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2009年12月

2009/12/30

軽い話と重たい話、映画の話をふたつほど

 今回は、ちょっと前にテレビで観た映画の話。軽い話と重たい話があるけど、まずは軽い話から。

 『武士の一分』が先日放送されておりまして、何気に見ておりました。実は、この映画、封切りの際に全く興味を持たなかったのでございます。というのも、主役が「木村拓哉」ということ。ワタクシ、この映画を観るまでは、木村拓哉の演技力をゼ〜ンゼン認めておりませんでした。何のドラマに出演しても、いつもそこには劇中の人物ではなく「木村拓哉」がいるだけ。というか、木村拓哉のキャラクターに合わせて、脚本が書かれていると言うべきか。結果、何を演じても同じようなキャラクターになる。そんなネームバリューだけを使用するようなドラマ起用に、ウンザリしておりました。

 ところが、この映画の山田洋次監督、見事に木村拓哉を使い切っている感がございます。木村拓哉本人も、この映画はキツかったでしょうね。監督がまったく妥協していないのがよく分かるのでございます。でもその結果、この映画での木村拓哉は、実にいい演技をしております。そして、こういった役者を甘やかさない監督に触れたとき、役者は大きく成長するキッカケを見つけたりいたします。逆に、ネームバリューだけ借りて役者を甘やかすような「よくあるドラマ」は、役者の成長の芽を潰しかねません。木村拓哉さん、この映画でいい経験をしましたよね。そして、この映画を映画館に観に行かなかったことを、非常に後悔しております。

 さて、次は、ちょっと重たい話。つい数日前、東海地方で深夜に『夕凪の街 桜の国』という映画が放送されておりました。この映画は、「こうの 史代」さんが描かれた同名の漫画の映画化でございます。原爆、そしてその被爆の後遺症で苦しむ人たちが主人公。ほのぼのとしたストーリーの中に、実に巧みに被爆者の苦しみを盛り込んだ、考えさせられる作品になっております。この作品の主人公が被爆後10年を経たときに発した、ある印象深いセリフをご紹介いたします。

  (この街の人は)誰もあの事(原爆)を言わない
  いまだにわけが わからないのだ
  分かっているのは「死ねばいい」と誰かに思われたこと
「死ねばいい」と思っただけでは、人は死なない。「死ねばいい」と思い、それを実行に移す人がいると、ナイフを振り回す人がいたり、女性の首を絞めてしまう人がいたり、あるいは、ビルに旅客機が飛び込んだり、ユダヤ人が虐殺されたり、原爆が落とされたりする...

 そしてこの漫画は、主人公が死ぬ場面で、さらにこのようにも書いております。

  原爆を落とした人は私を見て、
  「やった! また一人殺せた」
  と、ちゃんと思うてくれとる?
 ただ「死ねばいい」と思われ、理由も分からずに殺されていく無念さ、そんな思いがこの言葉には込められております。そして、戦争という殺戮(さつりく)のシステムが、「死ねばいい」という言葉の重さをどんどん希薄にしていくのでございます。

 例えば、我々が原爆の被害者に対する思いを深くするのであれば、私たちは同時に、真珠湾で死んでいったアメリカ兵にも思いを寄せることが必要でございます。なぜなら、そのとき我々日本人もアメリカ兵のことを「死ねばいい」と思っただろうから。そう、お互いに相手を「死ねばいい」と思ったとき、戦争が始まる。けれど、「死ねばいい」と思った人と、それを実行する人は別の人。それが戦争の殺戮システム。だから、死んでいった人たちには、無念さばかりが残る。

 この『夕凪の街 桜の国』というような作品は、多くの人に観てもらいたい作品でございます。こういう作品てのは、なんでしょうかねぇ、国とかが著作権を買い取って、非常に安い金額、あるいはコピーフリー(改変・編集は不可)という形で配布できないでしょうかねぇ。そうすると、爆発的に世界中に広がると思うのでございます。あるいは、学校の授業の中に映画鑑賞として組み込んでしまうとかはどうでしょう。でも、そういうことを国が主導で行うと、またいろいろ問題になっちゃうのでしょうね。難しい国でございます、この日本という国は。

 常々、ハリウッド映画が核爆発を非常に軽率に表現するのを、苦々しく思っております。この『夕凪の街 桜の国』のように、核爆発の本当の怖さを表現した映画こそ、広く鑑賞されるべきだと思うのですが、どうでしょうか。

