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2009年3月

2009/03/26

逆境の中で見えるもの、逆境の後に見えるもの

 WBC、優勝おめでとうなのでございます。イチロー選手、なんだかんだ言っても、結局一番おいしい役どころをかっさらっていってしまうのは、生まれ持った強運のなせる技でございましょうかねぇ。今回のイチロー選手、非常に調子が悪かったのでございますが、人は逆境のときにこそ、その本性が現れます。結果が出なくても一番に球場に入り、黙々と練習に励んでいたそうでございますが、むしろそういった逆境に苦しむイチローであったからこそ、若手選手への影響は大きかったかも知れません。

 また、イチロー選手、大会前にさんざん大風呂敷を広げてしまい、大会中は針のむしろだったと思われます。この「針のむしろ状態」を味わうということも、イチロー自身にとって良い収穫だったのではないでしょうか。そういえば清原選手も最後のシーズンは出番も少なくなり、もっぱらダッグアウトでニコニコするムードメーカーに徹しておりました。「良い役者は背中で演技する」なんて言いますが、「良いプロ野球選手は、グランドの外でも重要なプレイしている」と言えるかも知れませんね。

 さて、イチロー選手の言葉で、「(バッターボックスで)いろいろ考える時には、あまり良い結果が出ない」という語が、ちょっと気になったのでございます。実は、芸術の世界でも、舞台や本番でいろいろ考えるようだと、結果はあまりよろしくございません。「考える」という作業は、練習のときにやり尽くすものなのでございます。そして、本番では、ひたすら練習で覚えたことを「忘れる」ことに専念するのでございます。忘れていても体や口が自然に動くほどまでに、練習時に体に染み込ませることが肝要なのでございます。

 本番では「無の境地」が一番でございます。何もかも空っぽにすると、「芸術の神様」が降りてまいります。そして、練習のときには思いもよらなかったような感覚で本番を演じたりということもございます。芸術の神様というと何やら神秘的でございますが、無の境地に至ることで余分な力が抜け、外界からの刺激に敏感になり、より速く、しかも最小限の力で反応できる。そういったメカニズムではないかと考えております。もっとも、この空っぽにするという作業が、至難の業なんでございますけどね。

 練習で動きを体にすり込ませ、本番で無我になる。イチロー選手は、こういった作業を自然に行っているのかも知れませんね。まぁ、何はともあれ、イチロー選手があの場面で決勝打を打てて良かったのでございます。もし、今回、イチロー選手に良い結果がひとつもなかったら、もしかしたらイチロー選手の選手運命を変えていたかも知れません。野球の神様は、まだまだイチロー選手に追い風を送っているようでございます。

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2009/03/13

ワイルドな線に深い愛情が

 漫画家、西原(さいばら)理恵子女史の新刊を、2冊ほど読んでみたのでございます。

  ・『毎週かあさん』(小学館)※「毎日」ではなく「毎週」であることに注意
  ・『この世でいちばん大事な「カネ」の話』(理論社)

 『毎週かあさん』は、自著の『毎日かあさん』を自分でパロディー化したものでございます。パロディー元の『毎日かあさん』は、掲載紙が毎日新聞ということもあって善良で朗(ほが)らかな内容に終始しておりますが、一方、この『毎週かあさん』は、ウェブ掲載の漫画ということで、ドロドロの悪汁を出しまくっております。しかも自分の作品のパロディーを違う出版社から出させてしまうという大胆不敵さ。だけど、それをまわりが認めてしまうのも、西原女史の人望のなせる技。善良な部分も不良な部分も、その全部が西原女史の“本音”であるがゆえの爽快感を感じる一冊でございます。

