« 2011年1月 | トップページ | 2011年3月 »

2011年2月

2011/02/23

電子化が進めば、公務員は半分に減らせるはず

今、銀行の預金通帳って、わざわざ銀行まで行かなくてもネットで残高を確認したり振り込んだりすることが出来るの、知ってました? ワタクシもちょっとした確認ならば、ネットでやっております。そんな便利な銀行の通帳ですが、こと、通帳の相続となりますと、厳格な手続きを要求されたりいたします。

銀行の預金通帳の相続って、みなさんやったことございます? ワタクシは母親を6年ほど前に亡くしておりますが、その母親の預金通帳がずっとそのままになっておりました。1年ほど前に相続手続きを始めたのですが、母親の戸籍を調べる段階で大きな問題発生。母親の出生から死亡までの連続した戸籍が必要なのですが、結婚や離婚、転籍といったことをくり返した波瀾万丈の人生ゆえ、戸籍の情報が各地に転々と分散しているのでございます。

「岬〜、めぐりの〜」なんて歌はありましたが、母親の過去をたどって、ワタクシは“区役所めぐり”なのでございます。除籍謄本(亡くなっているので除籍)を区役所で取りますと、その記録がどこから転籍・入籍されたかが記されております。分かるのはひとつ前の情報だけ。それで、そのひとつ前の区役所まで行って、同様に謄本を取ってひとつ前の場所を知って・・・ということのくり返し。名古屋市内の区役所を4カ所ほど回ったところで、次の手がかりが「京都、中京区」とある。こりゃ大変だとばかり作業中断したのが、ちょうど1年前のお話しでございます。

と、ここまで読んで、どうして区役所のハシゴをしなければならないかと疑問に思っていらっしゃるかもしれませんね。実は、戸籍というのは存命中に入籍や転籍といった移動がありますと、移動先の区役所に全ての管理が移ってしまい、各区役所にはその戸籍が入ってきた時から出て行った時までの記録しか残っていないのでございます(事情の違う地域もありますが、それは後ほど)。それでワタクシの母親のように入籍や転籍で戸籍が動いておりますと、その動きを逆にたどりながら区役所のハシゴをすることになるのでございます。

で、その相続手続き、いつまでも放置しておくわけにもいかず、先日、夕方までお休みをもらって京都まで行ってまいりました。京都中京区で謄本をもらい、次の手がかりは大阪市阿倍野区。さぁ、大阪に移動でございます。電車を乗り継ぎまして、阿倍野区役所へ。

さぁ、大阪は何カ所回ることになるのやらと思いながら阿倍野区役所へ。その阿倍野区役所で、事態は大きく変化するのでございます。なんと阿倍野区役所の担当の方、ワタクシのひいおじいさんの代まで調べてくれたのでございます。大阪市は戸籍の電子化が進んでおりまして、大阪市内の移動であれば、1カ所で記録を追跡することが出来るそうでございます。ワタクシの母親は大阪市の旧南区(現在のミナミのあたり)の生まれとのこと。夕方までかかるかなと思っていた戸籍の追跡、なんとか昼過ぎに完了したのでございます。

現在、各自治体で戸籍の電子化が進められているそうでございます。1年前は名古屋中をハシゴさせられた名古屋市の戸籍ですが、今現在は16区中13区まで電子化が進み、今年度中に名古屋市全区が電子化されるとのこと。これだけコンピュータが進んでいる時代に、戸籍の管理はつい最近まで原始的な手作業(さらに手書き!)でやっていたのでございますよ。全国的に電子化が進んでいるそうで、あと何年後かには電子化が完了するのでしょうが、ワタクシ、ちょっとした不安を感じているのでございます。

戸籍電子化の資料を読みますと、「漢字の異体字の処理をどうするか」といったことが長々と解説されております。異体字ちゅうのは、「渡辺」と「渡邊」みたいに同じ漢字のバリエーションでございます。あと「高」と「髙」なんてのも有名。同一人物であろうと思われるデータ間でこのようなちょっとした違いがあった場合、人間の手作業ならば前後の関係や状況で同一人物だと推測してしまうでしょう。しかし、コンピュータでは、よほど周到な人工知能的プログラムでも組まない限り、こういった微妙な違いを別人だと判断してしまうのでございます。また、当然混じっているであろう誤字・脱字に関しても、コンピュータは柔軟に処理するのは難しいのでございます。