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2009/12/21

僕とウイルスの4日間戦争

 おひさでございます。ちょっとバタバタと無理をしているうちに、風邪などを引いておりました。常日頃、従業員に体調管理を厳しく言っているワタクシが風邪を引いたとあっては、まったく面目ないのでございます。今回は、この数日間の、ワタクシと風邪のウイルスとの戦いを、レポートするのでございます。では、はじまり、はじまり~~。

《木曜日-第1日目》
 水曜日の営業終了後に雑誌広告の原稿を作製。そのため、ほとんど徹夜状態。深夜にちょっとブルッと寒気。今思えば、その「ブルッ」から、この数日間の戦いの前哨戦が始まっていた模様。昼を過ぎた頃から、ブルブルブルブルと寒くてしょうがない。熱を測ると37度を超えている。咳なども出てくるので、慌ててマスクをはめる。スッピンにヒキツメ髪にマスク。怪しさ全開。夜も更けてくると、熱はウナギ登り。38.5度ぐらいまで上がる。普段なら、お店を店長に任せてさっさと引きこもるのだが、あいにく今日は木曜日、店長がお休み。こういったところにも、運の巡り合わせの悪さがあったような気が。

《金曜日-第2日目》
 一日中、ほとんど気絶状態で、あまり記憶がない。たまに起きて、水を一口飲む。そして寝る。また起きて、トイレへ。そして寝る。水、寝る、トイレ、寝る...延々とこの繰り返し。そして気がつくと日付が変わっている。店長が営業終了の報告を電話してくる。「ご苦労さま、助かります」と返事。そしてまた寝る。この日は2リットルぐらいの水を飲み、たぶん2リットルぐらいのオシッコを出している。熱は37度と38度を行ったり来たり。咳が激しく出るが、ここまで服薬、何もせず。ただひたすら、風邪のウイルスをパックマンが食べ尽くす姿をイメージし続ける。夜半から、下痢が始まる。上と下とで勢いよくウイルスが排出されるのをイメージし、順調を確信。

《土曜日-第3日目》
 早朝、ウトウトしていたら、従業員の一人から電話。「雪が積もっていて、お店に出勤できない」と、パニック状態。まだ時間は十分にある。穏やかに「アワテナクテモイイ」と答えて電話を切る。熱を測ると37度前半。なぜか頭痛がひどい。ここへ来て初めて服薬。頭痛薬を飲む。フラフラと窓際へ。雪景色。毛布にくるまりながら眺めていると、徐々に頭痛が楽に。今日は土曜日。病院へ行くのなら午前中。無理をして病院へ行くか風呂に入るかを迷い、結局、バスタブに熱いお湯を張ることに。ゆっくりと朝風呂。風呂上がり、体が冷えないうちにコンビニへ兵糧の確保に。病気の際の定番「アオハタの白がゆ」をゲット! 風邪に効きそうな「豚汁生姜汁」なるものもゲット! その他、冷蔵庫の中のあまりもの、りんご、ラッキョ、梅干しなど、いっぺんに食す。非常に不思議なゲップが出る。時計を見ると11時半。動いたせいか、熱が38度までぶり返してしまった。布団へ直行。二度寝に入る。そして、目が覚めて夕方。体が楽になっている。熱は36度まで下がり、ウイルスを根絶したと(勝手に)断定。ここから限度額いっぱいで服薬開始。頭痛薬、咳止めを飲みまくる。明日の日曜日には復帰の予定で行動する。

《日曜日-第4日目》
 従業員に移さないようにと、金・土曜日とお店から遠ざかっていたが、この日、念のためマスクをかけて出勤。やるべき仕事が山積みになって溜まっている。咳をしすぎたせいか、猛烈な腰の痛み。腰に湿布を貼り、背中のストレッチを入念に行う。腰痛はワタクシの持病で、これがいつもの治し方。徐々に腰痛は我慢できる程度に。頭痛薬と咳止めは、相変わらず飲み続けている。自分の体をだましだまし、なんとか1日完了。友達よ、これがワタクシの、4日間の戦争です。チュラチュラチュラチュラチュラチュララ~~、チュラチュラチュラチュ~ラ~ラ~~~。

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みなさま方も、風邪などひかぬよう、お気を付け下さい。ワタクシも、お仕事が一段落したら、病院へ行ってくるつもりでございます。ではでは。

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2009/12/15

驚異的なCGは、もはや“エロ”である!