 『この世でいちばん大事な「カネ」の話』は、西原女史には珍しい、全ページ文章の書籍。幼少期から現在に至る生い立ちを、お金に絡めて書きつづっております。美大学生の頃までは非常に貧乏な生活を送り、漫画家として名を馳せた後もアルコール依存症の夫に悩まされる日々。そのような生い立ちの中で、西原女史が身につけた独特のお金に対する価値観を、軽快な文章で描いております。何億という印税収入を得ながらも、貧乏だった頃のお金の価値観を忘れずに持ち続け、アジアの貧窮地域の子供たちを憂い、自らもそのような地に赴いていく。毒舌をはきながらも、その毒舌の下地に、厚い厚い愛情の裏打ちを感じられる。それが西原女史の魅力でございます。

 西原理恵子の漫画は、最初はそのワイルドなタッチに驚かされるのでございますが、読み進めるにしたがって、そのワイルドな絵柄の裏側に、熱い熱い愛情のバックボーンがあることに気づかされるのでございます。しかも、西原女史が語る愛情は、きれいごとを並べるような中途半端な愛情ではないのでございます。罵詈雑言や悪態の中にも、ちゃんと愛情が潜んでいる。きっと苦しく長かった貧乏生活、そしてさまざまな人生経験、そのような中から、愛情の本質のようなものを直感的に会得していらっしゃるのでございましょう。

 しかも西原女史の漫画は、いつも自然を見つめている。大自然をこよなく愛し、その大自然も、その上で生活をはぐくんでいる人間も、大人も子供も、親しい人も他人も、好きな人も嫌いな人も、それらすべてを、全部ひっくるめて大自然の一部としてとらえ、等しく愛している。愛するためには何をやったらいいか、何をやらなければいいかを知っていて、そのように行動できない自分の弱さも知っている。そしてそれらを、ダイレクトに本音で描く。本音で描くということが西原女史の自然体であり、自然にふるまい自然に生きるということ、その愛情に裏打ちされた自然体の生き方に、読者は感動するのでございます。

 もし西原理恵子という漫画家をご存じでなければ、一度お試しくださいませ。最初は戸惑うかもしれませんが、彼女の本音に爽快感を覚え、そして、彼女の深い愛情に、きっと涙することでございましょう。

 そうそう、『この世で〜』を読んで、ワタクシと西原女史の共通の価値観を見つけたのでございます。ひとつは、食費の基準価値が「のり弁」ということ。ワタクシが東京で本当に生活が苦しかったとき、ホカ弁の一番安いメニューが「のり弁」だったのでございます。のり弁の価格より安い食費は「節約」、のり弁より高い食事は「贅沢」、食事の価値観の基準が「のり弁」だったのでございます。

 もうひとつは、友人との食事は必ず「割り勘」にすること。これは、ワタクシがニューハーフデビュー直後の頃に、先輩のお姉さんから教えられたことでもございます。そのお姉さんは小銭をいつも持ち歩いていて、一円の単位まで割り勘にする。いつも割り勘にするということで、いつまでも同じ人間関係でおつきあいが出来るのでございます。「たった○○円」と思える金額が、違う人には「○○円もの金額」と考える人もいる。違う価値観の人どうしが末永くおつきあいする一番明瞭な解決法、それが「割り勘」なのでございます。

 『毎日かあさん』は、4月からアニメ化され、テレビ放映されるようでございますね。漫画では過激な「西原節(ぶし)」。アニメではどのように表現されるのでございましょうね。ということで、今回はこの辺で、次回をお楽しみに。名古屋薫でございました。

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2009/03/11

♪勝ったぁ〜、負けたぁ〜と、騒いじゃい〜るぅがぁ〜

 WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)、日本国内のゲームは終了したようで、選手団のみなさまがた、アメリカへ旅立ったようでございます。まぁ、敗者復活とかありまして、結局、どこが本当に一番強いんだか分からないようなトーナメント方式になっております。短期決戦なので、“運”とかちょっとしたミスが大きく影響してくるのでございましょう。

 野球中継、見ておりましたが、まぁ日本の放送局なので日本のチームを応援するのは当たり前なのでございましょうが、それにしてもあからさまな偏向実況に、ちょっと「オヤッ」と思うのでございます。そういえば、亀田兄弟のボクシングの試合でも、そのような偏向実況が行われたような覚えがございます。かつて「前畑ガンバレ!」と叫んで大問題になったオリンピック中継もありましたが、中立公平を美徳とするスポーツ実況の精神は、もはや過去のものなのでございましょう。

