ちょっと前に、大事件がございました。朝青龍の引退事件でございます。やはり、日本人と外国人との間の“ミゾ”のようなものが有ったのでしょうかねぇ。そしてまた、ニューハーフの業界にも、外国人が大勢従事しております。この業界でワタクシが得た“外国人像”をまじえながら、朝青龍の事件のお話をしたいと思います。
まず、日本人は「空気を読む民族」なのでございます。まわりの空気を読んで、その空気に似合った行動をするし、まわりにも要求する(集団主義)。その空気のことを「常識」と言い換えたりもいたします。だから「空気を読みなさい」とか「そんなの常識でしょ」なんてことを気軽に言ってしまう。一方、外国人は「個性を主張する民族」(個人主義)。他人と同じことをやるというのは、ある意味「悪」なのでございます。そこで問題となるのが、日本人は勝手に「常識=ルール」と思っていますが、外国人はそうではない。空気を読むことで自然に不文律のルールが出来上がる「不文律文化」の日本人に対して、外国人は「契約文化」でございます。守って欲しい決まり事は、きちんと文章にしてあらかじめ説明しておく必要がございます。それをやらずにいきなり「こんなことが分からないの!」とやってしまうと、「日本人はルールを後付けする、ズルイ人たち」という印象を与えてしまうのでございます。
そして、外国人に「上品」とか「下品」といった感覚を正確に伝えるのは、実に難しい。なぜならば、外国語での「上品」「下品」といった語は、動作の外観を指している言葉なのでございます。しなやかに動くとか、粗野に動くとか、見た目の違いを言い表しているだけなのでございます。ところが日本語の場合は、この「上品」「下品」といった言葉は、人の心(精神)を洗わしている。まず「心ありき」なのでございます。ですから、外国人に「上品な立ち振る舞い」というものを会得させる場合は、精神論を説かず、出来るだけ具体的に動きを説明してあげるのが、いちばんの近道でございます。外国人の場合はそれで何となく形になる。ところが同じことを日本人がやると、いっぺんに“お里が知られて”しまうのでございます。これは、日本人に「上品さ」と「心(精神)」を密接に結びつける特殊な感覚があるからでございます。この「心ありき」の感覚を、日本人は「道」と名付けております。柔道、剣道、合気道、そして華道、茶道、すべて、「まず心(精神)ありき」なのでございます。
外国人と日本人の大きな違いは、こんなところでしょうかねぇ。さて、朝青龍に当てはめてみましょうか。まず、朝青龍の数々の不祥事、その度に朝青龍は注意を受けてきたわけでございますが、日本人だと「注意を受けて恥ずかしい」と思うのが普通。ところが、朝青龍は何と考えたでしょうねぇ。「そんなルールが有るのなら、最初に説明しておけよ」と思ったでしょうか。あるいは、「ただ個性を主張しているだけなのに、どうして俺ばかり怒られる」と思ったかも知れません。これは“契約主義”の外国人を使う上で、あらかじめ細かくルールを取り決めておかない日本側の体質にも、問題がございます。「常識で考えろ」とか「空気を読んで」といった精神論を押しつける前に、外国人向けの細かいルールをあらかじめ取り決めるべきでございます。最近の家電製品の取扱説明書には、「こんな事はしていけません」という注意書きが山のように記載されているでしょ。そう、あのノリでございます。
そして、さんざん言われている「品格」の問題。朝青龍の記者会見でも「品格、品格と言われるけれど、土俵の上に上がれば鬼になる」と言っておりました。あ〜あ、やっぱり朝青龍、勘違いしている。たぶん「品格=優しさ」、つまり「品格を出せ」と言われて「優しくしろ」と解釈している。すると、勝負で勝つことと優しさが、朝青龍の心の中で矛盾してしまう。ということで、最後まで「品格」を理解できなかったようでございます。日本語で言う「品格」とは、「全てを尊重する心の寛大さ」でございます。自分の体を尊重し、自分の技、名前を尊重する。と同時に、対戦相手の体や技や名前も尊重する。すると、真剣に戦うのも「品格」でございますし、戦いが終わった後に手を差し出すのも「品格」、負けた時に当たり散らさないのも「品格」であれば、勝った時に相手の気持ちを思いやってガッツポーズをしないのも「品格」。品格という言葉には、その下地として「尊重する」という‘精神’が隠れているのでございます。日本側は「品格」という“言葉”を押しつけるだけで、その内容を全く説明できないでいる。ここに、「悲しい思い違いのすれ違い」が発生したのでございます。