Up_2012
 久しぶりにお休みをいただきまして、映画などを観てまいりました。『カールじいさんの空飛ぶ家』、『2012』の二本でございます。あえて映画の内容を書いたりはいたしませんので、まだ鑑賞していない方も安心してお読みください。

 『カールじいさん〜』は、最近増えてきた3D(立体)映画でございます。客席の入り口で専用めがねを渡されまして、それで映画を見ると立体に見えるのでございます。この液晶シャッター式のめがね、画面が少し暗く見えてしまう。それでなくても、ワタクシの目は夜盲症の傾向がございまして、映画の薄暗いシーンは非常に苦手。結局、画面の明るさに応じて、専用めがねをはめたり、はずしたり、はめたり、はずしたり、はめたり、はずしたり、と忙しかったのでございます。

 立体の度合いはそれほど強くなく、ほぼ自然に見える感じ。小さな子供が怖がったり、気分が悪くなる人が出ないようにとの配慮でしょうか。多分、テーマパークなどのアトラクションの立体映像の方が、もっとド派手な設定にされているはずでございます。ああいったものは視聴時間が短いですからね。そういえば、最近はデジタル処理だからこういった立体映画も簡単なのでしょうが、ワタクシが子供の頃、“東映まんが祭り”とかの「赤青セロハンめがね」で見る立体映画は、その製作現場は大変だったんでしょうねぇ。仮面の忍者赤影の適役の金棒がワタクシの頭の上をかすめ、オシッコをちびりそうなくらいに怖かった覚えがございます。

 さて、前作の『ウォーリー』の出来があまりにも良かっただけに、この『カールじいさん〜』にも期待されるところでございますが、う〜ん、非常によく出来てはいるものの、残念ながら『ウォーリー』を超えてはいないかも。『カールじいさん〜』は、映画のいちばん感動的な部分を予告編としてバンバン流しちゃっていたのがいけないと思いますよ。ただディズニーの映画には、「絶対に悲しい結末にならない」という安心感があるのでございます。これは、ディズニーの映画ポリシーが作り上げた“良き伝統”でございますよね。

 では、『2012』のお話でもしましょうか。こういうのは「一種のパニック映画」と扱えばいいのでございましょうか。人類滅亡型のパニック映画というのは、昔からいろいろあるのでございます。その他、風災害型パニック映画、人災型パニック映画も含めれば、映画というのはパニック映画の宝庫なのでございます。昔のパニック映画というのは、特撮にそれほどの時間を割けませんので、必然的に「人間模様」のゴタゴタが話のメインになっていくわけでございますよね。

 ところが、この『2012』のように、驚異的なCG画像がてんこ盛りになっちゃいますと、ストーリーの人間模様が“どうでもよく”なってくるのでございます。映画館だから駄目だけど、もし自分の部屋でDVDを観ているのだったら、多分、CG以外のシーンを全部早送りで進めていたかも。と書いて、ふと思ったのでございます。この「どうでもいいシーンを早送りで送る」って、これって、「エロ映画」を見るときのノウハウではございませんか。結論! パニック映画のCG技術が進めば進むほど、映画はエロに帰結する!

 アニメでもそうですが、CGで作製されたシーンというのは、情報量が多すぎるのでございますよね。観ている方がその情報量に追いつかなくて、何が起きているかを十分に読み取る前にシーンが進んで行ってしまう。そういった点では、CGに制約の多かった昔の映画の方が、「適度なディテールの省略」があって、見やすかったような気がいたします。すると、今後はCGの乱用が見直される流れになるのでしょうか? 実際、ちょっと前にかけられていた『剣岳 点の記』という映画はCGを全く使っておらず、それゆえの安心感や臨場感、現実味が感じられたのでございます。「完全CG無使用」というのも、CG技術が発達した今だからこそ、映画のうたい文句のひとつとして有効になり得ると思っております。

 一方、こんなことも考えました。最近の小さな子供は、ゲームをすごい速さで遊んでおります。でたらめにボタンを押すのではなく、ちゃんと画面を見て状況判断をして、的確なボタンをすごい速さで連打して遊んでおります。また「デッキ」と呼ばれるカードゲームなどもあるようで、まるで早回しをしているようなスピードで、カードを出し合って遊んでおります。そういったことを見ると、テレビゲームで育った世代というのは、頭の中の構造がそのような高速処理に最適化されているのかもしれません。情報量あふれかえる映画の画面を見て、「ついて行けない」と思うワタクシは、すでに時代に取り残されているのでしょうかねぇ。

