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2010年12月

2010/12/23

「無」と「有」も、同義語だった!

Newton_hangnya え〜と、今回もチョット小難しいお話になっちゃうのですが、よろしければおつきあい下さいませ。

 ブラッと本屋へ入って雑誌や書籍の間を散策するのが好きなのですが、そんなときに、思いも寄らぬ本に遭遇することがございます。先日、書店で雑誌を二冊ほど衝動買いいたしました。『Newton』という科学雑誌と、『般若心経入門』というこれまた難しそうな題名の雑誌でございます。書店のいいところは、パラパラッと中味を覗けるところでございますよね。で、雑誌をいろいろ立ち読みしておりましたら、この二冊の雑誌がワタクシの灰色の脳細胞の中で結びついたのでございます。科学雑誌とお経の本がどうして結びつくか、それをご説明いたしやしょう。

 科学雑誌で気になったのが「無限ホテルのパラドックス」という記事。これは、「無限大」という数にまつわるパラドックス(逆説)のお話しでございます。ワタクシはこの記事から、「0による割り算」の話を連想したのでございます。みなさん、「1÷0」「0÷0」の答えをご存じですか? ワタクシが学生のころには、

1÷0=できない
0÷0=わからない
と教わった記憶がございます(最近の学説では変わっているかも)。「1÷0」というのは「ひとつの物をゼロ人で分ける」ちゅう事ですから、分けたくても分けようがない。ということで「できない」。「0÷0」というのは、「ゼロの中にゼロがいくつあるか?」ということで、これは一見、答えはゼロのようですが、実はゼロは何個集まってもゼロなので、ゼロの中にはゼロは1個かも知れないし、あるいは百万個かもしれない。答えが無限に存在するということで、「わからない」という答えになるのでございます(う〜ん、難しくてゴメンナサイ)。

 そこで次に、般若心経の一節が、この数式に結びつくわけでございます。

色即是空:形あるように見えても、本当は何もないのと同じ
空即是色:何もないと思える空間にこそ、形が存在する
「色即是空」というのは、「形ある物全ては、本当はゼロなんだ」と言っているのでございます。ゼロだとすると、そのゼロがいくつ集まってもゼロ。その結果、「何もない(ゼロ)ように見えるところは、実は無数のゼロの集合体なのかも知れない」、それが「空即是色」ということ。ここで「有る=無い」という式が成り立つのでございます。この「有る=無い」という式はおかしく思えるかも知れませんが、「無限大」という数字が関わってくると成立してしまうのでございます。

 部屋数が無限にあるホテル(無限ホテル)というのを想像してみて下さいませ。ただ今、無限ホテルは満室でございます。しかし、新たに客が一人、やってきました。さぁ、どうする? ホテルの支配人は全ての部屋の客を、ひとつ大きい部屋番号の部屋に移動させました。すると、まぁなんということでしょう、満室だったはずなのに、1号室が空室になったではございませんか(無限ホテルのパラドックス)。ということで、無限大という数字が関わると、「無=有」という式が成り立ってしまうのでございます。

 余談ですが、先ほどの「1÷0」という式ですが、これを「1÷0=x」とおきまして両辺に0(ゼロ)をかけると「1=0」という式になってしまう! アリャリャ、「有=無」が数学的に成立してしまう! と思いきや、この計算の途中には「0÷0」あるいは「0分の0」という計算が発生してしまうので、「1=0」という結果にはあまり意味は無いのです。ちょっとした数学マジックでございました。

 で、閑話休題、この「有る」とか「無い」とかという概念も、結構、あやふやなものなのでございますよ。例えば、巨大な水槽の中にいる金魚を想像してみて下さいませ。あまりにも水槽が巨大なので、金魚は水槽の縁までたどり着いたことが無いといたします。また、この金魚は水面から飛び出すことも無いといたしますよね。すると、周り全てを水に囲まれている金魚にとっては、水は「無い」のと同じなのでございます。どうして金魚が「水」を認知できないか? それは、“水と水以外のものとの境目”を知らないからでございます。ところが人間は「水槽」や「水面」といった“境目”を認知しておりますので、金魚の周りは水に囲まれていると分かるのでございます。

 この金魚の話を、ひとつ高い次元から考えますよ。現在の科学では、宇宙の広さは有限だと考えられております。では、宇宙と宇宙じゃないところの境目は? その境目を、人類は認知しておりませんよね。ですから、ひとつ高い次元から見下ろしている人からすると、ワタクシたちが真空だと思っている宇宙空間も、実は“何か”で満たされているのかも。ワタクシたちは宇宙という巨大な容器の中で泳ぐ金魚なのかもしれません。どうですか、有るとか無いとかいった概念は、ものの境目が分かるからこそ認知できるのです。

 さて、その「有も無もあやふやなもの」と言っているのが般若心経なのですが、先ほどの「般若心経入門」という雑誌に引かれたのは、その雑誌に般若心経の英訳が書いてあったから。では、その英訳では「色即是空 空即是色」をどのように訳しているでしょうか?

