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2000年7月

2000/07/23

ニセ名古屋薫は花か刃物か?

さて、今回はなにやら物騒な題名でございます。なにやら、ワタクシの名を騙(かた)るコマッタちゃんが出現したようなのでございます。事の発端はちょっと前に、ある方から頂いたメールでございます。まずは、そのメールを紹介いたしましょう。

○あるAさんからのメール
 先ほどは、チャットでありがとうございました。
 早速ホームページを見させていただきました。
 全然おばさんじゃないじゃないですか!
 「お美しい限りです」
 それでは...

ワタクシ、このメールを読んですぐ、「オヤッ」と思ったのでございます。なぜなら、ワタクシ生まれてこの方、‘チャット’なる物をしたことが全くないのでございます。ワタクシ、根っからの貧乏性なのでしょうね、電話回線を繋いだままゆっくりとおしゃべりするということが出来ない性分なのでしょう。それゆえ、チャットなる物、ずっと避けてきたのでございます。また、つい前日も「不法なメール」騒ぎで疑心暗鬼になっているワタクシ、「また怪しいメールか?」と、チョット警戒しちゃったのでございます。

そして、この私の名を騙るフトドキ者、じぶんの事を「おばさん」とAさんに紹介しているではございませんか。自分で自分のことを「おばさん」と呼ぶ分には何ら問題はないのでございます。しかしながら、他人様に「おばさん」と呼ばれると、ちょっとカチンときてしまう、これ人情でございます。

ただ、このAさん、チャット終了後にワタクシのホームページをご覧になったのでしょう。「お美しい限りです」と感想をもらしております。さすがAさん、お目が高い! この言葉でワタクシ、心が救われるのでございます。考えてみれば、他人様に自分を紹介するときに、まず、思いっきり謙(へりくだ)って自分のことを「ブス」だ「オカメ」だと言っておくのもひとつの手でございますね。そうしておけば、ワタクシのような“ソレナリ”の者でも、実物を見たときに“超ソレナリ”に見えるものでございます。

さて、事件の全貌は以上のような次第。ワタクシ、自分の名が騙られるということはチョット不愉快でございます。しかしながら、特筆すべき点といたしましては、このニセ名古屋薫に対して、Aさんが好感を持ったということでございます。ワタクシはっきり申し上げましょう。

『人に好感を持たせられるような方なら、堂々とご自分のお名前で語りなさい』

ということでございます。人に好感を持たせられるということ、これすなわち人を感動させられるということでございます。人を感動させられるということ、すなわちすばらしい心の持ち主であるということでございます。どうして、そのようなすばらしい心の持ち主が、名を騙らなければならないのでしょうか? おそらく、チョットした遊び心なのでございましょう。しかし、名を騙られたワタクシにとってはあまり良い気持ちではございません。

近頃では、インターネットや携帯電話の普及に伴って、メールでの‘匿名性’がドンドン強くなっております。ワタクシに送られてくるファンレターの中にも、架空のアドレスを使ってメールを送ってくる方も時々ございます(それはそれで、特に問題はないとワタクシ思っております)。また、ワタクシの友人などは、「困っちゃえば番号変えちゃえば良いのよ」なんて言いながら、伝言ナントカというのに、自分の番号を宣伝しまくっている友人もいたりするのでございます。

また、匿名性が高いと、人間ついつい“演出”をしたくなるものでございます。「本当はこんな人間になりたい」とか「日記にはこう書いておこう」なんて調子のいい部分、(ワタクシも含めて)誰でも持っているのでございます。アドレスや電話番号が、“個人の大事な秘密”から、“単なるポストのひとつ”になっていく今日、そんな人間の‘演出願望’はドンドン拍車がかかっていくのかもしれません。

ただ、演出するということ、人間がより人間らしく生きていくためには絶対に必要なことでございます。以前申し上げましたように、人を感動させたいと思うからそこに演出したいという気持ちが生まれるのでございます。「日記にはこう書いておこう」とか「本当はこうあって欲しい」という気持ちが、文学や美術や哲学を生み出すのでございます。

