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2010年2月

2010/02/27

銀メダルは、あまり喜ばれていないそうでございます

 フィギュアスケートのフリーの結果は、キム・ヨナさんの金メダル。浅田真央さんが銀メダルでございました。真央さんも頑張りましたが、やはりキム・ヨナさん、上手すぎる。動きが柔らかく、すべての動きが流れるようにつながっている。そして、音楽のディテールを正確に動きで表現する能力を持ち、しかもリズムを外さない。手の動きなど、随所にダンサー的な動かし方が見られますので、スケートのコーチだけではなく、バレエやダンスの振り付け師なども動員しての、徹底的な振り付け指導が行われたものと思われます。また、採点方法を徹底的に分析し、最高の点数が出るプログラムの組み立てを研究しております。力の入れようがハンパないですよね。そんな相手に対し、浅田真央さん、善戦したのでございます。

 ただ、浅田真央さんには「ありのままの実像」が見えるのに対し、キム・ヨナさんには「急造成による虚像」が見えるのでございます。浅田真央さんにとっては単なる「経過点」であるこのオリンピックが、キム・ヨナさんにとっては金メダルを取るための「終着点」のようでございます。後のことを考えず、すべてを金メダルのために特化してきた技術には、どこか“付け焼き刃”的なものさえ感じます。すばらしい表現力を持ったキム・ヨナさんのスケートですが、そのすばらしい表現を支えるに見合った「心」が育っているかどうか。その点に、キム・ヨナさんの「表現者」としての違和感を感じます。今後はプロに転向するそうですが、この虚像が露呈したときに、何か大きな壁にあたるような気がいたします。

 何かの統計によると、金メダル・銅メダルを取った選手の幸福感は大きいのに対し、銀メダルを取った選手の幸福度は、金や銅に比べると比較的小さいそうでございます。それは、銅メダルの選手は「かろうじて残れてラッキー」とプラス思考で考えるのに対し、銀メダルの選手は「あのとき、もし~だったら」とマイナス思考で考えてしまうからだそうでございます。浅田真央さん、銀メダルでしたが、どうかマイナス思考で考えず、プラス思考で考えて次の目標を目指して欲しいものでございます。

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2010/02/25

“技術”が勝つか、“表現“が勝つか。

 フィギュアスケートのショートプログラム(SP)が終わりましたねぇ。今の時点で、韓国の「キム・ヨナ」が堂々の1位。チョット差を付けられて日本の「浅田真央」が2位につけております。この2人、表現の仕方が全くの好対照で、ちょっと面白く思えましたので、ワタクシの感じた範囲でこの2人を語っちゃうのでございます。あしからず。

 フィギュアスケートというのは、スポーツでありながら芸術的な要素も十分加味されるという、演じる側からすると実に厄介なスポーツだと思うのでございます。ここで、スポーツとダンスとの区別を、体の骨格を使って説明いたしやしょう。両肩と左右の腰骨を結ぶ「四角形」を想像してくんなまし。この四角形を出来るだけ崩さずに動こうとするのが、「スポーツ」でございます。この四角形を維持したまま、手足でバランスをとるわけでございます。

 一方、「ダンス」というものは、この四角形をあえて崩すように動く事が多いのでございます。肩と腰骨を近づけるような動きですとか(イメージできますでしょうか)、あるいは風をはらんだ帆のように胸を張ったり猫背になったりといった動きとか。ダンスは肩や腰が何かに引かれるように動き始めて、後から手足が付いてくる感覚がございます。肩や腰で踊るわけでございますね。ダンスというのはそういった「クネクネ」とした要素が含まれまして、一方、「スポーツ」的な動きというものが体全体でバランスを取りながら動くのとは対照的なのでございます。

 浅田真央さんの滑り方は、かなり「スポーツ」寄りの演じ方。キチッとした演じ方でございます。手先も理想的なポジションにはめ込んで固めている感がございます。一方、キム・ヨナさんの滑り方は、かなり「ダンス」を意識しております。先ほどの四角形を崩すようなポーズを随所で使っておりますし、手先にも、ちょっとルーズさを残しております。その結果、浅田真央さんには、「段取りを正確にトレースしている」という印象がございます。逆にキム・ヨナさんは、「何を観客に伝えるか」というのを、本人がはっきり持っております。そのはっきりとした目的を、スケートという手段で表現している「表現者」なのです。技術云々以前に、キム・ヨナさんには「スター性」が有るのでございましょう。

 さて、次に、呼吸のお話をいたしましょう。スポーツの呼吸というのは、常に動きと連動しております。けれど、芸術的な呼吸というのは音楽と連動しております。フィギュアスケートのような芸術性が加味されるスポーツというのは、この呼吸面でのジレンマに必ず突き当たるのでございます。浅田真央さんの呼吸は、やはり動き優先の呼吸でございます。大事なジャンプをする直前など、ジャンプのタイミングに呼吸を合わせようとしております。ではキム・ヨナさんの呼吸はどうか。実に、音楽優先の呼吸をしております。ですから、音楽に動きがピッタリ合う。このシンクロの見事さは、息づかいまで気づかっていなければ絶対に不可能でございます。と同時に、先ほどの「ジレンマ」がございますので、呼吸に関してはかなりの苦しさを我慢しながら演じているはずでございます。

