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2003年12月

2003/12/26

綺麗な日本語使ってますか

一週間のごぶさた、名古屋薫でございます。全国的に世の中は大晦日へまっしぐらでございます。クリスマスも終わり、もはや年末・年始は目前に迫ってきております。一年で一番テレビがつまらなくなる年末年始ウィークが始まるのでございます。もっとも、ワタクシ、最近ではテレビとかほとんど見なくなっちゃいましたけどね。

数日ほど前のこと、たまたま深夜にそのテレビを見ておりますと、日本画の趣味講座の総集編を放送しておりました。講師は、あの片岡鶴太郎さん。そして、そしてでございます。生徒のメンバーがただ者じゃぁない。どれくらいただ者じゃないかって言いますと、まぁ、お聞きなせぃ。

講師:片岡鶴太郎。
生徒:仁科亜季子、高橋英樹、田中好子、岩崎宏美!

日本画の趣味講座という地味な番組に、このメンツをそろえられる旧国営放送ってスゴイ。と思いつつ、なにげに見ておりましたら、それが、ドンドンのめり込んでしまい、明け方近くまで、4回放送分の2時間近くもテレビにくぎ付けになっちゃったのでございます。

さて、その番組ですが、鶴太郎さんの人間性でしょうか、実にほのぼのとしているのでございますね。生徒さんたちも、まるで子供のように先生のお手本の筆先をのぞき込んでいるのでございます。まるで、電車の先頭に陣取る運転手気取りの子供のように。あるいは、お菓子屋さんのケーキ工房をガラスに顔をくっつけてのぞき込んだ子供のように...

日本の芸能界の重鎮の方々が、子供のように和気藹々と日本画を習い、最終回には涙して卒業式を迎える。なんだか、趣味講座ではなく、ほのぼのとしたドラマを見ているようでございました。

さて、その鶴太郎さんの日本画の才能は有名でございますが、その才能もさることながら人間性も大変なものでございます。まず、芸ごとに対してとても謙虚でございます。「自分はまだまだ未熟者ですから」という想いが、生徒さんたちに安心感を与えるのでございましょうね。そして日本画を大変深く理解していらっしゃって、その理解力の深さゆえに、実に力を抜いて芸術に向かっております。接している人が心和むゆえんでしょうね。

眠たい目をこすりながらその番組を見ておりましたら、あるCDを聞きたくなりました。今回はそのCDをご紹介して今年のメールマガジンの締めくくりにいたしましょう。岩崎宏美さんが最近素晴らしいCDを出しております。昔の曲のカバー集なのでございますが、岩崎宏美さんがその圧倒的な歌唱力で実に丁寧に日本語を歌いきっております。

最近の曲は、日本語を丁寧に歌うにはあまり適しておりません。日本語が持つ本来の自然な抑揚やリズムを「あえて」無視した曲作りをしているからでございます。それに対して、岩崎宏美さんがデビューした頃は、日本語の美しさに逆らわない名曲が多くございます。その当時の名曲を、より成熟した岩崎宏美さんが、丁寧に歌っております。透明感のある歌声、説得力のある節回し。ぜひ機会がありましたら、聞いてみて下さいませ。

さてさて、ワタクシ名古屋薫も「謙虚に」「自然体で」「力を抜いて」という基本方針を目標としてはいるのでございますが、まだまだ難しいでございますね。というわけで、まだまだ未熟な名古屋薫、来年もがんばるのでございます。皆様方よろしくお付き合いのほどお願いするのでございます。

それでは、みなさん、よいお年を。名古屋薫でした。次回は、1/2(金)頃の配信予定でございます。お楽しみに。


【ご紹介したCD】

・岩崎宏美 『Dear Friends』 (TECN-30880 \3,000)
  1.恋に落ちて(小林明子)
  2.さらば恋人(堺 正章)
  3.時代(中島みゆき)
  4.あなたの心に(中山千夏)
  5.恋しくて(BEGIN)
  6.ブルー(渡辺真知子)
  7.夢(さだまさし)
  8.止まった時計(ASKA)
  9.誰もいない海(トワ・エ・モア)
 10.コバルトの季節の中で(沢田研二)  
 11.君と歩いた青春(風)
 12.見上げてごらん夜の星を(坂本 九)


