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2005年6月

2005/06/10

名古屋薫のお掃除基本原論

観客のいないサッカーの試合、なかなかに臨場感があってよろしかったのでございます。先日行なわれたワールドカップ予選「日本対北朝鮮」は、観客のいないスタジアムで行なわれたのでございます。選手同士の声のかけあいや、監督の怒鳴り声などもはっきり聞こえてまいりまして、普段とは違った趣(おもむき)があって、なかなかよかったのでございます。でも、Jリーグが設立される前のサッカー中継って、いつもあんな感じでしたよね。アッ、これは禁句かな? というわけで、一週間のごぶさたでございました。名古屋薫でございます。

さて、今日の話題は「お掃除」でございます。唐突な話題でございますが、たまたまワタクシが今朝、小一時間かけてバスルームをピカピカに磨き上げているときに思いついただけでございます。まあ、おつきあいのほどを、では、はじまり、はじまり〜、でございます。

かなり以前のことでございますが、ある漫画(たぶん『はぐれ雲』の中の一節)を読んでおりまして、こんな文を見つけたのでございます。

「清潔とは物が新しい事でも、汚れが目立たない事でもなく、
  傷ついていても、埃(ほこり)の無い事、光るべきものが磨かれ輝いている事」
けだし、名言でございます。新しいとか古いではなく、気配りが行き届いているかどうかということでございますよね。新しいものでも、持ち主から忘れ去られたものには埃がたまってまいります。埃がたまりますと、光るべきものでも雲ってまいります。逆に、古くて傷だらけのものでも、その持ち主が常に心にかけているものには、埃はかぶらないでしょうし、輝きも失わないはずでございます。

ワタクシ、自分のお部屋にかんしては、お掃除は「鹿威し型」でございます。鹿威し(ししおどし)ってのは、あの、日本庭園の池なんかによくあって、水を注ぎ込まれた竹筒が、ときおり「カーン」と、かんだかい音を発するアレでございます。つまり、ある程度汚くなってきて我慢の限界を超えると、せきを切ったように徹底的な大掃除を始めちゃうタイプでございます。掃除としてはあまりいい見本ではございません。むしろ、悪い見本でございます。

プライベートなお掃除に関してはなかなかにルーズなワタクシですが、自分のお店のお掃除に関しては、逆に大変な几帳面でございます。几帳面すぎて従業員がノイローゼになりかけたりもございました。それで最近は、ちょっと遠目で従業員のお掃除をチェックしたりしております。そのワタクシが、いままでの歴代の従業員に指導したお掃除のしかた、名古屋薫の「お掃除基本原論」を今回は紹介しちゃうのでございます。

まず、男性というのは、おおむね、お掃除の苦手が多うございます。「四角い部屋を丸く掃く」といった、その語のままのお掃除をおやりになったりします。そして、男性のお掃除は力まかせでございます。これは、「掃除をした」といった行為そのものに神経が集中し、その目的にまで考えが及んでいないからでございます。行為の目的(掃除の目的)とはつまり、「埃・ゴミの確保」でございます。確保対象物の忍んでいる場所を特定すれば、お掃除の仕方も自ずから変ってくるのでございます。

フローリングの場合は、埃は部屋の隅に集中しております。真ん中はどうでもいいのでございます。隅を丁寧になぞっていくことがお掃除のコツでございます。また、畳やじゅうたんでは、埃は表面の奥深くに忍んでおります。全面を丁寧にくまなくなぞっていくことが肝要でございます。掃除機を使う際、水夫がデッキブラシで甲板を磨くような大きな動きはダメでございます。ハケでペンキを塗るような、丁寧で繊細な動きでなければいけないのでございます。そこで原論1でございます。

原論1:行為よりも目的を重視すべし。

埃というもの、とかく物の裏側や下に潜り込むものでございます。動かせるものは退(ど)かして、軽く掃除機の先を差し込んでおくべきでございます。ベッドの下なども、毎日軽く埃を吸い込んでおくべきでございます。掃除のやりにくい場所は、この「軽く、毎日」というのがコツでございます。それだけで、意外に埃はたまらないものでございます。この、見逃しやすい部分に軽い気配りが出来るかどうか、大変重要でございます。そこで原論2。

