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2006/10/22

不謹慎は愛情の裏返し

ここのところいじめ問題が、深刻に各メディアで取り上げられております。中学2年生の子供が、いじめを苦に自殺をしたという事件でございます。

中学2年生といえば13〜4才のまだまだガキンチョ。本来ならば、頭の中は遊ぶことでいっぱい、この若さが永遠に続くと信じて疑わない、そんな年代のはずでございます。そんな子供が自殺に追いやられるという現実。各メディアは、この一個人が自殺した理由というミクロな観点ばかりに注目しておりますが、幼い子供が自殺に追い込まれるという世の中全体が持つ問題点にまで言及するような、そんなマクロな観点でも論じていただきたいものでございます。

最近の子供は、大変にストレスが溜まっております。そりゃぁ、塾だ将来だ成績だ点数だと突っつきまわされたら、どんな性格の良い子でもストレス溜まるでしょ。かといって、まわりが頑張っているのに、自分だけのんびりしてたら、それはそれで置いていかれるという強迫観念で、またストレスでございます。強制的に走らされているカゴの中のリスのようなものでございます。その溜まったストレスが突っつきやすい者に向けられる、といった図式でいじめが発生するわけでございます。

さて、ここからが薫節の真骨頂でございます。今回はかなり「不謹慎」な発言をするのでございます。不謹慎ではございますが、これはいじめで苦しむ子を少しでも救いたい、そう思う愛情から発せられる不謹慎でございます。多少の荒々しい発言を、どうかお許し下さいませ。

で、まず最初の不謹慎。

 「いじめは人間の本能でございます」
人間には「自分を守る」という本能がございます。ほんの一部の趣味の方を除いて(笑)、人間はいじめられるのが本能的に嫌いなのでございます。

いじめの初期である「からかい」の段階では、まだ子供達にそれほどの罪悪感はございません。ですから、ストレスの臨界点に達している子供達は、それこそ本能のおもむくまま、連鎖反応を起こすがごとく「いじめる側に荷担する症候群」が発生するのでございます。そして、一人の子供を大勢の子供がいじめるという人間関係が出来上がってしまうのでございます。では、子供にいじめの罪悪感を教え込み、教育すればいいじゃないかと思われましょうが、そこで二つめの不謹慎でございます。

 「子供は本能の動物。理性なんてありえねぇ」
ほんの一部の子供には感情を理性で押さえ込めるオマセな子もおりますが、まず子供に理性というものを期待するのは不毛でございます。「矢場とん」でフランス料理を注文するくらい不毛でございます。ですから、子供には体罰が絶対に必要でございます。小動物にオシッコの躾(しつけ)を教え込むのと同じでございます。目には目を、歯には歯を、本能には本能を、でございます。

逆に、小さいときに本能としてすり込まれたものは、一生の宝でございます。「痛み」、「辛抱」、「思いやり」。子供がまだ小さいうちに刷り込ませるべきこれらの基本原則を、親も学校も教え損なっているのでございます。そのツケが、現代のいじめの氾濫でございます。大人になってから、すでに固まってしまった本能を修正するってのは大変ですよね、ね、それで苦しんでいる大人の人達って、最近多いですものね、ね。

で、話を「いじめ」に戻しましょう。では、体罰を全面的に認めてしまえばいいか? と言うと、それほど単純でもございません。体罰には愛情の裏打ちが必要でございます。とくに、子供が物心ついてからの学校の体罰に関しましては、子供はしたたかに大人の底意地を読み取ってきますから、なおさら要注意でございます。裏打ちのない体罰はすぐに読み透かされるのでございます。ではでは、学校の代わりに、親が子供に対してどれほど本物の教育が出来るか? と言うと、過保護をさせやすい最近の風潮を考えますと、それも難しいような気がするのでございます。

そこで、3つ目の不謹慎

 「親猫がネズミを捕れないと、子猫もネズミを捕れない」
エッ、どこが不謹慎なのってか? っじゃぁ説明いたしやしょう。「最近の学校の先生は、自分が子供の頃に『痛み・辛抱・思いやり』といった基本原則を十分に刷り込んでもらう教育を受けていない」ということでございます。当然、自分の生徒にそういった基本原則を教えるというのは不可能なのでございます。「先生がいじめに荷担していた」なんていう報道を見ますと、こういったことがうかがえるのでございます。

