「いらっしゃいませ、こんにちは」って変?
「いらっしゃいませ、こんにちはー」
この挨拶に馴染みのある方は多いのではないでしょうか。こちら関東圏では一時すごい勢いで大流行し、コンビニからファミレス、病院までもが来店(来院)したお客さんにこの言葉を投げかけていました。もう今ではあまり聞かれなくなりましたが、ときどき店員にこの挨拶をされると私はトッテモ不愉快な気分になります。店員に挨拶されて不愉快になるってどういうこと。そう思われた方もいらっしゃるのでしょうね。そう思われる方はこの挨拶をされたことが全くない幸せな方か、あるいは言葉に関してちょっと鈍感になっちゃっているのかもしれませんよ。
「いらっしゃいませ」。これはすごく自分が謙(へりくだ)り、お客様を敬(うやま)った言い方です。ここで、「へりくだる」「うやまう」という言葉が理解できない人、その人は日本語が持つすばらしい言葉文化の一部分を自らどぶに捨てていらっしゃる方です。どうかどぶから拾い上げてきれいに洗って身に着け直していただきたいと思います。さて、話を戻しましょう。「いらっしゃいませ」という言葉にはお客様に対する敬意が込められている実に丁寧な言葉なのです。
一方、「こんにちはー」。さてこの言葉。これはいわゆる“タメ”ですよね。よく知れた友人同士が特に改まるわけでもなく気軽に声をかけるときの言葉。タメで喋れるということはお互いが同格で対等あるということです。また、ちょっと目上の人にもこの言葉「こんにちは」はごく普通の挨拶として使います。しかし、その時でも両者の人間関係が近いかお互いに懇意が有ってこそ使える言葉。両者の立場が絶対的に違うような場面ではなかなか使えません。
さあ、ここまで読んで察しの良い方ならお気づきじゃないでしょうか? 「いらっしゃいませ」という絶対的に立場の違うときに使う言葉と、「こんにちは」という親近感のあるときに使う言葉とを同時に「いらっしゃいませ、こんにちは」と使える鈍感さ。この鈍感さに気付かずに当たり前のようにマニュアル通りに挨拶している店員。そして、そんなマニュアルを平気で作成する企業。そんな無神経さに、私は無性に腹を立てちゃっているんです。
どうして、その違和感に気が付かないんでしょうか? それは、言葉の下地に「心」がないからです。まず動いておいてからその動作の理由を考える人はいません。人間は何か動作をするときは必ずその前に「意思」が働いているのです(もっとも、条件反射、無条件反射という例外はありますけどね)。急に立ち上がってから立ち上がった理由を考える人、大声を上げておいてから叫んだ理由を思い出す人って多分いないでしょ(ひょっとするとそんな人っているかも知れないけど、そういった人は別の意味で貴重な人。すばらしい芸術的才能の持ち主か、天然ボケのどちらか)。人は皆、「あっ、あれを取ろう」というような「意思」が働いてから急に立ち上がったり、あるいは誰かを見付たというような「原因」に発起されて大声で呼んだりするのです。まず、「心」が動き、その心に引っ張られて身体が反応するのです。
そこで、言葉の下地に「心」が無いと、言葉は浮きます。取って付けたような台詞(せりふ)になります。もし店員がマニュアルに書いてあるからといって反射的に挨拶を発していたら、それは、なんの重みもない単なるノイズと同じになってしまいます。さて、ここからが『大阪ど根性劇場、人情物語』のようになっちゃうんですが(実際にそんなドラマも小説も映画も存在しません。フィーリングで呼んで下さい)、お客様がいらっしゃる、すると店員の心には「来ていただいて本当にありがとう」という気持ちが生まれる。その心に引っ張られて「いらっしゃいませ」という言葉が発せられる。これが本来の正当なプロセスなんですよね。しかし、その本来のプロセスをきちんと指導しているマニュアルは実際には少ないのでしょうね。少ないというよりも、指導できる管理職もいないでしょうし、雑多な仕事に追われる中、その様な丁寧な店員教育をしている暇もないはずです。
もし、店内に“本当の挨拶”の出来る人が一人いれば、マニュアルなんか無くてもお店の雰囲気はガラリと変わっちゃうんですけどね。これは、お店や企業に止(とど)まらずすべてに組織に言えること。組織の中に本物を知っている人が一人でいいからいれば、それだけでその組織は変わっていけるもの。でも、企業はそういった人の貴重さに気が付かなかったりしちゃうのが世の常。「悪貨は良貨を駆逐す」とはよく言ったものです。本当の真実と社会が要求する真実とはとかく相反したりするものなのです。