 プロ野球で言いますと、やはり名古屋では中日戦が放送されることが多いものでございます。そして、多重音声の裏側などで「ドラゴンズ応援放送」なんてものがよくあるわけで、このように裏側で趣向を凝らしたことをやる分には、いささかも問題はないと思いますよ。しかし、誰が聞いているか分からない主音声では、誰が聞いても当たり障りのない中立な解説が望ましいと思ったりするのでございます。

 スポーツというのは、どちらが勝つか分からないところに面白みがあるわけでございまして、両者・両チームが全力を出して戦う姿、そのありのままを見ることに感動があるわけでございます。「ありのまま」というところが感動のツボでございまして、本当にいい試合であればどちらが勝っても感動できるというのも、全力で対戦するありのままの姿が、“すでに美しい”からでございます。その「ありのままの美しさ」に注目しているのならば、偏向した実況などは出来ないはずでございます。

 実況が偏向してしまうのは、勝ち負けに拘(こだわ)りすぎているからではないでしょうかねぇ。スポーツの感動というものは、勝ち負けだけではないのでございます。そうそう、朝青龍のガッツポーズが問題になりましたが、そもそも日本古来のスポーツがガッツポーズなどを戒めているのは、敗者の心への気配りという点にあるのでございます。技術や腕力で優劣を決めるのを「スポーツ」と定義するならば、心と心が鬩(せめ)ぎ合うのが日本独特の「道(どう)」という考え方でございます。柔道、剣道、合気道、み〜んな「道」という字が使われているでしょ。あとおまけで華道とか。

 こう考えますと、「スポーツ」ってのは常に意識が外(他人)に向かっている。他人の記録、日本記録、世界記録、常にそういった外の状況に心が向かっているのでございます。一方、「道」と名がつくものは、意識が内(自分)に向かっている。自分をどれだけ磨けるか、己の心に勝てるか、そして、他人と対戦することで自分を磨けるか、そういったところに、「道」の精神があるように思ったりいたします。まぁ、ちょっと大ざっぱすぎる考え方かもしれませんけどね。

 朝青龍が、稽古を休んでファッションショーに出演したってんで、やくみつる氏が顔を真っ赤にして怒っておりましたが、こういったところにも、「スポーツ」と「道」の考え方のすれ違いがあるのでございましょう。かつて閑古鳥が鳴いていた大相撲が、ただ今は朝青龍人気で大盛況でございます。相撲協会も、「相撲道」としての考え方と「興業スポーツ」としての考え方との、その両者のさじ加減が難しいところでございましょうね。

 さて、お話が脱線してしまいました。NHKの大相撲中継などは、非常に中立公正な実況をしております。だからといって、大相撲中継が魅力を欠いているということはございません。スポーツ中継ってのは、中立な実況で見た方が何百倍も興奮できると思いますよ。ありのままを見、ありのままの結果を受け入れる。「スポーツを楽しむ」ってのは、そのありのままの姿にあると思うのでございます。

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2009/03/10

田中角栄は、大悪と大善だったのでややこしい

 エヘヘ、政治の世界は面白くなってきましたねぇ。例の建築会社の政治献金の件でございます。いや、誤解を招くといけませんのであらかじめ断っておきますけど、ワタクシ、別にどこどこの政党を支持しているとかはございません。ただ、今まで防戦一方だった側が、この件で一気に鬼の首を取ったような勢いでまくしたてております。そんな方々にこんな言葉をお送りいたしましょう。「あすは我が身」という語でございます。

 今回の逮捕がいったいどれほどの大事件なのかは分かりませんが、政界のみなさま方、みんな叩けばホコリが出る体のはずでございますよねぇ〜。政界の世界でも「清く正しく美しく」というのが「理想」ではございましょう。ところが、現実問題として、そんな“きれい事”だけではすまされないのでございましょうね。ワタクシ、素直な意見を言わせていただければ、多少の「汚いこと」というのは、ある意味「必要悪」だと思っております。