 さて、『カールじいさん〜』を見るときに思ったのですが、映画の前に必ず出される「盗撮禁止の注意」が、ほとんど出されておりませんでした。そりゃそうですよね。3D映画のブレた画像を盗撮しても、まったく盗撮の意味がございません。映画館というシステムの中でなければ鑑賞できない3D映画というのは、盗撮に対する大きな防護壁になるような気がするのでございます。実際、3D映画が活発なアメリカでは、DVDの販売で落ち込み続けていた映画館の収益が、今年から上昇傾向にあるようでございます。映画館大好きなワタクシといたしましては、この「3D」で、ぜひとも巻き返しをはかっていただきたいものでございます。

 その3D技術は、そろそろ一般のテレビ受像器にまで普及するようでございます。来年あたりから、「立体テレビ」の発売が予定されております。「3D」ってのを「現実をより現実っぽく映す技術」と定義いたしやしょう。さらに「CG」ってのを「非現実を現実のように映す技術」なんて定義するざんす。するってぇと、このふたつが協力すると「非現実を、より現実っぽく映す」ことが出来るのでございます。だんな、こりゃぁ危険ですよ。こういった技術の発達によって、映像における信憑性の偽造は際限なく青天井になってしまったのでございます。

 ちょっと前までは、「動画」と呼ばれるものにはそれなりの信憑性がございました。ところが、これからは、どんな動画ももう信じられない。いかにも自然な映像でそれが立体的に見えていたとしても、すでにそれはデジタル処理から生まれた架空の世界の出来事なのかも知れないからでございます。あぁ、もう何も信用できない。「すべての映像は“ウソ”かもしれない」と世の中を常に斜めに見て生きていかなければならない時代が到来するのでございます。すべてを疑って見始めると、信じられるのは自分の意識だけ。そう、デカルトの「われ思う故にわれ有り」という言葉を思い出したのでございます。

 ちょっと脱線しましたね。話を映画に戻しますと、映像技術が発達しますと、その中のストーリーがドンドン霞んでくるのでございます。例えばね、辛いのが好きな人が食べるものにいっぱい唐辛子をかけていくと、ただ辛いだけで本来の味はなくなっちゃうでしょ。それと同じ。CGが発達すればするほど、映画は「単なる刺激を求めるだけの映像」になっちゃって、ストーリーなんていらなくなっちゃう。初めの方で述べました、映画の「エロ化」でございます。で、観客はどうせウソの映像だって分かっているから、「あんなことになったらどうしよう」とストーリーを追うのではなく、「もっとやれ、もっと壊せ、さぁ俺を驚かしてくれ」と刺激に走るわけでございます。

 製作側はウソ映像で驚かす、観客側は単に刺激を求める、こういった図式というのは、映画の製作側と観客側との“意思の疎通”が失われているような気がするのでございます。「売れる物を作る」といった打算に走ると、こういった図式になるのでしょうか。その一方で、ジャッキーチェンの作品のように、スタントマンもウソ映像も全く使わないという映画がございました。こういった作品では、ジャッキーチェンのポリシーと観客との間に、ある種の“信頼関係”が生まれているのですよね。ジャッキーは映画の中で絶対にウソをつかないと。

 また、やはり先ほど述べました『剣岳 点の記』というCG未使用の映画も、やはり観客は「すべてが本物の映像」という信頼関係を得られるわけでございます。(またこれはCGの技術とは関係ないのですが、ディズニーには「絶対に観客を悲しませない」という強いポリシーがございます。その安心感も、やはり製作側と観客側との信頼関係の表れだと思うのでございます。)映画におけるウソ(CG技術)は、ややもすると製作側と観客との信頼関係を壊してしまう悪魔の技術にもなりかねないのでございます。映画館に観客が戻り始めているこんにち、映画がどのような形で“ウソ”をつくかは、これから重要なキーになってくると思いますよ。

 あと、最後にひと言だけ。テレビの3D技術が一般化するというのをニュース番組などで取り上げておりますが、その用途を「映画」とか「音楽」とか、もぅ何ともナマッチョロイことを言っております。映像技術が普及するキーは、「エロ」。エロしかないのでございます。VHSがあれほど普及したのも、多くのエロVHSが発売されたからなのでございます。3Dテレビを開発している各家電メーカーは、まずテレビよりも3Dカメラを開発して、エロ製作会社にどんどん提供するのでございます。3Dのエロってのはすごいですよ。目の前に“立体”でオニャノコが存在するのでございますよ。これは、絶対売れる! もうね、3Dテレビを普及したかったら、まずエロ、エロを普及させるのでございます。

 では、ちょっと支離滅裂になっちゃいましたが、今回はこの辺で、最後まで読んでいただいて、ありがとうなのでございます。ではでは...