美しい物を生み出したい、人を感動させたい、そういった衝動での‘演出’はいっこうに構わないのでございます。「ウソも方便」などと申します。人を救うためのウソや演出ならば、それは、‘花’でございます。しかしながら、その演出がどこかで誰かを傷つけているとしたら、それは‘刃物’でございます。また、ひとつのものが、‘花’と‘刃物’の両面を持っているということも多いものでございます。

ワタクシのメールマガジンも‘花’でありたいといつも思っております。しかしながら、自分では‘花’と思っている文章が、時として‘刃物’となって人を傷つけてしまうといったことも、まれに経験するのでございます。皆様方にとって、ワタクシのShe-mailが‘花’であれば、名古屋薫トッテモ幸せでございます。

しかし、もしワタクシの文章がもし‘刃物’になるようなことが有りましたら、皆様方どうぞお叱りのお手紙を送ってくださいませ。人間というもの、自分のことって自分よりも他人様の方がよく見てくれているものでございます。他人様に言われて初めて気がつくことっていうもの多いのでございます。

では、今回はこの辺で... 名古屋薫のShe-mail、『ニセ名古屋薫登場は花か刃物か?』でございました。次回の‘花’をお楽しみに。また、ご意見、ご感想、叱咤激励(しったげきれい)、罵詈雑言(ばりぞうごん)など、どうぞ気軽にお手紙お送りくださいませ。

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2000/07/19

ヴァーチャルネズミに託す夢は?

ニューハーフ業界の瀬戸内寂聴こと、名古屋薫でございます。前回の「ヒカルハ?、マイハ?」はいかがでございましたでしょうか? 「売れているモノ=本物」という図式が、ちょっと納得できない、というご感想を何通か頂きました。確かに少しばかり“現金主義的”な考え方でございます。「悪貨、良貨を駆逐(くちく)す」なんて諺(ことわざ)にもあるように、世の中には「本物なのに売れない」とか「偽物なのにバカバカ売れる」といったことも多いのでございます。

ただし、本物・偽物の判断を下すのは一般大衆。一般大衆というモノは(ワタクシも含めて) ついつい現金主義的に行動してしまうもの。その中で長年生き抜いているモノがあるとすれば、それだけで本物なのかもしれません。そんな“現金な”世の中を、児童書の定番キャラクターとして50年以上も生き残ったネズミさんがいらっしゃいます。そして、そのネズミさんが映画になったのでございます。今回は、その映画がテーマでございます。

先日、コロンビア映画「スチュアート・リトル」(原題:Stuart Little)を観たのでございます。人間の言葉を話す孤児ネズミの物語でございます。このスチュアートというネズミさん、とっても愛らしくかわいいのでございます。この際、「どうして孤児院にネズミが孤児としてあずけられているの?」とか、「どうして話をするネズミに誰も驚かないの?」といった疑問には目をつぶるのでございます。すっかり画面の中にとけ込んでいるスチュアートを見るうちに、そんなこと全然気にならなくなること請け合いでございます。

このスチュアート、自分がネズミであるというハンディキャップをものともせず建気に振る舞うのでございます。ワタクシ、自分がニューハーフである事と、どこか重ね合わせていたのでしょうか、映画の冒頭から目をウルウルさせていたのでございます。そもそも、ニューハーフというのは概して家庭的なものとは縁遠く、アウトローな生き方をしちゃうものでございます。ワタクシ、決して自分の人生に対して卑屈な見方をするわけではありませんが、どこかそんなアウトローなところを自分と重ね合わせていたのかもしれません。

さて、この映画のパンフレットに、石津文子さんという映画ライターが解説を載せているのでございます。その石津女史、幼少の折りに見た「みなしごハッチ」とスチュアートを重ね合わせたと書き記しております。このワタクシ名古屋薫もみなしごハッチを見て涙ウルウルさせた思い出があるのでございます(ちょっと年齢がバレちゃうかな)。

