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2008年3月

2008/03/21

4、3、2,1,ドッカーン!

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不発弾でございます。ワタクシのごく近所で、不発弾が発見されたそうでございます。明日(3/22)は、その撤去作業だそうでございます。また、名古屋市内の別の工事現場からは、第二次大戦時のものと思われるサビだらけの銃が、100丁ほどザクザクと出てきたそうでございます。戦後60年以上が経過して、すっかり掘り起こされたと思われる名古屋の街でございますが、まだまだ掘り起こされず、何かが埋もれ残されているかもしれないのでございます。

今回は、オムニバスでございます。いろいろな話題を、バラバラと、ダラダラと、淡々と、つれづれなるままに書き下ろすのでございます。ではでは、さっそく本題でございます。

【ミートホープの社長に判決】

ミートホープの社長、実刑の4年の判決でございますかぁ。なかなか重いですよねぇ。実刑ですからね。まぁ、やりかたが悪質でしたからねぇ。

 で も ね 、

あの社長、自分の従業員から告発されたというのも哀れでございますが、一番の哀れは、謝罪会見の際、自分の息子に愛想を尽かされたということでしょうかねぇ。何とかごまかそうとするあのミートホープの社長、自分の息子から「オヤジ、本当のことを言って下さい」と言われたわけでございます。あの社長にとっては、実刑4年の判決文よりも、あの息子の言葉の方が辛辣(しんらつ)だったかもしれませんね。

まぁワタクシ思いますに、あの息子の発言は、ある意味、自分の父親を「売った」わけでございます。社会的には真っ当な事をしたようには思えますが、“人の道”ということを考えますと、あの息子は大変な大罪を犯しているのでございます。というか、すでにあの親子には、まともな親子関係は存在していなかったのでございましょう。父親の社長も哀れでございますが、自分の実の父親を売らざるを得なかったあの息子も、またまた哀れなのでございます。

【浅田真央、転倒するも優勝】

フィギュアスケートの浅田真央、転倒しながらも優勝って、なんか煮え切らないものを感じるのでございます。音楽系のコンクールみたいに、「1位該当者なし」とかでもいいじゃないですか。まぁ、優勝は優勝なので、おめでとうなのでございます。

そのフィギュアスケートでございますが、最近の選手はリズム感が良くなりましたよねぇ。というのも、昔の選手、そうそう伊藤みどりさんのころの選手は、リズムの取り方が“体操”のノリだったんですよね。1,2,3,4…とカッチリとしたカウントの取り方。ところが、演技の伴奏として流されている音楽のリズムというものは、もっと流動的に変化しているのでございます。ですから当時のフィギュアスケートは、音楽と実技とが今ひとつダイナミックにシンクロしていなかったものでございますが、当時はそれが当たり前でございました。

伊藤みどりさんのころにも、外国勢の中にはダンサーのようなリズム感で演技する選手がいたりしておりました。そのドラマチックな表現力は、日本勢の選手とは、まったく一線を画しておりました。また、伊藤みどりさんの名前が出てきたから言うわけではございませんが、日本人選手の“典型的な日本人体型”というものが、大きなハンディキャップにもなっておりましたしね。その外国勢のダイナミックな表現に触発されたのか、あるいは、最近の若い人の体型やリズム感が自然に西洋化してきたためか、日本の選手もどんどんリズム感が変わってまいりました。最近は、日本の選手が外国勢にまったく引けを取ることなく善戦しているのも、うなずけるのでございます。

【SF小説の大家、死去】

アーサー・C・クラークさんが亡くなったそうでございます。エッ、誰かって? 有名なところでは、「2001年宇宙の旅」というSF小説の作者でございます。たぶん、小説よりも同名の映画の方がみなさんご存じでございましょう。いやぁ、このSF映画の先駆け的な作品、ワタクシ大好きでございました。公開されたのが1968年。アポロが月面着陸を行う前年。映画館での初演は幼くして行けませんでしたが、再演がかかれば足繁く映画館へ通い、小説も読み、英和辞典を引きながら原作読破にも挑戦し、レーザーディスクも購入するという熱の入れようでございました。

その映画の舞台となった2001年は、すでに過去になっております。コンピュータグラフィックスなど存在しない時代に、すべて特殊撮影で制作した映画は、いまでもその斬新さを失っておりません。当時苦労して表現した無重力状態も、いまでは宇宙ステーションの中の様子を、地上からテレビ中継で見られる時代になってしまっております。数十メートル、数百トンというセットを組んで表現した無重力状態も、今ではブーメランが戻ってくるかが話題にされるほどの身近なものになっております。ある意味、SF作家がやりにくい時代になってしまったのかもしれませんね。

