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2008年1月

2008/01/31

グレーゾーンの食べ物の行く末は

いやぁ、中国産の冷凍食品、すごいですよねぇ〜。殺虫剤入りでございますよ、殺虫剤。やることがハンパじゃございませんよねぇ。なんか、さんざん叩かれた赤福餅や不二家がかわいそうに思えてくるのでございます。赤福も不二家も、ルール違反をしていたという事実は拭えないのでございますが、それでも何十年も食中毒ひとつ起こさなかったわけでございます。なんだか、赤福や不二家に同情するのでございます。

赤福なんて、暗号めいた製造日ラベルとかを考案して、ゴマカシながらも実害が出ないように、涙ぐましい努力をしているわけでございます。それほどの細かい管理が出来るのならば、ごまかさなくてもきちんと管理できたはずだと思うのでございますが、そこは、かけ間違えたボタンの原理、全てを正すために一度リセットすることが出来なかったのでございましょうね。

アメリカなども、毒入りの中国製品には業を煮やしているのでございます。鉛ペイントの玩具、毒入りペットフード。「もう中国製品はいやだ!」と思いつつも中国製品の使用を止められないのは、すでに生活の中に中国製品が浸透し過ぎているからでございます。この事情は日本とて同じ。生活用品の多くを中国製品に依存している今日では、「危険だからすべて断ち切る」ということは不可能なのでございます。

食品がらみの事件で、つい先日、こんなことがございました。三重県伊賀市内の、あるショッピングセンターの社員食堂での出来事。その社員食堂を任されていた四十代の男性調理師が、本社から送られてくる食材に期限切れが多いことを指摘し、それを改善するように要望をしたら、一方的に解雇されたとのことでございます。(1/29付 中日新聞朝刊より)

細かいいきさつが分からないので、なんとも断定は出来ないのでございますが、調理師と会社側、どちらももう少し融通がきかないものでしょうかねぇ。社員食堂ですから、一般のお客は入ってこないわけでございます。そして、必要な食材も、かなり予測が立てられるわけでございます。こういった社員食堂のような場所では、期限切れ(ギリギリ)の食材を安く叩き買って経費を浮かせるというのは、ごく当たり前なのでございます。

ちょっと話がそれますが、みなさま方、街の八百屋に並んでいる野菜が、必ずしもすべて新鮮だと思っておりますか? 八百屋の店先の食材を物色していると、すべての食材が完璧に新鮮というわけではございません。多少傷んだものが混じっていたりしております。では、八百屋で買うのが危険かというと、そんなことはございません。購入するときに、八百屋のオヤジが手にとってチェックするという“人力(じんりき)セキュリティ機能”が備わっているからでございます。

あるいは、「こっちの方がおいしいよ」といって交換してくれる“その場で初期不良交換サービス”や、「ちょっと痛んでるからこれをおまけしておくね」と言って余分にくれる、“現物支給ポイント還元システム”なんてのもあるのでございます。つまり、多少傷んだ食材が混じっていても、必ず八百屋のオヤジのインターフェースを通過することになり、傷んだものがなんら処理されずに消費者に渡るということはあり得ないのでございます。

ところが、スーパーマーケットのようなパッキングされた売り場では、このようなきめの細かい処理というのは不可能でございます。当然、「絶対安全な期限で商品を引き上げる」ということになるのでございます。これはコンビニなどでも同じ。商品が流通しやすい形態にパッキングされ、流通コストや手間ひまが軽減されるメリットが大きくなり、その代償として、期限早めに処理される食材も増えてきたわけでございます。

さて、お話を先ほどの調理師に戻しますと、この調理師には八百屋のオヤジのようなインターフェースの役割が要求されていたわけでございます。期限切れの食材が本当に使えなかったのか? 調理の仕方を工夫することで利用できなかったか?