ただ、石津女史も申しております。ミュージカル「アニー」にもあるように、欧米の孤児院ストーリーでは、主人公が最後に養子に迎えられて幸せになるのでございます。それに対して、日本的なストーリー展開では、「みなしごハッチ」のように本当の母親との再会であったり、「フランダースの犬」や「蛍の墓」のような悲しい結末だったりするのでございます。“他人の子でも愛す”という博愛主義的な考え方は、どうも日本人は苦手なのかもしれません(ましてや、最近は自分の子供に保険金をかけて...という事件も起きております。悲しいことでございます)。

さて、最新の卓越した画像技術のおかげでこのスチュアートというキャラクター、全く違和感無くスクリーンの中にとけ込んでいるのでございます。また、脇役のネコちゃん達がとっても良い演技をしているのでございます(最初はCG処理かと思いましたが、パンフレットによると“演技”らしいのでございます)。以上の最新技術や名演技によって、ワタクシこの映画にドンドンのめり込んでいったのでございますが、ふと、登場人物の声を聞いていて、あることに気づいたのでございます。

主人公のスチュアートの声、どこかで聞いたような懐かしい声なのでございます。おもむろにパンフレットをひもといてみますと、かの「Back To The Futur」に主演ののマイケル・J・フォックスなのでございます。あのマイケルが頑張っていると思うと、ますます目がウルウルしてきちゃったのでございます。

と言いますのも、ご存じのお方もいらっしゃるかもしれませんが、このマイケル、1998年に自分がパーキンソン病であることを告白したのでございます。自分が不治の病に冒されていると知ったのが1991年頃だということ。彼の作品年表を見ると、その1991年こそ「ドク・ハリウッド」や「ハードウェイ」等の大作を残してはいるものの、それ以降の活動はひどく地味なものになっているのでございます。つい数年前の「マーズ・アタック」はきっと病との戦いの中で出演したものだったのでございましょう(自らの病を認知した年に「ドク・ハリウッド」で医者の役をやっているというのも皮肉なものでございます)。

このパーキンソン病、自分の体が“ゆっくりと不自由になっていく”病気でございます。普通の人にとっても大変な病でございますが、役者マイケルにとってこの病気を宣告されるということは、役者生命をたたれるということでございます。マイケルの「不治の病に冒されている」というハンディ、そしてスチュアートの「自分がネズミである」というハンディ。映画を見た後に、ぬぐい去れないハンディを背負いながら賢明に生きている二人の姿が重なり合い、ワタクシ胸がこみ上げる思いがしたのでございます。

マイケルが銀幕の世界で演技をするということは、この先難しいでしょう。俳優業は休んではいるものの、完全引退したわけではないそうで、事実この「スチュアート・リトル」には声優としてお仕事をしているわけでございます。今回の映画のスチュアートのように、最新の画像技術は、スクリーンの中で全く違和感無く架空のキャラクターに“演技”をさせることが出来るのでございます。とすれば、演技の出来なくなったマイケルの代わりに、画像技術による“ヴァーチャルマイケル”の“出演”も夢ではないのでございます。マイケル自身の声によるヴァーチャルマイケルの銀幕デビュー、近い将来、実現するかもしれません。

俳優業はお休みをしていても、声優業をこなしているマイケルでございますが、実はこの映画の続編、「スチュアート・リトル2」に声優として出演が決まっているそうでございます。パーキンソン病という病気、その進行具合が気になるところでございますが、なんとか次の続編でもあの懐かしいマイケルの叫び声が聞きたいものでございます。

では、本日のお話、この辺で失礼するのでございます。世の中にはいろいろなハンディを背負って生きている方が大勢いらっしゃいます。五体満足な体で生まれておきながら、金玉を抜いちゃった名古屋薫は、とんでもない罰当たりなのかもしれませんネ。

では、次回の「名古屋薫のShe-mail」お楽しみに。
ご感想などお気軽にお手紙くださいませ。

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●●パーキンソン病を解説したページ (国立療養所神経筋グループ提供)●●
(※現在、このページは削除されております)

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2000/07/11

ヒカルハ、マイハ、それとも?

