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2006年12月

2006/12/11

いじめは、会議室ではなく、現場で起きているんだ!

名古屋薫でございます。前回の実相寺監督の回では、「クインテット」、「トムとジェリー」といった番組を手抜きをしない良い例として紹介したのでございますが、ワタクシの適切でない言い回しのために、その良い例が(真逆の)子供だましの例のようにも読み取れる表現になっておりました。

ワタクシ、配信済みの自分のメールマガジンを読み返して、ときどきバックナンバーのページにて訂正・加筆などをしております。ですから、配信されたメールマガジンと、バックナンバーのページの内容とは、若干そのテイストが変わっていたりしております。一粒で二度おいしいグリコアーモンドキャラメルのようなメールマガジンだったりするのでございます(エッ、最初から訂正しなくていいように書けって(笑))。

さて今回は、前回に予約いたしましたように、教育再生会議というところが出した、「いじめ問題への緊急提言」というものに、ワタクシ名古屋薫がもの申すのでございます。では、そのナンタラ提言をいうものをあまり知らない方のために、そのポイントを列記してみるのでございます。

 ・いじめは反社会的な行為として絶対許すべきではない
 ・いじめの加害者には厳罰を。傍観した他生徒や、放置・助長した教員も同罪
 ・学校による隠蔽を排除するため、学校・教育委員会・保護者が連帯
と、こんなところでしょうか。

ここで、あるエピソード。ワタクシがまだ紅顔の小学生だったころ、ある先生がこんなことを言いました。

 「学校の中は、警察といえども勝手に入ってくることができないんだぞ」
この話の法律的な根拠は、ワタクシわかりません。ただ、この先生の言葉に、「学校はわれわれ教師の聖地であり、学内の出来事は教師が解決する」という自負心を感じたものでございます。確かに、当時、学校に警察が入ってくるというのはかなり異例で、まずあり得ないことでございました。

ところが、いつぞやから校内暴力が激しくなり、学校が警察を呼ばざるを得ない状況というものが増えてまいりました。先日の日曜日にも、どこかの学校の体育館のガラスが割られたとかで、警察の現場検証の状況がテレビのニュースで流されておりました。

教師が教師らしく振る舞えず、児童が児童らしくなくなり、父母が自分の子供に盲目になっている――昨今、教育の現場は昔と比べると大きく変容しているようでございます。変わってしまったものを本来のあるべき姿に戻すこと、それが本当の解決への糸口でございます。これを踏まえた上で、以下のワタクシの叫びをお読み下さいませ。

まず、「いじめは反社会的な行為として絶対許すべきではない」なんて言っちゃってる。あ〜あ、もう、根本的に違ってる。いじめはいつの時代にも、どんな場所にも、そしてどんな年代にも必ず発生する人間の本能でございます。けっして反社会的な行為ではなく、人間の実に人間らしいふるまいなのでございます。嘘をつかない人が存在しないように、いじめをまったくしない人もまた存在しないのでございます。

では、人に嘘をつかれたら、皆さんどういたします? 反社会的行為だと言って弾圧しますか? 嘘にも軽く聞き流せるものもあれば、心を深く傷つける許し難い嘘もございますよね。また、嘘をつかれた人が、違うシチュエーションでは嘘をつく側に回ったりとか。軽い、深いがあり、ついたりつかれたりするもの、それが嘘でございます。

そして、「いじめ」にも同じことが言えるのでございます。いじめは反社会的というよりは、むしろひどく人間的な行動であり、(嘘がそうであるように)その程度や、加害・被害の関係とかをはっきりと線引きするのは、難しいのでございます。自殺がらみでニュースになるようないじめは極端な事例であり、もっともっと曖昧ないじめの事例が、世の中にはあふれかえっているはずなのでございます。極端な事例だけを取り上げて、それを反社会的行為だと定義づけるのは、著しい極論なのでございます。

で、「いじめの加害者には厳罰を」なんてことを言っております。これまた、大まちがい。すでに述べましたように、加害者と被害者をはっきり線引きするのは難しいのでございます。十分な因果関係を追求せずして厳罰を与えれば、それはすでに「恐怖政治」の始まりでございます。ちょっとしたイザコザ、些細な口げんか、そういったもので厳罰処分を受けないとも限りません。生徒はみなビクビクして毎日を過ごし、その厳罰を逆手にとって悪用する者が出るかもしれません。最悪の人間関係でございます。