色即是空:Form — it is, in fact, emptiness.
空即是色:Emptiness — it is, in fact, form.
となっております。う〜ん、「無」は「emptiness」ですか。確かに般若心経では「空(くう)」という字を使っておりますので、「空っぽ」という意味の emptinessは間違いとは言いません。ですが、空(から)という意味合いでは、「何も入っていないけれど“容器”だけは存在する」ということになってしまいます。全く何も存在しない「無」という語の意味からは違うような気がいたします。先ほど申しましたように、「無」や「有」を語るときには、“容器”を認知しているかどうかが大きなキーポイントになってくるからでございます。ワタクシ的には「nothing」が妥当だと思うのですが、nothing では、合理的・論理的に思考する西洋人にとって理解不能になってしまうのかも知れませんね。


 般若心経のもつ漠然かつ神秘的なニュアンスは、漢字という表意文字そのものが持つ曖昧さに囲まれて生きてきた東洋人ならではの表現なのかも知れません。一方、表音文字であるアルファベットを使い続けてきた西洋文化には、合理性や論理性が強く感じられるのでございます。これは、歌の歌詞でもそうですよね。英語の歌詞にはダイレクトな表現が多いのですが、それを和訳すると、同じ内容にも関わらず、何か綿(わた)でくるんだような柔らかい表現になるのでございます。チョットダイレクトな表現になった英訳般若心経、外国人にはどのように受け止められるのでしょうかねぇ...

 ということで、今回も、本当にニューハーフらしからぬ内容でゴメンナサイ。ワタクシの脳細胞の中で数学とお経が勝手にくっついてしまい、個人的にチョット感動したので、つい書いちゃいました。ではでは、おつきあい、ありがとうございました。

●参考
 ・『Newton』2011年1月号
 ・『「般若心経」入門』プレジデント2010年12月25日号別冊

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2010/12/21

「死」と「生」は同義語なんです

 2008年の2/14分の書き込みで、『モリのアサガオ』という漫画が第11回文化庁メディア芸術祭漫画部門で大賞を受賞したことをお話しいたしました。その漫画のドラマ化がテレビ東京系で放送されておりまして、つい昨日、最終回で終わりました。

 ご存じない方のために簡単に内容を説明いたしましょうか。これは刑務官と死刑囚との友情の物語でございまして、ある新人刑務官が勤務する拘置所に、かつて同じ少年野球チームに在籍していた知り合いが死刑囚として送り込まれてくるのでございます。その死刑囚の複雑な心境に触れているうちに、いつしか友情が芽生えることに。減刑の可能性も出て来たのですが、結局、その刑務官は死刑を受け入れるように説得してしまい、自分の目の前でその死刑囚=友人の刑が執行されてしまう。という内容でございます。

 死刑制度の是非はいろいろ議論されております。死刑囚が自分の死と向き合うことで初めて自らの罪の重さに気づき、悔い改めるという事もございます。しかし、死刑制度のもとでは、その悔い改めた人間を殺さなければならないのでございます。ここに、死刑制度の大きな矛盾があるのでございます。また、死刑判決を受けたからといって全ての死刑囚が悔い改めるわけではございませんし、あえて死刑になることを求めて残忍な犯罪を犯す人もいたりいたします。そのような人たちにとっては、「死刑」という刑罰にどれほどの意義があるのだろうかと思うときもございます。

 死刑執行は本人に事前に知らせることなく、当日の朝、いきなり告げられるそうでございます。自殺を防ぐのが目的だそうですが、これから殺してしまう人の自殺を防ぐというのも、変な話でございます。まぁ、別に死刑囚でなくても、人間は必ず死ぬわけですし、自分の死がいつやってくるかも分からない。人間はみんな“生まれ持っての死刑囚”みたいなものでございます。

