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2011/04/27

この世にだって、天国も地獄もある

Memento_mori2 震災以降、ふだん購入しないような雑誌まで購入したりしております。多くの雑誌が報道色の強い明示的な写真を多く載せる中、異色を放っている雑誌がございました。『AERA』の臨時増刊でございます。この雑誌の写真、実にカメラマンの思い入れが強く入っておりまして、不謹慎ではございますが、アートっぽさを強く押し出しております。出版元の朝日新聞も、この雑誌を「写真集」と銘打っておりますので、確信犯的な雑誌なのでございましょう。この時期にこういったものを出すのは何かと物議を醸し出すのではないかと思ったりいたしますが、震災直後にガスマスクの写真を表紙に使った『AERA』ですので、AERAらしいって言えば“らしい”のでございます。

 その雑誌から、一例を紹介いたしましょう。真っ平らになった瓦礫の街を、夜、高台から写した暗い写真がございます。はるか下方に見える道路を、数台の自動車が、ポツリポツリと走っております。そのヘッドライトやテールランプは、まるで廃墟の中に転がした宝石のようにも写っております・・・また別の写真では、瓦礫の中にまるで誰かが寝ているかのように布団が二組ほど敷かれております。薄暗いまわりの景色の中で、そのキャラクター柄の赤い布団だけが妙に浮き上がっております。もちろん、その布団の中に寝ているのは骸(むくろ)。収容がなかなか進まずに放置されているのを、発見者が思いやって布団を掛けたのでございましょう。見続けるのがつらい写真でございます。

 この写真集を見て、ある書物を思い出しました。写真家・藤原新也さんの名著『メメント・モリ〜死を想え』でございます。「メメント・モリ」というのは、ラテン語で「自分が、いつか必ず死ぬことを忘れるな」という意味らしいです。この藤原新也さんの写真集にも、「死」や「生」が、数多くちりばめられております。人生を「生」だとすると、その「生」は「死」という儀式をもって完成するのでございます。「生」だけでも「死」だけでも人生は完結しない。「生」と「死」はワンセットなのでございます。「終わる」と考えると寂しいですよね。でも、「完結する」と考えればどうでしょう。

 被災者の方々にはつらい表現になりますが、『メメント・モリ』の中には、ガンジス川で水葬に伏される骸の写真がいくつかございます。あるものは水に浮いたまま水鳥に啄(ついば)まれ、そのまま骨だけになっております。またあるものは岸に打ち上げられ、犬に食われております。そんな骸に対して著者の藤原新也さんは、「骨の髄まで食ろうて、ありがたや」「人間は犬に食われるほど自由だ」と申しております。

『メメント・モリ』の中には、そんなドキッとするような写真だけではなく、草木が熱く萌える大自然の写真も多数掲載されております。小さな羽虫の写真には、「肉親が死ぬと、殺生が遠ざかる。一片の羽虫にもいのちの圧力を感じる。老いた者の生きものに対するやさしさは、身辺にそれだけ多くの死を所有したことのあらわれ」と言葉を添えております。やさしさというものは生への尊厳であるのですが、その生への尊厳は、死に直面することによって育てられるという逆説的な関係を、著者は説いております。

 死に直面するほどに、人はやさしくなれるということでしょう。そしてその死は、自分にも必ずおとずれる。自分の死を必ずやってくるものと受け入れたとき、人は自分自身に対してもやさしくなれるはず。そして生をまっとうして死を迎えるとき、人間の人生なんてものは、自然界の弱肉強食のシステムの中で入れ替わる小動物や、季節ごとに生と死をくり返す草木の入れ替わり、そんなものと何ら変わらないと思えるのでしょうか。

 若いころには、自分の人生に無限の時間が残されているような気がいたします。年齢を重ねるに従い、自分の人生がどんどん短いものに感じられております。この調子でいくと、人生を「完結」させるときには、自分の人生が一瞬の刹那(せつな)のできごとのように感じられるのでしょうかねぇ。

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