・岩崎宏美 『Dear Friends II』 (TECN-30944 \3,000)
  1.白い色は恋人の色(ベッツイ&クリス)
  2.五番街のマリーへ(ペドロ&カプリシャス)
  3.もしもピアノが弾けたなら(西田敏行)
  4.海岸通り(風)
  5.秋桜(山口百恵)
  6.真夜中のギター(千賀かほる)
  7.早春の港(南沙織)
  8.少年時代(井上陽水)
  9.伝わりますか(ちあきなおみ)
 10.恋文(中島みゆき)
 11.12月の雨(荒井由美)
 12.白いページの中に(柴田まゆみ)

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2003/12/19

イマジン=夢

「歌手のジョン・レノンさんが銃で撃たれ死亡しました」
テレビ画面に、そのテロップは突然現れたのでございました。今から23年前のことです。当時のワタクシにとっては、「元ビートルズのメンバーの一人」ぐらいの知識しかございませんでした。むしろ子供心に、見ていたテレビ番組が臨時ニュースで中断されることの方が腹立たしかったように覚えております。

最近、あるDVDを購入いたしました。『LENNON LEGEND 〜The Very Best OfJohn Lennon〜』(TOBW3130 \4300)。ジョン・レノンのビデオクリップ集でございます。あの有名な『イマジン(Imagine)』も、もちろん収録されております。

ある人がその「イマジン」という語を、「夢」と訳しておりました。ある人とは、オノ・ヨーコでございます。イマジンはイメージ(Image)という派生語からも分かるように、「想像する」「考える」という意味合いの言葉でございます。なかなか「夢」とは訳しにくい言葉なのでございますが、ジョン・レノンの最も近くにいた人であり、彼を最も理解していた人ならではの訳なのでしょうと、感心したのでございます。

「想像する」「考える」という言葉は、あまりベクトル(方向性のある力)の強い言葉ではございません。それに対し、「夢」という言葉はハッキリとしたベクトルを持っております。多くのミュージシャンが、『イマジン』を力強く、熱っぽく、“夢”を持って歌うのに対して、ジョン・レノンは優しく、静かに、淡々と歌っております。むしろ、いちばんベクトルの少ない歌い方なのでございます。ヨーコ女史が「イマジン」を「夢」と訳したのは、ジョンの飄々(ひょうひょう)とした表情の奥底に、熱く燃えるベクトルをいつも感じ取っていたからなのでございましょう。

「夢は実現する」。そう力強くワタクシに言ってくださったのは、夏木マリさんでございました。ワタクシが東京のミュージカル養成学校に通っていた頃の事でございます。夢は心に描いているだけではダメ、「実現する」と強く信じて持ち続けなくてはいけないのでございます。実現する、そう信じ続けることによって、いつの日か夢が夢でなくなるのでございます。そして、一人の人間では実現できそうもないような大きな夢は、人から人へ、そして次の世代へと受け継いでいくことになるのでございます。しかしながら、世の中にはあまり良くない“夢”を次世代へ受け継がせる人たちもいらっしゃるのでございます。

小さな子供に銃を持たせる人達がいます。何も知らない子供心に「あの人たちは憎むべき人達なんだよ」と対立民族(国家)を指さす大人の人達がいます。純真無垢な子供たちの真っ白なキャンバスに、どうして憎しみの絵を大人は描こうとするのでしょうか? どうか、大人たちは小さな子供の防波堤になってあげてください。“今有る憎しみ”は、今の世代でくい止める防波堤になってください。そして、ジョンが歌ったような夢はいつか実現するんだ、という強いベクトルを大人たちは持ってください。ワタクシは、小さな子供が機関銃を抱えている写真を見ると、悲しくてしょうがありません。

War is over. If you want it.

レノンが歌う『ハッピー・クリスマス(戦争は終わった)』という曲の一節でございます。前述のDVDにも収録されております。実は、ハッピー〜という曲の題名とは裏腹に、数々の戦争の悲惨な記録映像をバックグラウンドイメージとしたビデオクリップとして、この曲は収録されております。片足の無い子供。全身が焼けただれてケロイド状になって逃げ回っている子供。街頭に転がる親子の死体。それらを処理する人達の映像。原野を走る子供の映像と地雷のアップの映像、それらが交互にスイッチされる。子供を失った父親が、目から涙を流す姿。そして、戦争が終わり、泣きながら、抱き合いながら喜ぶ兵士たちの映像.......

