« 2006年7月 | トップページ | 2006年9月 »

2006年8月

2006/08/25

惑っているのは星?それとも…

【水金地火木土天海冥】

みんなこうして惑星の順番を覚えたものでございます。冥王星が海王星の軌道の内側に入ったとかで、小さいころ順番を覚え直したりもしております。今調べると、もうすでに、20年にわたる軌道の交差は終了しているみたいで、元の順番に戻っているようでございます。なんか、自分の年齢を感じちゃうのでございます。

ホルスト作曲の「組曲『惑星』」という曲がございます。最近は、木星の部分(ジュビター)のみが取りざたされたりしております。さてこの組曲には「冥王星」という曲はございません。作曲されたときにはまだ発見されていなかったのでございます。一方、「月にかわってお仕置きよ」でお馴染みのセーラームーン。その登場人物には、もちろん「セイラープルート(プルート=冥王星)」が登場しております。地味で大人のキャラクターのセイラープルート、ワタクシ結構好きでございます。

その冥王星を惑星として認めるべきかどうか? ケンケンガクガクの議論が今まさに交わされているようでございます。さまざまな学説が引き合いに出されているようでございますが、自然現象なんてそう杓子定規に線引き出来るものではないのでございます。真理の追究というよりは、単なる学者の意地の張合いでございます。世の中で“真理”と呼ばれているものの多くは、このような“言い出した人の単なる意地”だったりするのでございます。

その冥王星の成り行きに、出版業界が右往左往しているようでございます。来年の理科の教科書の記述に対応するため、輪転機を止めてまで結果待ちをしているそうでございます。まぁね、出版業界にとっては不可抗力でございますし、こういう教科書の間違いは、ある意味良い教育の材料になったりするのでございますが、とかくクレームの多い世の中になってしまいましたから、出版社も慎重なのでございましょう。

【「惑(まど)う星」と書いて、惑星】

夜空の多くの恒星が天球にはり付いたように見えるのに対して、地球のすぐそばで公転する火星や木星のような惑星は、地球との位置関係で、進んだり戻ったり、クルリと輪を描いたり、そんな不思議な動き方を天球上でいたします。まだまだ天動説が主流だったころには、その惑星の不思議な動きが理解できず、「惑う星」なんて名前をつけたようでございます(ちなみに「惑星」という語は、長崎のオランダ語の通訳が、コペルニクスの「地動説」を訳するときに生まれた語だそうでございます)。

その惑う星が、いまや世界中の天文学会や教科書の出版社までをも「惑わして」おります。いにしえの天文学者たちは、何十年、あるいは何代にもわたるほどの観測結果を経て、新しい学説を導き出したものでございます。それに比べると現代では、めまぐるしく新たな発見や学説が展開し、世界中がその推移に振り回されております。実は、惑っているのは惑星ではなくワタクシたちなのかもしれませんね。

最近は、明るくライトアップされた都会の夜の影響で、“本当の夜空”みることが大変難しくなりました。もし田舎に出向くことがございましたら、ぜひぜひぜひ、満天に星がちりばめられた本当の夜空を見ていただきたいものでございます。宇宙飛行士は、宇宙から地球を見て自分の世界観を変えるといいます。宇宙飛行士にはなれないまでも、満天からの降るような星空の感動は、必ずあなたの心に一陣の清風を吹き込んでくれるはずでございます。

さてさてさて、冥王星問題、このメールマガジンが読まれるころには、いったいどんな結果が出ているのでございましょうか? 世の中の移り変わりに惑わされてばかりいるワタクシたちは、何千年も変らない夜空に思いを馳せる余裕を持たなくてはいけないのかもしれませんね。といったところで失礼いたします。次回をお楽しみに。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/08/17

戦争博物館をつくりませんか

Fi1155810539063t_0eはぁ、アツはナツいのでございます。毎年のことながら、名古屋の夏は大変に熱いのでございます。さてさて、熱いのは気温だけかと思っておりましたら、なにやら巷では総理大臣がドコドコの神社にお参りに行ったとかで熱くなっております。それを受けまして、ご近所の諸外国まで熱くなっております。そんな頭の熱くなった方々を、少しでもクールダウン出来ればと、今回はお送りするのでございます。