「加害者だけに罰を与える」。そもそもこれが大間違いなのでございます。罰で人を動かす、これは大人の社会のルールでございます。子供たちが学ばなければいけないのは、「問題を解決する能力」なのでございます。加害者・被害者・傍観者、この三者が存在したら、その三者すべてが問題解決のために行動する義務があるのでございます。けっして、加害者だけの問題ではないのでございます。では、問題解決のためにどのように行動すべきか、それを申しあげていくのでございます。

まず、加害者。加害者が被害者を追いつめているような感がございますが、実は、加害者も追いつめられているのでございます。何に追いつめられているかって? それは自分の心でございます。「他人を傷つけていないと自分の心が壊れてしまう」、そう思うから他人を攻撃してしまうのでございます。この加害者の苦しい心を救ってあげなければ、根本的な解決などあり得ません。加害者は自分の行為の意味を十分認識し、自分の心にブレーキをかける「自制心」を強くする義務がございます。

次に、傍観者。傍観者に必要とされるのは、ちょっとした勇気でございます。加害者や被害者に軽く声をかける勇気。そして、今後自分が加害者にも被害者にもならない勇気。そんな勇気を持つ義務がございます。「傍観者も同罪」なんて言われておりますが、誰が悪いのかを白黒はっきりつけさせようとするのは間違いでございます。はっきり言えば、「関係者全員が悪い」のでございます。加害者・傍観者を悪者にした「被害者天国」の状態は良くないのでございます。では次に、その被害者の非を述べるのでございます。

被害者の非、それは、戦わなかった罪でございます。人間が自分の身を自分で守ること、これは個人の義務でございます。もちろん、精神的・人間関係的に追いつめられ、戦える状態ではなかったかもしれません。しかし、だからといって被害者を擁護しすぎると、「戦わずに死を選択する」子供たちが増える一方でございます。「戦わないのは悪いことなんだ」、そして、「『死』という逃げ道は相手を一生追いつめる究極の『いじめ』なんだ」ということを、被害者予備軍に訴え続けるべきでございます。

加害者が自分の行為を自覚するという義務。傍観者が少しばかりの勇気を持つという義務。この二つをもってしても、本当の問題解決には不十分でございます。被害者の義務が残っているからでございます。被害者の義務、これはたぶん、日本中のほとんどの人が気付いていないことでございますが、真の問題解決のためには必要不可欠な要素でございます。それは、

  加害者を許す義務
でございます。

大人の世界であれば、たとえいじめにあっても「職場を変わる」「法に訴える」といった知恵がございます。でも子供たちの場合は、問題解決後もやはり、同じクラスメートとしてひとつ教室の中で顔をつきあわしていくことになるのでございます。逃げることも、追い出すことも出来ないのでございます。ですから、被害者は加害者を許さざるを得ないのでございます。しかし、その逃げも追いだしも出来ない環境だからこそ、いじめ問題を貴重な教材として活用できる下地があるのでございます。

いじめ問題を解決するには、加害者・被害者・傍観者が全員参加し、全員で考え、全員がそれぞれの義務を果たす。そういったコミュニケーションによって、思いやりの能力が育つような気がするのでございます。「誰々が悪い」というのではなく、「全員の共同責任」なのでございます。そして、被害者が次のシチュエーションでは加害者になっているかもしれない。そんなときでも、各個人が自分の果たすべき義務を分かっていれば、問題解決への方向づけは自明なのでございます。

謝ってすむ段階、声をかけてあげられる段階、許してあげられる段階。人間関係の軋轢(あつれき)も、こういった初期の段階で各自が調整して自己解決していくべきなのでございます。しかし、最近の児童にはこの能力が乏しいために、一度人間関係に歪みができると、人を自殺に追い込むまで暴走することになるのでございます。本来「いじめ」というものは、思いやりの心を学ぶ上で非常に良い教材なのでございますが、それを教える先生方に、いささかの障害がございます。というわけで、冒頭で述べました「緊急提言」の三つ目のポイントに、最後の苦言でございます。

「学校・教育委員会・保護者が連帯」ということらしいですが、はっきり言って、現場の教師の方々の多くは、問題解決への方法論を十分持っていらっしゃるような気がいたします。その現場の方々の知恵が発揮されないのは、紛れもなく、教育委員会や保護者による「恐怖政治」がまかり通っていいるからではないのですか?