【佐藤愛子&ピーコ】

そうそう、SFで思い出しましたが、最近「愛子とピーコの『あの世とこの世』」という本を読んだのでございます。この本の中の一節に、

「世間には不思議はいくらでもあるのですが、現代のインテリは、不思議を不思議とする素直な心を失っています。……」

というくだりがございました。小林秀雄さんが講演の際に発した言葉を、佐藤愛子さんが覚えていたものだそうでございます。そう、アポロが月面着陸をするまでは、月というのは実に神秘的な世界でございました。月面に人間が降りたってからは、人は“月を見上げて夢を馳せる”ことが出来なくなりました。科学が進歩し、さまざまな事象がそのからくりを暴かれるにしたがい、人間は、ひとつひとつ、“夢見る材料”を取り上げられてきたのでございます。

世の中にはよく分からないこと、不思議なことがあっていいのでございます。というか、文明・科学の発達によって、自然現象のすべてが理論的に解明されているかのように思われる昨今でございますが、世の中にはまだまだ分からないことだらけなのでございます。原因不明の難病、不治の病もまだまだ存在いたします。宇宙の果てはどうなっているのか? 理屈で説明する人はいますが、実際にそれを見た人は誰もいないのでございますよ。

不思議なことを不思議と素直に受け入れたとき、そこから「夢」が生まれます。その夢により近づきたいと欲したとき、そこから新たな発見や、斬新な生きざまや、芸術作品の新風が生まれたりいたします。本当は世の中は不思議なことであふれかえっているのに、無理に理屈を貼り付けて、不思議なことを不思議でなくそうとする風潮が、最近の科学の発達によって顕著になっている気がいたします。どんな精密機械でも、その寸法に“遊び”というものがないとうまく動かないように、世の中の事象の解明にも、“遊び心”が必要だと思いますよ。不思議は不思議でいいじゃん。

といったところで、今回はこのへんで。ではでは、次回をお楽しみに。名古屋薫でございました。

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2008/03/04

トランクの中の日本

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右手の親指で、右の耳穴をふさいでみて下さいませ。親指を耳の穴に入れるのではなく、穴の前縁にプクッと膨らんだ部分があるでしょ。あれをフタがわりにして親指の腹で押してやると、うまくふさがったりいたします。残った四本の指は、眼球のくぼみの上に押し当てて下さいませ。同じように左手の親指で左の耳穴を、残りの四本の指で眼球のくぼみをふさいでみてくださいませ。さてさてさて、これは何をするときの動作でしょう?

なにやらクイズめいた書き出しでございました。この動作は、すぐ近くで爆弾が破裂したとき、その爆風で鼓膜を破られたり、眼球が飛び出したりするのを防ぐ動作でございます。ワタクシがこれを教わったのはワタクシの母親から。たぶん二人で戦争映画か何かを見ているときに、母親がなにげに自分の体験談を話したのを、ワタクシが覚えていたのでございましょう。もちろんワタクシは、戦争も空襲も知らない世代でございます。母親から教わったこの動作を実際に実行する機会などは、もちろんなく、母親から聞いたその体験談も記憶の引き出しの片隅に追いやられたまま、何十年も忘れ去られておりました。

しかし今日、ある一枚の写真を見て、その片隅に追いやられていた記憶の片鱗が、鮮やかに思い起こされたのでございます。その写真を掲載している写真集の題名は『トランクの中の日本』。昨年の9月に、ワタクシが紹介した書籍でございます(2007/9/11付『9月が来ると…』参照)。かなり以前に出版された本で、もはや古本市場でしか巡り会えないと思っていた本が、この度増刷されたということを知り、さっそく購入したのでございます。この本は、昨年テレビなどでも取り上げられましたから、出版社に問い合わせが殺到したのでございましょう。その問い合わせを受けての増刷だと思われます。

この写真集は、アメリカの従軍カメラマン「ジョー・オダネル」氏が、終戦直後の広島・長崎を撮影した写真集でございます。オダネル氏は軍用カメラの他に、私用カメラも持ち込んでおりました。その私用カメラで残された映像は、そのままオダネル氏によって封印されることになります。そして終戦後50年を経て、オダネル氏自らによって封印を解かれたその貴重な記録は、1995年、写真集として世に出ることになるのでございます。