地球の反対側では、ある大統領が捕まりました。戦争は終わったのでしょうか?ワタクシには分かりません。これからも戦争が起こるのでしょうか? それも、ワタクシには分かりませんが、たぶんいつかどこかで起るでしょう。ただワタクシに出来ること、それは「イマジンし続けること」でございます。他人に考えを押しつけるわけでもなく、大声で叫ぶわけでもなく、ただ「考え続けること」。そして、ワタクシの考えに共感したなら、アナタもイマジンしてください、それだけでございます。そう、ジョンが淡々と静かに『イマジン』を歌ったように。

クリスマスの夜をたった一人で過ごすことを、空しい・悲しいと思う人達がいるかもしれません。そんな方は、ちょっとしたご馳走、ちょっといいお酒などを用意して、一人で晩餐などしてみてください。そして、夜空を見上げてみて下さいませ。夜空に何億という星が見えますか? もしかしたら曇っているかもしれません。もしかしたら都会の明るさで星の微弱な光がかき消されているかもしれません。でも、アナタの“心の中に”何億という星が見えていれば大丈夫です。夜空を見上げながら、ジョン・レノンがこんなことを言っているのを想像してみて下さいませ。

ジョン:「ボクはこの何億という星の中の、たった一つの小さな輝きに
     すぎないんだよ。けれど、もし、ボクの小さな輝きを美しいと
     感じたならば、キミも同じように輝いて欲しいな。だって、
     ひとつひとつは小さな輝きでも、何億も集まるとこんなに
     素晴らしい夜空を演出できるんだぜ」

たった一人のクリスマス。けれど、同じ時間に、同じ星を見つめ、同じように輝きたいと思う人達がいれば、決してひとりぼっちじゃないのです。この地球上に、共感する人達が大勢いて、見上げている星々の中にも、地球みたいな星が数多くあり、その遙か彼方の星の上にも、やはり同じ想いを持ち続ける人が大勢いるかもしれない。何百光年という距離を隔てて、同じ思いで心が通じ合う。そう考えると、ひとりぼっちどころか、人が多すぎてやかましいぐらいでしょ。

さて、アナタはどんなクリスマスをおくるのでございましょう。クリスマスまであと6日。次の配信予定は、クリスマス明けの12月26日を予定しております。ではでは、メリー・クリスマス。良いクリスマスを。名古屋薫でした。

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2003/12/12

タダの箱、ふざけんじゃないわヨ

一週間のご無沙汰でございました。名古屋薫でございます。全国的に12月に入っております。ワタクシのお店でも年末年始に粗品を配るべく、本日、その粗品の袋詰めをしていたのでございます。一つ一つ袋に入れながら、「どんな人がこれを持って帰るのかな」「ひょっとしたら、奥さんに見つかって、すぐ捨てられちゃうのかな」「思い出とともに、大事にしてくれるかな」なんて、いろいろな妄想をしたりしていたのでございます。

さて、12月といえば、新しい方式のTVでございます。そう、地上波デジタル放送とかいう、大変“失礼極まりない”ものが、ここ名古屋で始まったのでございます(プンプン)。まぁ、何が失礼かって、皆様方もテレビのキャスターからこんなことを言われたら、腹を立たせずにはいられないはずでございます(変な日本語、ゴメンナサイ)。

(某TVキャスター談)
「従来のテレビ受像機は2011年以降は、『ただの箱』になります」

「オイオイ」なのでございます。そんなに簡単に他人の私有物を、ただの箱にしてもいいのでございましょうか。しかも、言うに事欠いて「アンテナやチューナーを新たに購入」とか「最新式の受像機に買い直せ」とか……ハァ、まったくもって気分が悪いのでございます。まるで、使っていないアダルトサイトの「使用料請求書」を受け取ったときのような、あの気分の悪さとソックリでございます。

