TVに出るためには勝ち続けなければならないという残酷
ちょっと前のスポーツの試合で、最近には珍しく、視聴率40%をたたき出した番組がございました。そう、亀田興毅と内藤大助のボクシングの試合でございます。試合結果に関しては、みなさまご承知の通りでございますよね。ということで、今回はボクシングの試合とテレビ局のお話。ボクシングにあまり興味が無いという方も、しばし、おつき合いのほどを。
そのボクシングの試合中継を、ボチボチ、お店の電話番をしながら片手間に見ておりました。まぁ、シロート目にはいい試合だったと思いますよ。なんか逃げ回ってばかりいる試合とか、抱き合ってばかりいる試合とか、そんな試合じゃありませんでしたしね。まぁ、ボクシングに関してはあまり詳しくないので、内容の是非に関しては、ちょっと置いておきましょうか。それよりも、ワタクシがチョット気になるのは「テレビ局」の方。
特に根拠はないのですが、こういった試合を見るたびに、テレビ局というものがどんどん不純に見えてくるのでございます。スポーツといえども“興業”ですので、興行収入とか動員数というものが大前提になってくるのは仕方がないこと。そう考えると、あれだけの動員を稼げる亀田一家というのは、興行的な感覚で見れば大変な“実力者”と言わざるを得ません。ところが、こういった“色物的な実力”というのは――まぁ一種の「ブーム」と呼びましょうか――時期が過ぎると、あっという間に「夢のあと」となりかねない、そんな一過性のブームなのでございます。
テレビ局も、そんな一過性を十分に分かっているはずでございます。分かっていながら、“旬”の間にボロ稼ぎをしようというのが、常套手段。持ち上げるときは思いっきり持ち上げて金儲けをし、落とすときにはこれまた思いっきり落とすことで話題性を取ろうとする。ひとつのネタで二往復分を稼ぐという効率のいい“利用の仕方”。しかもその上がり下がりが、テレビ局による操作だったりするのでございます。人気が上がるのも落ちるのも、すべてテレビ局の胸先三寸。テレビ画面から伺える「人気」というのは、その本人の実力ではなく、テレビ局が作り出した幻想なのかもしれないのでございます。
そんなテレビ局と張り合うためには、テレビ局以上に“したたか”でなくてはならないのですが、亀田一家、どんなもんでしょうかねぇ? 亀田一家から感じるのは、“したたかさ”ではなく「幼さ」なんですよね。そう、一家全員が幼い(失礼)。幼さゆえの「純粋さ」というものはございます。その純粋さが、ある種の「カリスマ性」を生んでいるのでございます。ですから、幼いということは決して悪い事ではないのでございますが、その幼さゆえに、暗黒のフォースに染められてしまうという危険もはらんでいるのでございます。
とにもかくにも、一時期はガラガラだったボクシングの試合に、あれだけの観客を動員したというのはすばらしいことでございます。でも、亀田以外の試合は、相変わらずガラガラなんですよね。どうもテレビ局は「亀田」だけに興味があるようで、ボクシング界全体には興味がないようでございます。そんなところに、テレビ局の「使い捨て感覚」を感じちゃったりするのですけどね。
ということで、今回はこの辺で。テレビ局のことばかり書きましたが、これは、テレビだけではなく、雑誌などでも言えるような気がするのですけど、まぁ、それは別の回で...
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