ワタクシ、文章を書くときは勢いと思いつきで書いております。その結果ついつい文章が長くなり、皆様方から読みにくい、もっと簡潔に、と言ったようなご指摘を受けております。そのただでさえ長いメールマガジンを前回は2通も重複して送ってしまったようでございます。同じような失敗をするメールマガジン執筆者を、内心、腹の底で笑っておりましたワタクシでございますが、今回は思いっきり笑われる側に回ってしまったのでございます。

さて、今回は時事ネタ、倉木麻衣と宇多田ヒカルのパクリ騒動を取り上げたいと思うのでございます。

ご存じの方もいらっしゃるでしょうが、簡単にご説明いたしましょう。ことの発端は、宇多田ヒカル嬢をゲストに迎えたある音楽番組での司会者の発言。その番組中の会話で

     「倉木麻衣は宇多田ヒカルのパクリちゃうか?」

とその司会者、宇多田ヒカル嬢に対して発言してしまったのでございます。そして、そのときの雰囲気、ノリだったんでしょうね、宇多田ヒカル嬢も何となくそれを肯定しちゃうような表現をしちゃったのでございます。

その経緯(いきさつ)が耳に入ってしまった倉木麻衣姫、心中穏やかではございません。泣くは騒ぐは落ち込むは、挙げ句の果てに「かくの精神状態では、宮中への参内(さんだい)など能(あた)わず」(登校拒否したってことですよ)、と言って、オロオロと泣き崩れるばかり。さて慌てたのは、倉木麻衣姫の事務所の若年寄の面々。宇多田ヒカル及びその番組の放送局に物申さんとて直訴したのでございます。

しかしながら、本当に慌てたのは当の宇多田ヒカル嬢本人。ご自分の番組内での軽い発言が、次の日のスポーツ新聞、芸能スクープ番組をあれほどまでに賑(にぎ)やかすとは思いもしなかったのでございましょう。狼狽(ろうばい)、錯乱する倉木麻衣姫に、只、只、陳謝するばかり。放送局、宇多田ヒカル嬢の陳謝をもって、この騒動の火、ひとまずは鎮火したのでございます。

まあ、ちょっと演出がかってはおりますが、だいたいこんな感じの事件なのでございます。宇多田ヒカル、倉木麻衣、どちらも17歳のうら若き乙女(乙女)でございます。“大人連中の腹黒い演出”についつい利用されてしまったのでございますね、きっと。

そもそも、“すべての芸術は模倣(もほう)から始まる”のでございます。芸術を学ぶ者が先人の偉大な作品を元に習作を作るというのはごく当たり前のこと。ましてや、倉木麻衣は宇多田ヒカルの大ファンだということ、自(おの)ずから芸風が似てくるのは当然なのでございます。

この際、パクリかどうかなどということは重要では“ない”のでございます。重視すべき点は「ヒカル、麻衣、両者ともに本物」ということでございます。二人のCDの売り上げがそれを証明しているではございませんか。両者の芸風、確かに似てはおります。しかし、例えていうなら三ヶ日蜜柑が和歌山蜜柑に似ているからと言ってクレームをつけたりいたしますか? 富士リンゴがむつリンゴを肖像権侵害で訴えたりするでしょうか? それでも、三ヶ日蜜柑も和歌山蜜柑も富士もむつも、みんな個性を持った“一流”なのでございます(ちょっと無理な例えだったかな)。

ワタクシ、宇多田ヒカルの歌唱力は並大抵ではないと思っているのでございます。その宇多田の歌に似ていると言われることは、倉木麻衣の歌唱力も並大抵ではないということだと思うのでございます。その同じように並大抵でない歌唱力の方に、美空ひばりさんがいらっしゃいます。このひばり様、実はジャズボーカルもオチャノコサイサイノ強者なのでいらっしゃったのを、皆様ご存じだったでしょうか?