そこで、ワタクシ名古屋薫は“断言”するのでございます。

    『地上波デジタル放送の時代なんかは来やしない!』

と。

そもそも、日本のテレビ技術は、最近ウラに入ってばかりでございます(ウラに入るって方言かな?)。放送衛星の打ち上げは失敗続き(ひょっとして、打ち上げた放送衛星の二倍ぐらいの本数のロケット使ってない?)。ハイビジョン方式にいたっては、普及した頃には時代遅れ。それで、慌ててデジタルハイビジョンとかに方向転換。衛星デジタル放送も、見るべきものが無くて今ひとつ普及しない。

日本のテレビ技術者の方々は、過去の大事な教訓を忘れているのでございます。そう、あの「ベータとVHSの競合の顛末(てんまつ)」を。あるいは「ファミリーコンピューター(任天堂)の爆発的な普及率」を。そう、テレビと言えども、見せる物がなければタダの箱。見せる物と見る者が存在するとき、そこにはショービジネスの方程式が成立するのでございます。

ショービジネスでございますから、内容の良し悪しが勝負の分かれ目でございます。“良い”内容の物が“手軽に”手にはいること、これが重要でございます。内容が良ければ、多くの人が利用しようとする。そうして普及率が高まっていくのでございます。そのようにして、競争力のあるものが、加速度的に多くの人に広まっていくのでございますね。また、せっかく良い内容でも、高価だったり手に入りにくいと、やはり敬遠されてしまったりする。そして、高価でしかも内容の無いような物は“論外”でございます。

で、地上波デジタルを視聴するためには、軽く十万円以上の出費を要求されるわけでございますが、その出費に見合うだけの内容が、その地上波デジタル放送に有るか? ということなのでございますね。つまり、まず『ソフト有りき』なのでございます。良いソフト、つまり視聴者の興味をそそるような素晴らしい内容が有れば、“たとえ性能や品質で最上位でなくても”普及する可能性は十分あるということでございます。VHSやファミコンの類でございますね。

また、内容はともかく、入手や扱いが簡単なものであれば、またそれも普及するかも、なのでございます。実は、現代の一般視聴者は、決して必ずしも“高画質”“高音質”を望んではいないのでございます。“たった一度しか見ない録画”とか“いつもヘッドフォンでしか聴かない音楽”なんていうのは、多少、画質・音質が最高でなくても、容量が小さく扱いやすい“圧縮画像”“圧縮音声”で十分と思っているのでございます。つまり、内容によっては品質よりも「気軽さ」の方が優先したりするのでございます。

そうなりますと、地上波デジタルに関しましても「お安くお手軽に」と考えるのは人情でございまして、ケーブルテレビなどが格安のサービスを提供する可能性も出てくるはずでございます。そして今や、回線の高速化とともに、映像メディアもインターネットで見られるものがチラホラ出てきております。そのようなお手軽なものに、地上波デジタルがどこまで競争できるかと考えますに、割高な分、よほど内容が充実していないと難しいかな…と思うのでございますが、はてさてどうなることやら。

どちらにせよ、テレビがある日突然タダの箱になるのは、かなり問題なのでございます。視聴者の中には、デジタルなんてものに縁遠い老夫婦もいらっしゃるかもしれません。事情の分からない外国の方がいらっしゃるかもしれません。もし、そのような方々のお茶の間(死語?)で、ある日突然テレビが映らなくなったら、どれほど落胆するでしょう。そして、どれほど、困惑するでしょう。

そもそもテレビというものは家電製品でございまして「スイッチひとつで動作する」というのが身上でございます。メーカーや放送提供側が、家電製品であるテレビの存在意義を否定するような行動はいけないのでございます。「売りたし」「買わせたし」という業者の思惑は十分理解できるのでございますが、こちらが買わなきゃいけないようなシチュエーションを作っておいて、「さあ、買わなきゃ見られないぞ」と言うのは、横暴でございます。

と、ここまで書いていて、テレビひとつに、これほど熱心に筆を運んでいるワタクシって、やはり、テレビっ子(これも死語かな?)なんだなぁ、なんて思っております。最近ではテレビなんてあまり見なくなりましたが、やはり、テレビを取り上げられるのはガマン出来ないのでございます。ましてや、内容のないものに高額な金額を支払うのなんて、ますますガマン出来ないのでございます(プンプンプン)。

それでは、今回はこのへんで。あと6〜7年後に日本のテレビがどうなっているか? いまから、ワクワクでございますね。今回は、あまりニューハーフに関係ないお話でしたね、ゴメンチャイ。

では次回をお楽しみに。次回は12月19日(金)頃の配信予定でございます。ではでは...

