アイドルの中の人も大変でございます
今年のゴールデンウィークも過ぎ去ってしまったのでございます。休日疲れで日本中がぐったりとしている今日この頃、読者のみなさんはいかがお過ごしですか?気が付いたら「母の日」が終わっていたという親不孝者、ワタクシ名古屋薫でございます。
先日TVを見ておりまして、ふと目に止まったのが“かの”松田聖子女史。振りかぶる姿はどこぞの球場のピッチャーマウンド。髪の毛を両脇で縛りユニフォーム姿。何かの始球式の様子でございました。投げ終わった後のはしゃぐ姿の初々しさ。ワタクシ、聖子女史のデビュー当時のVTRかと思ったのでございます。
ところが、さにあらんや、なんと、聖子女史の現在の姿だったのでございます。大きな子供を持つ母親でありながら、あのキャピキャピしたオーラを発するところ、さすが伝統的神話的アイドルでございます。アイドルとは、かくあって欲しいものでございます。
大粒のアイドルが出現しなくなって久しくなります。小粒で粒ぞろいのアイドルは氾濫しておりますが、大粒でクセの有るアイドルというものはなかなかお目にかかれない時代になってしまっております。いや、アイドルという言葉そのものが、もう死語に近いのかも知れません。アイドル(idol)とは偶像の意味。世の中か偶像という神話を必要としなくなっているのかもしれません。
偶像は自然発生するものではございません。偶像は人間が作り出すものでございます。「そうあって欲しい」、そう思う気持ちが作り出すのが偶像でございます。そして、アイドルしかり。かつての神話的アイドルも、「アイドルかくありき」というメディア側の営業マニュアルの産物なのでございます。
洋服、趣味、好きな音楽、好きな果物、将来の夢 etc...こんな質問をされたとき、かつてのアイドルたちは事務所が用意した回答集通りに答えたものでございます。風俗嬢が風俗雑誌のインタビューに答えるときと同じようなものでございます。聴衆が勝手に作り上げた偶像のイメージをひたすら演じ続ける、それがアイドルでございます。そして、演じ続けているうちに、その演じているイメージが板に付いてくる。つまり、「染まってくる」のでございますね。そうしますと、神話的アイドルの出来上がりでございます。
しかし、そういった偶像商業主義にささやかな抵抗をしたアイドルたちもおりました。引退後あっさりと身を引いた山口百恵。普通の女の子に戻りたいと言ったキャンディーズ。私たちは自由だと叫んだピンクレディー。そのようなレジスタンスの登場とともに、偶像商業主義は緩やかにその陰をひそめていったように感じられます。ひょっとしたら、松田聖子女史は偶像商業主義の最後の生き残りなのかも知れませんね。
最近のアイドルは、いたって自然体でございます。「芸能人=特別な人」と言うイメージは、もう過去のものなのでございましょう。特別な人というイメージがあったからこそ、そこには「夢」というものがありました。「芸能人=夢」だったのでございます。マスコミがその夢という殻を割って、中の現実を暴露し始めたということも手伝って、近年の芸能人は「どこにでもいるような普通の人」が多くなってきております。まぁもっとも、その普通な芸能人を一般大衆が望んだ結果とも言えるのでございますけどね。
昔の人為的アイドルから現在の自然体アイドルへの変遷を考えておりまして、ふと、最近再放送やリメイクされております「サンダーバード」や「ひょっこりひょうたん島」などを思い出したのでございます。巷にはCG(コンピューターグラフィック)を多用した派手な映像が溢れかえっておりますが、サンダーバードやひょうたん島のようなCGとは無縁で素朴な人形劇にこそ、なんだが身近で暖かみを感じてしまう。それは、やはり自然体アイドルと同じ流れに乗っているのでございましょうか?
夢のない時代に身近なものを求める。人為的なものに囲まれているから自然なものを求める。身近なものや自然なものを大衆が求めているから、作り手・送り手もその需要に合わせたものを供給する。「夢」とか「癒し」といったものまで、そういった商業主義のニーズとサプライの関係になっていると考えると、何だか寂しいものでございますね。
そしてまた、以前のようにレジスタンスが現れ、神話的アイドルが再び現れるのでございましょうか? まぁ、そんな未来のことは「神のみぞ知る」ところでございましょう。だって、だって“神話”なのでございますから...
さて、そのサンダーバードも実写版が出来るそうでございますね。はてさて、いかがなものでございましょうか... といったところで、今回はこの辺で失礼いたしましょう。ペネロープの大ファンだった名古屋薫がお送りする「名古屋薫のShe-Mail」、では次回をお楽しみに。
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