消えた年金問題を思い出していただきたいのでございます。国民年金は氏名と生年月日だけで処理しておりますので、同姓同名がいたり誤字が有ったりいたしますと、そこで記録の錯綜(さくそう)が起こる可能性が高いのでございます。あれは、年金の担当者がかわいそう。あんな原始的な記録方式で、間違いが起こらない方が不思議なのでございます。さらに、その消えた年金の追跡調査もなかなか進まないとのこと。そりゃぁ当たり前。手書きの文字を手作業で一人ずつ拾っていっているのでしょうから、気の遠くなるような作業なのでございます。まだ、江戸時代の米問屋の帳簿を解析する作業の方が、楽なことでございましょう。

この同一人物の判断には「ユニーク性」というものが関わってくるのですが、その前にちょっと「データベース」のお話しを。データベースとは、多くのデータを処理する方法のこと。コンピュータで処理する場合には、それ専用のソフトが有ったりいたします。このデータベース処理には「伝票型」と「リレーショナル型」の二種類がございます。今までの戸籍や住民票や年金といったものは、伝票型の処理を手作業でやっていた。各伝票一枚一枚に、個人や家の情報を書き記すようになっているのでございます。ただ、ワタクシの母親のように転々と移動しておりますと、一人の人間の情報が、何枚もの伝票に分散されて記されることになる(区役所のハシゴ)。また、戸籍と年金のような種類の違う伝票を関係づける際には、同一人物で有るかどうかの十分な検証が必要とされる(消えた年金問題)。現在のような複雑な社会構造の中では、単純な伝票型の管理はすでに限界を通り越しているのでございます。

次に「リレーショナル型」の説明を。伝票型は記入する台紙に注目する方法でしたが、リレーショナル型は、個々のデータに持たせた多くのフラグ(旗)に注目する方式。例えばワタクシの母親の例ならば、「昭和○年大阪市阿倍野区○○家」「昭和○年京都市中京区○○家」「昭和○年名古屋市中川区」……というフラグを、経歴の数だけ持たせるのでございます。母親以外の他の人すべてにも同様にそれぞれのフラグを持たせてありますので、「昭和△年大阪市阿倍野区□□家」といったくくりで検索をかけると、それにマッチしたフラグを持ったデータが抽出されることになる。その時初めて台紙を用意し、その抽出されたデータを台紙に並べれば、その時期の家族構成が出来上がり、とまぁ、こういった仕組みで管理するのでございます。

さぁ、ここで絶対に必要となってくるのが「データのユニーク性」というやつ。この場合の“ユニーク”っていうのは、「ひとつしかない」という意味。例えば(またワタクシの母親の例で恐縮ですが)、戸籍データベースの母親のデータと、年金データベースの‘ある’データとが同じ人物つまりワタクシの母親のデータであると結びつけられれば、戸籍で検索をかけるだけで年金のデータも抽出できてしまう。あるいは、生年月日も姓名も同じデータがもし複数見つかっても、ユニーク性が有れば、それらが別人か同一人物であるかをハッキリと区別できる。コンピュータでデータベースを処理する場合には、この「データのユニーク性」が必要不可欠なのでございます。ユニーク性を確保できないデータ処理なんてのは、たとえコンピュータを使っていたとしても、それは「高級な文房具を使った手作業」に他ならないのでございます(現在の社保庁の年金データ解析がこれ)。

国民データのユニーク性、そう、何十年も前から議論されている「国民総背番号制」が、このユニーク性の実現に相当するのでございます。このユニーク性が無いために、日本のお役所仕事は明治時代と何ら変わっていない。今後、戸籍の電子化、住民票コード、年金データの整理などが進むでしょうが、それらを関係づける横のリレーションが確立しない限り、縦割りの処理形態は依然残り、前時代的なお役所仕事は続くのでございます。そして、年金のデータは解析が完了する前に、該当者がみんな死んでしまうなんてことにも(笑)。

ここで、衝撃的な事実が! 背番号制が導入され、各役所のデータが完全に電子化されリレーション化されると、多分、お役所の公務員は半分以下で足りてしまう。公務員の給料が民間に比べてどうとか言っているけど、背番号制を導入して公務員の人数を減らせば、大幅な経費節減が可能なのでございます。細かく別れている役所の窓口も、総合受付ひとつで足りてしまう。ひとつの窓口で、戸籍や年金のデータだけではなく、電気や水道や電話料金の履歴まで調べることが出来てしまう。ちょっと極端な例えだったかもしれませんが、各データにユニーク性を持たせて横のリレーションをつけてやれば、そんなことも可能なのでございます。