 そして、この呼吸に関する事ですが、浅田真央さんは呼吸を合わせようとするときに、「素に戻ってしまう」のでございますね。素に戻るというのは、分かりやすく言うと「演技を忘れる」といったところでしょうか。これが、キム・ヨナさんには全く無い。キム・ヨナさんは、最初から最後まで、常に「演じること」に集中しているのでございます。高度なジャンプを優先した浅田真央さんの演じ方と、あえて難易度の高いジャンプを避け、表現することを優先したキム・ヨナさんの演じ方と、実に好対照になっているのでございます。

 本日(2/25)の深夜に、この2人の決着が付くようでございますが、どうなるのでございましょうか。確かに「表現」という観点ではキム・ヨナさんに一日の長がございます。けど、ショートプログラムであれだけのものを見せておいて、いったい「フリー」でまだ見せるものが残っているのかなんて、ワタクシなどは思っちゃいます。“表現“が勝つのか、“技術”が勝つのか...みなさま方もオリンピック中継を見る際には、こんなことも気にしながら見てくださいませ。ではでは、ワタクシ名古屋薫がチョット偉そうに、世界の浅田真央とキム・ヨナに対して、講釈たれてみましたとさ。

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2010/02/24

優しくすることが、時として仇になります

 ちょっとお店で、こんなことがございました。お客様は初めていらっしゃる方で、遠方から来られるとのこと。当然、まだ会員登録とかはしておりませんので、電話で予約を入れることは出来ません。そのように説明したのですが、お客様いわく「遠方からいくのだから、なんとか予約を入れて欲しい」とのこと。お店のルールを説明してご理解いただこうとしたのですが、なかなか納得していただけない。結局、直接来店していただくことになりました。若干の待ち時間などが発生しちゃいましたが、無事に満足していただけたようでございます。

 当店の予約のルールは、初めて来店される方にはチョット厳しいものになっておりまして、申し訳ないと思いつつ、いつもなんとか当店のルールに従っていただいております。ここで、ちょっと例え話をいたしますね。もしあるお客様に対してお店のルールを少し緩めて優遇したといたしますよね。そのお客様は、次回いらっしゃったときも、「前回は、これでやってもらった」とおっしゃるはずでございます。もちろん、前回許しているのだから、今回も許さなければ“スジ”が通りません。電話を受けたスタッフは、お客様のご要望を通さざるを得なくなります。これを繰り返していると...そう、ルールは次第に意味をなさなくなり、その後に来るのは、「受付業務の混乱」なのでございます。

 ルールというのは、一度間口を広げ始めると、なし崩しに無意味なものになりかねません。また、ある時は厳格にルールに従わせ、あるときは優遇するということをすると、これはお客様に不信感を与えることにつながります。あるいは、そのルールに曖昧な部分があったりすると、これもまた、ルールが‘なし崩し’に意味をなさなくなる原因になります。例えば、遠方からいらっしゃる場合はOKとか、信頼できそうだったらOKとか、こんな曖昧な要素を含ませていると、受付業務は大混乱になってしまいます。結局、どこかでしっかりとした線引きをして、厳格に守っていただくということになるのでございます。

(ちょっと余談。「遠方からいらっしゃる場合」というのをどこかでしっかり線引きすればよさそうなものですが、この範囲をお客様に電話で説明しようとすると、これがまた大仕事。なぜなら、遠方からいらっしゃるお客様はこちらの地理に不案内だからでございます。結局、当店の場合は「20分以内で来られる距離」というハッキリした線引きで対処しております)

 さてもとい、「サービスの品質」というものは、ただ闇雲にお客様を優遇することではないと思っております。いつも同じ基準で安定してサービスできること、そこから生まれる安心感と信頼がサービスの品質だと思っております。安定していないとどういったことが起きるか? 優遇してしまった時には、「今日はサービスがいいなぁ」と喜んでもらえる。ところが、厳格にルールを守っていただいた場合は、「なんだぁ? ここ、サービス低下したなぁ」となるのでございます。人間というものは、良いことよりも悪いことを強烈に覚えているもの。結局、お客様を失っていくことになるのでございます。

 逆に、安定したいつも同じ接し方というのは、空気のようなもの。長年連れ添ったツレアイが空気のようなものになってしまうのと同じでございます。サービスとか接客というのは、この「空気のようなもの」がひとつの目標ではないでしょうかねぇ。お客様に余分なことを考えさせない、それが究極のサービスのような気がいたします。そこまでいくと、空気のようなものでありながら、いつの間にか、お店とお客様との信頼関係が生まれるとか、そんな崇高なものを理想と考えてはいるのですが、忙しい時には、ちょっと「雑」になったり...ム〜ン、いかん、いかん、いかんですよ。実は、こうやって偉そうなことを書いているのは、自分に対する戒めだったりしちゃったりして、アハハ。ということで、厳格なルールから生まれる信頼感のお話でした。