この写真集の93ページに、七五三用の振り袖で着飾った少女の写真が載っております。振り袖の派手な柄とその背景に広がる焼け野原が、非常に対照的でございます。上方の空はすばらしい青空なのでございましょう。白黒の写真ではございますが、しばらく眺めていると、そんな色彩が感じられるような錯覚にさえ陥ります。

各写真には手記が添えられております。その写真の説明を読むと、その晴れ着の少女は、両耳の聴力を完全に失ってしまったとのこと。空襲の際、爆撃機の音が聞こえると、母親は少女の耳に布を詰め込んで、爆音で鼓膜が破られるのを防いでいたそうでございます。たまたまその耳栓が間に合わず、少女の耳は、永遠に聴力を失ってしまったそうでございます。

ワタクシが幼少の頃、母親から例の耳と目をふさぐ動作を聞いたときには、なんだか現実味がなくて実感がわかなかったものでございます。しかし、この少女の写真を目の当たりにしたとき、その何十年も忘れていた記憶が呼び起こされ、空襲の爆音のすさまじさが、より現実味を帯びて感じられたのでございます。本物の重みとでもいうのでしょうか、ドラマや映画でどれほどの凄惨なシーンを見せつけられても、この少女の写真にはかないません。この少女は本物だからでございます。

コンピュータグラフィックスの発達により、最近の映画などで見る凄惨なシーンには、かなりリアリスティック(写実的)なものがございます。凄惨なシーンがリアリスティックになればなるほど、観客は「これは本当は作り物なんだよ」という意識を再認識しているのではないでしょうか。だって、そう思わなくちゃ、怖くてそんな映画、見てられないでしょ。

ところが、本当に怖いのは、ありふれた日常に凄惨な事実が隠されているという状態ではないでしょうか。七五三に向かう少女の写真を見て心なごまされる感覚と同時に、その少女が聴覚を失っていると知ったとき、その少女が体験してきた凄惨な状況を思い浮かべ、愕然とするわけでございます。「もしその少女が自分だったら」と、その写真を見た人は考えるわけでございます。

映画などの作り物の凄惨なシーンよりも、はるかに重みを持ってその少女の写真が我々に訴えてくるのは、その少女が実際に存在した本物であり、そしてそんな少女が他にも大勢いただろうことが想像でき、もしその時代に自分が生まれていたら自分がその少女のようになっていたかも知れない。その一枚の写真の重みは、見た人の心にどんどん近づいてくるのでございます。本物を写し取るという「写真」ならではの重みでございます。映画のような作り物の画像が持ち得ない、「現実味」でございます。

この写真集には、俗に言うグロ写真と呼べるものは一枚もございません。むしろ、運動会の風景のような、心なごむ写真も多く取り上げられております。日本人とアメリカ人がひとつの食卓を囲んでいる写真などもございます。敵味方の区別がなくなった人たちが、隔たりなく接している姿、なお笑顔でたくましく生きる子供たちの姿、そんななごやかな写真もございます。しかし、それらはみな、まぎれもなく終戦直後の日本の姿なのでございます。

コンピュータグラフィックスの発達で、世の中にはリアリスティックな映像が氾濫しております。と同時に、インターネットを軽く検索すると、俗に言うグロ画像と呼ばれる凄惨な映像は、いくらでも手に入ります。コンピュータグラフィックスのような作り物の映像がリアルになればなるほど、その作り物の映像と現実との境界は曖昧になり、人々は、現実の映像でさえ作り物の映像と同一視するようになります。想像力の放棄でございます。そして、想像力の乏しい人間は、人の痛みが分かりにくくなります。

もしあなたが子供をお持ちならば、どうぞこの写真集を見せてあげて下さい。本物を写し取った「重み」が、この写真集の中にはあります。想像力豊かな感性を持たせるためにも、見せてあげて下さい。「つまらない」と言うかもしれません。けれど、小さなころに体験したことは、たとえそれが記憶の片隅に追いやられたとしても、きっと将来、何らかのきっかけで花咲くかもしれません。子供さんに、小さな花の種を植え付けると思って、この写真集を見せてあげて下さい。

では、今回はこのへんで。なんだか写真集の売り込みみたいになっちゃいましたね。写真集としては、¥2625という、まぁ手頃な金額でございます。装丁や大きさを変えた廉価版がもう少し安い値段で出れば、あるいは文庫版で出てくれたりすると、この写真集、もっともっと普及するはずで、ワタクシとしては嬉しいんですけどねぇ。

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