 たとえば、一般的には政界とゼネコンとの癒着はよろしくないことでございますよね。でも、もし大きな風災害などが起きたときに、「重機を出せ、仮設住宅を作れ、普段、いい思いをしているだろ、こんな時こそ、一肌脱げ」とゼネコンを一喝して動かせる政治家がいたとしたら、それはそれで「有り」だと思うのでございます。つまり、将来を見据えた大きな善のためには、目先の小さな悪は“いたしがた無い”こともあるという考えでございます。

 ねじれナントカになってから、政治家の皆さん、実に混迷していらっしゃいますよね。そんなのを見ておりますと、国政を進めていく政治力には、有る程度の「独裁的」な構造は必要かな、なんて思ったりするのでございます。もちろん、独裁はいけないことでございますよ。じゃぁ、民主主義っぽく多数決で決めましょうってことになると、目先の頭数(あたまかず)を獲得することばかりにご執心。肝要なのは、政治家の皆さんに「大きな善」を見据えたマクロな眼識が有るかどうかなのでございますけどねぇ。

 最近の政治家の度重なる失言などを見ておりますと、あまり“したたかに”言葉を話しておりませんよね。これは、俗に言う「たぬきオヤジ」と呼ばれる人が政治家に少なくなったのでしょうか。国を動かすような人には、多少の「アク(灰汁?、悪?)」が必要なのかもしれませんね。そうそう、先日の酔っぱらって会見した大臣も、大きな善を見据えた業績を残していれば、酔ったぐらいの小さな悪は見逃してもらえたかもしれないのにね。

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2009/03/04

人間にやさしい機械のススメ

 みなさま、お久しぶりでございます。名古屋薫でございます。自分のお店のホームページの方は、こまめに更新しているのでございますが、すっかりメールマガジンの方がお留守になってしまっております。お店のホームページのワタクシの「日記」に掲載している文章を、よりぬきしてメールマガジンで配信していくつもりでございます。

 今回は銀行のATMのお話し。商売柄、頻繁にATMは利用するのでございますが、もうね、あのATMの画面のデザインの悪さにはあきれかえっております。振り込め詐欺にも悪用されるATMの機械。もっともっと使いやすく、もっともっと悪用されにくいデザインというものがあるのでございます。もし、ATMの画面をデザインする人が読んでいらっしゃいましたら、参考にしてくださいませなのでございます。

 みなさまがた、数字キーの並び方に、「電話型」と「電卓型」の二種類が存在するのは、お気づきでございますよね。電話などは「1」の数字が左上に来ております。一方、電卓やパソコンのキーボードなどは、「1」のキーが左下に来ております。この二つの仕様を両立させてしまったことは、デジタル技術の黎明期における、最大の失態なのでございます。銀行のATMのように、「金額、電話番号、暗証番号」といった様々な種類の数字を扱う機械では、この数字キーの二つの異なった仕様が、問題になってくるのでございます。

 ワタクシが普段よく使うのは、三菱東京UFJ銀行のATMでございます。つい最近も内部ソフトのバージョンアップが有ったようで、画面のデザインが大幅に変わっております。そこで、例の数字キーの扱いでございますが、UFJのATMでは、数字入力する画面では、すべて「電話型」の配置でございます。ところが、ATMの機械には小さな電卓が用意してございますよね。もちろん、その電卓は「電卓型」の配置。まったくもって、チグハグなのでございます。

 「数字を入力する画面は、すべて同じ画面を使いたい」そう考えるのは技術屋の性(さが)でございましょう。ところが、人間には「慣れ親しんだ指の感覚」というものがございます。金額を入力する画面では「電卓型」、電話番号を入力する画面では「電話型」のほうが、“しっくり”くるのでございます。すると技術屋は、「画面がコロコロ変わると、利用者が混乱するのでは」と反論することでございましょう。