ニューハーフというお仕事をしておりますと、外国の人といっしょにお仕事をすることが多くございます。文化も違う、価値観も違う、それでもって会話による意思の疎通が十分に出来るわけではない。はっきり言って、こういった人たちといっしょにお仕事をするには、日本的な「空気読め」とか「言わなくても常識でしょ」といった考えは通用いたしません。誤解や勘違いを発生させないためには、「成文化されたルール」を取り決めることが必用でございます。ワタクシたち日本人は、自分たちが思っているほど外国人に理解されてはいないのでございます。

で、巷で話題になっている某サンパイ事件でございます。日本人であればこそ、某神社の歴史的背景や、戦犯、東京裁判といったことに多少の知識がございます。そういったものを全部ひっくるめて、「俺たちの気持ち、分かってくれよ!」という気持ちにもなるのでございましょうが、諸外国にはそんな知識がございません。諸外国にとって某神社は単なる戦争責任の象徴であり、そして「(神社に)行った」という事実だけが伝わる。つまり、日本の首相が参拝するということは、諸外国からみれば「ドイツの首相がカギ十字のワッペンを胸につける」のと同じなのでございます。諸外国の日本に対する認識なんて、そんなものでございます。

さて、堅苦しいお話しはこのぐらいにしましょうか。実は先日、所用で韓国へ行ってきたのでございますが、仕事の合間をぬって、ソウル市内にある「戦争博物館」というところへ行ってきたのでございます。今回はその博物館を紹介するとともに、ワタクシの戦争論(もどき)を、チョコッと僭越(せんえつ)ながらお話ししてみるのでございます(難しい話はしませんから、どうぞご安心を)。

まず、その戦争博物館の紹介からいたしましょう。まぁ、とにもかくにも、立派な施設でございます。広大な敷地を実に贅沢に使って博物館および各展示物が配置されております。非常に管理の行き届いた公園という感じでございます。敷地内に入りますと、まず巨大な像が目に飛び込んでまいります。兵士と少年が抱き合っている像でございます。この像は、実に感慨深い展示物なのでございますが、その詳細は文章の最後に記すといたしましょう。

さて、さらに奥へ入っていきますと、屋外の展示場に様々な兵器が陳列されております。レプリカではなく“実物”でございます。航空機などもその巨大な機体がデーンと広大な敷地を利用して置かれております。そして、そのほとんどの陳列物は触ることができ、さらに内部に乗り込める陳列物もございます。まったく、兵器マニアにはたまらないでしょうね。ワタクシは決して戦争を賛美するわけではございませんが、メカニカルな物の“機能美”は大好きでございます。炎天下の中、玉のような汗をしたたり落としながら、つぶさに拝見させていただいたのでございます。

みなさま方、本物の武器に接するというのは、実に重みがございます。映像や写真で見るのとは違った重みが有るのでございます。「本当に人を殺す能力を持った武器」、あるいは、「かつてこの武器が、何人(何十、何百?)かを殺してきたのかもしれない」、そんなことを感じさせる重みでございます。戦争を賛美するとか否定するとかの問題以前に、本物の武器に触れるということは、実に有意義なことでございます。映画やドラマといったバーチャルな戦争イメージにはない、“本当の戦争の一断片”がございます。

屋内展示物の方も立派でございます。展示スペースも広く、ゆったりと配置され、やはり展示物のほとんどは“実物”でございます。非常に精巧なつくりの巨大ジオラマも多数ございます。この多くのジオラマのすばらしさは、美術的価値をうかがえるほどでございます。そして、陳列物にはハングル・英語・中国語・日本語などで解説文が併記されておりますが、とにかくヴィジュアルに訴えるような陳列方法に徹しております。たとえ解説文が読めなくても、視覚的にドンドン興味をそそられるのでございます。陳列物の作製には、大変な手間ひまと費用がかかったことでございましょう。これで、入館料3,000ウォン(約380円)とは、まったく“お値打ち”なのでございます。

内容も多岐に渡っております。原始時代の石槍から近代戦争でのガスマスクまで、おそらく韓国の戦争史ほぼ全般に関して網羅していると思われます。その中でも、いちばんのスペースを割いているのは、「朝鮮戦争」に関する展示でございます。解説が分からないので漠然とした印象ではございますが、その力のこもった多くの展示物からは、「同じ民族同士が戦わなければならない悲哀さ」を感じたのでございます。思うに、ワタクシたちの日本も、もしひとつ間違ったら、第二次大戦後に分割の憂き目を見たのかも知れなかったのでございます。韓国やドイツやベトナムといった国々と同じ運命を、この日本も辿(たど)ったかも知れなかったのでございます。ワタクシたちは、自分たちの今までの運命に対して、もっともっと、感謝すべきなのかも知れません。

