命の値段が20円!?
前回の「踊る名古屋薫」では、感動しましたという感想のメールを多く頂きました。自分ではたいしたことは書いていないつもりなんですが、多くの方々を力付けたみたいで、私名古屋薫といたしましても嬉しく思っております。さて、そこで、今回はちょっと深刻な話題になっちゃいました。暗い話題、深刻な話題は年内にすましてしまい、新年は新たな気持ちで晴れ晴れと、というつもりで慌てて年内にupいたした次第です。
「私名古屋薫の朝は珈琲館で始まる」というわけで、朝食は近所の珈琲館(注1)で、炭火焼きコーヒーとスクランブルエッグトースト(注2)をいただきながら読売新聞(注3)を読むのが日課なのですが、今日はたまたま読売が無くて読んだ日刊スポーツの記事(注4)から。
例の青酸カリ購入事件をご存じですよね。自殺志願の女性に札幌市の男性がインターネットを通じて青酸カリを通販で送りつけ、その結果女性は自殺、送った男性も自殺するという悲惨なあの事件です。この男性、5グラムの青酸カリをたった660円で購入しているらしいんです。青酸カリの致死量が0.12グラム程度らしいので単純計算をすると人間一人の命の値段は20円(注5)ということになります。
送って貰った女性も不幸ならば送った男性もまったくもって不幸。不幸というよりも実に寂しいお話。この男性は他にも同様に青酸カリを送っているようなのですが、その青酸カリを欲しがった人たちの言葉も新聞には載せられていました。
「青酸カリはお守り」
「いつでも死ねる、もう少し頑張ろう」
そう思って青酸カリを購入したそうです。その人達は“お守り”として毎日持ち歩いているらしいのです。
ウソツケ、バカ言ってんじゃないわよ。どうして毒薬がお守りなんかになるのよ。頭がクリアーな時にはお守りって考えられるかも知れない。でも、人間って“魔が差す”ってことがあるのよ。そこに毒や刃物が有ればつい使ってしまうかも知れないでしょ。学校の先生を刺し殺してしまった中学生だって人殺しをするためにナイフを購入した訳じゃないはず。あるいは、尾崎豊やhideが死んだ理由はいまだに謎。でも、ひょっとしたら「何となく死にたいな」って思っていたら、本当に死んじゃったのかもしれない。
人間って死ぬときは石に躓(つまづ)いても死んじゃうもの。でも自殺だけは特別。残された者、特に身近にいた者ほど「どうして救って上げられなかったのか」「どうして気付いて上げられなかったのか」って一生後悔させることになる。「自分がいなくなっても誰も心配しない」って思う人がいたらそれは大きな間違い。自殺すれば必ず身近な人に一生重荷を背負わすことになるのです。
自殺を考える以前に自分の悩みを誰にも相談できないっていうのがとっても不幸ですよね。悩みを打ち明けられる人、心の支えになってくれる人、自分のことを掛け値無しに信頼してくれている人、こんな人が自分の側にたった一人いれば力強く生きていけるはずなんです。たった一人でいいんですよ。欲張って多くの人から愛されようなんて思ってはいけません。本当に心を許せる人ならばたった一人で十分なはずなんです。
でも、このたった一人が難しかったりするんです、特に都会では... 一番間違い無いのは身内。何てったって血がつながっているというほど強いものはございません。次に友人。でも、厚い友情で結ばれた一生の友人ってなかなか作れないもの。微妙なのが夫婦と恋人。本来の夫婦って最善のパートナーであるはず。しかし、最近の夫婦は冷め切っていらっしゃる方々も少なくない様子。そして、恋人。恋人でも夫婦のようになってしまった恋人ならば良いんでしょうけど、まだ駆け引きをし合っているような現在進行中の恋人ならばちょっと問題ありって感じ。
みんな、本当に信頼できるパートナーをたった一人で良いから作りましょう。そして力強く生きていきましょう。私たちは美空ひばりやマザーテレサではないんです。万人に愛される必要はありません。たった一人から愛されていれば生きていけるんです。たった一人で良いから、そんなすばらしい人を見つけましょう。
で、今回はちょっと深刻な話題になっちゃいました。このような話題を新年早々送るのも気が引けたので、慌てて年内に送信いたしました。今年はみなさんにとってどんなお年でしたでしょうか? どうか来年は良い年になりますように。それでは、この辺で。バッハハーイ。