 ワタクシも人生の折り返し点と思える時期を過ぎておりますので、チラホラ、自分の「死」については考えたりいたします。生から死への人生の流れというのは完全な一方通行で、決して後戻りできないところが、実に“もどかしい”のでございます。このもどかしさ、若い頃に分かっていれば、自分の人生も、もう少しやりようが...とは思うのですけどね。このようにして、「最近の若い奴らは」という言葉は何千年もの間、人類に受け継がれてきたのでございましょう。「最近の若い奴らは」という語は、自分の若い頃への憧憬の言葉なんだと、この年で気づくようになりました。

 茨城県取手市で、無差別殺人未遂の事件がございました。犯人は、「自分の人生を終わりにしたかった」と供述したそうですが、はたして「死刑」になることを望んでいるのでしょうか? この犯人、生きるのがつらく、「死にたい」と思ったのでしょうか? でも、「死にたい」というのは嘘の感情ですよ。本当は、「“生きたい”のだけれど、“死ぬ”という選択肢しか見つからない」ということのはず。感情の下地に「生きたい」という強い願望があるからこそ、苦しいのですよね。だから、「死にたい」と「生きたい」は同じ意味なのでございます。

 もし「死にたい」と思ったら、その「死」という言葉をペロッとめくってみると、その下からは「生きたい! 生きたい! 生きたい!」という強い願望が顔を出すはずでございます。取手市の犯人も、自分の心根に貼りついているその生への強い願望を見つめることが出来たら、何かしら他の選択肢が見つかったかも知れないのにね。「自分の人生を終わりにしたかった」とのことですが、そう言う人に限って、神様はなかなか終わらせてくれなかったりいたします。運命の神様は、アマノジャクだったりいたします。

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2010/12/08

イマジン−夢

 今日12/8は、ジョン・レノンの命日でございます。世界中の様々な場所で、『Imagine』が演奏されていることでございましょう。『Imagine』の歌詞には「You may say I'm a dreamer」とあります。確かに、「Imagine there's no countries, ... no religion too」なんて夢か理想のようなことが綴られております。

「no religion」という歌詞には皮肉ですが、理想を追いかけるのは宗教家の役目でございます。一方、政治家が追いかけるのは理想ではなく妥協点。政治の世界には、理想は存在しないのでございます。そんな現実世界のジレンマを超越したこの歌詞が目指すものは、きっと崇高な精神世界なのかも。では、現実世界に住むワタクシたちには、この歌詞は無意味なの?

 夢を語らなければ、現実を語れない。現実を見据えているからこそ、夢を見続けることが出来る。そして、夢と現実の二点を見定められれば、どちらに一歩を踏み出せばいいのかが分かる。現実も大事だけれど、夢も大事。これは、二点が定まればベクトルが決まる数学の原理と同じこと。

 夢を持ち、現実を把握する。すると、今、何をすべきかが分かってくるということなのですが、ニューハーフ業界の若手を見ていても、やはり、「夢」を持たない人が多い。夢がないから「欲」もない。ひたすら現実にしがみつき、「今が大事」と、若いのに守りに入る人がいる。

 生まれたときから不景気が続いている世代ですから、夢の見方が分からないのかも知れません。そして、お手軽な夢が、ゲーム画面の中で手に入ってしまうので、ますます、現実世界での夢の追求には興味が無くなっていくのかも。

 本当は、若い人の夢は、「大人」そのもので有るべきなのでございます。「あんな大人になりたい」「あんな金持ちになりたい」「あんな地位になりたい」そうやって大人を見上げる目が、若い人の夢であるはず。

 ところが、ニューハーフ業界に限っては、中堅以上のニューハーフが新人ニューハーフの「夢」にはなりにくい。ニューハーフを取り巻く世の中がここ数十年で急激に変化し、若い人と中堅以上では、その育ってきた環境が別世界になってしまったからでございます。

 年配のニューハーフは、若いニューハーフに何を見せてあげられるのだろう、そんなことを時々考えたりいたします。若い人は自分の10年後や20年後を想像しにくく、どちらに足を踏み出せばいいのか分からない。

 だからこそ、何でもいいから「夢」を持って頂きたい。他人から、「君は夢想家だな」と一笑に付されるかもしれない。けれど、少なくとも夢を持っている人は、どちらに歩いて行けばいいのかを知っているのです。

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