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2008/04/27

怪我してもいい、たくましく育って欲しい

お久しぶりでございます。名古屋薫でございます。

聖火リレーは、なかなかにスリリングなイベントだったのでございます。本来とは別の意味で、みなさま方、興味津々でテレビ中継をごらんになっていらっしゃったのではないでしょうか。あの聖火リレー、18.7キロメートルを80人で走るということですから、一人分は230メートル程。意外と一人分の距離って少ないのでございます。

そこでワタクシ、考えました。あんなゆっくり走っているから、暴徒がコース内に進入してきたり、物を投げられたりするのでございます。もっと早く走ればいいのでございます。そう、各走者が受け持ちの230メートルを全力疾走。聖火警備隊の二人も、まわりを取り巻く何十人の警察官も、みんなぶっちぎって、全力疾走で追い抜いてやればよかったのでございます。

バトンタッチの際は、聖火をバトンがわりにして素速く引き継ぎするのでございます。全力疾走の各走者、うしろから追いかけてくる聖火警備隊や警察官、前方から乱入してくる暴徒、横から投げ入れられる妨害物、はたしてバトンタッチはスムーズに行えるか、そして、みごと聖火をゴールまで運べるのか?! 聖火リレーの中継を見ながら、「そんなゲームがあったら面白いかな」なんてバカなことを考えておりました。

さて、今回のテーマはリレーではなく、ある裁判がテーマでございます。そう、山口県光市の母子殺害事件のあの裁判でございます。こういった問題に対してハッキリとした物言いをすると、いろいろな意味で反響が大きくイヤなのでございますが、今回はチョット、ズケズケ言う部分もございます。あしからずなのでございます。

はっきり言って、あの加害者の少年についた弁護団、どいつもこいつも、ほんとに能なしであきれかえるのでございます(ケロケロ)。「事実が正しく伝えられていない」と騒いでおりましたが、事実を伝えりゃぁいいってもんじゃない。弁護士の仕事は「被告の利益」でございます。事件に関する事実を、いかに被告の利益に繋がるように表現するか、それが弁護士の仕事でございます。事実を述べたけど、裁判官や一般市民の理解を得られなかった、それはつまり、単なる弁護士の能力不足なのでございます。

テレビのニュースや新聞・雑誌の記事も、その編集や言葉の言い回しによって受け手が感じるイメージは、ガラリと変わってしまうのでございます。つまり、(1)世の中に起きている事実、(2)その事実を伝えるメディアの伝え方、(3)それを見たり読んだりする受け手の感じ方。これら三者はみな、まったくの別物でございます。この三者と同じ関係が、裁判における、(1)事実、(2)弁護側および検察側の表現、(3)裁判官や検事の受け取り方、にも当てはまるのでございます。つまり、「裁判とは、弁護人と検察官の口先三寸で決まってしまうもの」なのでございます(あーあ、言っちゃった)。

この母子殺害事件の裁判では、弁護団の言い回し一つで、もっと違う結末を迎えていたのかもしれないのでございます。ドラえもんの話、魔界転生の話、そういった話を、「被告の少年が話していた事実」として法廷へ持ち出すのは結構。ただその世間一般的には荒唐無稽な話を、いかに、「だから、“殺意”ではなく“過ち”だったのだ」という趣旨へ展開していくか、それが弁護側には全く無かったのでございます。というか、あの弁護団、自説の「死刑廃止論」に固執しているだけで、被告の少年のことなど眼中に無かったのでは、とも思うのでございます。辛らつな言葉を使えば、「自説の主張のために、今回の事件を利用した」と言いたくなるのでございます。

その無能なプロの弁護団に立ち向かった、たった一人のアマチュアが、被害者の旦那さん、本村さんでございます。あの方は、本当に強い人ですよね。9年前、帰宅して変わり果てた妻の姿を発見したときの心情は、想像を絶する悲しみだったことでございましょう。「法律が彼を裁けないのなら、社会復帰した彼を自らで殺す」とまで言っておりましたからね。事件後長い間は、ただ犯人への復讐心で悩まされたのではないかと思います。その本村さんが、今回の判決を得て、達観したような弁を述べております。

「犯人の少年は、死刑という判決を厳粛に受け入れて欲しい。そして、その死刑に服した犯人の命は、この私も一生背負っていかなければならない」

「どうすれば死刑という残虐で残酷な刑が下されない社会にできるか。それを考える契機にならなければ私の妻と娘、そして被告人も犬死にです」

こんなような内容だったと思います。もはや復讐心ではなく、自分に起こったことを自分の運命として受け入れる、悟りのようなものを感じるのでございます。

もし本村さんの奥さんと子供が犯罪で殺されたのではなく、病気や事故で死んだのならば、例えば「隕石が降ってきた」(これこそ荒唐無稽ですね)といった原因だったらどうでございましょう。人間というものは、どうにもならない仕方がないことが原因であれば、多少時間はかかってもそれを受け入れられるものでございます。ところが、犯罪のような人為的なことで受けたことは、復讐心や憎しみが先走ってしまい、なかなか事実を受け入れることが難しくなるものでございます。

9年の月日を経て、本村さんはその悟りを得たのでしょうか。本村さんの意識は、いまや自分の妻子や少年だけではなく、社会全般に向いています。「これを契機に世の中が変わらなければ、妻と娘、そして被告人までもが“犬死になる”」とまで言い切っております。法廷闘争中の9年間に、様々な体験をしたのでございましょう。自分の命、妻子の命、被告人の命、それらをすべて「対等の命」として同一線上で語っております。本村さんの言葉からは、被告人に対する「哀れみ」さえ感じられるのでございます。