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(注1)珈琲館
コーヒーの専門店。チェーン店で東京には無数にある。毎月10日はお客様感謝デーでその日に行くとカップやお皿などがもらえる。我が家の食器類もかなりこの珈琲館のお世話になってます。でも、食器類のデザインに統一感が無くなるのがちょっと困りものなのです。
(注2)スクランブルエッグトースト
以前はこのメニュー、トースト+スクランブルエッグ+フランクソーセージだったのだが、ちょっと前からソーセージがハムに変わってしまった。肉汁溢れるみずみずしい美味しいソーセージだっただけに以前のメニューが忍ばれるのです。ちなみに私はスクランブルエッグをトーストの上に乗せて食べるのが大好きなのです。
(注3)読売新聞
本来、私は名古屋出身なので中日ファンなのだが、東京で中日ファンというのはなかなかに勇気がいる。それで世を忍ぶためにあえて読売を、というわけでもない。たまたまお店が用意している新聞だから読んでいるだけ、ナノサ、フン。
(注4)日刊スポーツの記事
日刊スポーツ 1998/12/29付から
(注5)20円
実際に計算してみると16円強になるようですが、新聞には20円って書いてありました。この件で文句言わないように。だって新聞にそう書いてあったんだもん、フン、フン。
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<ちょっと予告編>
みなさん、オカマ、ニューハーフ、ホモ、ミスターレディー、ゲイ、ゲイボーイ、シスターボーイ... これらの言葉の違いって分かりますか? これ、一番よく聞かれる質問のひとつなんです。新年一回目のShe-Mailはこんな題材でいこうかと思っています。たまには軽い話題もなくっちゃね。それでは、次回を好ご期待。
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この舞台は第一部と第二部で構成されています。第一部はジャン・コクトーの一幕物(いちまくもの)の一人芝居を「役者」池端慎之介が演じ、第二部はエディットピアフのシャンソンを「歌手」ピーターが歌いきるといった趣向なんです。おっと、「新宿コマ劇場で小林幸子が、一部をお芝居、二部を歌謡ショーの構成で、 毎年座長公演をやってるじゃないか」とか「私は、小林幸子のより梅沢トミオのほうが好きだっちゃ」なんて声が聞こえてきそうですが、今回のはそんな大衆芸能ではなく、むしろ純芸能(注1)を追求したものなのです。あっ、別に小林幸子さんや梅沢トミオさんのが低レベルなんて言ってるわけじゃないですよ、念のため。
今回は夏木マリさんの舞台をレポートいたしまーす。この舞台Vol.5ということで今回で5年目5回目の公演と言うことですね。私名古屋薫はこの印象派の舞台をVol.1から全部観ているわけで、最初のVol.1は私の故郷、名古屋のマツザカヤホールで観たわけです。そのマツザカヤホール、やや小さめのホールであるにもかかわらず観客は5割程度といった感じ、しかも公演の途中で席を立って帰る人も何人かって感じだったんです。それに比べると今回のVol.5では、アートスフィアがほぼ満席状態。最近では発売日にチケットを購入しても中程の席しか確保できないほどの超人気舞台に化けちゃったというわけ。夏木マリのファンの一人といたしましては、なんともうれしい限りなんです。
当日は(1998年)10月11日、会場のある天王洲アイルには浜松町から羽田空港行きのモノレールに乗るのですが、この日二連休の二日目の夕方ということもあって関東圏から戻っていく人そして関東圏へ戻ってきた人たちでモノレールは大混雑だったわけです。そんな状態の中、普段ならあまり下車しない天王洲アイルでただならぬ下車する人の数。この人達が皆アートスフィアの夏木マリさんを見に行くのかなっなんて思っちゃったりして。そして会場に訪れた観客の顔ぶれを見ると、以外にも若い女性が多いんですよね。5年前のVol.1の頃はアイドル夏木マリで青春時代を過ごしたような年輩の方がほとんどでしたが...