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2010/02/21

自分を客観的に見ることを、“メタ認知”なんて申します

 NHK大河ドラマの『龍馬伝』が面白いのでございます。今はちょうど、龍馬が短期の江戸修行を終えて里帰りしているところ。江戸で見聞きしたものに喚起され、さらなる江戸行きの野望に胸を膨らませている龍馬が描かれております。もうね、この龍馬を見ていると、20代の頃の自分のようで、ジリジリジリジリしてくるのでございます。

 その頃のワタクシは、とにかく何かをやりたくて、オーディションを受けまくっておりました。そして、東京のミュージカル養成学校のオーディションに合格し、上京するわけでございます。東京では驚きましたねぇ。とにかく人間が多い。自分と同じような野望を持った人間がワラワラとレッスンを受けに来ている。そして、そのレッスンの内容が濃い! もう何が濃いかって言うとですね、実際に舞台に携わっている人が、ごく普通に講師であったり生徒の中に紛れていたり。だから、レッスンもより実践的でしかも初めて聞くような最新の技術だったりするのでございます。

 ワタクシが東京で得たショックというのは、龍馬が黒船を見たときの衝撃と同じではないでしょうか。「あぁ、名古屋はなんて遅れていたんだ」と思い知らされたものでございます。「名古屋の数年間が東京の数ヶ月と同じ」ぐらいに思っておりました。もっとも、この東京での体験によって、「あぁ、私にも田舎があるんだ」と再認識できたとも言えるのでございます。東京へ行くまでのワタクシは、それこそ名古屋人の例に漏れず、「東京ほどではないにしろ、名古屋もそこそこ頑張っている」ぐらいに思っておりました。そんな名古屋への過大評価が崩れるとともに、より客観的に名古屋を見つめることにより、名古屋に対する愛着が増したわけでございます。

 で、ニューハーフにも同じようなことが言えちゃったりしまして、中部地区の外へ出たことがないニューハーフの場合、どうしても「井の中のかわず」状態になりかねない。そこでワタクシは、若いニューハーフには「気軽に東京を見て来なさい」と言ったりいたします。絶対的にレベルの違うものに触れますと、客観的に自分を評価する目が生まれたりいたします。自分の「立ち位置」が分かるわけでございますよね。この「立ち位置」をわきまえ、受け入れると、人間、「腹が据(す)わる」のでございます。

 ワタクシ、ニューハーフの美しさは外観的な美しさだけではないと思っております。この「腹の据わり」というのも、ニューハーフの魅力の大事な要素だと思っております。かつては、ニューハーフになるには、ある種の「覚悟」が必要でございました。家族とのつながりを断ち切り、一生この世界に骨を埋める、そんな覚悟でございます。ですから、古いニューハーフさんには、自然とその「腹の据わり」を備えていたような気がいたします。ところが、最近はそんな深刻な思いでニューハーフになる人は少なくなっておりますので、何かしらの大きなカルチャーショックでもないと、腹が据わらないかもしれません。

「腹が据わると、どうして美しくなるのか」と聞かれると困るのでございますが、たぶん、そのドーンと落ち着いた心が、相手に対して安心感を与えるのか、あるいは様々な体験が、達観した広い心作り出すのか、そんなところでございましょう。テレビの坂本龍馬を見ていて、なんだか自分の若い頃に重ね合わせてしまった今日でございました。

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2010/02/19

今だからこそ、観てもらいたい映画がございます

Nego_invi2 先日、ちょっと暇をいただきまして、映画を観てまいりました。『交渉人 THE MOVIE』と『インビクタス/負けざる者たち』の2本でございます。あまり出かけるチャンスがございませんので、行けるときにド~ンと2~3本、まとめて観てくるようにしております。

 『交渉人』の方は、テレビのスペシャル番組のちょっと豪華版って感じですかね。こういった「ノリ優先」で作っている映画は、そのノリに乗っかってしまうのが一番でございます。「交渉人」というテレビ番組があるそうですが、そちらのほうは見たことがなく、予備知識ゼロでの鑑賞でございます。気楽に観る映画ってのも、なかなかいいのでございます。

 さて、本命の『インビクタス』。この映画は、ラグビーとネルソン・マンデラ元大統領がテーマとのこと。スポーツがらみの映画っていうと、なぜか思い出すのは『ロンゲスト・ヤード』とか『クール・ランニング』といったところ。今回のオリンピックでは、ジャマイカのボブスレーは出場しているのでしょうか。といったところで、映画の話をいたしましょうか。あらすじの確信は書きませんので、まだ観ていない人も安心してお読みくださいませ。

 まず驚いたのが、パンフレットの厚さ。ページ数を数えたら44ページもあって、ビッシリと文字が並んでいる。そして、映画のパンフレットには珍しい縦書きの右開きという体裁。これは、とにかく‘文章を読んでもらいたいパンフレット’ということでございましょう。この映画のシナリオが史実に基づいており、そして、その史実をいたずらに美化することなく、いかに‘ありのまま’に表現したか、そんな熱い思いがパンフレットから伝わってくるのでございます。

