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2010/12/21

「死」と「生」は同義語なんです

 2008年の2/14分の書き込みで、『モリのアサガオ』という漫画が第11回文化庁メディア芸術祭漫画部門で大賞を受賞したことをお話しいたしました。その漫画のドラマ化がテレビ東京系で放送されておりまして、つい昨日、最終回で終わりました。

 ご存じない方のために簡単に内容を説明いたしましょうか。これは刑務官と死刑囚との友情の物語でございまして、ある新人刑務官が勤務する拘置所に、かつて同じ少年野球チームに在籍していた知り合いが死刑囚として送り込まれてくるのでございます。その死刑囚の複雑な心境に触れているうちに、いつしか友情が芽生えることに。減刑の可能性も出て来たのですが、結局、その刑務官は死刑を受け入れるように説得してしまい、自分の目の前でその死刑囚=友人の刑が執行されてしまう。という内容でございます。

 死刑制度の是非はいろいろ議論されております。死刑囚が自分の死と向き合うことで初めて自らの罪の重さに気づき、悔い改めるという事もございます。しかし、死刑制度のもとでは、その悔い改めた人間を殺さなければならないのでございます。ここに、死刑制度の大きな矛盾があるのでございます。また、死刑判決を受けたからといって全ての死刑囚が悔い改めるわけではございませんし、あえて死刑になることを求めて残忍な犯罪を犯す人もいたりいたします。そのような人たちにとっては、「死刑」という刑罰にどれほどの意義があるのだろうかと思うときもございます。

 死刑執行は本人に事前に知らせることなく、当日の朝、いきなり告げられるそうでございます。自殺を防ぐのが目的だそうですが、これから殺してしまう人の自殺を防ぐというのも、変な話でございます。まぁ、別に死刑囚でなくても、人間は必ず死ぬわけですし、自分の死がいつやってくるかも分からない。人間はみんな“生まれ持っての死刑囚”みたいなものでございます。

 ワタクシも人生の折り返し点と思える時期を過ぎておりますので、チラホラ、自分の「死」については考えたりいたします。生から死への人生の流れというのは完全な一方通行で、決して後戻りできないところが、実に“もどかしい”のでございます。このもどかしさ、若い頃に分かっていれば、自分の人生も、もう少しやりようが...とは思うのですけどね。このようにして、「最近の若い奴らは」という言葉は何千年もの間、人類に受け継がれてきたのでございましょう。「最近の若い奴らは」という語は、自分の若い頃への憧憬の言葉なんだと、この年で気づくようになりました。

 茨城県取手市で、無差別殺人未遂の事件がございました。犯人は、「自分の人生を終わりにしたかった」と供述したそうですが、はたして「死刑」になることを望んでいるのでしょうか? この犯人、生きるのがつらく、「死にたい」と思ったのでしょうか? でも、「死にたい」というのは嘘の感情ですよ。本当は、「“生きたい”のだけれど、“死ぬ”という選択肢しか見つからない」ということのはず。感情の下地に「生きたい」という強い願望があるからこそ、苦しいのですよね。だから、「死にたい」と「生きたい」は同じ意味なのでございます。

 もし「死にたい」と思ったら、その「死」という言葉をペロッとめくってみると、その下からは「生きたい! 生きたい! 生きたい!」という強い願望が顔を出すはずでございます。取手市の犯人も、自分の心根に貼りついているその生への強い願望を見つめることが出来たら、何かしら他の選択肢が見つかったかも知れないのにね。「自分の人生を終わりにしたかった」とのことですが、そう言う人に限って、神様はなかなか終わらせてくれなかったりいたします。運命の神様は、アマノジャクだったりいたします。

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