さてさて、弁護団、本村さんと話を進めてきました。最期に犯人の少年のお話でございます。18歳(犯行当時)でありながら、12歳の精神年齢と言われたこの少年でございます。じゃぁ、12歳の少年がみな犯罪を犯すかと言うと、そういうわけじゃぁございません。この少年の精神年齢の低さに問題があるのではなく、少年の心、その心そのものに問題があるのでございます。

急に話は変わりますが、ワタクシは小さい頃、雑誌の付録が大の楽しみでございました。あの紙の部品を組み立てるやつでございます。その部品を切り抜くのに、母親からカミソリを借りておりました。女性が顔を剃るときのカミソリで、今のようなプラスチックの柄の安全なものではなく、金属製で刃がむき出しになっている危険なものでございました。そのカミソリの切れ味が、紙製の着せ替え人形の細かい部品を切り出すのに、それはそれは、ちょうど良かったのでございます。

さてある日、小学校の低学年ぐらいのころだったと思います。ワタクシはそのカミソリで雑誌の付録を切り出していて、ふと「カミソリの刃はどのくらい切れるのだろう」と、疑問に思ったのでございます。いやはや、人間、知らないということは恐ろしいもので、カミソリの刃を軽く左手の人差し指の腹に当て、スーとゆっくり引いたのでございました。押しつけるわけでもなく、ただスーと軽く引いただけでございました。

カミソリを引き初めて1秒ほどは何も起こらない。「な〜んだ、カミソリの刃なんて、そんなに切れないじゃない」と子供心に思った次の瞬間、スカッとした何とも表現できない痛みが走り、人差し指の腹からは、溢れる泉のごとく鮮血が流れ出したのでございます。まぁ、その後は、痛いわ、母親に怒られるわ、刃物全般ハサミまで使用禁止にされるわで、大変でございました。ただ、その時の異様な痛みと感触は、何十年も経過する今でも、鮮明に覚えております。

子供というものは、もれなく残酷なものでございます。ワタクシなどはカマキリの卵を見つけてきては、そこから孵化する無数の赤ちゃんカマキリを指で潰して遊ぶなんてぇことをしておりました。あるいは、捕まえた蛙のおしりに爆竹を...いや、この話はやめときましょう(笑)。とにかく、小さな子供はおしなべて残酷なものでございます。ところが、成長するにしたがって、その残酷なことは出来なくなるものでございます。なぜならば、手を切ったり怪我をしたりして、自分が痛い思いをしていくうちに、「痛み」とか「命の意味」というものを理解していくからでございます。

逆に、本当の「痛み」や「命の意味」を理解せずに成長してしまったらどうでしょう? これは残酷な話でございます。世の中を歩いている現実の人と、ゲーム画面の中のキャラクターと、区別をつけられないのでございます。人間というものは、自分が「痛み」を知っているからこそ、他人を傷つける行為に抑制がかかるのでございます。もしその抑制がかからなければどうでしょう。欲望のおもむくままに行動し、一度暴走し始めたら自制なく走り続け、そして、人を傷つけたり殺したりしても、「傷つけた」「殺した」といった自覚さえ本人には無いことでしょう

小さな頃に、「痛み」「悲しみ」「苦しみ」「悔しさ」「知人の死」etc...といった負の経験値を積むということは、重要なことでございます。こういった感情と直結した体験というものは、子供のときに経験してこそ有意義なのでございます。成長して大人になると理論武装をしてしまいますので、負の経験をしても理屈で合理化してしまいます。あるいはそれを受け入れられなくて、心が崩壊してしまうかもしれません。もちろん、トラウマになるような極端な経験はいけませんが、人の痛みがわかるようになるためには、遅くとも小学校の低学年ぐらいまでに、十分な負の経験をしておくべきだと、ワタクシ思っております。

よく、「死刑への恐怖心が犯罪を抑制する」というのが、“死刑肯定論”の根拠の一つとされております。しかし、もし「死」というものがどういうものか分かってない人がいたとしたら、その人にはこの抑制力は働くでしょうか? 「他人を殺してはいけない」という法律があるのも、みんな自分が殺されたくないからという思いがあるからでございます。では、やはり「自分の死」というものを想像できない人には、この法律は意味があるでしょうか?

人間が作り上げた法律というものは、すべて「他人の痛み」「自分の痛み」というものを大前提にして組み上げられております。では、「痛み」そのものが理解できない人には、法律というものが理解できるでしょうか? 法律を理解できない人に法律を守る義務はあったのでしょうか? この問題に解答はありません。ただ不幸と残酷があるだけです。解答のない問題ではありますが、未来に対する礎(いしずえ)にはなります。もし礎にしなければ、それこそ犬死にを増やしていくだけなのですから。

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最近は、子供を過保護にする傾向があるみたいですが、小さな怪我とかは、小さなときに出来るだけしておくべきだと思うのでございます。読者の中に小さな子供さんを持つお父さんやお母さんがいらっしゃいましたら、もし子供さんが刃物で手を切ったりしても、「ああ、いい体験をさせられて良かった」と思って、喜んでいただきたいものでございます(難しいかなぁ)。

では、今回はこのへんで。ときどきインターバルが長くなってしまうワタクシのメールマガジンでございますが、辛抱強く待って下さる読者の方々に感謝しております。ではでは...

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