子供は未熟です。間違いも起こします。でも、その間違いから多くのことを学んでいくのでございます。むしろ、学ばせるために進んで間違わせるべきでございます。ですから、いかに間違わせ、いかに罰を与えるかといった細かいさじ加減は、むしろ、ある程度現場に任せるべきではないですか? その現場の微妙なさじ加減を画一的に判断し、十把一絡げで厳罰に処せというのはあまりにも考えがなさ過ぎでございます。

むしろ、上層の機関に必要とされるのは、すばらしいさじ加減の出来る良い教師を育て、その教師が思う存分その力を発揮できる環境作りでございます。下層の立場の人はよりミクロに考え、上層に位置する人ほど、全体をみるマクロな視点が必要でございます。上層にいながら最下層のミクロなことに言及ばかりしている今回の「いじめ問題への緊急提言」は、まったく木を見て森を見ず。本質がわかっていないダメダメなのでございます。

といったところで、今回は長くなってしまいました。最後まで読んでいただいて、お疲れさまなのでございます。ではでは、次回をお楽しみに。名古屋薫でございました。

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2006/12/04

さようなら、実相寺監督

先日、教育再生会議なる機関から、「いじめ問題への緊急提言」なるものが発表されました。ワタクシ、この提言の内容を読んで、もう、プンプンプンなのでございますが、その話題は次回のメールマガジンでお話しいたしましょう。

実は、今回はちょっと悲しいお話。以前、メトロン星人の回(2006/12/3配信分)で実相寺昭雄という監督を紹介いたしました。その監督が先月(2006/11/29)、亡くなられたそうでございます。享年69才だそうでございます。69才ともうしますと、一般の方々なら定年退職をして第二の人生を歩んでいらっしゃるころでございましょうか。しかし、監督業をしている方々での享年69というのは、非常に早すぎると思います。まだまだ、この監督の作品を見たかったのでございますが、残念でございます。ご冥福をお祈りいたします。

唐突でございますが、先日、NHK教育の「クインテット」という番組を見つけました。たまたま電源を入れたら放送していたのでございます。パペット人形によるたった10分の音楽番組でございます。ワタクシが見たときには、ブラームスのハンガリアン舞曲(だったような気がする)をパペットが演奏しておりました。

もちろん人形が演奏できるわけございませんので、台座の下から人形遣いが操っているのでございます。バイオリンの心得のある人にはすぐわかるのでございますが、パペットのボーイングが完璧なのでございます。ボーイングとは、バイオリンの弓を上げたり、下げたり、切り返したりといった弓づかいのことでございます。

このボーイングというやつ、バイオリンが弾ける人でなければわかりません。「大体こんな感じだったな」と想像で真似できるものではございません。つまり、バイオリンの心得のある人がそのパペットを操っているのは間違いございません。ボーイングにここまで拘(こだわ)っているということは、他の楽器の人形も、かなり正確な表現をしているだろうことは、想像できるのでございます。

また別の話。アニメ「トムとジェリー」の作品の中で、アカデミー賞を受賞したものが何点かございます。その中でも、ピアニストのトムがリストのハンガリー狂詩曲を演奏するものは秀逸。トムの演奏と音楽が完全に一致しているのでございます。手のアップシーンでは、押す鍵盤まで考慮して絵が描かれております。デジタル編集技術など全くなかった大昔の作品でございますから、熟練した職人さんの勘と根気強い微調整の賜物(たまもの)でございます。

子供が見るものに「子供だまし」を提供するのは簡単なことでございます。実際、世の中には様々な子供だましであふれかえっております。しかし、純粋で純白な子供だからこそ、ウソやごまかしのない「本物」を提供するべきだと思うのでございます。

体じゅうの細胞は激しく分裂をくり返し、すべての感覚器官はその練度を高めようと新鮮な刺激を求め、脳髄の中では新しい刺激に対する新しいマトリックスが日々生まれる。子供というのは体じゅうが成長点なのでございます。そんな小さな子供にこそ、「本物」を与えるべきでございます。そして、本物だからこそ、何年、何十年経った後に見返しても、また違った感動や発見を得られるのでございます。

悲哀に表現された怪獣を通して、そこに人間性や文学性を感じさせていただきました。夕日をバックに戦うウルトラマンを見て、映像美に触れさせていただきました。昼間なのに突然暗くなってスポットライトが当たるという演出(笑)で、世の中には現実と虚構のふたつの世界があるのだと学ばせていただきました。

幼少期に出会った多くの実相寺昭雄監督の作品は、ワタクシにとって素晴らしい財産になりました。監督、ありがとうございました。そして、今後、監督の新しい作品に出会えないことが、残念でしょうがありません。

実相寺昭雄監督、ありがとうございました。そして、さようなら。さようなら。

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