ところがこのひばり様、あの歌唱力とは対照的に楽譜を読むのは苦手だったと伝えられております。しかしながら実にクリアーなジャズボーカルを歌われておりCDも発売されております(日本コロンビア COCA-70172)。その歌い方が、かの“ナッキンコール”に酷似しているところをみると、おそらく、ナッキンコールのテープかレコードを何度も聴いてコピーしてしまったのでございましょう、恐るべし、ひばり様の歌唱力なのでございます。

そもそも芸術っていうのは、送り手と受け手との間で成立するもの。すごく大衆的な言い方をすれば、“売れているモノが本物”なのでございます。売れずに‘まがい物’扱いをされていた作品や芸術家が、違う年代や違う土地で本物扱いをされるということもあるのでございます。そう考えると、芸術作品っていうのは、一般大衆に依存するしかない‘はかない’存在なのでございましょう。もちろん、そういった一般大衆に媚び諂(へつら)うのを嫌う芸術家の方もいらっしゃいますが、そのような芸術家の方々はひどく‘マニアック’な存在にならざるを得ないのでございます。

さて、宇多田ヒカルと倉木麻衣との騒動を発端に、お話を展開してきたのでございますが、当のワタクシ名古屋薫は小柳ゆき派なのでございます。この御三人、折しも皆17歳という年齢。ここのところ、17歳の少年がなにやら凶悪な犯罪を犯したりしておりますが、17歳頃と言えば感受性や正義感などがもっとも敏感になる年頃でございます。いい目が出れば大スター、悪い芽が出ると猟奇事件の犯人になっちゃうのでございます。全国の17歳の方々、この「名古屋薫のShe-mail」を読んで、大スターを目指して欲しいのでございます。

では、今回も長くなってしまった「名古屋薫のShe-mail」、最後まで読んでいただきお疲れさまでございます。それでは、次のお話をお楽しみに!バイバイ...

<<P.S.>>

 ワタクシのメールソフトの操作ミスで、6/30前後に頂いたメールを何通か失っております。その頃にメールを送ったのに、まだ返事を頂いていないよ・・・って言って悲しんでいらっしゃる方、ご一報ください。

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2000/07/03

あなたは感動スルハ、サセルハ?

はーい、皆様方、‘OL’の名古屋薫でございます。さあて、OLって何のことでしょうね? オフィスレディ?、オバケレディ?、オフロレディー?...皆様方、わかりますでしょうか? 少なくとも後者二つは私に当てはまるはずなのですが(笑)。

さて、ここのところワタクシのお気に入りの舞台が続いているのでございます。5月の末にはあの池端慎之介ことピーターのコンサートを、そして、6月には夏木マリさんと島田歌穂さんのミュージカル『The Link』を観たのでございます。また7月には三輪明宏さんの『エディットピアフ物語』が名古屋に来るのでございます(すべて名古屋でのスケジュールでございます。中部地区以外の方、ぬか喜びをされぬように)。

ワタクシ、とっても舞台が好きなのでございます。特に前述いたしました舞台の出演者の方々は、皆様方もご存じの通り、ワタクシのフェヴァリット(fevorite)なのでございます。では、なぜワタクシはこれほどまでに舞台が好きなのか、皆様方お分かりになりますか? この疑問への回答が、今回のテーマの糸口なのでございます。今回の表題「あなたは感動スルハ、サセルハ?」...意味深ですね...そう思ったら、もうあなたは“名古屋ワールド”に片足踏み入れていらっしゃるのでございます(ちなみに、昔、ストウハと黒人が叫ぶ映画がありましたが、全然関係有りません。アシカラズ)。

単刀直入に申し上げましょう。なぜ舞台が好きなのか。それは、“感動できる”からでございます。感動するということは人間が人間であることの証(あかし)、人間が動物と違って、文化や哲学を持ち得るのは、この“感動する”ということがあるからなのでございます。そして、この感動するということは人間の本能的な欲求なのでございます(ワタクシ、勢いと思いつきで文章を書いております。ひょっとするとそのスジの方のそのスジの専門用語が有るのかもしれません、でも、アシカラズ)。