「“賞味期限”という制度の下で大量に廃棄されるグレーゾーンの食材を、今一度、人間の目でふるいにかけてもう一度再利用(リサイクル)する」

というのが、この調理師の役目だったのでございます。調理師が杓子定規すぎたのか、あるいは本社から送られてくる食材がその調理師の手腕の域を超えていたのか。グレーゾーンの食材を使わざるを得ない会社側の事情と、絶対に食中毒を起こせない現場の事情、その両者がもっと膝をつき合わせて話し合えば、何らかの妥協点は見いだせなかったのかなぁ、と思うのでございます。

その大量に放出されるグレーゾーンの食材を、有効に再利用しようという趣旨の法律があることを、つい最近知ったのでございます。「食品リサイクル法」というものでございます。施行が2001年ということなので、まだ生まれたばかりの法律でございます。スーパーやコンビニなどから回収される大量のグレーゾーンの食材や、食品加工メーカーの残りクズや廃棄品、その他売れ残ったコーヒー飲料、油、砂糖、塩、缶詰、ドレッシングまでもが、その食品リサイクル法に従って、リサイクル施設で処理されるそうでございます。(以下、食品リサイクルに関しては、1/31付、中日新聞朝刊生活面の記事より)

世の中が賞味期限に敏感になるにしたがい、食品のホワイトゾーンはドンドン狭くなり、グレーゾーンの食材が大量に処分されてきているのでございます。ただ、この食品リサイクル法が定めているのは、「食品を肥料や飼料へ再利用」することだけでございます。赤福がやっていたような餡の再利用は、法律の範疇外なのでございます。そこで、前述の記事では、そのような和菓子店での日常的なリサイクルに関して言及しております。以下に転載するのでございます。

「赤福が回収した商品に消費期限を付け直して出荷したのはとんでもないこと。ただ、和菓子業界では、大半の店が製造販売しており、まんじゅうが売れ残ると餡を取り出して、新しい小豆に混ぜて煮ることも一般的。味も品質も落とさず、表示上も問題はない。そうした伝統的な手法まで白い目で見られてしまう」(中日新聞より転載)

廃棄品を肥料や飼料にリサイクルするといった方法だけでなく、食品のリサイクルにはいろいろな方法があるのでございます。たとえば、八百屋のオヤジのインターフェースだったり、調理師の細やかな食材管理だったり、和菓子屋の伝統手法だったりと。ただ、そういった“人力”による細やかなリサイクルも、消費期限という“数字”が、大きな足かせになっているのでございます。そして、少しでもその“数字”に抵触すると、よってたかって叩きまくられる。こんなことでは、誰も食材を有効に利用しようなんて思わないのでございます。

消費期限にビクビクしながら生産している国内の食品メーカーを尻目に、中国のメーカーが殺虫剤入りの食品を大量に流入させたってのは、実に大笑いでございます。「少しでも安いものを」といった“安物餓鬼”を追求してきたワタクシたちの、ツケが今、回ってきたのかもしれませんよ。さぁ、どうする、どうする、危険だからと言って、中国産の食材をストップしたりしたら、日本の食生活、大混乱でございます。さぁ、どうする、どうする。

実は、リサイクルすると安く上がるようなイメージがございますが、リサイクルってのは、実際には高くつくのでございます。ビールが瓶からどんどん缶に移行したのも、瓶を回収して、洗って、再利用するという費用が、バカにならないからでございます。むしろ、回収した瓶を溶かして、新品のビール瓶を作り直した方が安上がりでございます。まぁ、これもリサイクルって言えば、リサイクルですけどね。

また、最近では再生紙の偽装が発覚しましたが、あれだって、古紙を回収して再生するよりも、パルプから新品を作った方が安いはずでございます。世の中が再生紙を賛美する風潮の中で、製紙メーカーはその風潮と品質とコストとのスパイラルで、苦しんでいたはずでございます。

廃棄品を別な物に加工するのもリサイクルでしょうが、本当のリサイクルは「廃棄品になる直前の水際で救ってやること」だと思うのでございます。本当のリサイクルは、とっても手間ひまのかかることなのでございます。と同時に、リサイクルってのは実際には割高になることが多いのでございます。このリサイクルの「面倒くささ」と「割高」ってのは、もっともっと知られるべきだと思うのでございます。偽装だ発覚だと、国内で足の引っ張り合いをしている間に、毒入り食品が海の向こうから、ほら、どんどん入り込んでしまっておりますよ……