この戦争博物館を親子連れで訪れる方がいらっしゃいましたら、ぜひぜひ、必ず、子供さんに見せて頂きたい展示物がいくつかございます。まず、3階に「戦争体験室」というのがございます。今回は調整中のためワタクシは体験できなかったのでございますが、とにかく頭上を弾丸が飛びかうような、非常にリアルで迫力ある体験ができるそうでございます。もうひとつ同じ3階に、避難民の生活を“実物大”で再現した巨大ジオラマがございます。これがまた、超リアルなのでございます。かなりのスペースを割いて作製されたジオラマの中を歩いて行きますと、本当に自分が避難民のキャンプの中を歩いているような、薄気味悪い錯覚に襲われます。と同時に、もし戦争が始まると、こんな生活を強いられるのだと実感を、非常に生々しく感じるのでございます。

ロッテワールド(ソウル郊外にある巨大テーマパーク)に連れて行けと子供がせがんだら、この戦争体験室と避難民のジオラマを先に見せれば、子供さんブルーになっておとなしくなり、親御さんは手間いらず……というのは冗談でございますが、ぜひぜひ、人生のなかで一番感受性が鋭くなる幼少の時期に、こういったものを見せてあげて欲しいのでございます。そのときは、「戦争ってかっこいい」と感じるかも知れません。「避難民て汚いな」と言うかも知れません。たとえもし幼少の頃にそのような感想を持ったとしても、青年期になったとき、そして大人になったときに、幼少期でのこのような体験が必ず生きてくるはずでございます。感受性豊かな子供たちを、ゲームなどのバーチャルな戦争イメージから守る“予防接種”だと思って、どうか見せてあげて下さい。ワタクシたちの未来を作るのは、その子供たちなのでございますから。

ワタクシは、つくづくこのような戦争博物館が日本に存在しないことが残念でなりません。小さな展示館やメモリアルは数多く存在しております。しかし、すべてを網羅し、普遍的、客観的に展示した戦争博物館はございません。首相の参拝、憲法第九条の解釈、A級戦犯等々、戦後から半世紀以上を経ているにも拘(かか)わらず、まだまだ多くの議論が飛びかいます。飛びかうということは、成熟していないということでございます。ワタクシたち自身でさえ成熟していない問題を、諸外国に理解してもらえるわけがございません。「いい人にめぐり会いたければ、まず自分を磨く」、ワタクシがいつも主張している言葉でございます。諸外国とのいい近所づきあいをするためには、ワタクシたちはもっともっと“自分たち”を知る努力をしなければいけないのでございます。そこで、普遍的、客観的な視点での戦争博物館が必要だと、思うのでございます。

戦争というものは、当事国同士の共同責任でございます。もし平和に暮らしている人達をいきなり襲ったのであれば、これは戦争ではなく犯罪です。そうではなく、お互いの言い分や事情があり、その解決手段として発生してしまうのが戦争でございます。ですから、普遍的、客観的な博物館には、相手国の言い分も展示するべきでございます。やったこと、やられたこと、それらを平等に展示するべきでございます。ゆえに、展示物の監修には関係諸外国から研究者を集めた“国際監修者チーム”が必要でございます。価値観の違う人同士が分かり合うためには、「ひとりよがり」ではいけないのでございます。

さらに、戦争というものには、「左」とか「右」とか、いろいろな考えを持った人がいらっしゃいます。そんな様々な人達も、みーんなひっくるめて展示しちゃえばいいのでございます。左のどんな人達がいてどんな活動をしているか。右の人達はどうか。どんな思想を持つかは個人の自由であり、様々な思想があるからこそ、ワタクシたちは反省し進歩していけるのでございます。もちろん結論など出るはずがありません。だって、結論なんて何百年か何千年後にしか出ないのでございますから。結論よりも、「すべてを網羅する」ということが大事なのでございます。