さて、肝心の舞台の内容ですが、この舞台、冒頭の演出からコリまくってます。ある年はそれこそSMショーよろしく舞台の上から鎖に逆さ吊りになったままゆっくり降りてきたり。それも逆さで降ろされながらちゃんと歌を歌っているのですよ。またある年は舞台をわずか暗転している間に忍者のように舞台に現れていたりと、とにかく最初からドッキリビックリの舞台なのでございます。そこで、今年の最初のドッキリビックリはと申しますと、何と客席に入ったときにはもう舞台に板付きで固まっているのです、それも両手をインド舞踊のように差し上げて。舞台も会場内も薄暗く、夏木マリさんの姿はシルエットとして後ろのスクリーンに映し出されているだけなのですが、そのシルエットは紛れもなく夏木マリさん本人。会場内がまだざわついているにもかかわらず舞台上だけは非常に静かで強烈な存在感を匂わしているのでありました
突然の大音響と共に始まる今回の「印象派」、なんと舞台の上には中央のわずかのスペースを残して一面にリンゴが敷き詰められているのです。あと舞台の上にあるのはやや大きめのテーブル。これだけのシンプルな舞台(*1)なんです。最初、薄暗い間はこのリンゴ、何だかわからず何があるのだろうといぷかしく思っておりましたが、舞台の進行とともにそのリンゴが様々に様相を変えるのです。あるときは色様々なジェリービーンズの様であったり、そして次の瞬間には金属的な鈍い光を帯びて冷たく光ったりと、照明の変化に応じて次々にイメージ(印象)を変えていく。おそらく、この敷き詰められた物体がリンゴである必要性は全くないのでしょうね。夏木マリ演じるところのイメージによって一面のリンゴが何に見えるかは観客の想像力に任せる、そんな自由な見方で良いのではないでしょうか。とにかくコリまくりの夏木マリさん。去年の「印象派」では舞台に砂が敷き詰められてました。毎年、舞台装置はいたってシンプルなのですが、そこは観客の自由な発想を求める現れではないでしょうか。こんなところに「印象派」と能楽との共通点を見付けたような気がするんですが。
舞台上のリンゴが様々にそのキャラクターを変化させていくように。演じるところの夏木マリさんも次々と化けていくんですね、これが。 無邪気な子供がはしゃぎ回っているかと思えば文字通り「理解に苦しむ」ような狂人の独り言のようでもあり、またある時は弁舌激しい革命家のようであったりと。 はっきりと意味を持った言葉を発するときもあれば全く意味不明の奇声をあげていたり。ストーリーが有るようで無いようで有るのか無いのか? いや、テーマはあるけど(*2)ストーリーは無いんでしょうね。シナリオや演技や声が観客を感動させるのではなく、夏木マリさんの発する印象(波動)が直接観客の心を打つ、そんな感じじゃないでしょうか。「印象派」の舞台に対して適当な形容があるとすれば「パフォーマンス」ではないでしょうか。「歌」は歌うけれどコンサートではない。まぎれもなく「演技」なのですが、一貫したシナリオは無い。しかし、舞台上からは強烈な波動が発せられている。そんな感じ、この文章だけでどれほど理解してもらえますでしょうか?
ところで、私たちが舞台(コンサートでもミュージカルでも何でも良いんですが)を観たときに、いったい何に感動しているんでしょう。きらびやかな衣装? きれいな歌声? あるいは緻密な脚本? これらは決して間違いではないでしょう。舞台を構成する上でそれぞれ大事なものです。ただ、舞台の上から小物や小細工をどんどん取り去って舞台の上にいる演者を裸にしていったら...どうぞ想像してみてください。舞台の上に残るのはいったいなんでしょう? その回答がこの「印象派」にあるような気がします。さて、あなたは何だと思いますか? 私なりの回答それは、最後に舞台上に残るのは演者の「息づかい」ではないでしょうか。何もかも取り去るとそこには一生懸命演じている演者の息のみが残っている。そして、その息づかいこそが観客に伝わる。これは演劇だけではなく、ダンスや歌などにも通じることではないでしょうか。衣装がきれい、歌声がきれい、と人は感じることもある。でもそんなことは一時的なこと。時と場所が変わってしまえば変わってしまうかもしれません。でも、息づかいだけは真実。母親や父親のあなたに対する息づかい、あるいは恋人があなたに告白するときの(逆の時もあるよね)息づかい。これらは真実であったはず、ネッ、そうでしょ(*3)。
どうです、この「印象派」の舞台、興味がわいてきましたか? 私などは公演中何度か、わけもわからず目頭が熱くなる瞬間がありました。何かがダイレクトに私の心に波動を送っているのを実感しました。ただ、前述しましたように能楽に通じるような難解な要素も持っているので、「ナーニこれ、ぜーんぜんわかんなーい」って感じる人もいるはず。でも、「わかる」ことは重要ではないはず。むしろ重要なのは「感じる」こと。これが能楽に通じると私が思える理由ではないでしょうか。「夏木マリ・印象派」、これは「パフォーマンス」です。綺麗な歌を聞きに行った人、あるいはドラマチックなストーリーに期待した人はそれなりに失望するかもしれません。しかし、強烈な波動(印象)を感じられることは間違いないはず。残念なことに今回は東京以外の地方公演は無いとのこと。しかし、来年(1999年)の1/15,1/16にパリ公演を控えているそうです。この時期にフランスにいらっしゃる方はぜひ、ごらんになってください。
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