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2005年2月

2005/02/18

名古屋薫的縦置正対式録画機器

今回は、ワタクシ名古屋薫が家電製品をぶった切るのでございます。いや、ぶった切るというよりも、こんな製品有ったらいいなと自分の理想・願望をグズグズ並べ立てるのでございます。そのグズグズのなかに、すばらしい新商品のアイデアがあるかも知れませぬ。家電製品の関係者の方は心して今回のメールマガジンを読んで頂きたい。では始まり始まり〜。

年末から年始にかけまして、小型ゲーム機が二機種ほど発売されました。任○堂とS○NYからでございますね。それらのゲーム機、どうやら動画再生機能もあるようでございます。いつどこでもゲームで遊べて、ゲームの合間にビデオで撮り溜めた録画も見られる。放送メディアも増え録画もお手軽になると、録画したものを消化するのも大変でございます。

一昔前は、テレビの大きさと自宅の広さは小から大への不可逆変化でございました。つまり、いちど大きいものを使うと、小さいものにはもう戻れないということでございます。ところが最近は、テレビの大きさに関しましては、極大・極小の両極端への二極化の傾向にあるようでございます。極端に大きなテレビ、極端に小さなテレビ、それぞれ両方所有して使い分けるというのが、最近の“はやり”のようでございます。

前述のゲーム機のように、アウトドア用の機器がドンドン小さくなっていくのに対しまして、据え置き型のテレビはドンドン薄く大きくなってきております。まったく最近の大型テレビの薄さというものは、昔のことを考えるとアンビリーバブルでございますが、せっかくのその薄さを損なっているものがございます。テレビの下側、専用台から前方に張出した棚でございます。なぜ、苦労してテレビを薄くしたのに、その下の専用台が前に張出しているのか? それは、いまだにピザボックス型が多いビデオレコーダーを乗せるためでございます。

そう、テレビ本体は薄く薄く、壁に張り付くようなデザインに進化してきているのに、録画する機械はノッペリと床に張り付くような形をしているのでございます。そこで、録画機器も直立するべきでございます。直立して壁に張り付くべきでございます。さあ、今、進化のときなのでございます。立て! 立つんだ! ジョー!というわけで、既存のピザボックス型の録画機器を直立させてみるのでございます。

今まで苦労して背面に逃がしていたコード類は、上下側面から出すことになりますので、コートのさばきが楽になるはずでございます。ノイズ発生源の電源ラインと、ノイズを乗せたくない信号ラインを上下に分けるということも可能でございます。最近のAV機器は、その入出力端子数もハンパじゃございません。上下側面で足りなければ左右側面も使えちゃうのでございます。四側面にびっしり入出力のジャック、コネクタ類が並んでいるAV機器というのも、なかなかメカニカルで壮観でございます。

では、録画・再生用のDVDディスク等をどこから入れるか? 側面の溝にコソッと差し込むなんていうのは女々しいのでございます。AV鑑賞というのはメディアと鑑賞人との戦いの場でございます。感動するか感動させられないかの一騎打ち。さすれば、ディスクは堂々とAV機器の正面から装着されるべきでございます。ディスクが機器の中に見えなくなるなんてのはもってのほか。鑑賞者と正対しながら、自らの作品と鑑賞者との戦いの一部始終を見とどけるべきでございます。まぁ、ようするに、回っているのが見えているCDプレイヤーを想像して頂ければよろしいかと。

さて、正面はディスクのスペースを除いても、まだまだ多くのスペースが残っております。そこに何を配置するか? そこには、さまざまなつまみ、スイッチ類を置くのでございます。最近のデジタル機器は、つまみ類がスイッチになってしまって面白くないのでございます。あげくの果てに、このボタンを押しながらコレを押すとか、何とかモードにしてからどうたらこうたら、ああ゛〜! 潔くないのでございます。やはり、ボリュームは大きな丸いつまみであって欲しいし、各機能はその機能の数だけつまみやスイッチを付ければいいのでございます。イメージは、ドンドン昔の高級ラジカセに逆戻りなのでございます。

名古屋薫式直立録画機器、だいだいイメージして頂けましたでしょうか? AVがデジタルになってから、各機器間、メーカー間での性能面での“個性”というものが、あまり無くなってきたような気がします。実際、かなり安い機器でも最低の品質をクリアし、特にクセが有るわけでもないので、昔のようにカタログのスペック表を照らし合わせて購入機器を決めるなんて光景は、無くなってきたような気がします。そんな時代のAV機器に必要とされるものは何か? それは「ギミック」でございます。つまり「しかけ」でございます。

たとえば、せっかく回っているディスクが見えているのでございますから、そのディスクを同期したストロボ発光で照らして「止まってみせる」ぐらいのことをして欲しいものでございます。発行の周期のさせ方で、ゆっくり性・逆回転のように見させたり、一定周期でカクッ、カクッとさせたりも出来るのでございます。最近はピクチャーディスクと呼ばれる華やかな体裁のディスクも多うございますから、楽しみもひとしおなのでございます。