 おおまかなストーリーは、就任直後のネルソン・マンデラ大統領の生きざまと、その大統領が国家再建のためのひとつの目標とした南アフリカ・ラグビーチームのワールドカップ優勝への経緯をつづった、スポーツ映画でございます。監督がクリント・イーストウッド。社会の恥部を実にさりげなく臭わせるのが大好きな監督のこと、どうやって南アフリカのアパルトヘイト(人種差別政策)を皮肉るのかと思いきや、そのアパルトヘイトの傷跡はほとんど持ち出さず、実にさわやかなスポーツ映画に仕上げております。それはたぶん、ネルソン・マンデラという人物の人間性に起因するのでございましょう。そのマンデラ氏の人間性こそが、この映画のテーマだからでございます。

 人種差別というと、ついつい黒人と白人の「戦い」のような印象を持ってしまいますが、マンデラ氏にとってはそうではないようでございます。マンデラ氏就任後、それまで白人の象徴であったラグビーチームは、そのチーム名やユニフォームなどを刷新しようという動きが生まれます。その一件にマンデラ氏はどうしたか。「白人の宝物を奪ってはいけない。白人に‘復讐’しても新たな敵対関係が生まれるだけ。白人も黒人も南アフリカを祖国とする国民なんだ」そう言って、そのチームの刷新を思いとどまらせるのでございます。「赦(ゆる)すことから、和解が始まる」、その信念を貫き通すマンデラ氏のひた向きさとスポーツマンの純粋さとが相まって、この映画の大きく、そしてさわやかな感動を生み出しております。

 このマンデラ氏の生きざまは、今の日本人にとっては耳が痛いはずでございますよ。つい最近、大きく政権が変わりましたが、新しい政権のやっていることは、今までの政権がやってきたことをとにかく否定することばかり。これは、「前政権への復讐」ではないですか? 何十年も自分を投獄してきた白人をさえも赦すマンデラ氏の大きな心に比べれば、「友愛」なんて語をひけらかしている人たちの度量の狭さがうかがえるってもんでございます。と同時に、政権を奪われた側の人たちの醜態も相当なものでございました。今の日本には、マンデラ氏のようなさわやかさを持った人はいないのでしょうかねぇ。

 ちょっと脱線いたしましたが、『インビクタス/負けざる者たち』、実にさわやかに気分になれる映画でございます。この映画のラグビーチームは、国歌の威信をかけてワールドカップに挑んでおります。その姿は、ちょうど今開催されているオリンピックの選手たちのイメージとも重なります。この時期だからこそ観るべき映画なのかもしれません。超オススメでございます。

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2010/02/16

ユニフォームがダサいのも、事業仕分けの影響かな?

 オリンピック、やってますねぇ。さっそく、服装で注意されて話題になっている選手がいるとのこと。この選手のことを話し始めると、結局、朝青龍と同じ話になっちゃうような気がいたします。まぁ、橋本聖子さんが、上手に収めましたね。そもそも、あの日本代表のユニフォーム、ダサ過ぎるのでございます。まるで高校生の制服のよう。あれじゃぁ、着崩してオシャレをしたくなるのも無理はございません。もっと斬新でスキの無いデザインなら、今度は逆に着崩すほうがかっこ悪くなってしまうのでございます。問題の発端は、あのユニフォームのデザインに有り、ワタクシ、断言しちゃうのでございます。

 関係者も、頭ごなしに注意したかもしれませんよね。むしろ、あの着崩し方を「個性」「オシャレ」として褒め、相手の心を解きほぐし距離感を無くしておいてから、やんわりと説得する。そんなやり方だとうまくいったかも、なんて思うのでございます。ただ、あの選手の「引き算のファッション」というのも芸がない。着ているものをただ崩すというのは引き算のファッション。与えられたユニフォームはきちんと着て、その上にラフなものを“加える”という「足し算のファッション」だったら、それほど目くじらは立てられなかったはずでございます。まぁ、気持ちを切り換えて、競技の方、頑張ってくださいませ。頑張れ、ニッポン、頑張れ、ニッポン。

 あ〜、でも、あの選手には、アスリート独特の「すがすがしさ」が無いですねぇ。これが残念。すがすがしさの無いアスリートってのは、カニ風味しか入っていない‘かに鍋’のようなものでございます。スノーボードという競技の性質上、あまり体育会系の風にさらされていないのでございましょう。というか、ファッションまで採点対象になるようなスノーボードという競技には、体育会系の雰囲気というのは、あまり似つかわしくないかもしれません。さぁこの後、彼はどんな成績を残すのでしょうねぇ。そして、オリンピック終了後、どんな風に変化しているのでしょうねぇ。世の中、叩いたり批判することばかりは熱心ですが、この小事件で彼がどのように成長するか、そんなところへ、もっと注目しましょうよ。

 さて、先ほど話しました、「まず褒めてから説得する」という方法、ワタクシもついこの方法を忘れて、頭ごなしに従業員を叱ってしまうことがございます。叱って相手を意気消沈させてしまうというのは、お仕事的にもマイナスでございます。頭ごなしに叱るというのは、動物がボスを決めるのと同じ心理。相手より上位であることを誇示したいという欲求の表れでございます。そんな叱り方は、叱った後に非常にあとあじの悪さが残るものでございます。