同じようなことが、親にも言えるのでございます。子供のときに親からそういった教育を受けていないので、自分の子供を自ら教育するということが出来ないのでございます。で、子供を教育するのは学校の責任だと責任転嫁してみても、学校の先生もかくのごとしなのでございます。つまりつまり、教育問題の悪循環は、今や二世代目に突入しているのでございます。

さて、4つめの不謹慎

 「いじめられる側にも問題がある」
はっきり言って、いじめられる人って「いじめてくださいオーラ」を出しちゃってるんですよ。自分でいじめを誘発しておきながら、いじめられてるといった被害者意識ばかりが先行して自分の原因を探ろうとせず、だれも分かってくれないと他力本願に走り、挙げ句の果てに当てつけがましく自殺する(不謹慎は十分わかっております)。あぁ、めんどくさい。近藤○彦の部屋で自殺未遂した中森○菜ぐらいめんどうくさいのでございます(古いネタでしたね(笑))。

そしてさらに、小さい頃に自殺する子供なんてのは、弱い子供なのでございます。そんな弱い子供は、そのまま大人になっても、もっともっと苦しむだけでございます。そして、やはり大人になってから自殺する可能性大でございます。ですから、小さい頃に間引かれてちょうど良かったのでございます(不謹慎なのは、重々存じております)。

では現実的に、いじめられている子はどうすればいいのか? 「叫ぶ」のでございます。「やめろー」とか「いじめるなー」とか大きな声で叫ぶのでございます。いじめている側は集団でございますから、罪悪感はあまりない場合が多いものでございます。言わなければ気がつかないのでございます。そして、もし何らかの非が自分にあるのなら、それを認めて直す努力をするべきでございます。ここで叫ぶ勇気を持たなかったら、一生涯まわりからストレスという痰を吐かれまくる痰壺(たんつぼ)の人生でございます。そう思って、勇気を出すのでございます。

ではでは、最後の不謹慎

 「いじめは必要悪である」
以前、「戦争は必要悪だ」と申しあげました(2004/11/26のバックナンバー参照)。いじめも同じでございます。冒頭でいじめは本能だと申しあげましたように、人間が生きていく上で必ず生じるものでございます。無理に封じ込めようとすれば、違う形で違う場所から吹き出すだけでございます。いじめは必ず起きるものとして受け入れ、人の心に巣くういじめの本能と「いかに上手につき合っていくか」を考えるべきでございます。

「いじめる」「いじめられる」。これら両者を、幼少の頃に両方体験する。これがベストでございます。いじめは悪いことだと否定してみても、本能として自然に発生してしまうものは止められません。むしろ、「いじめという行為を早期に自覚でき、軌道修正できる能力を身につける」、このことの方が重要でございます。この軌道修正する能力には、「思いやりの精神」が必要でございます。つまり、「いじめる」「いじめられる」という行為は、「思いやり」を学ぶ良い教材なのでございます。

大人の世界では、当たり前のようにいじめが発生するのでございます。ですから、こういったいじめ問題に対する耐性を、幼少の時期に付けさせておくべきなのでございますが、現在の教育現場や家庭環境には、なかなかこのようなことをじっくり教える余裕が無いようでございます。悪循環が二世代目に入っているように、いまから対策を施しても、やはり効果が出るまでには何世代か掛かるのでございます。問題解決への道は、長く険しいのでございます。

世の中のお母さん、子供をしつけるのなら、小学校に入るまでが勝負ですよ。それまでに身につけた価値観や生活習慣は、子供にとって一生の宝になります。自分の子供を、将来自殺に追い込まれるような弱い子供にさせたくなかったら、幼少の頃にドンドンしつけましょう。悪いことをしたらバンバンおしりを叩きましょう。そして、良いことをしたら、ウ〜ンと誉めてあげましょう。コツは、ペットの躾と同じでございます(これが最後の不謹慎でした)。

キンタマもなく、子供を育てたこともないオカマが、またまた分かったような生意気なことを言ってしまいましたね。ではではでは、次回をお楽しみに。名古屋薫でございました。

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