あるいは、再生中本体が七色に光る、結婚式の演出みたいにスモークを発生させる、ディスクの読み取りで余ったレーザー光線を部屋中に散乱させて幻想的な雰囲気を醸し出すとか。まぁ、最後のは失明の危険もともなう命がけの鑑賞になってしまいますけどね。スペックがどの機種も代り映えしないと、何によってコンシューマーの触手が動くかというと、やはりデザインでございます。でもピザボックス型のあのデザインでは、奇抜なアイデアはなかなか生まれないのではないでしょうか。

とにかく、今こそ、ピザボックス型のAV機器は立ち上がるべきでございます。床に這いつくばって申し訳なさそうに鑑賞者を下から覗き込むのではなく、正々堂々と正対し、自信満々でその広い顔を見せるべきでござます。そして、その広い顔でこそ表現出来る「個性」を、もっともっと主張すべきでございます。テレビ本体が薄くなっている昨今、その流れに追従するのは今でございます。さあ、立て、立つんだ、ピザボックス型AV機器よ、でございます。

というわけで、各家電製品のメーカーさん、お願いします。ぜひぜひ、縦置正対型のAV機器を、もっともっと増やしてください。もしこのアイデアで大もうけしても、アイデア料よこせって言いませんからね。ではでは、今回はこの辺で失礼いたします。名古屋薫でした。 アッ、チ○チ○、立ってきた...

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2005/02/12

はれ物に触るようにギブアンドテイク

一般的には三連休でノンビリ気分。一部の方々はお休み返上でお仕事お仕事。そんな週末、みなさまいかがお過ごしでございましょうか? 名古屋薫でございます。

亡くなった母親の荷物を整理しておりましたら、ほとんど未使用の使い捨てカメラが出てまいりました。ふと頭をよぎるのは、最近よく語られる「母親のカメラの逸話」でございます。死んだ母親のデジカメの中に、自分の寝顔が残っていたというあの逸話でございます。ワタクシ、いったい何が写っているのかとワクワクオドオドしながらプリントに出したのでございました。

出来上がったプリントを見て思いっきり拍子抜けでございます。何のことはない、何も写ってはおりませんでした。何かのはずみでシャッターを押してしまったのでしょうか、最初の一枚だけ何も写っていないコマが送られておりました。母親は、足が治ったらどこかに出かけるつもりだったのでしょうか? それも今では、もう分からなくなってしまいました。

話はガラリと変って、サッカーでございます。日本対朝鮮のサッカーの試合でございます。まったく、日本中がはれ物に触るような心持ちで臨んだ試合でございました。サッカーの応援ってのはなにかと過激になりやすいものでございますが、今回のような冷静さと思いやりに満ちあふれた応援は、前代未聞でございましょう。

多くのサポーターが同じように口にしていたのは、「政治とスポーツは別にして…」といった言葉でございました。事実、スポーツは政治の道具として利用される場合が多かったものでございます。ましてや、二国間の関係がゴタゴタピリピリの昨今の状態でございます。なおさらサポーターの方々が神経質になるのは当然でございましょう。

政治の世界ではさまざまな難しい問題があることでございましょう。しかし、一般大衆というものは、ゲームの結果で一喜一憂できる「平凡な幸せ」があれば、それでよろしいのでございます。その平凡な幸せを共有したいという人たちが心を合わせれば、今回のようなすばらしい試合、すばらしい応援が出来るということを証明したのでございます。二国間の関係が非常にピリピリしている昨今の状態を考えると、両サポーターの協調や歩み寄りは大きな意味があるのでございます。日本の国民、朝鮮の国民、どちらもまだまだ捨てたものではないのでございます。

誰かと親友関係を築こうとするとき、相手の長所も短所もすべて飲み込む気構えがお互いに無いと、なかなか良い関係にはなれないものでございます。長所と短所をお互いが良く理解し合い、許す部分は許し、認める部分は認め合う。両者が半分ずつギブアンドテイクして、初めて信頼関係が生まれ親友ともなれるのでございます。今回の両サポーターも、お互いが慎重にことを運んだ結果、自然にギブアンドテイクの均衡点に到達したのでございましょう。けがの功名なのでございます(使い方間違っていたらゴメンナサイ)。

政治的そして歴史的な理由による軋轢(あつれき)が、日本、韓国、朝鮮の間にはございました。しかしそれも、最近の韓流ブームや今回のサッカーなどをみておりますと、民衆レベルではやや氷解し始めているのではないでしょうか。たとえ国籍や言語が違えども、みんな単なる一般大衆なのでございます。そう、平凡な幸せを求め、スポーツで喜んだり悲しんだりし、お酒を飲むときには同じようにグラスをくっつける“普通の人たち”なのでございます。

さて、そんな一般大衆の思いとは裏腹に、朝鮮が核保有を宣言したそうでございます。“子の心親知らず”とでも言うのでございましょうか? しかし、国レベルで何らかのゴタゴタがあっても、大衆レベルでは分かり合えるということが証明されたのでございます。今回のような大衆の強い願いがあれば、将来は明るいのではないでしょうか。