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2003/12/05

道具? 乗り物? 車椅子へのオマージュ

唐突ではございますが、人間椅子というのがございます。江戸川乱歩さんの小説に出てきた、中に人間の入った椅子でございます。中の人も大変なのでございます。空気椅子というのもございます。体育系の部活で訓練・体罰・いじめなどでよく利用される体位のひとつでございます。しかし、今回は車椅子のお話でございます。椅子に車輪が付いているのでございますよ。なんて素晴らしい乗り物ではございませんか。その車椅子への憧れについてウンヌンなのでございます。

ワタクシの母親が骨折し、わが家に車椅子が来たのはかれこれ一月ほど前のことでございます。体に障害を持っていらっしゃる方々にはタイヘンタイヘン不謹慎かもしれませんが、ワタクシ、車椅子のような「乗り物」を見ると、ワクワクして来ちゃうのでございます。エッ、なぜかって? ご説明いたしましょう。

事務用の椅子などは、足の下に小さな車(キャスターというらしい)が付いていて、足で床を蹴って、平行移動が出来ちゃったりします。子供のとき、そんな椅子に座って廊下をゴロゴローって走って、遊んだり、しかられたりした覚えはございませんか。座ったまま移動が出来る。いや、座ったまま世界中が平行移動しているのを体感できる。あぁ、幻想的なのでございます。そうなのです。車椅子っていうのは、その事務用の椅子の「合理化」「最適化」「機能強化」バージョンなのでございます。

皆様方、考えてみてくださいませ。椅子に座ったまま移動が出来るのです。世界中に、これ程までにナマクラな「乗り物」があるでございましょうか? 事務用の椅子では細かい制御が難しいです。止まるときも足をバタバタして見苦しいです。車椅子のような機能美や洗練された合理的なデザインは、まだまだ事務用の椅子には無いです(もっとも、事務用の椅子は決して「乗り物」ではないんですけどね)。

そこで、ワタクシ、その世界一ナマクラな乗り物に乗ってみたのでございます。まず、何が素晴らしいかと申し上げますと、「その場方向転換」が出来るのでございます。左右のホイールはそれぞれ別方向に回すことが出来ますから、その場でグルグル回ることが出来るのでございます。これが出来る乗り物は、キャタピラの付いた戦車や雪上車、あるいはセグウェイ(ジンジャーとも言う。みなさん覚えているかな?)ぐらいのものでございます。

さて、実際にお部屋の中を動き回りますと、これが結構大変。意外に「車幅」が大きいのでございます。扉によってはギリギリだったりして、通り抜けるときにホイールに添えた手をぶつけそうになったり(ヒヤヒヤ)...もっとも、ぽっちゃりタイプのワタクシの母親に合わせて車椅子をオーダーしておりますので仕方ないのでございますが、普通サイズだったらもっと楽なのでございましょうね。

次にやっかいなのが「段差」でございます。わが家には玄関の上がり口の部分に10センチ程の段差があるのでございます。このたった10センチの段差を降りるのがシコタマ怖い。もっとも、ワタクシのお店の方に車椅子の方がたまにいらっしゃり、同じような10センチぐらいの段差を、ヒョイっと乗り越えたり降りたりしているのを見ておりますので、結構ワタクシ、簡単に考えておりました。それで、ワタクシもその10センチの段差に挑戦したのでございます。

まず、怖いので後ろ向きにバックで段差を「降りようと」したのでございます。おそらく、車椅子の運転をご存じの方はこれがどれほど「無謀」なことかお分かりでしょう。後ろ向きに恐る恐るバックをしていき、主輪が段差から落ちるまさにその「ゴットン」の瞬間でございます。

