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2006/10/24

いわんや悪人をや報道して欲しい

前回は「子供の躾(しつけ)はペットを扱うように」なんて書いておりましたら、3才の子供が忘れられたペットのような扱いを受けて、ご飯ももらえずに餓死するなんていう事件がございました。いやワタクシ、「ペットのように」とは言いましたが、いやはや、ペット以下の扱いを受けた子供、かわいそうなのでございます。

で、常日頃、何かにつけて腹を立てているワタクシ名古屋薫、今日はその事件の母親にも腹が立ったのでございますが、もっと腹が立ったのは児童相談所の所長に詰め寄る報道陣でございます。まったく、最近は、薄っぺらい正義感を振り回して居丈高にものを言う記者が多くて、あ〜、最低でございます。

(脱線事故の会見で)「人が死んでんねんで」と叫んだ記者。(河原でゴルフの練習する人に向かって)「ここはゴルフ禁止ですよ」と詰め寄る記者。(違法駐車をしている人に向かって)「駐車禁止の標識がありますよね」とイヤミを言う記者。(サービスエリアのゴミ箱をあさって)「今捨てたのはお酒の瓶ですよね」と追いかけ回す記者。

あ〜、こういうの見てると、ほんとに腹が立つのでございます。自分のこと何様と思っているのでございましょう。裁判官か正義の味方にでもなった気なのでございましょうか。こういう人達って、他人を詰問している自分の姿に酔っているだけでございます。「何のために報道するのか」というマスメディア本来の目的が分かっておらず、「詰問することそのものが目的になっている」のでございます。

報道の大目的は「問題提示」でございます。提示だけしておいて、「みなさんはどう考えますか」と大衆に動機づけるのが本来の目的でございます。世の中には(俗に言う)善人と悪人がおりまして、善人には善人の心情や事情が、悪人には悪人の心情や事情があるのでございます。その心情や事情を、どこまで深く掘り下げられるか、それが報道マンの力量でございます。

居丈高に詰問してくる人に、相手が心を開きますか? (たとえ相手が悪事を働いていたとしても)相手の身になり、相手のふところに入り、相手の内面を深くえぐり出す。そこまでして始めて、その事件に関する「因果」が表出してくるのでございます。「何が起きたか」までではなく、「なぜ起きたか?」まで掘り下げる。それが重要なのでございます。

例えば、冒頭で述べました児童餓死事件。児童相談所の所長に、「躾と虐待をどこで見分けるのですか?」と質問した記者がおりました。あ〜、もう、見てらんない。所長さんは監督するのがお仕事でございます。そんな監督業の人に、教育の根本原理を問うような質問してどうすんの。そんなの、親が「躾だ」って言い張ったらそれに従うしかないでしょ。で、「問題なし」と処理されて報告書が上がってくれば、所長さんはその書類にハンコ押すでしょ。

事件のどこに問題点があるのか? それを追求するためには、関係者に赤裸々に話をしてもらう必要がございます。質問する記者がけんか腰では、当事者は保身に走るでしょ。ましてや、最近のマスメディアは叩くことばかり考えております。部数や視聴率をかせぐ目的なのでしょうが、やたらと否定的な表現ばかりしていては、世の中が事なかれ主義に走るのでございます。

医者は訴えられるのが怖くて、心臓外科や産婦人科になりたがらない。重箱の隅をつつかれるので、政治家は日和見ばかりしている。芸人はバカ遊びが出来ず、みんなドンドン器が小さくなる。学校の先生は子供やPTAの顔色をうかがい、恐る恐る子供達に接している。あ〜あ、世の中がドンドン事なかれ主義に走っていく。本末転倒、木を見て森を見ず、そして、マスメディアの針小棒大。やだ、やだ、やだ、やだ。

街中や会見での記者にもプン・プン・プンなのでございますが、一部の報道番組の解説者にもプン・プンでございます。特に、午前中に放送するバラエティっぽい報道番組! その手の番組って、解説者の心の中にすでに結論が固まっていて、視聴者にはただ同意を求めるだけ。非常に押しつけがましいのでございます。

また、解説者が妙に熱っぽく語るのも大っきらいでございます。むしろ淡々と話した方が、聞き手の心に響く話し方ができるのでございます。舞台などでも、役者の感情が空回りしていると、観客を感動させることは出来ないのでございます。「人に伝える」ことではなく「自分が話す」ことがいの一番になると、感情が先走り、空まわりする話し方になるのでございます。

「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がございます。犯してしまった「罪」を追求するばかりでは、なんの進歩も得られないのでございます。そんなことは裁判所にまかせておけばいいのでございます。

 「罪を犯した人」から何かを学び取ること。
そこから、ワタクシたちは進歩していけるのでございます。ですから、罪を犯す人というのは、ワタクシたちの進歩にはかけがえのない存在なのでございます。みんな、悪人には感謝しなければいけないのでございます。その悪人の方々は感謝される行いをしているのでございますから、悪人というよりはむしろ「善人」なのでございます。

では、後世になんの啓蒙も与えない善人の方々は、世の中の役になっていないのでございますからむしろ「悪人」と呼ぶべきでございます。あ〜あ、悪人とか善人とか分からなくなってきたのでございます。つまり、世の中には善人も悪人もないのでございます。その、「人は皆同じ」という立場に立って報道できること、それが本来の報道のあるべき姿ではないかな、なんて思う今日この頃、みなさまいかがお過ごしでございましょう。

ではではでは、眠たくなってきたので、そろそろこの辺で失礼いたしぁしょう。名古屋薫でございました。次回をお楽しみに。(あ〜あ、一杯引っ掛けながら文章書いちゃいけないな(笑))

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