ということで、今回はこのへんで。次回をお楽しみに。ではでは、名古屋薫でございました。

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2008/01/28

たかがカレーうどん、されどカレーうどん

近場の大衆食堂で、カレーうどんを食す。

カレーうどんにはトンカツがよく似合う。揚げ物の油の香りとカレーの風味、この両者のシンプルかつ絶妙なるマッチングには、えも言われぬ魔力のようなものさえ感じる。だが最近は高カロリーを気にして、素(す)のカレーうどんに生卵と小ライスの三点セットで自身を納得させたりしているのが、常である。

生卵を割る。いきなり丼に落とし込むのは邪道であり下品でもある。まず小皿に卵を割り落とす。決して黄身を崩してはならない。黄身のふくよかな輝きを暫時楽しんだあと、静かに丼の中へ流し込んでやる。この卵は、終盤まで黄身を崩さないように心がけねばならないので、箸さばきの邪魔にならない位置を十分に考慮して、丼内にその座位を決定してやる。必要であれば、卵を流し入れる前に、カマボコ、ネギなどの脇役陣を移動させておくことも、重要な配慮である。

カレーうどんを食するには、決して急いではならない。これにはいくつかの理由がある。まず第一に、先ほど流し込んだ生卵を崩さぬようにしなければならないこと。そして第二に、その卵にカレールーの熱が伝導するまでには、いささかの時間が必要だということ。そして第三には、急いで食すると、ルーが飛び跳ねて衣服を汚してしまうからである。そもそもカレーうどんなるものは、どこの店舗においてもかなりの高温を伴うことが多く、口内を焼けずる危険を回避する意味でも、決して急いではならない。

まず、カマボコを食するのが吉である。カマボコはカレールーの中に沈んでしまうと、その風味の大半を失ってしまうからである。ネギや鶏肉が、食事の終盤までも強烈にその存在感を主張するのに対し、カマボコの脆弱で細やかな風味は、ぜひとも丼の下方に埋没する前にすくい上げてやるのが、カマボコへの思いやりというものであろう。ちなみに、カマボコは白色で無地のものが、気品があってよろしい。黄色いルーに浮かぶ白色のカマボコには、独特の美しさがある。がさつな店舗では、最初からカマボコが溺死寸前になって運ばれてくるところもある。そのようなカマボコへの慈愛を忘れた店などは、まったくもって言語道断である。

熱い麺を安全に食するには、食事の前半は、麺を小皿に取り分けて食するのが妥当である。この際、一口で食べられないからといって麺を途中で噛み切るのは、やはり邪道であり下品である。麺というものは、麺職人によって理想的な形状、長さを追求された、芸術作品である。その麺職人の細かい気配りを堪能する意味でも、麺を途中で噛み切ってはいけない。そのためには、麺を箸ですくう瞬間の洞察力が、非常に重要になってくる。熟達者の中には、丼の表面を見ただけで、丼内の麺のからみ具合を推考できる者もいるが、初心者にはなかなか難しい。試行錯誤を繰り返しているうちに身につくものであると、心得るべきである。

麺をすする作業。これにも、非常な繊細さが要求される。ルーの飛びはねを考慮するならば、すすらず、口の中へ箸で運び込むのが理想的である。ところが、音が出るのを嫌う欧米人がよく行うこの麺類の食べ方には、大きな欠点が存在する。香りを楽しめないのである。日本人が麺類をすするときには、大量の空気も一緒に吸い込んでいる。吸われた空気は、鼻腔を抜けて排出されることになる。この一連の動作が、味覚と同時に嗅覚を刺激することになる。カレーライスよりもカレーうどんにおいて、よりダイナミックな食感を感じられるのは、この嗅覚を同時に刺激する“すする”という食べ方に起因するのである。