「品格」を精神として理解できなかったのですから、当然、「相撲道」の「道(どう)」という概念も理解できていなかったはずでございます。さて、この「道」を考える上で、日本相撲界には大きなジレンマが存在するのでございます。それは、相撲人気のほとんどを外国人力士に頼んでいるにもかかわらず、あくまでも「相撲“道”」を推し進めていかなければならないというジレンマでございます。似たような事情を持つ「柔道」で説明いたしますと、「柔よく剛を制す」という柔道の精神から考えると、柔道には重量別の階級制度は存在してはいけないのでございます。ところが、東京オリンピックの際に正式種目として柔道を認めてもらうために、日本の柔道界は涙をのんで、その西洋的合理性である階級制を取り入れたのでございます(「無差別級」という階級が長く維持されていたのも、この経緯の名残)。ですから、日本国内では精神としての「柔道」を育みながら、国際試合でのスポーツとしての「JUDO」も認めていくという二元化(ジレンマ)を、柔道界は受け入れております。
さて、相撲界にお話を戻しますと、多くの外国人力士の存在は、「興業としての相撲」を成立させるためには、今やなくてはならない存在でございます。と同時に、その外国人力士が増えれば増えるほど、伝統的な相撲道の精神は希薄になっていることを否めません。その精神の希薄を感じつつも、興行収入を獲得するために外国人力士をどんどん幕内に押し上げてきた。つまりここに、日本相撲界の金権的な体質を感じるのでございます。外国人力士は金を呼ぶ。その中でも飛び切り強い朝青龍は、特に金を呼ぶ。その朝青龍を取り巻くようなお金の流れが出来る。表向きは「相撲道」などと精神論を掲げながらも、興業を成立させるための外人力士起用には、金権的なうさんくささが見え隠れする。外人力士の人気にあぐらをかくうちに、「純粋」なものと「邪(よこしま)」なものとがそれぞれ一人歩きをはじめてしまい、その収拾が付かなくなってしまったというのが、ここ10年ぐらいの相撲界のジレンマではないでしょうか。
結局、もっとゆっくりじっくり育てることも出来た大型外人力士を、興業を成立させるための金権体質が無理な早熟栽培を行った、という感じでしょうか。本来は教育者である高砂親方が毅然とした指導をするべきなのでしょうが、その高砂親方と朝青龍との間に、なにか一蓮托生のような「なれ合い」を感じたりいたします。多分、お金で繋がった人間関係ではないでしょうか。その打算的な人間関係が朝青龍を増長させ、暴走させたのかも知れないのでございます。ただね、誰かを責める、というわけにもいかないと思います。これはすべて、「流れ」だったのでございます。日本相撲界の低迷期に登場し、本人のあずかり知らないままにその大きな流れに乗せられてしまい、「金になる」と思われたとたんに様々な‘取り巻き’がワラワラと沸いてきて、本人の望むと望まざるに関わらず、「世間が求める朝青龍像」を演じ続ける。そして、いつのまにかそれが‘板について’しまい、そうやってヒールは育てられるのでございます。
ホリエモンこと堀江貴文もボチボチ顔を出しておりますし、小室哲哉は先行きは不明ではありますが何とか再スタート出来ました。そうそう、亀田兄弟は、地獄をくぐり抜けてから人間が丸くなりましたよね。才能のある人ってのは、何かと金権目当ての取り巻きに翻弄されることが多いのです。朝青龍もそういったヤカラに翻弄されたような感はございますが、しばらく充電して、また何らかの形で再スタート出来たらいいですね。そのときには、いろいろな意味で、さらにひとまわり大きくなっているはずでございますよ。
ワタクシも従業員を使っていて、「とっても人気があるけど人間的に非常に困った人」というケースが、ごくまれにございます。経営、経営と念じながら、なんとか働いてもらうわけでございますが、ある段階で、「もう、お金には、かえられない」と思ってしまう瞬間がございます。そうなると、あとは自分が腹を据えて、その問題児に辞めてもらう、ということになってしまいます。今回、相撲協会も性急な判断をいたしましたが、同じような感情があったのでしょうか。朝青龍の傷害事件がまだ藪の中というのも、どうも気になりますよね。せめて、その傷害事件の決着がついてから、判断してもよかったような気がしますが、まぁ、仕方ないですね。
ということで、朝青龍の引退に関して、いろいろお話いたしました。ではでは...
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