 その技術屋の反論を、みごと解決する方法がございます。電卓型の入力画面では、画面デザインを電卓の絵にしてしまうのでございます。同様に、電話番号の入力画面では画面を携帯電話の絵にしてしまう。不必要な「*」や「#」といったキーも、デザインとしてうっすら添えておけば、もう誰が見ても電話番号の入力画面と一目瞭然なのでございます。

 そうそう、暗証番号の入力画面をどうするかという問題がございます。いっそ、暗証番号の入力画面は、数字を横一列に並べるとか、丸く並べるとか、電話型でも電卓型でもない、まったく違う並び方がいいのでございます。ポイントは、「今、暗証番号を入力している」ということが、その数字の並び型で自明に利用者に伝わるということが重要なのでございます。

 さて、ワタクシが何を言いたいか。それは、画面デザインや数字の並び方で、今、何の数字の入力画面なのかが、はっきり利用者に伝わるようにするべきだということでございます。振り込め詐欺の犯人などは、まず最初に画面を英語に変えさせておいて、何の作業をしているのかを分かりにくくさせたりいたします。ATMにもう少し明示的なデザインが施されておりましたら、そのような振り込め詐欺は、本当にやりにくくなったはずでございます。

 振り込め詐欺がATMの英語表示を悪用しているというのは、早くから分かっていることでございました。でしたら、ATMの技術者は「バイリンガル」などと気取らずに、すべてのページで日本語・英語の並列表記を採用するべきだったのでございます。また「お待たせ中」のアニメーションも、矢印が点滅するだけなんて、まったく手抜きでございます。そのとき実際に行われている作業をアニメーションで表示すべきでございます。

 振り込み作業ならば、二つの通帳の間を羽根の生えたお札が飛んでいくアニメーションなどがよろしゅうございますね。もし振り込め詐欺で騙されている人も、お札が逆方向に飛んで行くアニメーションを見れば、すぐに気がつくはずでございます。そして、いつでもすべての作業を中止できる「エマージェンシーボタン」を必ず表示しておけば、たとえ騙されそうになっても、気づいた時点ですぐに作業を中断することも出来るのでございます。

 そしてさらに、数字の並び方やボタン配列のような基本的な仕様を、すべての銀行で統一すべきでございます。様々な仕様が乱立するから、利用者側に混乱が発生する。そして、振り込め詐欺を行うような人は、その混乱につけ込んで悪用しようとする。残念ながら、現状のATMはスキだらけなのでございます。機械に慣れた技術者だけで設計をするのでなく、心理学や認知科学の学者なども交えた、グローバルな設計が望まれるのでございます。

 人間と機械との接点を「マンマシンインターフェース」と呼んでおります。このマンマシンインターフェースに統一感や区別を設けることで、人間のウッカリ操作というものを未然に防ぐことが出来るのでございます。たとえば、車のアクセルやブレーキの位置は、どの車も同じ。「つまみ」は右に回すと「大」。トイレの看板は男が「黒」、女が「赤」とかとかとか...

 そうそう、このマンマシンインターフェースを応用すればいいのにと思いながら、なかなか実現しないものに、エレベーターの「開」ボタンと「閉」ボタンがございます。あれ、まぎらわしいですよね。「“ひらく”ためのボタンは、“とじる”ためのボタンより必ず大きくなければならない」なんていう法律がもし有ったら、エレベーターのボタンは、ずっと、ずっと、使いやすくなっているはずなんですけどねぇ。

 ということで、ATMの機械に限らず、人間と機械の接点をちょっと工夫してやると、人間のうっかり操作というものをかなり防げるのでございます。と同時に、悪人が悪用するというスキも与えずにすむのでございます。ところが、技術者が作る道具というものは、どうも「機械にとって都合がいい」設計に偏る傾向がございます。「人間にとってわかりやすい」設計というものが、世の中の様々な面で、もっともっと重要視されるべきだと思ったりいたします。

 ということで、次回をお楽しみに。名古屋薫でございました。

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