さてさて、「心という下地があるから言葉で心が伝わる」これは舞台に立つ役者さんも同じことが言えます(この辺から、いつもの名古屋薫らしくなってきたでしょ)。とかく台本とか台詞(せりふ)とかいうものを与えられると、それにとらわれてついついその下地の心を忘れがちです。もし役者が心を作らずにセリフを発したらその台詞はどんどん浮きます。何かをしたいという欲求を感じずに体を動かせばそれは単なる段取り、ラジオ体操のようになってしまいます。役者の心の中に「欲求」とか「感動」とかいうものがあるからこそ、その動きや言葉は自然で、見た者に伝わってくるのです。
ただ、あまり心を作りすぎるとクドクなります。なんにでもコントロールとかバランスとかいうものが重要。私がある人から言われたこんな言葉が有ります。
「歌は台詞(せりふ)のように、台詞は歌うように」
この言葉の意味、判りますか。ご説明いたしましょう。歌を歌う時って、正確に歌おうとするあまり、とかく音程とか声とかに気を取られ、言葉の持つすばらしい意味を忘れがちです。逆に台詞を喋る時って、つい説明しようとし過ぎて言葉本来が持つ響きの美しさや「間」の貴重さなどをついついおろそかにしがちです。そこで、歌うときはは台詞のように言葉の意味をよく考えて。そして台詞を喋るときは日本語が本来持つ美しい響きやリズムを忘れるな、ということなのです。
このようなすばらしい教えを(自分で言うのもなんですが)役者さんだけに使わせるのはみなさんもったいないですよ。セールスの人は言葉でお客を騙して成績アップ。水商売の女の人、どんどん甘い言葉でお客さんを自分の虜に。結婚相手を捜していらっしゃる男性の方は、どうか理想の女性を射止めましょう。そこで、ちょっとTipsをお教えいたしましょう。
〈出来るだけ低い声で〉
言葉は出来るだけ低い音の方が説得力があります。この場合“小さい声”ではないですよ。“低い声”です。役者なども出来るだけ低い音程で台詞を喋る練習をします。また歌なども裏声を使うととたんに説得力が弱くなります。けれど、緊張のあまりうわずった男性の声がかえって女性の心をくすぐってハートを射止めるということもありますから、一概には言えないんですけどね。
〈純粋よりもやや不純なものを〉
浪曲師などわざわざ声をつぶしますよね。あまりにも純粋な声よりも多少ハスキーな方が味わいがあったりします。また、アナウンサーやエレベーターガールなどは大変綺麗なしゃべり方をします。しかし、あのような純粋すぎる話し方って心が通じません。アナウンサーなどは個人的な感情が表出しては困るし、エレベーターガールなどもお客と心を通わせていたらボロボロになっちゃいます。しかし、相手に心を伝えようと思ったら、「自分の言葉」で言わなくちゃ。それが多少不正確でもいいんです。小さな子供がたどたどしい口調で一所懸命喋っていたら必死に聞いてあげようとするでしょ。そんなもんです。
さーて、今回はこんなところでしょうか。みなさん、心のある話し方をいたしましょう。それが、その人の輝きにつながるのです。もし、ここまで読んでコギャルの「カッワイー」という言葉に腹が立つようになったなら、あなたは今日から名古屋薫教の信者として入門可能です(もちろん私が教祖です)。そして言葉というものは難しいもの。同じ言葉が言い方ひとつで全く別の意味に取られちゃったりします。その中でも挨拶というのは重要なもの。もし、職場などでソリの合わない人がいたら、無理に合わせようとするよりも朝夕の挨拶だけ‘最高の笑顔で’やってご覧なさい。そして挨拶以外は接点を持たなければいいんです。
それでは、次回をお楽しみに、名古屋薫でした。
--------------------
◆発送後記
今回の「いらっしゃいませ~」では、実に様々なご感想をいただきました。大変賛否両論の多かった回です。やはり、賛成派は実際に言葉を使う仕事に従事していらっしゃる方や舞台に立っていらっしゃる方が多かったですね。しかし、多くの方は普段そこまで言葉の使い方に神経質になっていないみたいですね。「いらっしゃいませ、こんにちは」って言われてもぜんぜん違和感無いですよっていう人もかなりいらっしゃいました。
今回のメールマガジンはちょっと専門的になりすぎたかなって反省しています。それに、話し言葉は生きているんですよね。どんどん違った解釈や新しい用法が生まれているんですよね。「いらっしゃいませ、こんにちは」という言い方も、新しい言葉の使い方としてそのうち定着していくのでしょうね。
「名古屋薫のShe-Mail」は私の独断と偏見と思いつき(!)でお送りしています。これからも厳しいご意見どんどん送っていただきたいと思います。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)



最近のコメント