 逆に、注意する前にまず褒めるというのは、かなり心のエネルギーが必要でございます。ジリジリする気持ちをグッと飲み込んじゃうのでございます。エネルギーが必要で苦しい注意の仕方でございますが、あとあじは決して悪くございません。余裕があるときはこういった注意の仕方が出来るのですが、体調が悪かったりすると、難しいですよねぇ。ついイラッとして怖い顔をしちゃったりすることもございます。従業員に言わせると、ワタクシの怖い顔というのは本当に怖いそうでございます。怖がらせたりしていけませんね。自戒、自戒。

 それから、注意するときには「○○しちゃダメ」という言い方ではなく「○○よりは△△した方がいいよ」という言い方が出来るように、努めております。「しちゃダメ」という非定型ではなく、「こうした方がいいよ」という誘導型の注意で、相手が気持ちよくなるような言い方をするわけでございます。こちらも注意事項をよく伝えられ、相手も気分がいい。最近よく言われる「ウィンウィンの関係」っていうやつでしょうか。これも、自分に余裕がないとつい忘れがち。結論、自分の頭に血が上っているときには、他人に接しない。これ、最高。

 ということで、みなさんも職場での人間関係、子供のしつけなど、よろしければ参考にしてくださいませ。ではでは。

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2010/02/07

金にはかえられない、そう思ったかな

 ちょっと前に、大事件がございました。朝青龍の引退事件でございます。やはり、日本人と外国人との間の“ミゾ”のようなものが有ったのでしょうかねぇ。そしてまた、ニューハーフの業界にも、外国人が大勢従事しております。この業界でワタクシが得た“外国人像”をまじえながら、朝青龍の事件のお話をしたいと思います。

 まず、日本人は「空気を読む民族」なのでございます。まわりの空気を読んで、その空気に似合った行動をするし、まわりにも要求する(集団主義)。その空気のことを「常識」と言い換えたりもいたします。だから「空気を読みなさい」とか「そんなの常識でしょ」なんてことを気軽に言ってしまう。一方、外国人は「個性を主張する民族」(個人主義)。他人と同じことをやるというのは、ある意味「悪」なのでございます。そこで問題となるのが、日本人は勝手に「常識=ルール」と思っていますが、外国人はそうではない。空気を読むことで自然に不文律のルールが出来上がる「不文律文化」の日本人に対して、外国人は「契約文化」でございます。守って欲しい決まり事は、きちんと文章にしてあらかじめ説明しておく必要がございます。それをやらずにいきなり「こんなことが分からないの!」とやってしまうと、「日本人はルールを後付けする、ズルイ人たち」という印象を与えてしまうのでございます。

 そして、外国人に「上品」とか「下品」といった感覚を正確に伝えるのは、実に難しい。なぜならば、外国語での「上品」「下品」といった語は、動作の外観を指している言葉なのでございます。しなやかに動くとか、粗野に動くとか、見た目の違いを言い表しているだけなのでございます。ところが日本語の場合は、この「上品」「下品」といった言葉は、人の心(精神)を洗わしている。まず「心ありき」なのでございます。ですから、外国人に「上品な立ち振る舞い」というものを会得させる場合は、精神論を説かず、出来るだけ具体的に動きを説明してあげるのが、いちばんの近道でございます。外国人の場合はそれで何となく形になる。ところが同じことを日本人がやると、いっぺんに“お里が知られて”しまうのでございます。これは、日本人に「上品さ」と「心(精神)」を密接に結びつける特殊な感覚があるからでございます。この「心ありき」の感覚を、日本人は「道」と名付けております。柔道、剣道、合気道、そして華道、茶道、すべて、「まず心(精神)ありき」なのでございます。

 外国人と日本人の大きな違いは、こんなところでしょうかねぇ。さて、朝青龍に当てはめてみましょうか。まず、朝青龍の数々の不祥事、その度に朝青龍は注意を受けてきたわけでございますが、日本人だと「注意を受けて恥ずかしい」と思うのが普通。ところが、朝青龍は何と考えたでしょうねぇ。「そんなルールが有るのなら、最初に説明しておけよ」と思ったでしょうか。あるいは、「ただ個性を主張しているだけなのに、どうして俺ばかり怒られる」と思ったかも知れません。これは“契約主義”の外国人を使う上で、あらかじめ細かくルールを取り決めておかない日本側の体質にも、問題がございます。「常識で考えろ」とか「空気を読んで」といった精神論を押しつける前に、外国人向けの細かいルールをあらかじめ取り決めるべきでございます。最近の家電製品の取扱説明書には、「こんな事はしていけません」という注意書きが山のように記載されているでしょ。そう、あのノリでございます。

 そして、さんざん言われている「品格」の問題。朝青龍の記者会見でも「品格、品格と言われるけれど、土俵の上に上がれば鬼になる」と言っておりました。あ〜あ、やっぱり朝青龍、勘違いしている。たぶん「品格=優しさ」、つまり「品格を出せ」と言われて「優しくしろ」と解釈している。すると、勝負で勝つことと優しさが、朝青龍の心の中で矛盾してしまう。ということで、最後まで「品格」を理解できなかったようでございます。日本語で言う「品格」とは、「全てを尊重する心の寛大さ」でございます。自分の体を尊重し、自分の技、名前を尊重する。と同時に、対戦相手の体や技や名前も尊重する。すると、真剣に戦うのも「品格」でございますし、戦いが終わった後に手を差し出すのも「品格」、負けた時に当たり散らさないのも「品格」であれば、勝った時に相手の気持ちを思いやってガッツポーズをしないのも「品格」。品格という言葉には、その下地として「尊重する」という‘精神’が隠れているのでございます。日本側は「品格」という“言葉”を押しつけるだけで、その内容を全く説明できないでいる。ここに、「悲しい思い違いのすれ違い」が発生したのでございます。