ワタクシたちにできるのは「過去や現在を、ありのままに見せる」、ただそれだけであり、それがベストでございます。解釈し判断するのは、それを見た小さな子供たちでございます。差別も偏見も持たない小さな子供たちだからこそ持ち得る感性というものがあるのでございます。世の中には“言葉遊びでお茶を濁す大人の議論”が飛びかっていますが、大人が言葉遊びをしているうちに、子供たちはどんどん無関心になり、夢を失っております。子供たちが目を丸くして見入るような展示物が並んでいる、そんなすばらしい戦争博物館を、誰か作ってくれないでしょうかねぇぇぇ。

というわけで、今回はちょっと力が入って長くなってしまいました。そうそう、ソウルの戦争博物館での、兵士と少年が抱き合う像のお話をしなければいけませんね。その像の台座をふと見ると、兵士と少年を分かつように大地が割れているのでございます。そして、その像の題名を確認すると、そこには「兄弟」と記されておりました……

-------------------------------
【戦争博物館】
http://www.warmemo.co.kr/
(英語ページあり。博物館現地には日本語パンフレットもあります)
(※2009年11月現在、日本語ページも用意されているようです)

(今回いろいろ資料を漁っていたら、こんな映画を見つけました。参考までに)
【父親たちの星条旗/硫黄島からの手紙】
http://wwws.warnerbros.co.jp/iwojima-movies/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/08/10

汚れた英雄の中に至純をみる

お久しぶりでございます。名古屋薫でございます。本日のテーマはチョット前の話題の人、「亀田興毅」でございます。まかりなりにもチャンピオンになったにも関わらず、日本中から「八百長」と汚名を受けている汚れた英雄? その、話題の人でございます。

 「あの試合は“負け”だった方が良かった」
何人かの著名人の方が、このようにおっしゃっております。「負ければいい」ではなく「(あの試合内容ならば)“負け”の方が良い」とはどういうことか? この微妙な言い回しに、多くの方々の亀田興毅に対する思いが集約されているのでございます。本当は、みんな、彼(亀田興毅)のことが、好きでたまらないのでございます。

ワタクシはボクシングのことは、あまり詳しくはございません。だから、試合中継を観ていても、どちらが優勢だったのかは分かりません。ジャッジの判断が正しかったのかどうかも、ワタクシには分かりません。ただ、結果として、日本中が「八百長だ!」と騒ぎ立て、マスメディアで大論争がわき起こる、これは亀田興毅にとっては実に不運でございます。はっきり言って彼に罪はないのでございます。では、どこに罪があるか? それをはっきり見極めないと、一人の有望なボクサーを、我々は「見殺し」にすることになるかもしれないのでございます。

ボクシングというのは、「合法的に人を殺せる数少ないスポーツの中のひとつ」なのでございます。多くのスポーツは、いわば「まね事」でございます。防具を着用することによって、きまり技を「○○したことにする」といったレベルで処理するのでございます。ところが、ボクシングは“本当に”殴るのでございます。相手が弱まっても容赦いたしません。手加減することは自分の負けにつながるからでございます。ボクサーは皆、“命がけ”で試合に臨んでいるのでございます。

亀田興毅の口の悪さ、態度の悪さを指摘する方が多くいらっしゃいますが、命がけなのでございますから、そのぐらい当たり前なのでございます。誰だって自分の命がかかっていたら、言葉責め、態度責めぐらいするでしょ。その言葉や態度に思慮分別が無いという一面はございますが、19歳の青年でございますから、そんなこともまた当たり前なのでございます。むしろ、19歳で悟ったような思慮分別がある方が、薄気味悪いのでございます。

芸能界であれば、思慮分別のない芸人を庇(かば)うのは所属事務所のお仕事でございます。もちろん、法律を犯すようなことをしてしまえば庇いようがございませんが、事務所が謝って丸く収まり、それで興行収入が入ってくるのならば、事務所はいくらでも頭を下げるのでございます。もちろん、“頭の下げがいのある芸人”に限られますがね。逆に、変に芸人に思慮分別を持たせようとすると、その芸人の持ち味が死んでしまうことがございます。常識から外れたところに、芸人の輝きが有ることが多いのでございます。