原論2:視野は広く。そして、すべてに軽い気配りをすべし。

お掃除の次は「お片づけ」でございます。飲食店などでは「テーブルを新品にする」なんていう言い回しをいたします。次に使用するお客様のために綺麗にするという意味でございます。このとき、綺麗にするだけではなく、「前のお客が使った形跡(気配)までなくす」ことが重要でございます。ものを置くのならば整然と、ある意味機械的な配置がちょうどいいぐらいでございます。ホテルなどのお部屋のセッティングを思い浮かべていただければ、イメージがわくことでございましょう。この前の利用者の気配をなくというところが、「新品にする」という言い回しの由来でございましょう。お客様にお出しするようなものには、このような気配りが必要でございます。そこで原論3でございます。

原論3:ときには気配(けはい)まで掃除すべし。そこにお掃除の真髄あり。

以上、お掃除三大原論を考えまするに、お掃除とは「物に対する気配り」、そして「使う人に対する気配り」であるのでございます。新しいとか古いとかなんてあまり関係ないし、ぱっと見が綺麗でも裏側が汚かったりすると、そこで底意地が悟られてしまったりするものでございます。また、見かけの美醜だけでなく、その場の気配までお掃除できるかに、お掃除の深さがあるのでございます。

常に人の心にかけられている物は、埃をかぶることなく輝きを保ったままでいられます。アイドルやニューハーフなども、同じようなことが言えます。人の注目を浴び、聴衆(お客さん)の視線という緊張感にさらされていると、ドンドン綺麗に、そして輝きを帯びてまいります。逆に、人々から忘れ去られると、ドンドン埃が積もっていく...あぁ、考えたくない、考えたくない。

といったところで、失礼いたしましょうか。では、次回をお楽しみに。名古屋薫でございました。

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2005/06/04

ママァ〜 ドゥユ リメンバァ〜

お久しぶりでございます、名古屋薫でございます。昨晩から今朝にかけて、全国的にサッカー三昧なのでございます。多くの方が目をこすりながら深夜の日本対バーレーン戦をご覧になったのではないでしょうか? 

テレビの某健康番組で「お酢」が体に良いということを知りまして、食べるもののほとんどにお酢をかけて食しております。食べるものすべて「酢の物」でございます。そこである発見、フライものとお酢のコンビネーションが大変良いのでございます。トンカツやエビフライなども、お酢をかけるとアッサリ風味でなかなかの美味! みなさんお試しあれ。また、野菜サラダも‘お酢原液ドレッシング’で無問題。器に残ったお酢も、最後にゴクゴクしちゃうのでございます。食後に、お口の中がちょっとピリピリするのが問題といえば問題でございます。

また、別の某健康番組では、「食事の際、食べるものは30回噛みましょう」なんてのを見まして、黙々とモグモグしております。考えるにワタクシ、今までの食事では、ほとんど数回で、ものを飲み込んでおりました。早食いは不健康とばかりに、最近では30回ずつ噛んでいるのでございますが、飲み込むまでに30回も噛んでおりますと、食事の間、退屈で退屈でしょうがないのでございます。世の中の30回ずつ噛んで食していらっしゃる方々は、いったいどうやって退屈せずに食事をしていらっしゃるのでしょうか?

さて、TV番組の話題続きで恐縮ですが、ちょっと前の『プロジェクトX』(NHK)で、ホテルニューオータニが取り上げられておりました。それを見ておりましたら、映画『人間の証明』(角川映画版)を無性に思い出したのでございます。その理由、映画の内容を知っていらっしゃる方は分かりますよね。劇中のむぎわら帽子の形とニューオータニの屋上回転ラウンジの形とのオーバーラップが、ストーリー上重要な意味を持っているからでございます。

そこで、さっそくレンタルでございます。DVDを借りてきて、あらためて観てビックリ。ワタクシ、この作品を映画館でも見て、原作も読んだ、つまり角川映画のキャッチフレーズ通り映画と文庫を制覇していると思っていたのでございます。ところがドッコイ、映画館で観たと思っていたのは実はカットだらけのテレビ放送版、読破したと思っていた森村誠一の原作も、実は映画用シナリオの角川文庫版だったことが、今回28年ぶりに明らかになったのでございます。特典映像のCM集とかも、なかなか役に立つのでございます。

「読んでから見るか、見てから読むか」。これが角川映画の当時のキャッチフレーズでございます。当時としては、なかなかに斬新なコピーでございます。このコピーに乗せられて、よく映画館のチケットと文庫本を買ったものでございます。この角川春樹という方、なかなかの‘やり手’でございます。しかしながら、後年、自らの乱行がもとで落ち込みぎみでございます。先日も、戦争映画の製作を発表した矢先に、中国の対日デモ騒動が起きたりしております。最盛を極めていた人も、運を使い果たしてしまったのでございましょうか?