「品格」を精神として理解できなかったのですから、当然、「相撲道」の「道(どう)」という概念も理解できていなかったはずでございます。さて、この「道」を考える上で、日本相撲界には大きなジレンマが存在するのでございます。それは、相撲人気のほとんどを外国人力士に頼んでいるにもかかわらず、あくまでも「相撲“道”」を推し進めていかなければならないというジレンマでございます。似たような事情を持つ「柔道」で説明いたしますと、「柔よく剛を制す」という柔道の精神から考えると、柔道には重量別の階級制度は存在してはいけないのでございます。ところが、東京オリンピックの際に正式種目として柔道を認めてもらうために、日本の柔道界は涙をのんで、その西洋的合理性である階級制を取り入れたのでございます(「無差別級」という階級が長く維持されていたのも、この経緯の名残)。ですから、日本国内では精神としての「柔道」を育みながら、国際試合でのスポーツとしての「JUDO」も認めていくという二元化(ジレンマ)を、柔道界は受け入れております。

 さて、相撲界にお話を戻しますと、多くの外国人力士の存在は、「興業としての相撲」を成立させるためには、今やなくてはならない存在でございます。と同時に、その外国人力士が増えれば増えるほど、伝統的な相撲道の精神は希薄になっていることを否めません。その精神の希薄を感じつつも、興行収入を獲得するために外国人力士をどんどん幕内に押し上げてきた。つまりここに、日本相撲界の金権的な体質を感じるのでございます。外国人力士は金を呼ぶ。その中でも飛び切り強い朝青龍は、特に金を呼ぶ。その朝青龍を取り巻くようなお金の流れが出来る。表向きは「相撲道」などと精神論を掲げながらも、興業を成立させるための外人力士起用には、金権的なうさんくささが見え隠れする。外人力士の人気にあぐらをかくうちに、「純粋」なものと「邪(よこしま)」なものとがそれぞれ一人歩きをはじめてしまい、その収拾が付かなくなってしまったというのが、ここ10年ぐらいの相撲界のジレンマではないでしょうか。

 結局、もっとゆっくりじっくり育てることも出来た大型外人力士を、興業を成立させるための金権体質が無理な早熟栽培を行った、という感じでしょうか。本来は教育者である高砂親方が毅然とした指導をするべきなのでしょうが、その高砂親方と朝青龍との間に、なにか一蓮托生のような「なれ合い」を感じたりいたします。多分、お金で繋がった人間関係ではないでしょうか。その打算的な人間関係が朝青龍を増長させ、暴走させたのかも知れないのでございます。ただね、誰かを責める、というわけにもいかないと思います。これはすべて、「流れ」だったのでございます。日本相撲界の低迷期に登場し、本人のあずかり知らないままにその大きな流れに乗せられてしまい、「金になる」と思われたとたんに様々な‘取り巻き’がワラワラと沸いてきて、本人の望むと望まざるに関わらず、「世間が求める朝青龍像」を演じ続ける。そして、いつのまにかそれが‘板について’しまい、そうやってヒールは育てられるのでございます。

 ホリエモンこと堀江貴文もボチボチ顔を出しておりますし、小室哲哉は先行きは不明ではありますが何とか再スタート出来ました。そうそう、亀田兄弟は、地獄をくぐり抜けてから人間が丸くなりましたよね。才能のある人ってのは、何かと金権目当ての取り巻きに翻弄されることが多いのです。朝青龍もそういったヤカラに翻弄されたような感はございますが、しばらく充電して、また何らかの形で再スタート出来たらいいですね。そのときには、いろいろな意味で、さらにひとまわり大きくなっているはずでございますよ。

 ワタクシも従業員を使っていて、「とっても人気があるけど人間的に非常に困った人」というケースが、ごくまれにございます。経営、経営と念じながら、なんとか働いてもらうわけでございますが、ある段階で、「もう、お金には、かえられない」と思ってしまう瞬間がございます。そうなると、あとは自分が腹を据えて、その問題児に辞めてもらう、ということになってしまいます。今回、相撲協会も性急な判断をいたしましたが、同じような感情があったのでしょうか。朝青龍の傷害事件がまだ藪の中というのも、どうも気になりますよね。せめて、その傷害事件の決着がついてから、判断してもよかったような気がしますが、まぁ、仕方ないですね。

 ということで、朝青龍の引退に関して、いろいろお話いたしました。ではでは...