主輪のホイールを握る両手にかかる半端じゃない加重。“自分の体重+車椅子の重量”の重さを実感した瞬間でございます。なんとか腕力で支えながら、ゆっくりと段差の下へ着地したのでございますが、その直後、ワタクシの乗った車椅子は勢い余って後ろ向きにバッタンと倒れたのでございます。椅子に腰掛けたままの体制で、世界中が90度回転するのをゆっくりと感じたのでございます。宇宙空間で方向転換するときの宇宙船のパイロットの気分でございます。

ゆっくりと世界中が回転した後、激しく鈍い激痛(いったいどんな痛みなんだか)を後頭部に感じたのでございます。玄関の新聞受けのカバー(金属製)に、頭をこれまたシコタマぶつけたのでございますね。痛さをこらえながら起きあがろうとしたのでございますが、ひっくり返った椅子に体がはまりこんでいる状態でどうにもなりません。他人様が見たら、実に滑稽な姿でございましょうね。なんとか抜け出して車椅子を起こしたのは、数分後の事でございました。

新聞受けのカバーを見ますと、見事にワタクシの頭の形に凹んでおります。ワタクシの頭の方が凹んだり割れたりしなかったのは、不幸中の幸いなのでございます。車椅子というのは、モノグサな様に見えて結構「やっかい」な乗り物でございます。と同時に、段差を乗り越えるときなどは、それなりのテクニックがあるようで、乗り方を極めるには奥が深いのでございます。

車椅子は奥が深いと申し上げて、ふと、最近読みました書籍を思い出しました。

『運転』下野康史著 小学館 (224頁 ¥1575)

さまざまな乗り物の、運転体験記をつづった書籍なのでございますが、その一節に「車椅子レーサーの運転」という章があるのでございます。競技用の車椅子の運転は、もっともっと奥深そうでございます。また一般車と違い、競技用に特化された「仕掛け」も有るようで、そういったメカニカルなもの、ワタクシ大好きでございます。

『運転』の著者が、“健常者クラスの車椅子レースが有ってもいい”と言っておりましたが、まさにそのように思わせるほど、車椅子は奥深い乗り物でございます。ワタクシ、幼少の頃、腎盂炎(じんうえん)という腎臓の病気で10ヶ月程入院したことがございます。病院の通路に折りたたんだ車椅子がいつも置いてありまして、よく眺めておりました。子供心にその車椅子に乗っている人が羨ましかったものでございます。

当時(30年以上前)の車椅子は、とんでもなく重たいものでございました。いや、子供だったからなおさらそう思えたのかもしれませんが、明らかに最近の車椅子は軽量に、そして安価になっております。また介護保険制度のおかげで、(昔のことを考えると)「ほとんどタダ同然」の金額でレンタル出来るのでございます。そして、日常生活で使うための車椅子は、されにドンドン改良されているようでございます。10センチの段差を簡単にヒョイと乗り越えた例のお客様の車椅子も、一昔前のそれとは比べものにならないくらい洗練されたデザインでございました。

そこで、たとえば――「はさみは切れればいいじゃん」――確かにそうなのでございます。しかし、それだけでは「道具」として寂しすぎます。「もっと巧みに切れる仕掛け」というのが、道具のはさみの方に有って頂きたいし、「もっと巧みに着る技術」というのを、道具を使う側が求めて頂きたい、そう思うのでございます。道具としての車椅子も同様でございます。道具を使うということは、道具を作った職人(技術者)さんと、それを使う職人(車椅子使用者)さんとの共同作業なのでございます。

洗練された道具は美しいものでございます。洗練された技術、それもまた美しいものでございます。洗練された道具と技術が相まみえると、そこからは芸術や感動が生み出されるのでございます。同じ道具を使うのなら、美しく感動的なものを目指して欲しいものでございます。パラリンピックの出場者の方々が、ますます美しく感動的に見える今日この頃でございます。みなさんも、もし病院などで車椅子を見つけたら、「運転」してみてはいかがでしょうか。

車椅子にまつわるエピソードは、まだまだいっぱいあるのですが、それはまたの機会に。いつも簡潔に書こうと思いつつ、長文になってしまうのでございます。最後まで、読んで頂いてありがとうございます。それでは、今回はこのへんで。次回をお楽しみに。次回は12/12(金)の配信予定でございます。

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