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2009/12/10

意味や由来ではなく、それを扱う人の心が大切なのですが

 ニューハーフが書いているということで「さぞかしエロいことが書かれているのだろう」と期待される方が多いようですが、どうも堅い話が多くなってしまいまして、ゴメンチャイなのでございます。今回もちょっとお堅いお話ですが、よろしければ、最後まで。

12/8(火)のテレビ番組で、

  『クローズアップ現代』(NHK総合)
   さまよう 兵士たちの“日の丸”
という番組がございました。この番組を見て、ちょっと思ったところがございますので、お話しするのでございます。

 今、アメリカ国内で、日の丸の売買が行われているそうでございます。64年前、太平洋戦争で戦死した旧日本兵が身につけていた日の丸を、アメリカ兵が戦利品として持ち帰り、大事に保管していたものでございます。破れたり、血痕が付いていたりしますが、日本兵が出兵した時の寄せ書きがぎっしりと書き込まれており、アメリカ国内では“美術品”として扱われ、数百ドル~数千ドルで売買されているそうでございます。

 売りに出す人の多くは、それを持ち帰ったアメリカ兵。戦死した日本兵に心を痛め保管していたのですが、「もし自分が死んだら簡単に捨てられてしまうだろう」ということを心配し、日の丸の価値が分かる場所へ出品するとのこと。遺族に返そうと、直接日本の外務省に送られてくる日の丸も年間200枚ほどに上るそうですが、当時の出兵者の記録などがほとんど残されてなく、遺族に返される日の丸は非常に少ないそうでございます。

 日本人が見れば、その日の丸が何であるか、そしてそこに秘められた「重たい意味」は一目瞭然でございます。そういったものが何万枚も美術品として流通し売買されているというのは、日本人の感情としては、非常に心苦しいものがございます。しかし、最初は“戦利品“としか思われなかった日の丸も、戦後、時を経るにつれ、徐々にその「重たい意味」が理解されてきたようで、64年を経た今でも、その多くが処分されずに残っているというのは、幸いなのでございます。

 アメリカ国内を美術品として“さまよう”日の丸、また、日本国内で遺族の見つからぬまま“さまよう”日の丸、こういった貴重な戦争の資料を、管理し保管するような施設は、日本にはございません。いやむしろ、小さな記念館は日本中に散在いたしますが、戦争の記録を総合的に陳列するような博物館は日本にはございません。以前、韓国へ旅行に行ったとき、ソウル市内にある立派な戦争博物館を訪れて、感動した覚えがございます。そして、日本にもそういった戦争博物館を作れないものかと、自分のブログで申し上げたことがございました。(「戦争博物館を作りませんか」)

 ところが何でしょうねぇ、日本では「戦争」を深く掘り下げることには、どこか“アンタッチャブル”な空気がございます。戦争どころか「日の丸」「君が代」といったものもきちんと“決着”を付けられず、相変わらず論争の種になっております。オリンピックなどの国際試合で堂々と日の丸も君が代も使っておいて、学校の始業式ではそれを使うかどうかで揉めたりする。その「チグハグさ」を、小さい子供たちが見てどう思うでしょうかねぇ。

 もちろん、議論することは必要だと思いますよ。ただ、大人の議論を子供の教育の場に持ち込むのは、それこそ「場違い」だと思うのでございます。大人の理屈はとりあえず“飲み込んで”おいて、それでいて子供たちにどういう“姿勢”を見せることが大切かを、考えて欲しいものでございます。「日の丸」や「君が代」が持つ社会的問題は、子供たちが理解できる年齢まで待ってから伝えるというような「余裕」は、教育の現場にはないような気がいたしますねぇ。多分子供は、大人の不統一な態度を、敏感に感じ取っているはずでございますよ。