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2010/02/05

古くは、「クストー」なんて人もおりました

Oceans
 先日、映画『アバター』に関する記述で、「CG画像は画面全体にピントが合っている」と書きましたが(2010/1/26配信分「歴代興行収入1位と2位が同じ監督作品!」)、これは大きく間違っておりました。というのも、『アバター』をあらためてIMAXの映画館で見直してまいりました。この映画、フル3Dの場面でもちゃんと光学レンズのピントが合う範囲の効果(被写界深度)をシミュレートしております。最初に観た映画館の方式では画面が暗かったので、頻繁に3D用の眼鏡を外すことになり、気がつかなかったようです。IMAXの明るい画面では3D用の眼鏡を外すようなこともなく、しっかりと確認出来たのでございます。

 さて、同じく最近見た映画がございます。『オーシャンズ』でございます。今回は、この映画の確信のようなものをしっかり書いちゃいますので、まだ観ていないので予備知識を得たくないという方は、この先を読むのはご遠慮ください。

    ---------- Intermission ----------


 ワタクシ、映画の嵐のシーンが大好きでございます。小さい頃に観た『ジャワの東』という映画に感化されたのでしょうか。その他にも『白い嵐』であるとか『パーフェクト・ストーム』なんて映画は大好きでございます。今回、この『オーシャンズ』を観に行ったのも、本物の嵐のシーンがあるからとのこと。もうね、ほんの数分の嵐のシーンのために、お魚のシーンをず〜と我慢して観る覚悟で臨んだのでございます。いや、失礼、お魚たちも可愛かったですよ。で、その嵐のシーン、CG(コンピュータ・グラフィックス)ではない本物の迫力は、大変なものでございます。たった数分の映像を撮りためるために、なんと3年間も理想的な嵐を待ち続けたとのこと。もうね、すっかりその嵐のシーンで堪能させていただいたのでございます。『剣岳 点の記』の解説でも申し上げましたが、CGを使わないという大前提は、製作側と観客側とに、ある種の信頼関係を生み出すのでございます...と、言いたいところですが、ところが、ところが、この信頼関係、映画の最後であっさりと裏切られるはめになるのでございます。

 映画の中盤にとても残酷なシーンがございます。フカヒレ漁のシーンでございます。網で捕獲されたフカが船の上に引き上げられ、胸ビレ・背ビレ・尾ヒレ全てを無残にも切り取られ、また海に捨てられるのでございます。口をパクパクと動かすただの肉の塊にされたそのフカは、ゆっくりと海底に沈んでいき、動かなくなります。この一部始終の全てを、海中から上を見上げた「サカナ目線」で撮影しております。まるでフカヒレ漁の風景を盗撮しているかのような映像でございます。この何ともショッキングな映像を目の当たりにして、観客はこの映画のふたつ目のメッセージを受け取ることになるのでございます。ひとつ目のメッセージは大自然が自明的に持つ調和の力。そしてこのふたつ目は、その調和を乱すように働く人間の力でございます。

(このフカヒレ漁のシーンに続いて、捕鯨のシーンも続いていたのでございますが、捕鯨シーンは非常に短くなっておりました。これは日本版独特の編集なのでしょうか、あるいはオリジナル通りなのか、ちょっといぶかしく思えたのでございます)

 で、先ほど、製作側と観客側との信頼関係があっさり裏切られると申しましたが、それは、映画のいちばん最後に添えられた言葉に由来いたします。映画の最後には、

   撮影に当たって魚を一切傷つけていません
   一部の残酷なシーンは、映像的な処理によるものです

と添えられるのでございます。確かにパンフレットを見ると、フカヒレ漁のシーンはアニマトロニクス(精巧な動物型ロボット)を使用しているとのこと。む〜ん、確かに最近の風潮を考えますと、あの残虐シーンを本物で撮影するというのは問題が残るでしょうねぇ。現に残虐なフカ漁は密かに行われているわけで、映画は間違ったな情報を提供しているわけではないでしょうが、この映画のメッセージの重厚さは、かなり薄らいでいるような気がいたします

(余談ですが、ジャコペッティの『世界残酷物語』なんてのを思い出しましたが、ジャコペッティのはヤラセ映像も多く含まれているので、映画全体を見るとドキュメントとはちょっと言い難いかもです)。

 話はそれますが、日本の捕鯨がオーストラリア方面で問題になっております。前述のフカの例が「フカ漁」ではなく「フカヒレ漁」であるように、日本の捕鯨も古くから「クジラ漁」であり、けっして「鯨油漁」ではなかったのでございます。つまり、日本は鯨のカラダ全体を食用目的で捕鯨していたのに対し、欧米諸国は古くから鯨の油(鯨油)目的で捕鯨をし、(先ほどのフカヒレ漁のように)油を搾り取った後の鯨の本体は、海に捨てておりました。現在の鯨の激減は、この近世欧米諸国による「鯨油漁」が大きく影響しているのにも関わらず、日本の捕鯨だけが矢面に立たされるのは、どうも納得いかないのでございます。

 さて、閑話休題。『オーシャンズ』という映画、何も考えずにノンビリと映像を眺めていたいというのには、ピッタリでございます。種の絶滅に対するメッセージは込められておりますが、そういった理屈臭い映像は、最後の方の最小限にとどめられております。単純に自然の醍醐味を堪能できる映画でございます。そして、すべての映像を通して、魚たちとの距離感が実に近い。魚に接近しての撮影には、相当な苦労があったはずでございます。また、音声も非常にクリアなのは、ワタクシ的に高得点なのでございます。若干、効果音的なものが入れられている部分もあるようですが、基本的に海の中の音をそのまま録音している。ノイズが入りやすい海中撮影でクリアな音声を録音するというのにも、苦労が多かったはずでございます。