さらに、この“すする”という食べ方には、もうひとつの効用がある。大量に吸い込まれる空気によって、麺が冷まされるのである。本来、日本食の汁物は高温である。味噌汁などは80℃ぐらいで配膳されるのが普通である。これは、すするという食べ方を前提にしているからである。一方、洋食のスープなどは、ちょっと低めの60℃ぐらいで提供されるのが普通である。“すする”というすばらしい食べ方が存在しないからである。「スープを飲む」ではなく、慣用的に「スープを食べる」という言い回しをするのは、こういったことも根拠となっている。

閑話休題、高温のカレーうどんをその風味を堪能しつつ食するには、“すする”といった食べ方は必要不可欠なのである。ところが、この食べ方には汁の飛び散りという危険性も内含している。この二点の矛盾を解決するためには、両者の妥協点を見つける必要がある。つまり、この際、顔への飛び散りは妥協するが、衣服への飛び散りにまで及ばないような、絶妙なる力加減での“すすり”行為を会得しなければいけないのである。カレーうどんには、味や風味といった奥深さがあると同時に、食べる側の人間にも、深い技能を要求する。実に、実に、カレーうどんとは、奥深い食べ物なのである。

ルーの辛さに、つい水を飲んではいけない。水を飲んだ瞬間に、いままでの苦労は全て台無しである。カレーうどんのルーは、カレーライスのように激辛ということは少ないはずである。カレーライスのルーとは違った細やかな味わいを楽しむためにも、水は差し控えたいところである。箸休めには白米を食するべきである。この箸休めの白米も、大量に頬張ってはいけない。ほんの少量にすべきである。この白米には、食事の終盤において重要なふたつの役割が存在する。初期段階で大食いして、その量を減らしてしまってはいけないのである。

麺を三分の二ほど食べ終えたら、温存していた卵の登場である。この頃には、ある程度の熱が卵に伝導し、程よい“とろみ”と甘さが卵に備わっているはずである。決して、割落とした卵に半熟以上の煮上がりを求めてはいけない。半熟以上の堅さにするには、鍋で煮込む必要があるからである。最初からメニューに卵の煮込みが記載されているか、あるいはよほどの常連客ならばお願いすることもできるが、あとから割落とした卵には、とろみと甘さで良しとすべきである。

さて、劇的な黄身を割る儀式の段階である。この段階まで卵の黄身を温存してきた苦労が、今報われるのである。卵の黄身を割った直後も、大胆な箸さばきは厳禁である。薄膜から解放された濃厚な黄身の中身が、ゆっくりとカレーのルーに混ざっていく様子には、デザインカプチーノのような美しさがある。ぜひ堪能すべきである。そして、その黄身とルーとの美しいまだら模様が残っているうちに、静かに残りの麺を、その黄身とルーに絡(から)めつつ食するのである。半熟卵のもつ濃厚かつ支配的な味わいもよろしいが、この半熟未満の卵の柔らかな甘みは、カレーの風味と共存し、混ざり合い、非常に良好なハーモニーを形成する。卵は、その温度や堅さでいくつもの顔を持っている、不思議な食品のひとつである。

麺を食べ終えると、今度は白米の登場である。残ったカレーのルーに、白米を入れるのである。この儀式にも、重要な美学がある。ぞんざいに白米を放り込み、雑炊にしてはいけない。白米をかたまりのまま静かに落とし込み、できるだけほぐれないようにするのである。このとき、白米をすべて入れてしまってはいけない。ほんの一口分だけ残しておくのである。この一口分の白米が、食事の大団円を飾る大事な儀式に必要だからである。

ルーの中に入れた白米は、時間の経過とともにドンドンほぐれていく。この段階では、おっとりしていてはいけない。優雅かつ速(すみ)やかな動作が要求される。白米を入れるまでの段階では、ほとんど箸のみで食することが可能であった。しかし、ここからの作業には、レンゲあるいはスプーンが必須である。レンゲまたはスプーンで、丼内の白米をすくい上げるのであるが、ここでも出来るだけ白米をほぐさないようにするのがコツである。ルーと絡みあった白米が、口に入れてからホロッと崩れる。この口の中で崩れる食感は、高級寿司を食べるときの食感に似ている。カレーうどんでここまでの食感を追求してこそ、本当のカレーうどんファンと言えるであろう。