そしてさらに衝撃的な事実が! 背番号制の導入で、戸籍は必要なくなるのでございます。実際、アメリカやカナダには戸籍や住民票というものがない。その代わり「社会保険番号」といった背番号のようなものが存在し、それで管理している。つまり、最初からリレーショナル型に近い方式で進めてきたので、いまさら戸籍を作る必要がなくなってしまったのでございましょう。日本も、背番号制の実現以降は戸籍の管理はほとんど必要なくなるはずであり、それにかかっていた経費が大幅に浮くことになるはず。また、背番号制の導入は、今まで取りこぼしていた税金をきちっと徴収することを可能にするのでございます。消費税を上げるかどうかが物議を醸しておりますが、取りこぼしをなくせば、これまたかなりの財源になるはずでございます。

しかしながら、背番号制には根強い反対派もいらっしゃいます。あの住基ネットでさえ、その安全性を疑問視する自治体はいくつかございます(名古屋市の河村市長も、かつてはそうでした)。日本国民ってのはさ、一方で「年金のずさんな管理はゆるさん」って言っておいて、もう一方では「個人情報を守るために背番号反対」って言っちゃう。アッチもコッチも欲しいって、そりゃ無理だと思いますよ。アメリカ人なんかは、ネットでも何でも本名をよく使う。アメリカには「匿名」という文化がほとんど無いのでございます。それは「実名を使うことでのデメリットもあるけど、それ以上にメリットを感じられるから」という合理性で動いているからでございましょう。Facebookのような実名でのコミュニケーションが発達しているのも、そういった合理性のなせる技なのでしょう。

日本人の個人情報に対する過敏性は、考え直してみるべきでございますよ。個人情報を守りすぎる風潮のため、刑事が捜査できない、郵便配達人が配達できない、そんなことも起きているようでございます。個人情報を守りたいという気持ちは分かりますが、社会全体のメリットとデメリットを考えると、国民を背番号で管理するという方法は、今や避けて通れないと思うのでございます。銀行の預金通帳がネットで管理できる時代でございます。国民に背番号が振られたからといって、それほど危険だとは思えないのですけどねぇ...振られると、困る人がいるのかな?...いや、今回はこのへんで、では、次回をお楽しみに、名古屋薫でございました。長文を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011/02/10

節約は、元から断たなきゃダメ!

 先日の日曜日、名古屋ではトリプル選挙なるものが行われたのでございます。名古屋市長、愛知県知事、名古屋市議会の解散、この三者をいっぺんに決めてしまうという総いれかえ椅子とりゲーム選挙だったのでございます。阿久根市といい名古屋市といい、市長と議会がこれほどまで揉めるのって、他の地域の方には不思議でしょうねぇ。これは、「市政」という限定的な地域で起きている出来事が、全国的に報道される際に端折(はしょ)られてしまうからでございましょう。まぁ、名古屋以外の方にはあまり興味がないでしょうが、この一連の名古屋市での出来事を、一人の名古屋市民の目からお話ししてみるのでございます。

 2009年4月に名古屋市長として当選した河村たかし氏は、公約の二本柱である「減税10%」「議員報酬半減」で市議会と対立することになったのでございます。「議員報酬半減」はことごとく議会に否定されましたが、「減税10%」はさんざん揉めたあげく、何とか勝ち取ったのでございます。しかし議会側が「あれは来年だけの話だよ〜ん。再来年以降は元に戻るんだよ〜ん」という後出しジャンケンのようなことを言い出したからさぁ大変。河村市長ブチ切れでございます。「なに言っとりゃーす、あんたら、そんなら、議会を解散だわ!」と議会解散のための準備を始めたのでございます。

 市長が議会を解散するためには、まず市長側が有権者の署名を一定数集め、それが実現した後、さらに住民投票で決定するという2段階の手続きが必要なのでございます。「名古屋市のような人口の多い都市で署名を有効数集めるのは難しいかも」と言われながらも、市長側のボランティアは人海戦術を駆使いたしまして、必要数の署名を集めてしまうのでございます。ところがところが、選挙管理委員会が有効署名の中から多くの無効署名を絞り出し、署名の数は有効数を下回ってしまう。これには訳がございまして、選挙管理委員の4人の内3人が市議会のOBということもあり、常識破れの厳しさで多くの署名が無効判定されてしまったのでございます。これに腹を立てたのが市長側ボランティア。今度は、無効にされた署名から有効署名を拾い出すという泥仕合が行われ、結局、署名は有効数を上回ることに。このドタバタで、市議会側の保身意識がさらに露呈することになったのでございます。