 そういえば、この映画の共同監督である「ジャック・ペラン」と「ジャック・クルーゾー」は、2001年に同じコンビで『 WATARIDORI 』という映画を制作しております。この映画、『オーシャンズ』の鳥版とでもいうべき作品で、空を飛ぶ渡り鳥の姿を数メートルの距離で追いかけながら撮影しているという大変な映画でございます。つーか、ワタクシ、この『WATARIDORI』という映画をよく知っておりますのに、『オーシャンズ』を観て同じ監督作品の『WATARIDORI』を思い出さなかったのは、実に不覚なのでございます。『オーシャンズ』同様、この『WATARIDORI』も、超オススメなのでございます。

 ということで、『オーシャンズ』という映画の感想でございました。『プラネットアース』とかお好きな方は、絶対楽しめる映画でございます。

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2010/02/04

ワクワク、それだけで幸せなはずなのに...

 先月の1月22日は、ワタクシの母親の命日でございました。ワタクシ、ちょっと考えがありまして、お墓も作っておりませんし、遺骨も拾っておりません(よい子は真似をしないように!)。ただ、母親の命日には、デパートでちょっと高級なお弁当を買ってきて仏前にお供えするのが、毎年の常となっております。その命日も、恒例の行事を実行すべく、ちょいと時間をいただいて外出してまいりました。

 天気も良かったのでテクテクと歩いて外へ。お店の近くのATMで支払いを済ませ、さぁ三越の食品売り場まで足を伸ばそうかなと思ったときでございます。どこからか美味しそうな香りが漂ってまいりました。ATMの近くにある‘うなぎ屋'さんでございます。そこで、ワタクシ、ふと思ったのでございますよね。

「三越で何千円もするお弁当を毎年買っているけど、あれって、確かに食材はいいけど、味が地味だし、大して量もないし」...なんて考えておりましたら、かつて母親と一緒に大須(名古屋の古くから商店街のひとつ)のうなぎ屋へ行ったときの光景が思い出されたのでございます。きびすを返しまして、いざそのうなぎ屋へ。ひつまぶし弁当とおだしのパックと、あと母親が好きだった‘う巻き'を買って、いそいそと自分の部屋へ向かったのでございます。

 なんでしょうねぇ。三越の高級弁当をお供えしていたときには感じなかった、妙にワクワクした想いがわき上がってきたのでございます。もうね、気分は新婚直後の帰宅を急ぐサラリーマンのようなものでございます(いやワタクシ、“新婚”も“サラリーマン”も経験ないですけどね)。きっと、母親とうなぎを食べた思い出がそうさせたのでしょうか、イソイソと家路を急ぎ、お供えしてお線香を上げ、お経を読んで、一段落でございます。

 これは、ワタクシのちょっとしたエピソードでございますが、人を愛するってことは、この「ワクワク」、この「ワクワク」だけでもう必要十分条件ではないかと思うのでございます。家で待っている人に早く会いたい。このお土産を早くあの人に渡してあげたい。たった、それだけの気持ちで必要十分なんじゃないでしょうか。そういえば、小さな子供の頃ってのは、家に帰るのが楽しみでしょうがなかったですよね。家というものが、自分を温かく迎えてくれるすばらしい場所だった。みなさんも、そんな自然と家路を急ぐような体験って、なかったでしょうか。

 さて、本日見たテレビ番組で(テレビの話題が多くて申し訳ないです)、30代から60代の社会人のストレスの原因は、男性の1位から3位が「仕事」「上司」「同僚」、女性の場合が1位から「配偶者」「子供」「仕事」ということだそうでございます。男性の場合は一日の多くを職場で過ごしますので、まぁ妥当な結果なのでしょうが、女性のストレスの大きな原因が配偶者と子供というのは、なんだか悲しいですよねぇ。新婚当初はホンワカホンワカだった家庭が、いつのまにかストレスの元凶になっちゃってるということは。

 そしてまた、ニューハーフになる人っていうのも、どうしても家庭あるいは家族と疎遠になることが多いのでございます。ニューハーフになるのを大賛成する家族ってのも、珍しいですからね。ですから、そういった人は家庭の「ワクワク」というものに実感が少ないからでしょうか、今の自分のすみかのワクワク感を育(はぐく)もうとする気持ちが薄かったりいたします。本来自分の部屋っていうのは「巣」であり「城」であって、外で嫌なことがあってもそこへ帰るとホンワカできる安らぎの場所でなければいけないのですが、自分のすみかに対するワクワク感がないと、つい家の外でストレスを発散しがちになってしまうのでございます。

 家路を急ぐときのワクワク感、みなさまはお持ちでしょうか? 自分の家が巣や城となってますでしょうか。顔を見たくてワクワクするような人が身近にいらっしゃるでしょうか。ということで、みなさんも、ちょっとした「ワクワク」を大事にしてくださいませ。そうそう、お供えしたひつまぶし弁当は、お供えの後に、ワタクシが美味しくいただきましたですよ。ではでは...

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