 この、日本という国が戦争・日の丸・君が代といったものに対してアンタッチャブルな空気があるのは、戦争責任を押しつける決定的な「大悪人」が存在しなかったからではないでしょうか。と書くと、ちょっとピンと来ないかもしれませんね。たとえば、ドイツには「ヒトラー」という大悪人がおりました。まぁ、こんな表現をするとドイツの方に怒られそうですが、ドイツという国は戦争責任を全面的にヒトラーに押しつけることで、自国の戦争を明からさまに論じてくることが出来た。ところが日本は、自国の史実を掘り下げて論じようとすると、必ず「誰に責任があったか」という議論になり、責任のなすりつけに終始してしまう。明からさまに論じるには、あと40年ぐらい、そう、戦後1世紀ぐらいの時間経過が必要なのかも知れませんね。

 さて、お話を日の丸にもどしましょうか。日本人自らが決着を付けられていない「日の丸」を、多くのアメリカ人が大切に保存してくれていたというのは、なんだが恥ずかしい思いがしたのでございます。そして、その日の丸が廃棄されるのを心配して美術品として出品するアメリカ人、遺族に返してくれと日本に送ってくるアメリカ人、そのようなアメリカの心に対して、日本人は本当に国歌や国旗を大切に扱っているでしょうか。そんなことを考えさせられる番組でございました。

 ちょっと堅苦しいお話で申しわけございませんでした。次回は、ちょっとエロい話でもいたしましょうかねぇ。ではでは...

【戦争博物館を作りませんか】
http://blog.she-mail.jp/blog/2006/08/post-f62b.html

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2009/12/07

TVに出るためには勝ち続けなければならないという残酷

 ちょっと前のスポーツの試合で、最近には珍しく、視聴率40%をたたき出した番組がございました。そう、亀田興毅と内藤大助のボクシングの試合でございます。試合結果に関しては、みなさまご承知の通りでございますよね。ということで、今回はボクシングの試合とテレビ局のお話。ボクシングにあまり興味が無いという方も、しばし、おつき合いのほどを。

 そのボクシングの試合中継を、ボチボチ、お店の電話番をしながら片手間に見ておりました。まぁ、シロート目にはいい試合だったと思いますよ。なんか逃げ回ってばかりいる試合とか、抱き合ってばかりいる試合とか、そんな試合じゃありませんでしたしね。まぁ、ボクシングに関してはあまり詳しくないので、内容の是非に関しては、ちょっと置いておきましょうか。それよりも、ワタクシがチョット気になるのは「テレビ局」の方。

 特に根拠はないのですが、こういった試合を見るたびに、テレビ局というものがどんどん不純に見えてくるのでございます。スポーツといえども“興業”ですので、興行収入とか動員数というものが大前提になってくるのは仕方がないこと。そう考えると、あれだけの動員を稼げる亀田一家というのは、興行的な感覚で見れば大変な“実力者”と言わざるを得ません。ところが、こういった“色物的な実力”というのは――まぁ一種の「ブーム」と呼びましょうか――時期が過ぎると、あっという間に「夢のあと」となりかねない、そんな一過性のブームなのでございます。

 テレビ局も、そんな一過性を十分に分かっているはずでございます。分かっていながら、“旬”の間にボロ稼ぎをしようというのが、常套手段。持ち上げるときは思いっきり持ち上げて金儲けをし、落とすときにはこれまた思いっきり落とすことで話題性を取ろうとする。ひとつのネタで二往復分を稼ぐという効率のいい“利用の仕方”。しかもその上がり下がりが、テレビ局による操作だったりするのでございます。人気が上がるのも落ちるのも、すべてテレビ局の胸先三寸。テレビ画面から伺える「人気」というのは、その本人の実力ではなく、テレビ局が作り出した幻想なのかもしれないのでございます。

 そんなテレビ局と張り合うためには、テレビ局以上に“したたか”でなくてはならないのですが、亀田一家、どんなもんでしょうかねぇ? 亀田一家から感じるのは、“したたかさ”ではなく「幼さ」なんですよね。そう、一家全員が幼い(失礼)。幼さゆえの「純粋さ」というものはございます。その純粋さが、ある種の「カリスマ性」を生んでいるのでございます。ですから、幼いということは決して悪い事ではないのでございますが、その幼さゆえに、暗黒のフォースに染められてしまうという危険もはらんでいるのでございます。

 とにもかくにも、一時期はガラガラだったボクシングの試合に、あれだけの観客を動員したというのはすばらしいことでございます。でも、亀田以外の試合は、相変わらずガラガラなんですよね。どうもテレビ局は「亀田」だけに興味があるようで、ボクシング界全体には興味がないようでございます。そんなところに、テレビ局の「使い捨て感覚」を感じちゃったりするのですけどね。

ということで、今回はこの辺で。テレビ局のことばかり書きましたが、これは、テレビだけではなく、雑誌などでも言えるような気がするのですけど、まぁ、それは別の回で...