丼内の白米を食べ尽くしてしまうと、丼の中には、わずかなルーが残っているだけである。このルーもレンゲあるいはスプーンですくい取って味わってしまう。やはり、スープは最後まですべて食するべきである。それが通(ツウ)の心意気である。食堂で働くオバチャン、厨房内のオヤジ、麺職人や、人間の食生活のために尊い命を捧げたブロイラー、そしてネギ、卵への感謝を込めて、スープを最後まで食するのである。スープを最後まで飲み終えたら、先ほど残した一口大の白米による、最後の重要な儀式をとりおこなうことになる。

白米を少しだけ残していたのには、重要な理由がある。スープを飲み終えても、まだ丼の内側には微量のルーが残っている。これを最後の白米で絡(から)め取ってしまうのである。少量の白米を有効に使うためには、ここでも巧みなる箸さばきを要求される。うかつな動作をすると、白米がバラけて散らかるだけである。小さな小さなおにぎりを、箸先だけで丼の中で転がしていくのである。そして、その小さなおにぎりを食べてしまえば終わりかというと、そうではない。その丼に軽くお茶を注ぐ。決して並々と注いではいけない。ほんの少量、丼の中で転がす程度のお茶を入れて、飲み干す。大げさと思うかも知れないが、これは美学の問題である。ここまでやることに実用的な価値があるかどうかは、問題ではない。自分の中の達成感こそが重要なのである。なぜならば、“美学”だからである。

そして最後に、大きく息を吐く。額の汗を拭く。顔に飛んだ汁を拭き取る。まだ残るカレーの風味とともに、余韻を楽しもう。たった一杯のカレーうどん。たかがカレーうどん、されどカレーうどん。

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さてさて、早朝に見たテレビ番組で、カレーうどんを特集しておりました。なんか急にカレーうどんが食べたくなって、今日の朝食は、近くの定食屋でカレーうどんを食することに。エッ、カレーうどんをこんな風に食べているのかって? うん、当たり前じゃん(エヘヘ)。というわけで、非常にダラダラと名古屋薫風カレーうどんのウンチクでした(こんなに長文になるとは、本人も思っていなかったです、はい)。

ではでは、失礼いたします。次回をお楽しみに。名古屋薫でございました。

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2008/01/27

ドアの向こうを優先する人たち

2008nenga

今さらながらではございますが、読者のみなさま方、あけおめなのでございます。

さてさて、毎日新聞の日曜版に西原(さいばら)理恵子女史の『毎日かあさん』が連載されておりますが、ちょうど一週間前に掲載の「子供の扉」の号が、ワタクシ的にちょっと興味深かったので、ご紹介するのでございます。

何回注意しても開けたドアを閉めない子供たちを叱りながら、そんな子供たちの感性を、

「ドアを開けた目の前の新しい世界が最優先になってしまうんだろう。」

と称しております。

あと、食べた後に放置されるお菓子の包み紙、靴を履かずに帰ってしまう‘よそ’の家の子、高い木に登って降りられなくなった世界中の子供たち、道路の向こう側の犬を触ろうとして飛び出そうとする子供、そんな子供たちの行動をも、そのドアの向こう側の世界が最優先になる子供たちの感性をもって、「理解できる」と言っております。

実は実は、この「ドアの向こう側の世界が最優先になってしまう人」というのは、子供だけではないのでございます。大人になっても、こういった感性を残している人がいるのでございます。今回は、そんな大人になっても子供の感性を持ち続けている人の、輝きと苦悩をひもとくのでございます。ではでは。

まず、以下の引用を読んでいただきたいのでございます。夏目漱石の「草枕」の冒頭からの引用でございます。

「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角(とかく)に人の世は住みにくい。」

さてこの文章。一般的には「知恵を働かせすぎると事が荒立つ。情けをかけすぎると自分が流されてしまう。頑固な生き方は窮屈なだけだ。」といったような解釈が多いのではないでしょうか。ところがところが、ワタクシ名古屋薫は、ちょっと違う解釈をするのでございます。