閑話休題、この映画『人間の証明』(角川版)は、お金と権力でやりたい放題すると、こんな映画を制作することが出来ることを証明したような映画でございます。これだけのキャストを集めての映画ってのは、もう作るのは難しいでしょうね。また、セットやロケにも、お金をかけ放題でございます。役者や小道具やロケ地など、画面に映り込んでいるものがすべて本物ぞろいなので、地味な演出にもかかわらず、本物が持つ説得力を感じるのでございます。むしろ、技術でごまかすのが容易になってしまった最近の映像の世界が忘れているものを、この映画が持っているのかもしれません。

出演者の方々も、みなさん若くて美しゅうございます。ただ、さすがに制作時から28年の歳月を経ていますので、亡くなっていらっしゃる俳優さん達もチラホラいらっしゃって、ちょっと寂しい思いでございます。当時は、まだ差別用語に関してルーズな時期だったようで、セリフの中に危険な単語出まくりでございます。この映画が、あまりTV等で放映されなかったのも、そういったことが関係しているのかなと、勘ぐってしまったのでございます。

この映画が製作されたのが1977年。戦後32年も経過した時期でございます。にもかかわらず、映画の中では「真珠湾で弟を殺されたアメリカ人」「終戦直後に闇市で進駐軍に父親を殺された日本人」「進駐軍の子供を産んだ過去を隠そうとする日本人女性」「実の母親にその存在を否定された混血アメリカ人」といった登場人物達が、微妙にからみ合いながらストーリーは進行していくのでございます。

戦後32年経っても、その戦争の傷跡をほじくりかえすようなドロドロの内容が、映画のテーマとして成立してしまうという現実。そして、戦後60年を経た現在でも、この映画がけっして見知らぬ別世界の物語ではないという現実。戦争の傷跡というのは、なかなか深うございます。今、イラクで起きている出来事も、人々の気持ちが乾燥して、冷静に過去の教訓として語られるようになるには、100年ぐらいかかるのでしょうか? だとしたら、人間の一生なんて、歴史の大きな流れに比べたら、よどみに浮かぶ泡沫(うたかた)のようなものでございます。

さて、この映画を戦争にこだわってお話しをし過ぎてしまいましたね。実は、この映画の本当のテーマは「母性愛」なのでございます。動乱の時代にあっては切り捨てざるを得なかった母親と子供の縁。そして、運命の本流と支流とに生き別れになってしまった母子の受け入れざる再会。生きていくために母性愛という本能を押し殺しながら生きた女の心の葛藤。その結果、溺愛という屈曲した愛情を自分の子供に注ぎ、運命の本流で育(はぐく)んだ息子も、支流でたくましく育(そだ)った息子も、そのどちらも失ってしまう。そして自らも...という悲しい悲しい「母親の物語」なのでございます。

子供のころ、この映画を見ても、ぜ〜んぜんそんな感想は持ちませんでしたね。単なるサスペンス映画として見てましたからね。やはり、いい作品ってのは、観るたび、読むたびに、新しい発見があったりするものでございます。古いものも、たまに引っ張り出してきてみるのもよろしいでしょうね。

さて、金と権力を駆使し本物で固めたこの作品、技術で体裁を整えた最近の作品が持っていない重々しさがあると申し上げましたが、ニューハーフの世界でも、最近は美容整形という技術に頼りすぎ、「いい女を演じる」という本質を失いつつあるような気がします。といったところで長くなってまいりましたので、その話題はまたの機会にしましょうか。では今回はこのへんで失礼いたします。次回をお楽しみに。名古屋薫でした。

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映画『人間の証明』(角川映画版)1977年公開
 DVD KABD-83(4,700円) 発売:角川映画 販売:アズミック
 出演:岡田茉莉子 松田優作 他

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