お話を芸人からボクシングに戻しましょう。では、亀田興毅にとっての事務所とは? これは彼の父親でございます。そうでございます。亀田興毅を生かすも殺すも、そのキーパーソンとなっているのは、彼の父親なのでございます。亀田興毅自身はあのままで何も問題ございません。口や態度のマイナスベクトルを除けば、父親思いの好青年でございます。そして、お父さんが低姿勢というプラスベクトルを発することによってプラスマイナス相殺されるはずなのでございますが、実際にはマイナス同士で拍車がかかってしまっております。

さあ、今ここで、あえて申しあげましょう。

 「亀田興毅の父親は、『子離れ』が出来ていない」
のでございます。

最初、父親が息子をコーチするというのを知って、「うまくいくのかな?」と思ったものでございます。親子というものは「情」が絡んでくるので、芸ごとやスポーツはなかなかうまくいかないものでございます。勝ち進むのをみて「あぁ、こういう親子もあるのだな」とは思ったのでございますが、やはり案の定、ダメダメでございます。あのお父さんは「息子の夢」を実現させたいのではなく、息子を利用して「自分の夢」を実現しようとしているのでございます。

チャンピオンへの夢は興毅自身が強く持っておりますし、多くのボクシングファンの夢でもございます。その夢にお父さんまでもがお付き合いする必要は、全くないのでございます。むしろ、息子の足りない部分を補い、盾となってやるのが本来の父親の役目でございます。そして、将来自分の息子が“勝てなくなったとき”そして“引退するとき”のことまで考えてやるのが、親のつとめでございます。

挫折を知らずに突き進んできた人間は、つまずきに弱いものでございます。そのときにあのお父さん、十分に余裕を持って接してあげられるのでしょうか? また、あの乱暴息子が引退したとき、あのままでいったいどんな仕事ができますか? あのお父さんは自分の足もとしか見ていません。しかし、自分の息子の5年後、10年後、そして自分が死んだ後の息子の生き方まで、親なら考えてやるべきでございます。

ワタクシは、あのお父さんに言いたい。

 「亀田興毅には“他人の釜の飯”を食べさせるべきだ!!!」

でも、できないでしょうねぇ。あのお父さんにそれが出来ないのは、それがお父さんの“弱さ”なのでございます。息子を信じて外に押し出すというのは、勇気がいるものでございます。でも、それができず自分の息子を懐に囲い入れてしまう。そうすると、もはや“厳しさ”という形でしか愛情表現ができないのでございます。実は、亀田興毅という人間は“孤独”な人間でございます。その孤独感の反動からあのように突っ張っているのでございます。お父さんまで一緒になってはしゃいでいたら、亀田興毅は“あのキャラクター”を捨てるチャンスを失うのでございます

もしボクシングが、プロレスのような単なる“興業”ならば、試合を観て楽しんで、興業収入が入ってめでたしめでたし、それで終わりでございます。しかし、ボクシングはまね事ではないのでございます。命がけなのでございます。先日の粉飾された試合中継をみる限りでは、19才の青年が命がけで遂げようとしている夢を、大人達が大人の事情で利用している、そのようにしか見えないのでございます。そしてもし、もしこの亀田興毅という青年が、芸能コマーシャリズムのひと駒として“使い捨て”にされるようなことがあったら、こんな悲しい“命がけ”はないのでございます。

ワタクシは亀田興毅という青年を応援します。ガラは悪いが大変な父親思いのボクサー、亀田興毅を応援いたします。そして、今ひとつ息子を手放す勇気を持ちきれないあのお父さんも応援します。多少歪んだ愛情ではございますが、自分の息子のために涙ぐむ、あのお父さんを応援いたします。そしてそして、19才の青年の命がけの夢が、大人達の汚れた営利主義で汚されないことを、切に願望いたします。

子供たちが夢を持たなくなった時代に、命がけで夢を実現しようとしている青年がいる。いまその青年の純粋な夢が、思いも寄らない汚名を着せられて袋だたきに会っている。命をかけてまで得たものを日本中に否定されて、彼は今、何をよりどころにしているのだろう。彼に罪はありません。罪があるとすれば、彼と(まだ大人になれない)父親にむらがる大人達なのです。

 ワタクシは、亀田興毅という青年が不憫で不憫でしょうがありません
 ワタクシは、亀田興毅という青年が不憫で不憫でしょうがありません...

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年7月 | トップページ | 2006年9月 »