最初の「智に働く」。この「智」は「知恵」を指しているのではございますが、個人の知恵ではございません。世間一般の知恵、つまり規則とか法律とか常識といったものでございます。次の「情」はナサケではなく、「感情」の情。人間の心の欲望や理想、煩悩といったものでございます。「智」が人間を取り巻く外側の世界を指しているとすれば、「情」は人間の心の内面を指しているとも言える。あるいは「智」は人の心に外側から及ぶ力、「情」は心の内側にひそむ力、と言えるかもしれません。

「生き方のメーター」なるものがありまして、その目盛りの両極端が「智」と「情」を指すとすれば、そのメーターの針がどの位置を指しているか、それが「意地」でございます。意地というよりは「意志」の意味合いでございます。「意地を通す」ということは、その生き方メーターの針を、“ある一点で”固定してしまうということでございます。

では以上の解釈のもとに意訳いたしますと、

「規則や常識に従いすぎると、角が引っかかって立ち行かない。心のおもむくままに行動すると、今度はとりとめもなく流されていく。その中間がいいのだろうが、かといってひとつのポジションを固執すると、束縛されて何も出来ない。」

といったところが、名古屋薫風解釈でございます。

生き方メーターの針が「智」と「情」の真ん中ぐらいでフラフラ揺れている、これが普通の人の、ごくありふれた生き方でございます。その時の感情やまわりの状況で、程よいポジションを探しながら生きているのでございます。ところがところが、ドアの向こう側の世界を最優先してしまう人というのは、生き方のメーターが「情」の方へ振り切っているのでございます。

この針が「情」に振り切っている人というのは、芸術面などで才能溢れる場合が多いのでございます。また企業などでは、一般常識にとらわれない斬新なアイデアを出したりするアイデアマンだったりいたします。芸能界や風俗などの人気商売では、他の追従を許さないほどの、すごい人気を博したりするのでございます。いいことずくめでございますが、針が振り切っている人特有の悩みというものもございます。

まず空気を読むのが苦手でございます。空気が読めないので、時として「わがまま」とか「生意気」なんて思われたりいたします。また、規則を守るのも苦手でございます。規則よりも自分の理想の方が優先するからでございます。そして、小さな子供がドアや包み紙を放置してしまうように、それを人間に対してやってしまったりするのでございます。本人には全く悪意がないのに、知らないうちに悪い評価を得たり、恨みを買ったりする、それが「針が“情”に振り切った人」の苦悩なのでございます。

こんな「自由奔放な苦労人」が身近にいたりすると、なんとかうまく人間関係を調整してやりたくなるのでございますが、こういった人には「説得」も「議論」も出来ないのでございます。というか、それが出来るのなら、本人が自分で針の位置を調整しているはずでございます。人間関係の歯車が、ギリギリと軋(きし)みながら噛み合うさまをただ俯瞰(ふかん)しているのは、靴の上から足をかくようなもどかしい思いなのでございます。そんなときに出来ることは、他の人から隔離して、出来るだけ人間関係の接点が少なくなるようにすることぐらいでございます。

すばらしい才能や輝きを呈していながら「ちょっと問題あり」と言われてしまう人、身の回りや芸能界などに多いでしょ。そういった人たちの多くは、この「メーターの針が“情”に振りきっている人」なのでございます。夏目漱石は、「“智”に振りきっている人」を「角が立つ」と言いましたが、実は「“情”に振りきっている人」もそれなりに角を立てながら生きているんですよね。

みなさんのまわりで、この「ドアの向こう側の世界を最優先してしまう人」がいましたら、どうかその本人の苦しみなども分かってやって下さいませ。でも、くれぐれも申しますが、そういう人には「説得」も「議論」も無駄でございますからね、念のため。

ではでは、今回はこのへんで。次回をお楽しみに。名古屋薫でございました。

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