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2009/12/06

親子でくっついて、お昼寝のススメ

 今日はね、今日一日に起きた事を、ダラダラと書くダラ~。

 朝刊の見出し、「『子供必要ない』と答えた人が42%」の文字。それも、中日新聞と毎日新聞がこの記事ををトップに掲げている。毎日新聞の『毎日かあさん』の面。親子三人がそろって風邪気味で、一日ダラダラと過ごす。仕事場に置いてあるベッドで親子三人がゴロゴロ。そこに猫もやってくる。

「私の大事なものが何年も使っているボロボロベッドに全部乗っちゃって、おお今日のシアワセは安くていいな、と思いつつ眠る」
とは、作者西原理恵子談。

 名古屋駅、高島屋へお歳暮の手配に。大変な人混み。にもかかわらず、お歳暮のコーナーは大きく縮小。陳列よりも、オペレータの人数優先か? エスカレーターの降り口に、立ち止まり防止の誘導柵が、長~く設置。エスカレーターを降りた後、大変な大回りをさせられる。ふと見ると、ほとんどの人がエスカレーターの段を、ひとつないしふたつほど飛ばして乗っている。エスカレーターの速度を逆にもう少し“遅く”し、隙間なく乗らせるようにした方が輸送力は大きいのではないか? などと、勝手な「エスカレーターの法則」を思案していると、昨年の夏の東京ビックサイトでのエスカレーター逆走事故を思い出して、ギョッとする。なんで、こんなこと覚えてるんだろ、そして、こんなときに思い出すんだろと、自分に呆れる。

 歳暮の手配を終わり、エスカレーターで降りていくと、2階のバルコニーになにやら造作物が。近づいていくと、「かまくら」風の作り物。ケロロやキッコロ、モリゾーなどが並んでいる。多くの家族が、そのかまくらの前で記念写真。その風景を見ながら、「大事なもの」「今日のシアワセは安くていいな」のセリフを思い出す。百貨店の中には物欲をくすぐる品々が溢れていて、見ているだけで幸せな気分。自分のものだったらどんなに幸せかななんて想像する。でも、身近なところにも、お安くて大きな幸せが存在しているのを、見過ごしてしまったりしている。百貨店の陳列物は、お金を払わなければ他人のもの。でも自分の子供は、最初っから最後まで、自分の子供。

 帰りの地下鉄、たまたま女性専用車両に乗る。説明文の文字。

「女性専用車両は、以下のお客様にもご利用いただけます。
 ・女性のお客様に同伴される小学6年生以下のお子様。
 ・身体の不自由なお客様と介護者のどちらかが女性の場合に同伴される男性のお客様」
 あ~、分かりにくい! お役所仕事丸出し!
 ・「小学生はOK」
 ・「体の不自由な方は、本人か介護者のどちらかが女性ならOK」
でいいじゃん。つうか、そもそも障害者に条件出すなよ! 目の不自由な方にも、この説明文を読ませるのか! なんて思いつつ、あ~ぁ、分かりやすい表現に拘りすぎるのは、いつも電話誘導で苦労しているからかな? 職業病? といった思いが、脳裏を横切ったりする。

てな感じでスタートした、名古屋薫のとある日曜日でございました。しかし、42%の人が、子供を持たなくていいと言っているとは。日本、このままだと滅んじゃいますよ。親子が体をくっつけてゴロンと昼寝をすることが、どれほどの至福か。その至福を想像できるのなら、きっと子供が欲しいと思えるのでしょうけどね。今からでも遅くはない。子供をお持ちの方々、親子で体をくっつけて、ゴロンと昼寝でもやりませんか?