と、珍しく綺麗にまとめたところで今回はこのへんで失礼いたします。まぁ、なんですね、こういった内容はホント疲れますね。はれ物に触るような心持ちで書いたメールマガジンでございました。では、次回をお楽しみに、名古屋薫でした。

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2005/02/04

こんにちは、ありがとう、さようなら

ちょっとご無沙汰しておりました。名古屋薫でございます。

実は、ここ数週間ほど母親の容態が思わしくなく、付き添いとして病院へ泊まり込む日々が続いておりました。二日に一度、レジの集計とお店のホームページの書き換えのために店に戻る以外は、一日中、病院暮らしでございました。その母親も、持病の肝硬変と二十年弱闘った末、とうとう先月の月末に亡くなりました。実は、十年前に担当のお医者様から「もうそろそろ危ないので、心の準備をしておいて下さい」と言われたことがございました。それから十年ほど生きながらえたわけでございます。母親も、二十年弱の闘病生活から解放され、やっと楽になったのかもしれません。

年末から一月にかけて、そのようなゴタゴタな日々が続いておりまして、やっと落ち着きを取り戻し、メールマガジンなどしたためております。そこで今回は、自分の体験をもとに「お葬式・お墓」がテーマでございます。

母親の葬式は、故人の希望もありまして俗に言う「密葬」という形で行なったのでございます。実はワタクシ名古屋薫は、諸事情有りまして母親以外の身内というものが一人もおりません。呼ぶべき親類縁者など一人もおりませんので、お通夜もワタクシと母親二人っきりでございます。もとより、ワタクシは何かと自宅を留守にすることが多く、母親を寂しがらせたものでございます。だから、ワタクシひとりが側にいるだけで、(きっと)母親は満足なのでございます。

身内がワタクシひとりというのは、なかなか大変でございます。当然喪主はワタクシでございます。病院でもらった書類を区役所へ持って行く。そこでもらった書類を今度は葬儀屋さんにお願いして、火葬場へ持って行って火葬許可を貰ってきて頂く。住所や名前を何回も書いたり、いろんな書類にはんこを押したり、バタバタとやるべきことが多く、その時は悲しみに浸っている場合ではなかったのでございます。

なんと、ワタクシ、自分の母親のお経を自分で上げたのでございます。ワタクシ、般若心経なら暗記しております。と言っても、昔、役者の卵だった頃、セリフの一部として覚えただけでございまして、ゆっくり読んでも2〜3分の短いお経でございますから、暗記していてもあまり自慢にはならないのでございますけどね。人間、どこで何が役に立つか分からないものでございます。とにかく、自分の母親のお経を上げたニューハーフなんて、日本広しと言えどもワタクシひとりぐらいでございましょうね。

そして、これは故人の遺志を確認してはいないのでございますが、ワタクシ、母親の骨を拾わずに火葬場から帰ってきております。当然、それを認めてもらう誓約書を火葬場で書いております。遺骨を入れるお墓などというものも、ワタクシ持っておりませんし、ワタクシの命だって有限でございます。たった一人の身内のワタクシが死んだら、お墓も遺骨もホッタラカーシ・ホッタラカーシになるのでございます。だったら最初から何も残さない方がよろしいのでございます。そして、ワタクシも一生を全うした暁には、何も残さずに消えていきたいのでございます。

地球上にこれだけの人口がいて、そのみんながお墓を残していったら、近い将来、地球上はお墓だらけにならないだろうか? そんなことも考えたりするのでございます。人間なんて、地球という小さな石ころにへばりついたアメーバーのようなものでございます。大自然の何千億年というタイムスパンに比べると、人間の一生なんてほんの一瞬でございます。お墓を残すことが愚かだとは申しません。しかし、ワタクシの中では、死んだ後に足跡を残すことより生きている今現在の自分の「こころ」の方が重要でございます。産んでもらったときに「こんにちは」、生きている間に「ありがとう」、そして、別れるときに「さようなら」、これだけで十分でございます。

屍はこころの抜けた抜け殻でございます。しかし、そこから抜け出したこころは、いつまでも生き続けるのでございます。魂が浮遊するとかいうドロドロしたお話ではなく、残された者のこころの中に生き続けるのでございます。だから、それだけでいいのでございます。そして、ワタクシが一生を全うした後には、他の誰かのこころの中に、わたしのこころが受け継がれていくかもしれません。でも、もしまったく忘れ去られてもかまわない。だって、全ての動物も植物も、いずれ死んだら土に帰っていくのでございますから。

といったところで、字数もだいぶ多くなってまいりましたので今回はこの辺で失礼いたします。本日の新聞に「ES細胞の研究規制の緩和」に関する記事が載っておりました。ES細胞というのは、どんな細胞にも変身出来る魔法の細胞だそうで、人間の自然治癒力に期待出来ない白血病やパーキンソン病、肝臓疾患などの治療法開発の糸口になると言われております。その一方、ES細胞の研究はヒトクローンに通じるため、世界的にその研究が規制されておりましたが、今回、それが緩和される方向にかわるということだそうでございます。ワタクシの母親が長年闘ってきた肝硬変という病気も、いつかは簡単に完治する何でもない病気になっているかも知れませんね。ではでは...

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