 トリプル選挙は、開票直後に「当選確実」が出そろってしまうほど、圧倒的な差でございまして、市長、県知事、市議解散、全てにおいて河村たかし氏側の圧倒的勝利でございます。とまぁ、これがここ一年ほどの出来事の顛末なのでございます。名古屋以外の方にはあまり興味が無いであろうことを長々と書いたのは、この出来事が、報道されているような民主・自民といった政党の戦いではなく、市長と市議会との戦いだったことを分かって頂きたいからでございます。保身に走った市議会に対して、名古屋市民が見切りを付けたって感じでしょうか。また、この一連の騒動で市民が気がついたのは、市長と市議会の意見が対立すると、これほどまでにグダグダになるものなのかということでございます。じゃぁ、今までの市長と市議会は「できあい市政」だったのかなんて疑念も、出てきちゃいますよねぇ。まぁ、それは置いといて。\(^^\)

 とにかく、名古屋市民が市政に大きく関心を持ったことは確か。政治にとって最悪なので「無関心」なのでございます。河村市長の大立ち回り、これが市民の関心を集めるための計算づくの行動であったなら、たいしたものなのでございます。この手法は、大阪府知事の橋本さんもやりますよね。あえて過激な発言をすると、頼みもしないのにマスコミが取材にきてニュースにしてくれる。今は情報社会ですから、情報発信でも先手に立つことで事を有利に運べるのでございます。河村市長や橋本知事といった芸能界経験者は、こういったマスコミの利用方法を無意識のうちに身につけているのでございましょう。

 逆に、「河村のパフォーマンスにやられた」と捨てゼリフを吐く他の立候補者や市議もおりました。これなんかも、ワタクシか言えば愚の骨頂。いやしくも政治に関わろうとする人がパフォーマンス出来なくてどうする! 確かに河村市長の発言には危なっかしい部分もございます。しかし、名古屋市民はその危なっかしさも織り込み済みで、河村市長の「パワー」を選択したのだと思うのでございます。負けた人は、パフォーマンス以前にパワーや情熱といったものが欠けていたことを反省するべきでございます。

 また、「河村はダメだ!」を連呼するしか能がなかった対立候補ばかりでウンザリ。どうして、「俺は河村より上手にやってみせる」という言い方をする人はいなかったのでしょうかねぇ。他人をこき下ろすことによって自分を大きく見せようとするのは、自分に確固たる自信や信念が無い現れでございます。東京都都知事の石原慎太郎氏は前回の都知事選で、多くの対立候補が立ったことを指して「百花繚乱」と称したのでございます。自信に満ちあふれると同時に、「私より素晴らしい人がいたら、どうぞ当選して下さい」という潔(いさぎよ)さも感じるのでございます。

 河村市長の危なっかしさと申しましたが、この河村たかしさん、情熱が過ぎるばかりにせっかくの賛同者が離れていくことも少なくないのでございます。この熱血漢に上手にブレーキをかけさせる人が現れるといいのですけどねぇ。だから、市議会が河村派一色で染まってしまうこともまた危険だと思うのでございます。国政でも同じなんですけど、ねじれ状態の中で大人の議論をし、立てるところは立て、譲るところは譲り、上手に落としどころを見つける、そんな昔タイプの政治家が枯渇しているのでございます。南アフリカのネルソン・マンデラ氏が初めて黒人大統領として当選したとき、彼は解雇を覚悟していた多くの白人の役人に、そのまま留まるように言い伝えたのでございます。“総入れ替え”した後の脆弱性を、マンデラ氏は分かっていたのでございましょう。「入れかえれば変わる」というものでもない。車だって急ハンドルを切るとひっくり返ってしまうのでございます。

 で、河村市長が呼び掛けている「減税」のお話を少し。よく、その減税に反論する形で「減税で減った分の財源はどうする?」とよく言われますが、減ったなら減ったなりにやればいいというのが、ワタクシの考え方。どうして減ったらそこを“埋めよう”とするのかなぁ? 国の財源も、ここ数年極端に減少していることが問題になっておりますが、「少ないから気づくこと」というのもあるのでございます。

 以前書きましたが、お店を運営していて思うのは、「物というのは、有れば有るだけ無くなる」、「物に出すお金は、出せば出すだけ無くなる」ということでございます。節約を考えるのならば、最初から“出さない”のが一番。減った分を無批判に埋めていると、現場は考えることを放棄してしまうのでございます。財源が減ったならば、減ったなりにどうにかする方法を全員で考えればいい。「財源をどこから確保するか」ということをあきらめ、「無いものは仕方ない。これだけでどうやっていくか」ということを考えなければいけないところに来ていると思いますよ。地方自治も、国政も。

 あ〜あ、また小難しいことを書いちゃいましたね。すいません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年1月 | トップページ | 2011年3月 »