と、子供を産むことも産ますことも出来ないワタクシが言うのも、変ですけどね。エヘヘ。

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2009/12/04

多分、こんなことが、日本中のいたるところで

 前回の配信で事業仕分けに関して書かせていただきました。本日は、その事業仕分けに関係して、こんなエピソードをご紹介するのでございます。ひょっとすると、ごく一部の方に不愉快な思いをさせるかも知れませんが、え〜と、あくまでも推測でお話しておりますので、そこのところはご了承下さいませませ。

 さて、ワタクシは市内某所にすみかを置いております。まぁ、雑居ビルのようなところの一室に住んでおります。そのワタクシのすみかの隣には、「○○○○○○協会」という仰々(ぎょうぎょう)しい表札のお部屋がございました。その部屋に出入りするのは、かなり年配の男性二人。毎日、午前10時ぐらいにフラッとやって来て、午後2〜3時ぐらいに気まぐれに帰っておりました。

 先日、その部屋が引っ越しをやっていたようで、ドアが開きっぱなしになっておりました。その開いたドアから、何気にその部屋の中を見える範囲で覗いてみたのでございます。まぁ、なんということでしょう。お部屋の中は、市内のありきたりの雑居ビルとは思えないような豪華な内装。部屋の片隅にチラッと見えるのはホームバーのカウンター。アジア方面からの旅行のお土産と思しき置物も多数、無造作に置いてあったりいたします。

 さぁ、以下の一節は推測のお話でございますよ。

 多分、出入りしていた人たちは、仕事らしい仕事はほとんどやっていないと思う。多分、昼間っからお酒を飲んでいたと思う。多分、アジア方面に仕事と称して旅行をしていたと思う。多分、かなり高額なお給料をもらっていたと思う。多分、お酒代も旅行代も内装費もぜ〜んぶ経費で処理してて、自分で払っていないと思う。多分、その人たちは公務員(の一種)で天下りだと思う。
 さてさて、そんな怪しげな協会も引っ越して、その後そのお部屋はどうなるのかと様子を見ておりますと、しばらくして表札に「△△△△△△研究所」の文字が。オイオイオイ、またかよ。今度は、表札こそあるものの、人の出入りする様子は全くなし。“不良大人のたまり場”から、“幽霊事業所”に変わっただけのようでございます。どうもそのお部屋は、ある人たちにとっての「都合のいい物件」なのでしょうかねぇ、あぁ、やだ、やだ。

 話はド〜ンと過去にさかのぼります。そういえば、高校生のときブラスバンド部の部長をしておりましたが、予算の獲得は大変でございました。顧問の先生の権力関係が如実に表れておりまして、野球部とかはまったく実績がないのに百万近い予算を持って行く。一方、我がブラスバンド部は年間数万円。あ〜、思い出したら腹が立ってきた。あの事業仕分けのようなこと、ワタクシも学生時代にもあったんですよね。

 で、このブラスバンド部の予算に関しては後日談がございます。ワタクシが部を引退した後に顧問の先生が代わりまして、その新しい顧問、他の学校にかなり顔が利く方のようでございました。足りない楽器を他校から借りまくり、指導力もあったのでしょう、みごと、市か県の音楽コンクールで入賞したのでございます。さらにその顧問、政治力も巧みなようでございまして、校長が朝礼でそのブラスバンド部を褒めまくる、褒めまくる。楽器を借りていることに同情までしちゃってる。そして、次の年からは信じられないような予算が、そのブラスバンド部に割り当てられたのでございました。めでたし、めでたし。

 とまぁ、高校の部活の予算でさえ、こんな政治的なことが行われております。役所の中では、もっと複雑なことが起こっているのでしょうねぇ。この予算というやつ、徴税として集められた後に振り分けられるので、予算をもらう側からすると「天から降ってくる魔法のお金」のような感覚になるのかもしれませんね。一般企業のように消費者からの代金という形で入ってくると、もうすこし実感があるのでしょうけどね。

 また、裏金などの悪しき「しきたり」は、“そのポストに着任したら自然にその「しきたり」に組み込まれていた”ということがほとんどでございましょう。ですから、自覚や後ろめたさといったものも希薄になるのは当然。チェック機構がほとんど働かないままに、慢性疾患のようにその「しきたり」が日本中の役所に蔓延していったのでございましょう。

と考えると、公務員の人も、あまり責められないですよね。“まず「しきたり」ありき”という形で組み込まれてしまうのですから。その「しきたりの中の人」が正義感を振り回して流れを変えようとすれば、多分、公務員としての居場所を失うことになるでしょうし。事業仕分けってのは、そういった悪しき「しきたり」に注目する、いい契機になったのではないでしょうかねぇ。というところで、今回はこの辺で。ではでは...

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