でも、‘感動する方々’がいらっしゃれば、‘感動させている方々’もいらっしゃるということでございます。そして、その感動する派と感動させる派が存在すると、そこになぜか“商売”が生まれるのでございます(この商売という概念も実に人間的でございますネ)。たとえばでございます。コンサートホールで観客を魅了している歌手の方、この場合歌手は感動させる派であり、観客は感動する派なのでございます。そして、感動させられるからチケットが売れる。これは単純明快、よくお分かりですよネ。

でも、でも、しかしながらでございますヨ。カラオケボックスのドアの隙間からこぼれ出てくる歌声を、通路で受付をしている従業員のお兄さんが聞いているといたしましょう。この場合は先ほどのコンサートホールとは逆でございまして、歌を歌っている方がお客さんであり感動する派、そして従業員のお兄さんがお金を頂いてお客さんを感動させる派なのでございます。これも同じぐらい単純明快、自明の理でございます。

ここで、薫語録(かおるごろく)の登場でございます。

 「すばらしきこと、それは感動すること。
    しかし、もっとすばらしいのは、感動させること」

人間、感動する喜びというものは本能的な欲望なのでございます。しかしながら、感動させる喜びというものはむしろ知的な欲望なのでございます。そこで前述のカラオケボックスのお兄さん再登場なのでございます。あのお兄さんが一ヶ月働いて「お給料を貰うときの感動」、それはごく“本能的な欲望を満たされた感動”なのでございます。

しかし、もしそのお兄さんが気持ちよさそうに歌っているお客さんの顔を見て、「もっと気持ちよく歌って貰おう」という気持ちになったといたします。そのとき、そのお兄さんは“もっと感動させたい”という知的な欲望に目覚めたのでございます。まさにその瞬間、そのお兄さんは動物から知的生命体へと進化したのでございます(くれぐれも申しますが、ワタクシ、勢いと思いつきで単語を選んでおります。多少、不愉快な思いをされる方がいらっしゃるかもしれませんが、アシカラズ、悪気はございません)。

この感動させたいという欲望、別に商売に限ったことではありません。芸術家、科学技術の研究家、あるいは政治家のような方にも、是非とも持っていただきたい感覚なのでございます。しかしながら、世の中には、‘自分が感動したい方々’が多くいらっしゃるのでございます。まったく困ったものでございます(なんだか、世を儚(はかな)んで出家した修行僧のような口調になっておりますが、決してワタクシ出家などしておりません、アシカラズ)。

一期一会(いちごいちえ)と申します。日々出会う方それぞれが、人生においてこれっきりの出会いかもしれないから大事にいたしましょうという意味でございます(そのスジの方、専門用語があるでしょうが文句を言わないように)。そして、ワタクシ、自分の人生を舞台だと思っております。自分はその舞台の上の一人芝居の役者。そして、出会う方々一人一人が観客だと思っております。一人一人の観客を大事にし、感動していただこう、そう思って日々を送っております(そこのアナタ、だから、ワタクシ、本当に出家などしてないんだって)。しかし、「言うは易(やす)し、行うは難(かた)し」なのでございます。だから人生はおもしろいのでございます。

さて、チョット現実的なお話。今の時代、勝ち組のお商売は、みなこの“感動させる”というポイントを押さえているようなのでございます。自分の感動したい衝動を押し殺して、お客を感動させることに専念する。言い換えると、自分の趣味を押し殺して、お客の趣味に自分を染める(ほかにも言い方はいっぱいあります)。それを徹底しているお店が、どうもお金儲けをしているようなのでございます。お金儲けをしながら、自分の知的欲望も満足できる、まさに人生バラ色でございまする。

近頃は、お金儲けをするのが難しい時代になっております。皆様方も名古屋薫のShe-mailをごらんになって、どんどんお金儲けをしていただきたいものでございます(こう言っているワタクシがどれほどのお金持ちかって? 医者の不養生、紺屋(こんや)の白袴って言うでしょ! キニシナイ、キニシナイ)。

閑話休題、皆様方、いつでも人を感動させたい、そう思って日々過ごしていただきたいものでございます。それが、あなたの人間的魅力につながること受け合いでございます。では最後に...

  あなたは、感動する派、それとも 感動させる派?

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