきは「空間」の演出。つまり、本ステージとサブステージとの両者で作り出す、大きな空間こそに、意味が有ったのでございます。紅白の演出家は、そこを目指すべきだったのでございます。

でも、あのサブステージは、その目標には不向きでございましたねぇ。空間を作り出すためには、本ステージとサブステージの「一体感」が重要。「掛け合い」や「行き来」「入れ違い」といった相互作用の動きで、空間を演出するのでございますが、それが出来ない。

サブステージが本ステージを見下ろす形になっていて、ちょっと距離が有る。そして、両者の間を自由に行き来することが出来ない。本ステージとサブステージという関係と言うよりは、大劇場と小劇場が合体しているような感じ。本とサブの間に、大きなミゾが出来てしまっているのでございます。

2階席の前に作るのではなく、1階席を部分的に外し、大きめのデベソを作った方が良かったのではないでしょうか。演出家も、その方がすごくやりやすかったと思います。デベソなら、多くのノウハウが蓄積されておりますからね。

どうしてもサブステージを2階席の前に置きたいというのならば、フライングという技術で出演者を飛ばし、2つのステージ間を行き来させると、一体感が出たでしょうねぇ。ピーターパンでお馴染みの技術でございます。小林幸子あたりが、利用しそうな演出でございますね。

と、まぁ、使いにくいサブステージとは言え、生かすやり方はいろいろ有ったはずなのでございます。準備時間不足、人手不足などがあり、サブステージを作ることで精一杯だったかも知れません。ただ、「挑戦するNHK」はいいですね。挑戦には失敗はつきもの。失敗を次回の糧にしていただきたいのでございます。今年の紅白に期待! では、では。

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2016/12/26

【これからは、好きなようにやればいい】

「SMAP×SMAP」の最終回、視聴いたしました。5時間弱、見応えがあったのでございます。「なんだ、仲良いじゃん」と思わせるような映像ばかりでしたが、いつ頃から不協和音が響き始めていたのでしょうかねぇ?

音楽グループでもお笑いコンビでも、実際には仲が悪いということはよくあるそうでございます。それでも、それぞれ個人の仕事が増えていって程々に距離が空き、仲が悪いなりにも上手く行っているグループも多いはずでございます。番組SMAP×SMAPやコンサートといった、5人揃った活動が多かった分、ガス抜きが出来なかったのかもしれません。

ワタクシ個人の印象でございますが、5人とも歌やダンスはそれなりにこなれている。上手・下手は有りますが、グループとしてよく統制が取れている感じがいたします。これはやはり、数をこなしているからでございましょう。使い込んだ革製品が手に馴染んでくるように、歌やダンスも、何十回、何百回と繰り返しているうちに、グループ全体に馴染んでくるのでございます。

評価が難しいのは、ドラマ。これは個人技でございますからね。しかも、何となく、「忙しいスケジュールの中で、慌ただしく撮影したのだろうな」と感じさせるドラマが多い。その結果、あまり演技力を必要としないキャラ設定にされることも多かった。ただ、本人達には責任はないと思いますよ。事務所がドラマをサイドビジネスと考え、あまりウェイトを置いていなかったようでございますからね。

ここで、ひとつの希望がございます。今後バラバラになった後、それぞれ、ドラマやナレーションや司会といったお仕事にウェイトが移るはずでございます。すると、いままで忙しいスケジュールの中で「やっつけ」でやっていた仕事が、「本気モード」に成らざるを得ない。今まで摘まれていた芽が、これを機会に芽吹く可能性もあるのでございます。5人全員に。

そしてさらに、今までは事務所の横やりなどもあって、ドラマの脚本に注文が付くことも多かったはずでございます。バッドエンドはダメとか、悪人の役はダメとか。その事務所のイメージ戦略が、5人の演技に足かせ手かせをしていたのは間違いございません。これからは事務所の横やりが無くなり、脚本家や撮影現場は好きなように扱えるようになる。

解散しちゃったのは残念ですが、こういったことを考えると、むしろ解散したことによって彼らは新しい可能性を発掘出来るかも知れない。それぞれが、大きく化けるかも知れない。何年か後に、「あの解散がいい転機になって、生まれ変われた」と、5人それぞれにプラスの結果が出ればいいななんて、考えております。

さぁ、ここからは、名古屋薫の妄想劇場。あくまでもワタクシの妄想でございますから、根拠は一切ございません。あしからず。

5人が独立するという話が持ち上がって、問題となるのが「SMAP」という名称。多分、元の事務所はこの名称を使わせないでしょうねぇ。ここで思い出されるのが「加勢大周」。移籍後に名前を使う・使わせないで裁判になったのでございます。新加勢大周とかも出ちゃって、ドロドロ。5人がそろって独立したら、多分、SMAPという名称は二度と日の目を見なくなるのは明らかなのでございます。

世間の下馬評は、木村と中居以外は非常に評価が低い。独立したものの空中分解して、木村と中居以外は消えてしまうのではないか、そんな評価も見受けられるのでございます。そこで、木村登場! 将来、5人が再び結束するときに、「戻る場所」「戻る名前」を残しておきたい。そのためには、俺1人が残留しよう。と、意を決したわけでございます(ワタクシの妄想ですからね〜)。

これには伏線がございました。木村拓哉の非常に親しい友人に「明石家さんま」さんがいらっしゃいます。さんまさんが自分の番組「さんまのまんま」に関して、こんなことを発言しております。「紳助が復帰したときに、戻ってくる番組を残しておきたくて、この番組の終了を2年延期した」と。

まぁ、どこまで本気か分かりませんが、明石家さんまさんがこういった感性を持つ人であることは確か。さんまさんが言った冗談を木村拓哉が真に受けたのかどうかは分かりませんが、さんまさんのこの発言と、木村拓哉の1人残留が、どうも重なるのでございますよね。

もっとも、この妄想通りだとしたら、木村拓哉、カッコ良すぎる。しかも、ストーリーが出来すぎてる。当たるも妄想、外れるも妄想で、どうかお考え下さい。

では、長くなりましたので、ここらで切り上げましょうか。ワタクシの妄想に最後までおつき合いいただき、ありがとうございます。では、では。

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